真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Bhaddekaratta sutta -祥染経-

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1.原文

Lomasakaṅgiyabhaddekarattasutta

Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati jetavane anāthapiṇḍikassa ārāme. Tena kho pana samayena āyasmā lomasakaṅgiyo [lomasakakaṅgiyo (ṭīkā)] sakkesu viharati kapilavatthusmiṃ nigrodhārāme. Atha kho candano devaputto abhikkantāya rattiyā abhikkantavaṇṇo kevalakappaṃ nigrodhārāmaṃ obhāsetvā yenāyasmā lomasakaṅgiyo tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā ekamantaṃ aṭṭhāsi. Ekamantaṃ ṭhito kho candano devaputto āyasmantaṃ lomasakaṅgiyaṃ etadavoca – ‘‘dhāresi tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañcā’’ti? ‘‘Na kho ahaṃ, āvuso, dhāremi bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca. Tvaṃ panāvuso, dhāresi bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañcā’’ti? ‘‘Ahampi kho, bhikkhu, na dhāremi bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca. Dhāresi pana tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattiyo gāthā’’ti? ‘‘Na kho ahaṃ, āvuso, dhāremi bhaddekarattiyo gāthā. Tvaṃ panāvuso, dhāresi bhaddekarattiyo gāthā’’ti? ‘‘Dhāremi kho ahaṃ, bhikkhu, bhaddekarattiyo gāthā’’ti. ‘‘Yathā kathaṃ pana tvaṃ, āvuso, dhāresi bhaddekarattiyo gāthā’’ti? ‘‘Ekamidaṃ, bhikkhu, samayaṃ bhagavā devesu tāvatiṃsesu viharati pāricchattakamūle paṇḍukambalasilāyaṃ. Tatra bhagavā devānaṃ tāvatiṃsānaṃ bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca abhāsi –

"Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.

"Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.

"Ajjeva kiccamātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.

"Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni"ti.

‘‘Evaṃ kho ahaṃ, bhikkhu, dhāremi bhaddekarattiyo gāthā. Uggaṇhāhi tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca; pariyāpuṇāhi tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca; dhārehi tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca. Atthasaṃhito, bhikkhu, bhaddekarattassa uddeso ca vibhaṅgo ca ādibrahmacariyako’’ti. Idamavoca candano devaputto. Idaṃ vatvā tatthevantaradhāyi.

287. Atha kho āyasmā lomasakaṅgiyo tassā rattiyā accayena senāsanaṃ saṃsāmetvā pattacīvaramādāya yena sāvatthi tena cārikaṃ pakkāmi. Anupubbena cārikaṃ caramāno yena sāvatthi jetavanaṃ anāthapiṇḍikassa ārāmo yena bhagavā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā bhagavantaṃ abhivādetvā ekamantaṃ nisīdi. Ekamantaṃ nisinno kho āyasmā lomasakaṅgiyo bhagavantaṃ etadavoca –

‘‘Ekamidāhaṃ, bhante, samayaṃ sakkesu viharāmi kapilavatthusmiṃ nigrodhārāme. Atha kho, bhante, aññataro devaputto abhikkantāya rattiyā abhikkantavaṇṇo kevalakappaṃ nigrodhārāmaṃ obhāsetvā yenāhaṃ tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā ekamantaṃ aṭṭhāsi. Ekamantaṃ ṭhito kho, bhante, so devaputto maṃ etadavoca – ‘dhāresi tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañcā’ti? Evaṃ vutte ahaṃ, bhante, taṃ devaputtaṃ etadavocaṃ – ‘na kho ahaṃ, āvuso, dhāremi bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca. Tvaṃ panāvuso, dhāresi bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañcā’ti? ‘Ahampi kho, bhikkhu, na dhāremi bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca. Dhāresi pana tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattiyo gāthā’ti? ‘Na kho ahaṃ, āvuso, dhāremi bhaddekarattiyo gāthā. Tvaṃ panāvuso, dhāresi bhaddekarattiyo gāthā’ti? ‘Dhāremi kho ahaṃ, bhikkhu, bhaddekarattiyo gāthā’ti. ‘Yathā kathaṃ pana tvaṃ, āvuso, dhāresi bhaddekarattiyo gāthā’ti? Ekamidaṃ, bhikkhu, samayaṃ bhagavā devesu tāvatiṃsesu viharati pāricchattakamūle paṇḍukambalasilāyaṃ. Tatra kho bhagavā devānaṃ tāvatiṃsānaṃ bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca abhāsi –

‘‘Atītaṃ nānvāgameyya…pe…
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate munī’’ti.

‘‘Evaṃ kho ahaṃ, bhikkhu, dhāremi bhaddekarattiyo gāthā. Uggaṇhāhi tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca; pariyāpuṇāhi tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca; dhārehi tvaṃ, bhikkhu, bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca. Atthasaṃhito, bhikkhu, bhaddekarattassa uddeso ca vibhaṅgo ca ādibrahmacariyako’ti. Idamavoca, bhante, so devaputto; idaṃ vatvā tatthevantaradhāyi. Sādhu me, bhante, bhagavā bhaddekarattassa uddesañca vibhaṅgañca desetū’’ti.

288. ‘‘Jānāsi pana tvaṃ, bhikkhu, taṃ devaputta’’nti? ‘‘Na kho ahaṃ, bhante, jānāmi taṃ devaputta’’nti. ‘‘Candano nāma so, bhikkhu, devaputto. Candano, bhikkhu, devaputto aṭṭhiṃ katvā [aṭṭhikatvā (sī. syā. kaṃ. pī.)] manasikatvā sabbacetasā [sabbaṃ cetaso (sī. syā. kaṃ. pī.), sabbaṃ cetasā (ka.)] samannāharitvā ohitasoto dhammaṃ suṇāti. Tena hi, bhikkhu, suṇāhi, sādhukaṃ manasi karohi; bhāsissāmī’’ti. ‘‘Evaṃ, bhante’’ti kho āyasmā lomasakaṅgiyo bhagavato paccassosi. Bhagavā etadavoca –

"Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.

"Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.

"Ajjeva kiccamātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.

"Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni".

‘‘Kathañca, bhikkhu, atītaṃ anvāgameti…pe… evaṃ kho, bhikkhu, atītaṃ anvāgameti. Kathañca, bhikkhu, atītaṃ nānvāgameti…pe… evaṃ kho, bhikkhu, atītaṃ nānvāgameti. Kathañca, bhikkhu, anāgataṃ paṭikaṅkhati…pe… evaṃ kho, bhikkhu, anāgataṃ paṭikaṅkhati. Kathañca, bhikkhu, anāgataṃ nappaṭikaṅkhati…pe… evaṃ kho, bhikkhu, anāgataṃ nappaṭikaṅkhati. Kathañca, bhikkhu, paccuppannesu dhammesu saṃhīrati…pe… evaṃ kho, bhikkhu, paccuppannesu dhammesu saṃhīrati. Kathañca, bhikkhu, paccuppannesu dhammesu na saṃhīrati…pe… evaṃ kho, bhikkhu, paccuppannesu dhammesu na saṃhīrati.

"Atītaṃ nānvāgameyya, nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;
Yadatītaṃ pahīnaṃ taṃ, appattañca anāgataṃ.

"Paccuppannañca yo dhammaṃ, tattha tattha vipassati;
Asaṃhīraṃ asaṃkuppaṃ, taṃ vidvā manubrūhaye.

"Ajjeva kiccamātappaṃ, ko jaññā maraṇaṃ suve;
Na hi no saṅgaraṃ tena, mahāsenena maccunā.

"Evaṃ vihāriṃ ātāpiṃ, ahorattamatanditaṃ;
Taṃ ve bhaddekarattoti, santo ācikkhate muni"ti.

Idamavoca bhagavā. Attamano āyasmā lomasakaṅgiyo bhagavato bhāsitaṃ abhinandīti.

Lomasakaṅgiyabhaddekarattasuttaṃ niṭṭhitaṃ catutthaṃ.

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2.日本語訳

祥染経(跋地羅帝経)

このように私は聞いた。――ある時、世尊はサーヴァッティ*1 祇樹給孤独園*2 に留まっておられた。そこで、世尊は比丘たちに告げられた。――「比丘たちよ」と。「大徳よ」と、彼ら比丘たちは世尊に応えた。世尊はこのように告げられた。――「比丘たちよ、私は汝らに吉祥なる染著*3 説示*4 とその分別*5 を説き示そう。汝らはよく意を用いて聴きなさい。私は説くであろう」と。「そのように、大徳よ」と、彼ら比丘たちは世尊に応えた。世尊はこのように告げられた。――

過去を追い求めることなく*6 未来を俟つことなかれ*7 
過去、それは捨てられしもの。未来、それはいまだ到らざるもの。」

「現在するものごと、それをその時、その場にてじっと見つめる。
支配されることなく*8 、動じることなく、それを知って確固たらしめる。」

「今日こそ努力の為されるべき時である。誰が明日死せんことを知るであろうか。
実に、いかなる(不死の)約束*9 も、死の大軍と交わすことは出来ない。」

「このように、昼夜おこたることなく、熱意もって住すること、
それはまさしく吉祥なる染著である、と寂静なる牟尼*10 は示さる。」

「比丘たちよ、ではどのように彼は過去を追い求めるのであろうか?『過ぎ去った時には、このような姿形*11 であった』と、彼はそこに喜びを見出す*12 。『過ぎ去った時には、このような感覚*13 があった』と、彼はそこに喜びを見出す。『過ぎ去った時には、このような想い*14 があった』と、彼はそこに喜びを見出す。『過ぎ去った時には、このような心の働き*15 があった』と、彼はそこに喜びを見出す。『過ぎ去った時には、このような意識*16 があった』と、彼はそこに喜びを見出す。――比丘たちよ、実にこのように、彼は過去を追い求める。」

「比丘たちよ、ではどのように彼は過去を追い求めることがないのであろうか?『過ぎ去った時には、このような姿形であった』と、彼はそこに喜びを見出すことがない。『過ぎ去った時には、このような感覚があった』と、彼はそこに喜びを見出すことがない。『過ぎ去った時には、このような想いがあった』と、彼はそこに喜びを見出すことがない。『過ぎ去った時には、このような心の働きがあった』と、彼はそこに喜びを見出すことがない。『過ぎ去った時には、このような意識があった』と、彼はそこに喜びを見出すことがない。――比丘たちよ、実にこのように、彼は過去を追い求めることがない。」

「比丘たちよ、ではどのように彼は未来を俟つのであろうか?『未来の時に、このような姿形であるように』と、彼はそこに喜びを見出す。『…このような感覚があるように』と…、『…このような想いがあるように』と…、『…このような心の働きがあるように』と…、『未来の時に、このような意識があるように』と、彼はそこに喜びを見出す。――比丘たちよ、実にこのように、彼は未来を俟つ。」

「比丘たちよ、ではどのように彼は未来を俟つことがないのであろうか?『未来の時に、このような姿形であるように』と、彼はそこに喜びを見出すことがない。『…このような感覚があるように』と…、『…このような想いがあるように』と…、『…このような心の働きがあるように』と…、『未来の時に、このような意識があるように』と、彼はそこに喜びを見出すことがない。――比丘たちよ、実にこのように、彼は未来を俟つことがない。」

「比丘たちよ、ではどのように彼は現在するものごとにおいて支配されるのであろうか?比丘たちよ、ここに愚かな凡夫*17 が、聖者*18 にまみえず、聖者の教え*19 に親しまず、聖者の教えに導かれず、善男子*20 にまみえず、善男子の教えに親しまず、善男子の教えに導かれず。彼は、モノを自己と見なし*21 モノより出たものを自己のものと見なし*22 自己についてモノと見なし*23 モノについて自己と見なす*24 。感覚を…乃至…、想いを…乃至…、心の働きを…乃至…、意識を自己と見なし、意識より出たものを自己のものと見なし、自己について意識と見なし、意識について自己と見なす。――比丘たちよ、実にこのように、彼は現在するものごとにおいて支配される。」

「比丘たちよ、ではどのように彼は現在するものごとにおいて支配されることがないのであろうか?比丘たちよ、ここによく(教えを)聞いた聖なる弟子*25 が、聖者にまみえ、聖者の教えに親しみ、聖者の教えに導かれ、善男子にまみえ、善男子の教えに親しみ、善男子の教えに導かれる。彼は、モノを自己と見なさず、モノより出たものを自己のものと見なさず、自己についてモノと見なさず、モノについて自己とみなすことがない。感覚(受)を…乃至…、想い(想)を…乃至…、心の働き(行)を…乃至…、意識(識)を自己と見なし、意識より出たものを自己のものと見なさず、自己について意識と見なさず、意識について自己と見なすことがない。――比丘たちよ、実にこのように、彼は現在するものごとにおいて支配されることがない。」

「過去を追い求めることなく、未来を俟つことなかれ。
過去、それは捨てられしもの。未来、それはいまだ到らざるもの。」

「現在するものごと、それをその時、その場にてじっと見つめる。
支配されることなく、動じることなく、それを知って確固たらしめる。」

「今日こそ努力の為されるべき時である。誰が明日死せんことを知るであろうか。
実に、いかなる(不死の)約束も、死の大軍と交わすことは出来ない。」

「このように、昼夜おこたることなく、熱意もって住すること、
それはまさしく吉祥なる染著である、と寂静なる牟尼は示さる。」

「『比丘たちよ、私は汝らに賢者の一夜なる説示とその分別を説き示そう』と、――そのように言い、そのようなことから、ここにこれを説いた。」

これが、世尊の説かれたことである。心にかなった彼ら比丘たちは、世尊の言葉を喜んだ。

祥染経(跋地羅帝経)第一 了

日本語訳:沙門覺應 (慧照)
(Translated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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3.脚注

Bhaddekarattasutta(祥染経)

Majjhima Nikāya, Uparipaṇṇāsa, Vibhaṅgavagga(中部 後分五十 分別品)の第一経。敢えてこれを漢訳したならば「祥染経」、あるいは『中阿含経』にて用いられている跋地羅帝なる音写語を用いて「跋地羅帝経」とし得る。『中阿含経』には類似した内容を説く、「温泉林天経」など数経が収録されている。

  • サーヴァッティ…古代の北インドはガンジス川中流域(現インドのウッタル・プラデーシュ州サヘート・マヘート)にあった都市。舎衛城との漢訳される。ブッダご在世当時にはKosala[コーサラ]国の都として栄えた。時の国王Pasenadi[パセーナディ]は仏陀に帰依して擁護した。しかし王の没後、仏陀の晩年には隣国Magadha[マガダ]国によって滅ぼされる。仏陀はここに頻繁に滞在され、多くの教えを説かれている。→本文に戻る
  • 祇樹給孤独園[ぎじゅきっこどくおん]…サーヴァッティにあった仏教の僧院の名。Jetavane anāthapiṇḍikassa ārāma(ジェータの林にある孤独な者に施す者の園)の漢訳語。「孤独な者に施す者」とは、その名をSudatta(須達)と言った。マガダ国にて偶然仏陀に出遇ってその教導に浴した折にその場で帰依。故国コーサラに還ってから、修行者たちのための僧園とするべく、コーサラ国王の王子の一人Jeta[ジェータ]が所有していた林を譲り受け、仏教教団に寄進したためにこの名がある。日本人であるならばほとんどの者が耳にしたことのあるであろう『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の祇園精舎の「祇園」はこの語頭と語尾の文字をとってつけた略称。精舎は僧院・僧園の意。
    ジェータ王子は最初、スダッタから林の買取の申し出に難色を示して無理難題を言ったが、結局スダッタの仏陀への信仰と熱意に負け、その林を譲った。その後のジェータ王子について、伝承では、腹違いの王子ヴィドゥーダバが王位を継承したとき、釈迦族を屠ることへの協力を拒んだために殺されてしまったという。
    仏教の僧院が建てられた最初期のもので、仏陀はここにしばしば留まって多くの説法をなされたことが諸経典から知られる。7世紀、唐代の支那より遙か求法留学の長旅の末にインドへ来ていた玄奘三蔵もここを訪れているが、その時にはもうすでに荒廃していたことが三蔵の記録より知られる。現インドのウッタルプラデーシュ州サヘートマヘートに遺跡があり、今も仏教徒らの巡礼地となって昼間は香煙の断つことがない。。→本文に戻る
  • 吉祥なる染著…このBhaddekarattasuttaに挙げられる偈は、おそらく増谷文雄[ますたにふみお]によるものであろうが「一夜賢者偈」などと訳され、一部世間に広まったもので、むしろ日本でこそ特に注目されるものとなったようである。しかし、彼の一夜賢者なる訳は、Bhaddekarattabhadda+eka+rattaからなる合成語であるが、このbhaddarattaとを分別説部の解釈とはまったく異なった意味で捉えたことによる、いわば誤訳である。実際、bhaddaは「吉祥な」「幸いな」あるいは「賢き」との意があり、また特にrattaには形容詞として「染められた」・「赤い」の意から転じて「(煩悩に)心が染まった」の意としても用いられ、名詞(中性)とした場合は「夜」の意味となるなど、捉え方一つでまるで異なった意味となる。では分別説部は、この語について如何様に理解しているのか。それは注釈書を開き見ることによって知られるであろう。
    MA,Tattha bhaddekarattassāti vipassanānuyogasamannāgatattā bhaddakassa ekarattassa.’(このbhaddekarattassaとは、観察すること[vipassanā]の専修[anuyoga]を具足[samannāgata]する者に、吉祥なる[baddha]或る[eka]染著[ratta]のあることである)。これを増谷のように「賢者[baddha]・或る[eka]・夜[ratta]⇒一夜賢者」などと解しては意味不明となるであろう。ここでさらに復註書を瞥見すれば、このように言う。MT,Ekā ratti ekaratto, bhaddo ekaratto etassāti bhaddekarattaṃ, vipassanaṃ paribrūhento puggalo. Tenāha – "vipassanānuyogasamannāgatattā"ti.’(一つの染著でekarattaである。吉祥なる一つの染著[ある者]がbhaddekarattaである。観察することを増大させる者である。その故に[注釈書にて]言われたのである、――「観察することの専修を具足する者に」と)。先に述べたように、rattaは「染まった」ひいては何事かに「頓着した」を意味する語で、特に煩悩に染まったことを意味する語である。けれども、ここでは「今現在をのみ観察することに頓着すること」を示すと解され、それはbaddha(吉祥な)ものであるという。以上のように解されていることからして、Bhaddekarattaという語は「吉祥なる染著」などという仰々しく、また少々異に感ぜられる語とせず「幸いなるこだわり」などと砕いて訳しても良いであろう。
    なお、漢訳『中阿含経』巻四十三「温泉林天経」などにも同様の偈頌が説かれている。しかし、そこでこの語は訳されずに「跋地羅帝」と音写されており、参考にならない。訳者の瞿曇僧伽提婆三蔵はこの語を二通りに読み得ることを意識し、敢えて音写とされたのであろうか。水野弘元博士の『パーリ語辞典』(春秋社)には、この語は「賢善一夜」の意であるとして掲載している。また、聞くところによると中村元博士も「吉祥なる一夜の偈」と解していたという(未確認)。実際のところ、初めは拙訳者もこの語を「聡きある夜」の意などと解した。しかし、その偈と本経の内容と、特にekarattaを一夜などと解した場合、これらがどう関連するものかと釈然とせず、解しかねていた。そこで注釈書ならびに復註書を被欄し、さらにパーリ語に随分通じたセイロンとビルマの学僧らに尋ねた所、等しくこれは「吉祥なる染著」を意味するとの返答であった。文献学者らによれば、この偈は仏陀ご在世の当時、仏教・ジャイナ教など問わず、沙門のなかで通じて用いられていた格言のようなものであろうとされている。けれども、南方の学僧らによれば、仏陀が説かれ、仏教にこそ行われていたものに違いない、という。注釈書の理解が常に正しいなどということは無く、また学者らの読みが全く誤ったものであるということも無いであろう。しかし、それらは少なくとも分別説部の理解とは異なったものとなっている場合が多いようである。
    ちなみに、『中阿含経』では本経にある偈を「慎莫念過去亦勿願未來 過去事已滅未來復未至 現在所有法彼亦當為思 念無有堅強慧者覺如是 若作聖人行孰知愁於死 我要不會彼大苦災患終 如是行精勤晝夜無懈怠 是故常當說跋地羅帝偈」(大正1, P697上段)とあって、少しく異なっている。また『中阿含経』では、この偈をして「跋地羅帝偈者。有義有法。為梵行本。趣智趣覺趣於涅槃。族姓者至信捨家無家學道」(大正1, P697上段)と称えている。『中阿含経』でもこの偈は仏教のものとして説かれている。→本文に戻る
  • 説示[せつじ]…‘uddesa’は説示や総説などと訳される語。MA,‘Uddesanti mātikaṃ.’(説示とは要項[摩夷]である)。注釈書に言うmātikāとはmāta(母)からの派生語で「母の」というのが本来の意味であるが、仏典においてはしばしば教えの要項・主題を示す簡略な文言を意味する。そこから広説されて、さまざまな教えが展開する(生み出される)ためである。→本文に戻る
  • 分別[ふんべつ]…‘vibhaṅga’は分別や解釈などと訳される語。MA,Vibhaṅganti vitthārabhājanīyaṃ.’(分別とは、詳細[広説]に分かつことである)。→本文に戻る
  • 過去を追い求めることなく…‘Atītaṃ nānvāgameyya’は、直訳すれば「過ぎ去ったものに随い行くべきでない」あるいは「過去に戻るべきでない」。MA,Atītanti atīte pañcakkhandhe. Nānvāgameyyāti taṇhādiṭṭhīhi nānugaccheyya.’(過去とは、過去における五蘊において[の意]。随い行くべきでないとは、渇愛と見とによって随順するなかれ[の意])。ここでは思い出すこと自体を制しているのではなく、過去の(記憶と言うよりもむしろ)「思い出」に対して、あれこれと執着することを制する。「昔(あの時・あの頃)は良かった」・「あの良き日々よ、もう一度」、あるいは「昔のほうが良かった」などという種の回顧を作さないことである。→本文に戻る
  • 未来を俟つことなかれ…‘nappaṭikaṅkhe anāgataṃ;’は、「未だ来たざるを期待するなかれ」。MA,Nappaṭikaṅkheti taṇhādiṭṭhīhi na pattheyya.’(期待するなかれとは、渇愛と見とによって、求めることなかれ[の意])。「未来の自分はこのようであれ」などと期待しないことである。→本文に戻る
  • 支配されることなく…‘Asaṃhīraṃ’は、a+saṃ+√hṛ→asaṃharati (pass.)で、「持ち去られる」・「奪われる」・「支配される」の意。過去や未来のものごとに心を奪われず、それらに心が征服されないことである。→本文に戻る
  • 約束saṅgaroは「約束」、または全く異なって「戦い」さらには「災難」を意味する語。MA,Saṅgaroti hi mittasanthavākāralañjānuppadānabalarāsīnaṃ nāmaṃ, tasmā ayamattho vutto.’。この一文では、どの意に捉えてもその文意自体が大きく異なることは無いであろうが、今示したように分別説部では約束の意と捉えている。→本文に戻る
  • 牟尼[むに]muniとは聖者・仙人のこと。通俗的語源解釈によれば、「沈黙を守る人」の意とされる。ここにいわれる「寂静なる牟尼」とは、仏陀のことであるとされる。MA,Rāgādīnaṃ santatāya santo buddhamuni ācikkhati.’(愛欲を破壊せる寂静なる善き人、仏陀牟尼が説く)。→本文に戻る
  • 姿形rūpa。物質・もの、いわゆる物質すべてを意味する語。一般的にこれを漢語で「色[しき]」と言う。
    これはまったくの余談となり、またここにこのような理解をもちこむ必要も余地もないが、分別説部の阿毘達磨においては、色法に十八色(ある色のその状態からさらに細分して二十八色とも説かれるが、色法そのものとしては十八のみ)を数えて恒常不変の本質(essentia)、真実在として見る。→本文に戻る
  • そこに喜びを見出す…‘tattha nandiṃ samanvāneti’は、直訳すれば「彼はそこに喜びを導く」でそれでは直訳に過ぎる。そこでこれを少し砕いて「彼はそこに喜びを誘[いざな]う」としても良いが、それでも直ちにその意を解し難いかもしれないために、「喜びを見出す」と意訳した。→本文に戻る
  • 感覚vedanā。感受。これを漢語で「受」と言う。仏教では受を分類して、楽・苦・不苦不楽の三受、あるいは身体的と肉体的との苦楽を別して、楽・苦・喜・憂・不苦不楽の五受を数える。→本文に戻る
  • 想いsaññā。表象。外界からの刺激を受け、あるいは過去の記憶をもとに、心にその対象を思い描くこと。これを漢語で「想」と言う。→本文に戻る
  • 心の働きsaṅkhāra。感受と表象に基づいた諸々の心の働き。これを漢語で「行」と言う。もっとも文脈によっては、例えば十二縁起の説示においては、身体と言葉と心の行為が何らか結果を引き起こす力あるいはその行為そのものを意味する。また諸行無常などといわれるときには、形作られたもの一般を意味するなど、様々である。→本文に戻る
  • 意識viññāṇa。受や表象や行などの主体。いわゆる心。これを漢語で「識」と言う。分別説部においては、心[citta]と意[mana]と識[viññāṇa]とは同義語とされる。→本文に戻る
  • 凡夫[ぼんぷ]puthujjanaとは、「普通の人」・「凡庸の人」の意。漢訳では一般に、この語は凡夫と訳される。→本文に戻る
  • 聖者[しょうじゃ]ariyaとは、「聖なる」あるいは「聖なる者」の意。仏教の範疇、特に声聞の教えにおいては、四向四果のいずれかに至った者、すなわち預流以上に至った者を意味する。→本文に戻る
  • 聖者の教えariyadhammaとは、聖者によって説かれる教え。→本文に戻る
  • 善男子[ぜんなんし]sappurisaとは「善い人」、「有徳の人」・「高潔なる人」の意。→本文に戻る
  • モノを自己と見なし云々…‘rūpaṃ attato samanupassati’。先にはrūpaを姿形としたが、ここではモノとした。attaを自己と訳したが、古来漢訳仏典では我と訳され、それは現代も一般に用いられている。我(atta)とは、元来「気息」を意味した語であると言われるが、それが転じて生気、身体そして自我とその意味が変容してきたという。ついには、私という存在の根底にあってこれを支える自我そのもの、永遠不滅の霊魂を示す語となった。ここでの我はその後者の意。
    仏教では「私というもの」、いや、ひいては世界を構成しているのは五蘊であると見なすが、その五蘊それぞれの何処を探しても、そのような自我そのもの、あるいは永遠不滅の霊魂など見いだせないことからanatta(サンスクリットでanātman)、すなわち漢訳語で無我あるいは非我(玄奘三蔵の訳語)ということを説く。それは無常・苦・涅槃寂静などと共に、仏教を象徴する語の一つである。
    以下、色(rūpa)を始めとして、受(vedanā)・想(saññā)・行(saṅkhāra)・識(viññāṇa)の五蘊それぞれについて同様に説かれていく。→本文に戻る
  • モノより出たものを…‘rūpavantaṃ vā attānaṃ→本文に戻る
  • 自己についてモノと見なし…‘attani vā rūpaṃ→本文に戻る
  • モノについて自己と見なす…‘rūpasmiṃ vā attānaṃ→本文に戻る
  • 聖なる弟子ariyasāvakaは直訳すれば「聖なる、教えを聞く者」。sāvakaは声聞[しょうもん]と漢訳される。仏弟子のこと。ここではariyaを付していることから、仏弟子のうちでも特に聖者に達した者を言っているか。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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