真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Asibandhakaputta sutta ―死者を救うことは出来ない

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1.解題

アシバンダカプッタの問い

画像:葬式仏教という欺瞞

この項で紹介しているAsibandhakaputta-sutta[アシバンダカプッタ・スッタ]は、Saṃyutta Nikāya, Saḷāyatanavagga(相応部六処篇)に収録されている小経です。

経題のAsibandhakaputta[アシバンダカプッタ]とは、とある村(聚落)の長で、Nigantha Nātaputta[ニガンタ・ナータプッタ]すなわちジャイナ教祖Mahāvīra[マハーヴィーラ]の信徒であったという人の名です。彼はニガンタ・ナータプッタの命を受け、釈尊を論駁するために遣わされて様々な問いをしていきます。

さて、この経の主題は「人は死した他者を救うことが出来るのか」・「仏陀は死者を救うことが出来るのかどうか」です。

この経の中で釈迦牟尼世尊は、アシバンダカプッタから「儀式・儀礼などによって、他者をその死後において救うことが出来ると主張する者があるが、そのようなことを仏陀も可能なのか?」という問いを投げかけられています。

ところで、ここにいう「救う」とは、生ける者がなんらかの儀礼・儀式によって、死者のなんらか心残りなどから解放させ、天界に生まれ変わらせる(ひいては仏教の目指す涅槃・解脱を得させる)ことです。

それに対し仏陀は、直接その問いに答えること無く、逆に様々な譬喩を示しつつアシバンダカプッタに問うことによって、「そのようなことは誰であれ、どのような方法であれ不可能である」ことを彼自身に理解させられています。

画像:『葬式仏教正当論』

このアシバンダカプッタ・スッタは、特にそのような死者の救いについて仏教としての明確な答えを示していることから、「葬式仏教」と揶揄される現今の日本仏教各宗派、そしてそこに属するほとんど全ての仏教者らの思想・ありかたを覆すもの、真っ向から否定する経典としてしばしば取り上げられます。

ところが、そのような葬式仏教との批判に対して反駁を試み、むしろ葬式仏教こそが仏教の本道であるなどという驚天動地・噴飯やむなしの主張を展開した書籍が出版されてもいます。『仏典で実証する 葬式仏教正当論』です。

しかし、その内容は堅白異同の極みであって、題目通りに実証など微塵もされていません。書題に「正当論」としているのはもはや漫談の域に達したものでありましょう。実際、それは失笑を禁じ得ない、現代の日本仏教の僧職者らの有り様がむしろ軽蔑・揶揄される基を作るのに、十分すぎるほどのものとなっています。

生者が、いや、誰であれ死者を救うことなど出来ない

仏教は、ただ「死者を救うことなど出来ない」などと説くものだけではありません。

そもそも、「人は人を救うことは出来ない。ただその人自身を除いては」・「私を救ってくれる全能の神・創造主・救い主など存在しない」というのが仏教の核心ともいうべき主題です。

仏陀はかく説かれます。

attā hi attano nātho, ko hi nātho paro siyā.
attanā hi sudantena, nāthaṃ labhati dullabhaṃ. .

自分自身こそが自分の主である。他者がどうして(自分の) 主であろうか。
自分をよく調えたならば、得難き主を得る。

KN. Dhammapada, Attavagga 160.(KN 2.12)
[日本語訳:沙門覺應]

また同じくこのようにも説かれています。

attanā hi kataṃ pāpaṃ, attanā saṃkilissati.
attanā akataṃ pāpaṃ, attanāva visujjhati.
suddhī asuddhi paccattaṃ, nāñño aññaṃ visodhaye.

自ら悪を行えば自ら汚れ、自ら悪を行わざれば自ら浄まる。
(己が)浄きも浄からざるも、それぞれ(の自業自得)である。
人は他者を浄めることができないのだ。

KN. Dhammapada, Attavagga 165. (KN 2.12)
[日本語訳:沙門覺應]

自己ではない他のより優れた存在、たとえば神や超人とされる存在などに寄りすがり、その超常なる力による救いを求めること。それは往古の印度や欧州・中東においてだけではなく、現代の日本においてもまたしかりであって、もちろん例外もいくつか認められるでしょうけれども、洋の東西も問わず見られる人の行為であるのでしょう。

そして一般に、宗教とはそのようなものと見なされています。

しかしながら、仏教の見地からすると、救いあるいは清めというものは、他人から与えられるものでも、祈りや儀式を通して何か他の超常なる力によって得られるものでも決してない。たといその他というのが、仏・菩薩であったとしても。

たとえば釈尊は、Dhotaka[ドータカ]という名の道を求めて勤めるバラモンからの真摯な問いかけに対し、このように答えられています。

“passāmahaṃ devamanussaloke, akiñcanaṃ brāhmaṇamiriyamānaṃ. taṃ taṃ namassāmi samantacakkhu, pamuñca maṃ sakka kathaṃkathāhi”.
“nāhaṃ sahissāmi pamocanāya, kathaṃkathiṃ dhotaka kañci loke.dhammañca seṭṭhaṃ abhijānamāno, evaṃ tuvaṃ oghamimaṃ taresi”.
“anusāsa brahme karuṇāyamāno, vivekadhammaṃ yamahaṃ vijaññaṃ. yathāhaṃ ākāsova abyāpajjamāno, idheva santo asito careyyaṃ”.
“kittayissāmi te santiṃ, (dhotakāti bhagavā) diṭṭhe dhamme anītihaṃ. yaṃ viditvā sato caraṃ, tare loke visattikaṃ”.

(ドータカ曰く)
「私は、神々と人々との世界において、何も所有すること無しにある(真の)バラモン〈釈迦牟尼仏陀〉を見ます。すべてを見るお方よ、私はあなたを礼拝します。釈迦族のお方よ、私を諸々の疑惑から解放したまえ!」
(世尊は答えられて曰く、)
「ドータカよ、私は世間における、いかなる疑惑もつ者も救うことは出来ないであろう。ただ(汝自身が)最上の真理を全く解したならば、それによって汝はこの激流を渡るであろう。」
(ドータカ曰く)
「バラモンのお方よ、どうか憐れみを垂れて、出離の法を私に示したまえ。私はそれを解したいのです。私はそれを、虚空のように悩み乱れること無く、この生において安らかに、依りすがること無く、行いたいのです。」
(世尊は答えられて曰く、)
「私は、伝え聞くことなどに依らない、(みずからが今ここにおいて)ありありと体験し得る平安を、汝に説き示すであろう。(ドータカよ、)汝はそれを知って、よく気をつけて行い、世間の執着を乗り越えよ。」

KN. Suttanipāta, Dhotakamāṇavapucchā 1069-1072. (KN 5.60)
[日本語訳:沙門覺應]

比類なくこの上ない人、仏陀釈尊は、その行くべき道と歩み方とを懇切に示されるものの、誰一人として救ってくれることはありません。いや、たといそれを真から望んだとしても、道理として、ただ一人として救うことは出来ないことを、ここで仏陀は宣言されています。

あるいは、これも比較的知られたもので本経との関連でよく取り沙汰されますが、仏ご在世の昔における優れた尼僧らの言葉を伝える偈文集Therīgāthā[テーリーガーター]の中には、以下のようなものがあります。

udahārī ahaṃ sīte, sadā udakamotariṃ.
ayyānaṃ daṇḍabhayabhītā, vācādosabhayaṭṭitā.
“kassa brāhmaṇa tvaṃ bhīto, sadā udakamotari.
vedhamānehi gattehi, sītaṃ vedayase bhusaṃ”.
jānantī vata maṃ bhoti, puṇṇike paripucchasi.
karontaṃ kusalaṃ kammaṃ, rundhantaṃ katapāpakaṃ.
yo ca vuḍḍho daharo vā, pāpakammaṃ pakubbati.
dakābhisecanā sopi, pāpakammā pamuccati.
ko nu te idamakkhāsi, ajānantassa ajānako.
dakābhisecanā nāma, pāpakammā pamuccati.
saggaṃ nūna gamissanti, sabbe maṇḍūkakacchapā.
nāgā ca susumārā ca, ye caññe udake carā.
orabbhikā sūkarikā, macchikā migabandhakā.
corā ca vajjhaghātā ca, ye caññe pāpakammino.
dakābhisecanā tepi, pāpakammā pamuccare.
sace imā nadiyo te, pāpaṃ pubbe kataṃ vahuṃ.
puññampimā vaheyyuṃ te, tena tvaṃ paribāhiro.

(プンナー曰く、)
「私は(出家する以前、)水運び女として、貴婦人たちに罰せられることを恐れつつ、また怒りの言葉を浴びせられるのを恐れつつ、寒く感じるときであっても常に(水を汲むため)水の中に入っていました。」
「バラモンよ、あなたは誰を恐れて常に水の中に入るのですか?あなたはひどい寒さを感じて、体を震わせているではないですか。」
(水浴するバラモン曰く、)
「おおプンナーよ、あなたは実に私が(水浴という)善い行いをなし、悪しき行いを断っていることを知っていながら、(そのような)質問をしているのだな。老いた者でも若き者でも誰であれ、たとい悪しき行いをなしたとしても、彼は水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来るのだ。」
(プンナー曰く、)
「いったい誰が、無知でありながら(あなたのような)無知なる者に、『水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来る』などという(愚かな)ことを語ったのでしょうか?」
「(もしそれが真実であるとすれば、)蛙や亀や蛇や鰐など、その水の中にうごめくもの全ては(何もせずとも、死後には)必ず天界に赴くこととなるでしょう。」
「(そして、もしそれが真実であるとすれば、)羊の屠殺人・豚の屠殺人・漁師・鹿の狩人・盗賊・死刑執行人など、悪しき行いを為す者らもまた、水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来ることになるでしょう。」
「そしてもし、これらの水が、汝が以前に為した悪を流し去ってしまうのであれば、これら水は(同じように汝が為した善い行いの)功徳をも流し去ってしまうでしょう。であれば、それによってあなたは(善を志向していたはずが、善でもなく悪でもない)何者でもない者〈外道〉となってしまうでしょうに。」
「バラモンよ、あなたが(宗教的・盲目的な)恐れによって常に水の中に入るようなことなどされぬようにしなさい。バラモンよ、寒さであなたの皮膚を害わぬようにしなさい。」

KN. Therīgāthā, soḷasanipāto, Puṇṇātherīgāthā (KN 9.65)
[日本語訳:沙門覺應]

日本では、それを宗教的効果あるもの、「ブッキョーのシュギョー」の一環であるとして、奇声を上げながら経や陀羅尼・題目なんどを誦しつつ、極寒の中でも水を浴び続けたり滝に打たれたりする人々が今なお多くあります。そして極寒の日には、冷水を浴び続ける人からもうもうと水蒸気が立ち上ることがある。

あるいは寒さを忍ぶというのとは正反対に、護摩行を長期間あるいは長時間行う中で、顔に火膨れが出来るほどの熱さに堪えながら裂帛の気合をもって真言陀羅尼を延々と唱える人々がまま見られます。

それは時に、何やら凄まじい非常なる迫力ある光景として、ある場合には神秘的で魅力的なものとしてすら、それを観ずる人々に迫ることもあるでしょう。

そして、そのような者があまりに多いことから、それを行うことなどない人であっても、いや、別段仏教に興味も信仰も持っていない人であればなおさら、仏教の修行とはそういうものであるとして眺めることとなるのでしょう。

上に示した経典が示しているように、そのような類の輩は、釈尊がご健在であった遠い昔のインドにおいても存在していました。が、そのような行為になんら意味の無いことは、すでに仏陀ご自身およびその弟子方らによって断言されていることです。

示された道

画像:寒中水行という拝み屋の根性焼き

あるいはしかし、「何ら意味がないというのは極論であろう」「それは言いすぎなのではないか」という人もあるかもしれない。実際、私自身そのような物言いをする人を幾人も知っています。

そして、たとい極寒の中であろうとも夜明け前の早朝あるいは深夜に、氷点下にもなろうかという冷水を、しかも毎日浴びるという決意をし、それを仏教の修行であると称して実行し続ける人々が現実にある。

それは確かに、その必然性の有無など今は一応横に置くとして、誰も彼もが出来ることではない。そしてまた、その行為を積み重ねた結果として、ある種の精神力が鍛えられ、一種の凄みとでもいうべきものを身にまとう人が現実にある。

それは寒さなど強い身体的刺激、苦痛を伴うもので、その故に「私は何事かを成している!」という精神的転換、充足感を容易に得られるものです。

その意味では、大声で経や真言を読み続けるのも、数珠をジャラジャラ揉みしだくのも同じようなもの。いや、それは一昔前、十代前半の非行に走った少年少女が、手や腕にタバコの火を押し付ける、いわゆる根性焼きと同じ類の行為です。

それらは物理的・肉体的刺激を現実に体感出来る行為であることから、いわば達成感が容易に得られる。実はまるでその(少なくとも仏教的)意義など無いにもかかわらず、「私は何事か(仏事)を成している!」と感ぜられてしまうのです。

それが高じて、そのような自身の日々の行いを重ねるにつれ根拠無き自信、自尊心をすら持つこととなり、外的にはそれがある種の凄みとなって表れる。そうしてまた、他者にも堂々と勧めるようにもなれば、それに惹きつけられる者も出てくるようになる。そう、時にそれは熱狂的に。

それは思春期の不良やチンピラが、根性焼きの数や大きさを誇示して、あいつは気合が違うだの根性が入っているだの仲間内で言いあって序列を決めていたのと変わりません。

やはり、それらはどこまでもまやかしに過ぎない。

(もっとも、そのようなまやかしであっても、なんらか心理的に積極的な効果が多少なりと認められればそれで良いではないか、という例えば道具主義的視点からの意見もありましょう。偽薬によるいわゆるプラシーボ効果はその一例でしょう。しかし、ここではあくまで仏教についての話を、その根拠と理由に基づいてしています。)

忌憚なく申せば、これはあくまで私の経験上での話ではありますが、そのような人のほとんど多くが非常なる癇癪持ちであったり、どう仕様もない酒飲みで酒乱、とことん女好きで淫らであるなど、まったく人格など練られておらず、(処世術などといった世智というのではない)仏教の説くところの智慧などまるで備えていません。

要するに、およそ沐浴行を始めとする諸々の「彼らの言うところのシュギョー」によっては、(仏教的な意味で)人が清まるなどということは全く無いことを、その人々自身が証明しているように思われてなりません。

いわゆる行者、あるいは事相家や拝み屋・霊能者、最近ではスピリチュアル・カウンセラーなどと呼ばれる人々がそれです。

実際、上に示した仏典において説かれているように、沐浴行であろうが滝行であろうが寒中水行であろうが、他のいかなる儀礼・儀式などによっても「人が清まる」「人を清める」ことが可能などと説かれることは、仏教一般においてまったく認められず、現実においてもやはり認めることは出来ないでしょう。

では、人はその他の苦行によって、あるいは神通力などとも言われる超常的能力によって、あるいは多くの知識を貯えて博識となることによって清まる、もしくは清めることが出来るのか?それはすでに上に示したように、仏陀により明白に否定されていることでありました。

ところでしかし、ただパーリ語による仏典を挙げ連ねるのみであるならば、「それは南方の、日本と異なる仏教の伝統での話にすぎないのであって、我が信奉する日本の大乗では云々」との反論を試みて感情的に強弁しだす、およそ自身の実際は大乗どこ吹く風の自称大乗の門徒が出てくることでしょう。

『佛遺教経』ではかく説かれます。

爲空死後致有悔。我如良醫。知病說藥。服與不服非醫咎也。又如善導。導人善道。聞之不行。非導過也。

(仏陀曰く、)
「人生において何事も成し遂げず、虚しく過ごして死を迎えることになれば、後に悔み憂いることとなろう。」
「私は、あたかも良医のように(患者の)病をよく知って適した薬を処方するのかのように説くのである。その薬を服用するか服用しないかは、(患者本人の責任であって)医者の責任ではない。また、善く導く者が、人を善く導くようなものである。その道を聞いて行かないのは、導く者の過失ではない。」

『仏垂般涅槃略説教誡経(仏遺教経)』(T26. P289b
[日本語訳:沙門覺應]

これは大乗の本流がインドから直接伝わったチベットにおいても強調されることでもあり、その仏画などでも表現されていることですが、仏陀は満月に喩えられる涅槃への方角とその道を示された方であって、そこへの歩み方を説き示された存在です。

(詳細は別項“仏遺教経 ―仏陀最後の教え”を参照のこと。)

それもやはり、同じく南方所伝の仏典において明示されています。

tumhehi kiccamātappaṃ, akkhātāro tathāgatā.
paṭipannā pamokkhanti, jhāyino mārabandhanā.

汝は自ら努め励め。諸々の如来はただその道を示すのみ。
禅を修めてこの道を歩む者らは、魔の束縛から解き放たれるであろう。

KN. Dhammapada, Attavagga 276. (KN 2.20)
[日本語訳:沙門覺應]

生けるものが苦しみからいかに脱するかの教えを世間に開示され、遺されたという意味で、仏陀をして救世主・救済者と表現することは可能でしょう。けれども、仏陀とはいわゆるユダヤ教やキリスト教、イスラム教などのいう預言者や救世主というのではまったくありません。

なにか悲劇に遭遇した者で、これはむしろ特に信仰など持っていない者こそが「ああ、この世には神も仏もない!」などと嘆く場合があるようですが、そのような意味で仏など最初から無いのです。

度 ―波羅蜜、それを完成させ得るのは誰か

漢訳仏典において、現代「救い」などと訳されることがある、「度」という語があります。

この「度」という漢字は「渡」に通じるものであり、漢訳仏典ではしばしばサンスクリットまたはパーリ語のpāramitā[パーラミター]あるいはpāramī[パーラミー]の訳語として用いられます。これについては波羅蜜多/波羅蜜との音写語のほうがむしろ一般的かもしれません。

またそれは伝統的には、此岸から彼岸へと渡る、すなわち涅槃を得る、涅槃に入るということで「到彼岸」と解釈されており、いわば「解脱への道・術」とされる語です。

しかし、その原義は「最上のもの」・「完成」です。

大乗では六波羅蜜あるいは十波羅蜜が説かれ、また現存する唯一の部派たる分別説部(上座部)でもその徳目に相違はありますがやはり同じく十波羅蜜が説かれています。

では、誰がその最上のものを行うのか?誰が完成するのか?それはあくまでその人自身であって他の誰でもありません。

「真に私を救い得るのは私しかいない」という仏教の大前提を承知した上でならば、その文脈において「救う」「救い」という語を用い、あるいは度を「救い」と訳しても構いはしないでしょう。けれども、世間の大勢としてはそうではない。「救い」などと安直に用いると大いに語弊を招くきらいがある。

例えば、これは若干論旨にそぐわぬ引用となるかもしれませんが、八宗の祖と仰がれる龍樹菩薩による論書にはこのように説かれます。

若人自度畏 能度歸依者 自未度疑悔 何能度所歸
若人自不善 不能令人善 若不自寂滅 安能令人寂

 もし、人が自ら畏れより脱していたならば、帰依する者(の畏れ)を除くことが出来るであろう。自ら未だ疑惑や後悔を除くことが出来ない者に、どうして帰依者のそれを除くことが出来るであろうか。
 もし、人が自ら善で無いのならば、他者をして善ならしめることなど出来はしない。もし自ら寂滅に至っていなければ、どのように他者をして寂しることが出来るというのであろうか。

龍樹菩薩『十住毘婆沙論』 (T26, P24b)
[現代語訳:沙門覺應]

ここに説かれる「能度歸依者」の度は、解脱に導く、その道を示すという意味であっていわゆる救うということではありません。

まず自分が(その程度の浅深はあるとして)解脱していなければ、他者を「解脱に導く」ことなど出来ない。それは、いわば自ら泳げぬ者、いや、泳げぬどころか自身も溺れているのにも関わらず、他の溺れる者を助けることなど出来ようはずがないという、至極当たり前のことであるでしょう。

「私はライフセーバーです。泳ぎ方も知らないし、救命措置も出来ないけれど。でもほら、大丈夫。ライフセーバーの格好はしているでしょう?」

などという人を眼前にしたとき、あなたはいったいどのように思うでしょうか。

さて、あるいはまた、先の問いに対する日本仏教における一解答として、日本仏教史上における屈指の高僧たる明恵上人の言葉があります。

或る時云はく。末世の衆生 、仏法の本意を忘れて、只、法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀をたつなり、衣を着ざるなり、又学生也、真言師也とのみ好みて、更に宗と貴むべき仏心を極め悟る事を弁へざる也。上代大国、猶此の恨みあり。況んや末世辺州、何ぞ始めて驚くべきやと。
上人常に語り給ひしは、光る物貴くは、蛍玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天小野皇などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智 の姿なりとも、是をぞ梵天帝釈天も拝し給ふべき。

あるとき(明恵上人は)仰せられた。
「(今の世のような)末世の人々は、仏教の真意を忘れて、ただ法師が尊く思えるのは光を放つからだ、(神通力をもって)空中を飛ぶからだ、断食するからだ、(寒さの中でも)衣を着ないからだ、あるいは博識だからだ、密教に通じて祈祷を能くするからだといった事のみ好んで、決してその核心として貴ぶべき仏の覚りを極め悟ろうとすることなどない。(といっても、)仏ご在世のインドにおいても、やはりこの様なことはあったという。ましてや今のような末世の辺境国たる日本では、今更驚くべき事でもなかろう。」
と。上人が常に語られて言われていた。
「光る物が貴いというのであれば、蛍や玉虫を貴べばよい。飛ぶ物が貴いと言うのであれば、鳶や烏を貴んだらいいだろう。断食して衣を着ないのが貴いと言うのであれば、蛇で冬に穴に籠もっているのや、尾長虫の裸で地面を這っているのを貴んだらいい。博識な者が貴いならば、頌詩を作るのに通じ、古典の多くを暗誦していたという白楽天[はくらくてん]や小野篁[おののたかむら]をこそ貴んだらよかろう。しかしながら、詩賦の才能によって閻魔の老・病・死という棒を避けることなど出来はしない。それゆえに博識な僧など虚しいものあって、決して貴がる必要などない。ただ仏陀がこの世に現れて成し遂げられ教え残されたことを悟ることこそ励むべきである。たとえそれが文盲・無知であるかの様であっても、悟りを求め努め励む者こそ梵天や帝釈天も礼拝するのである。」

『栂尾明恵上人伝記』巻上
[日本語訳:沙門覺應]

では、人はどのように自分自身を救うことが出来るのか。人はいかにして己を「清める」ことが出来るのか。それを可能にするものは何か。

それは、一時的な儀式や儀礼などでは決してない、どこまでもその人自身の日頃の行い、その人の業に尽きるものです。

十善業道 ―人が自らを、私が自らを救う、その道

人がその人自身を救う術、私が私を救うその行為は、仏教において十善業道(dasakusalakammapatha)あるいは十善道といわれます。

それは本経において、いや、およそ仏教において通じて説かれる善悪の基準です。

十善業道とは、仏教・非仏教など問わず、宗教・思想の垣根を超えた、人と神々との善悪の基準となる普遍的なものだと断じて可なるものです。ただし、最後の邪見については、仏教外の立場からは異論あって、多くの場合は到底受け入れられることなどないでしょうけれども。

では十善業道とは何か。端的にこれを表にして示したならば以下の通り。

十善業道(十善道)
No. 十善 内容
1 不殺生 いかなる生き物も、故意に殺傷しないこと。
2 不偸盗 与えられていない物を、故意に我が物としないこと。
3 不邪淫 故意に不適切な性関係を結ばない。不倫・売買春しないこと。
4 不妄語 故意に偽りの言葉を語らないこと。
5 不綺語 故意に無意味な、無益な言葉を語らないこと。
6 不悪口 故意に粗暴な、荒々しい言葉を語らないこと。
7 不両舌 故意に他者を誹謗したり、陰で中傷したりしないこと。
8 不慳貪 飽くことなくモノを欲しがらないこと。
9 不瞋恚 怒らないこと。怒りを起こしてもそれを継続・増長させないこと。
10 不邪見 四聖諦、業報・因果・縁起・輪廻を否定する思想を奉じないこと。

十悪(十不善)を意図的に為さないことにより、これら十善を日々に為して生きることにより、人は自己を清めることが出来る。

では、誰が十善を為すのか。それもやはり、他の誰でもない、自分しかありません。

もちろん、他者がなした十善に基づく行為の恩恵に浴することは出来る。あるいはそれを「救われた」と形容することも出来るかもしれない。

「情けは人の為ならず」であるけれども、人の情けに預かったならばそれに篤く感謝しつつ享受したらよい。それを拒絶する必要などまったくなく、他者の積徳の行に随喜しつつ、その恩恵に預かったら良いでしょう。

随喜すること。それは真に、人の美しい行為の一つでありましょう。

けれどもやはり、どうしてもそれで真に「救われる」ことはない。清まることもない。

それを達成するためには、どうしても己が身と言葉と心において、十善道を踏み行わなければなりません。己の救いを求めるのであれば、自ら十善を現実に行うことが何より肝要となります。

本経『アシバンダカプッタ・スッタ』において仏陀は、十善を人が備えているかどうかが、後世に生天するか堕地獄となるかの因であるとして説かれています。

ところでその昔、日本では天皇のことを「十善の君」と称すことがありました。これは、天皇(王者)は前世において十善を備えた人生を送ったからこそ今世において人の頂点に君臨して治世を行いえる、という『仁王経』の所説に基づいてのことです。

十善は、声聞乗においても大乗においても、顕教においても密教においても、仏教に通じて説かれる道です。それは後世に天や人に生まれ変わるなどといった世間の果報だけではなく、涅槃・解脱を得る出世間の果報の因たるもの、必然的に備わっていく徳としても説かれます。

そのようなことから、時に十善はまた戒としても説かれ、それは大乗において顕著です。

(ただし、十善を文字通りすべて戒であると単純に理解するのは厳密でない、と言うよりむしろ不適切であって、それは以下に示す『大智度論』で言及されていることでもあります。実は、戒とはあくまで身体的・言語的についてのものです。実際、日常の心の動き自体を戒によって制御することは不可能であって、その故に戒とはあくまで身体や発言による行為についてのみ説かれるものだからです。が、この問題についてはここでは深入りしません。)

そう、龍樹菩薩は、『大般若経』の注釈書『大智度論』の中で、十善を戒波羅蜜の根本とし、十善がすべての戒を包摂するものであると位置づけられています。

問曰。尸羅波羅蜜則總一切戒法。譬如大海總攝衆流。所謂不飮酒。不過中食。不杖加衆生等。是事十善中不攝。何以但説十善。答曰。佛總相説六波羅蜜。十善爲總相戒。別相有無量戒。不飮酒不過中食入不貪中。杖不加衆生等入不瞋中。餘道隨義相從。戒名身業口業。七善道所攝。十善道及初後。如發心欲殺。是時作方便。惡口鞭打繋縛斫刺乃至垂死皆屬於初。死後剥皮食噉割截歡喜皆名後。奪命是本體。此三事和合總名殺不善道。以是故知。説十善道則攝一切戒。

 問い:尸羅波羅蜜とは全ての戒法を統べるものであろう。例えば大海が諸々の河川を総摂したものであるように。しかしながら、不飲酒〈酒を飲まない〉・不過中食〈正午から翌日の日の出まで食を摂らない〉・不杖加衆生〈生けるものを害わない〉などは十善の中に含まれていない。一体どうして(仏陀は)ただ「十善」とだけお説きになられたのであろうか。
 答え:仏陀は(菩薩の修行の)総相として六波羅蜜をお説きになり、十善をもって総相戒とせられたのである。よって別相としては(様々な細かい行為に関しての)無量の戒がある。(しかし、十善としてまとめたならば、たとえば)不飮酒や不過中食は不慳貪の中に含まれ、杖不加衆生などは不瞋恚の中に包摂される。その他の十善道についてもまた、(十善の中には説かれていない種々の戒が、そのいずれに包摂されるのかを)それぞれの意義内容に従って解されるべきである。
 戒とは身業と口業とについて言われるものであって(不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌の)七善道に摂される。
 十善道は「初」と「後」とに及ぶものである。(この「初」と「後」ということについて、たとえば殺生を例として説明するならば、)もし心に殺意を生じて(他の生命あるものを)様々な手段でもって悪しざまに罵り、鞭打ち、縛り上げ、切りつけ刺すなどして、ついに死に至らしめたならば、それらの行為はすべて「初」に属するものである。殺した後、その皮を剥いで食べ、切り刻むなどして喜ぶことはすべて「後」とする。生命を奪うことは(殺生の)「本体〈本質〉」である。これら(初・後・本体の行為)全てをまとめ総じて、殺不善道というのである。このようなことから理解されるであろう、十善道が説かれる中に、すべての戒が包摂されていることが。

龍樹菩薩『大智度論』釈摩訶衍品第十八 巻第四十六(T25. P395b
[日本語訳:沙門覺應]

実はこの『大智度論』の一節にみられる十善の理解は、平安初期の弘法大師空海から江戸後期の慈雲尊者にまで連綿と受け継がれ、十善とは仏教の戒の根本であると同時に、人に普遍なる道であるものと解されていきます。

日本仏教におけるその一つの果実、結晶というべきものが、慈雲尊者の『十善法語』あるいは『人となる道』という著作です。

さて、少々本経アシバンダカプッタ・スッタ自体の内容から離れてしまいました。

実のところ、死者の救いが可能か?という主題を扱うならば、仏教一般で行われる施餓鬼についても言及しなければならないかもしれません。

餓鬼の原語はサンスクリットpretaあるいはパーリ語petaで、その原義は死霊。もっとも、仏教においては三悪趣といわれる苦しみ多き三種の生命のありかたの一つであるされ、あくまで「生命あるもの」・「寿命あるもの」であって、いわゆる死霊というのとは異なります。

また、いわゆる葬式仏教というものに対する批判を展開するならば、仏教者と葬式との関わりについても、やはり論じなければならないでしょう。

しかし、ここではあえてそれらに言及することはせず、施餓鬼や仏教者と葬式との関わりについては別項を設けます。

私を救うことが出来るのは、他の誰でもない私、私のみ

画像:仏教における「ゆとり」

その真実の故にむしろ「人は、私は救われなどしないであろう」と絶望するのかもしれない。

「私を救うことが出来るのは私だけ?それ以上に厳しい言葉、教えなどあるだろうか」とすら思えるかもしれない。

「私はこんな、こんなどう仕様も無いものでしかないのだから」、「そうは言っても、それが本当だっとしたらなおさら、私に出来ることではない!」と。

そのようなことから、誰か絶対なる救済者の存在を夢見、あるいは妄想して、それを真から信仰することによる救済をこそ良しとする人々が次々出てくるのかもしれません。

いや、時にはそのような夢や妄想が必要な時代や時期というものが、人間の歴史や人の一生涯の中にはあるでしょう。

現代、我々の国日本に限って言えば、紛争もなく、飢饉・疫病もなく、犯罪も世界標準からすればごく少ない、世界平均以上の恵まれた時代にあって、衣食住以外のことに心を砕くだけの余裕ある人が多くあります。が、それも長い歴史からいえば決して恒常なるものでない不確かなもの。決して「あたりまえ」などでは無いものです。戦乱・飢饉・疫病は、たとい人が望まずそれに抗おうとしても、時になすすべなく巻き起こって、平和など瞬く間に消え去ってしまうものです。

その故にこの平和なる一時を我々は実に有り難いものとして、有効に使うべきでありましょう。が、人というものはそうはなかなか問屋が卸さない。

そして、そのような平和な時代にあったとしてもなお、誰しもが順風満帆、無碍自在に生きていくことなど、まず出来ることではない。

人生とはまこと不如意なるもので、厳しく、つらく、苦しい。

(関連する事項として、別項“生死流転偈”・“不浄観”を挙げる。)

凄まじい痛みに苦しむ人に、もはや麻薬に類する強力な鎮痛剤を投与することが必要なことがあるように。そのような薬では、決して病を癒すことなど出来なくとも、一時しのぎの手段としてそれが必要なことは確かにある。

けれどもそれは、麻薬と同様、決して常用・乱用してはならないもの。

常用・乱用すれば、逃れようとした当初の元の病い・苦しみとは別の、さらに新たなる病い・苦しみを次々生じ、ついにはその病苦が慢性化し、あるいは様々な合併症をも発現させて、それらを癒やすことがより一層、甚だしく困難なことになってしまうでしょう。

嗚呼、それこそ果てしなく生死輪廻の苦海に沈溺することに他ならない。

「嘘も方便」などと巷間たやすく言われますが、それは決して安易に言い得ることでは無い。それが本当であるとしても、その方便を用いる者には深い智慧と経験とが求められるものでしょう。しかし現実には、その言葉を安直に用いる人は、ただおためごかしや誤魔化しで言っているに過ぎないように思われることが多くあります。

ここで再度、非常に重要なことであることから、仏陀のまさしく「真理の言葉(Dhammapada)」を示します。

attanā hi kataṃ pāpaṃ, attanā saṃkilissati.
attanā akataṃ pāpaṃ, attanāva visujjhati.
suddhī asuddhi paccattaṃ, nāñño aññaṃ visodhaye.

自ら悪を行えば自ら汚れ、自ら悪を行わざれば自ら浄まる。
(己が)浄きも浄からざるも、それぞれ(の自業自得)である。
人は他者を浄めることができないのだ。

KN. Attavagga, Dhammapada 165. (KN 2.12)
[日本語訳:沙門覺應]

ここで説かれる悪とは何でしょう。

総じて言えば、それは①生き物を殺傷すること。②与えられていない物を我が物とすること。③不倫や不道徳な性交渉をすること。④嘘をつくこと。⑤無益な言葉を語ること。⑥粗暴な、荒々しい言葉を語ること。⑦他者を誹謗したり、陰で中傷したりする言葉を語ること。⑧飽くことなく物事を貪ること。⑨怒り、心荒ぶること。⑩(四聖諦・縁起・輪廻という)真理を信ぜず、受け入れないことです。十悪(dasa akusalakammapatha)といわれます。

その反対が十善、あるいは十善業道です。

経文で「自ら悪を行わざれば」と説かれていますが、まさにその如く、十善業道のそれぞれは、「ある特定の行為が善である」などとして積極的に示されたものではなく、「悪を自ら行わないことが善である」と、いわば消極的に示されたものです。

このように示すだけではまったく舌足らずであって、あるいは大なる語弊を招いてしまうかもしれません。が、自らの意思により、悪を強いて行わないこと、悪なる行為から離れることを善として具体的に、しかし総じて示されたものが十善です。

そして、その十善には「(仏・神に救済を求めて)祈ること」「(無闇に)信仰すること」「(水行などの)苦行すること」など含まれていないことに注意するべきでありましょう。自分自身が現実の生活の中で、それら十悪を離れること、その十悪に対する行いを自他に対して行うことが善なる行為であって、それが自分自身を救う道です。

その上で、苦しみの連鎖から完全に脱せんとするならば、四つの聖なる真理すなわち四聖諦cattāri ariya-saccāniをまさに如実に知見するために、戒を持し、止観を修めて禅を得て、我が智慧を得、それを磨き高めていかなければなりません。

四聖諦の最後、道諦とは八正道であり、あるいはより詳しく三十七菩提分法としてまとめ説かれる様々なる徳目と修道法です。仏教には小乗(声聞乗)・大乗・金剛乗と様々に異なる教えの流れがあるとはいえ、それらはすべて、これら大原則から一歩も出ないものです。

もし、これとまったく異なることを説く宗派や輩が仏教の名の元にあったとしたら、それはもはや仏教ではありません。

仏滅後、二千五百年以上を経たこの末世にあっても、これはその依るところの教え・伝統に違いがあったとしても、ここに私が陳ずる愚見を縁として、そのような仏陀の真実なる遺教に帰依し、自らが自らを救う人の表れ出ることを願ってやみません。

自らが自らを救わんとして努め励む人の、少しでも現れんことを。

沙門覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)

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2.凡例

本文

このサイトで紹介しているSaṃyutta Nikāya所載のAsibandhakaputtasuttaは、1954年のビルマ・ラングーンにて開催された第六結集の際に編纂されたChaṭṭha saṅgāyāna版(ビルマ本)を底本とした。

底本では本文中‘…pe…’と省略が用いられている箇所があるけれども、本項ではそれら省略されている箇所に該当する一説をあて、すべて訳出している。

日本語訳には、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる箇所に付した。

沙門覺應(慧照)拝記
(By Bhikkhu Ñāṇajoti)

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