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‡ 『仏説譬喩経』

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1.解題

『仏説譬喩経』とは

画像:娑婆世界

『仏説譬喩経』とは、仏陀釈尊がコーサラ国王のパセーナディ王に対し、人が生死輪廻して果てしないことと世間の欲に溺れて生きることがどのようなことかと、そしてその過失を、寓話によって説かれている非常に短い経典です。

もしやするとこの経典について、夜と昼すなわち時というものを黒と白のネズミに喩えた「黒白二鼠の喩え」が説かれた経典、として知っている人があるかもしれません。

ところで、この経典はただ支那や日本でのみ知られたものではありませんでした。

この『仏説譬喩経』に説かれた譬喩は、いまからおよそ一世紀前の帝政ロシアにおける偉大な文学者にして、ガンジーにならび称される平和主義者であったレフ・トルストイによっても知られており、その著『懺悔(Исповедь)』の中で引用されています。

トルストイは、『仏説譬喩経』の所説を「東洋の寓話」として引用し、「これは決して単なる作り話ではない。まさしくこれは真実の、論じ合う余地のない、全ての人が知っている真理なのだ」と、賞賛しているのです。

もっとも、ここにトルストイの傑作の一つともいうべき『懺悔』を引き合いに出すまでもなく、この『仏説譬喩経』にて説かれている譬喩は、普通に人が生きていることがいかなることであるかを示し、そしてその滑稽さと愚かさとが説かれた、非常に優れた仏教の寓話です。

出離のすすめ ―この世を厭う

一般に、「生を肯定し、(世法に反しない範囲で)欲望を肯定し、追求すること」・「この人生を謳歌すること」は否定されるべきでないものでありましょう。むしろそれを否定することは、ただちに非常識な思想である、いや、反社会的思想であるとすらみなされてしまうかもしれません。

現代的な見方からすれば、その理由の大きな一つは「そんな世界観では金を生み出すことは出来ない」「そんな世界観を肯定すれば商品化出来るものが減少する」でしょうし、その故に「悪、反社会的である」とされてしまうでしょう。

また、仏教が説く生死輪廻については、非科学的・前時代的迷信にすぎないものと見られるのが一般的であるかもしれません。

しかしながら、仏教はその生死輪廻を大前提とするものです。そして、そこからの解脱を、もはや再び生まれ変わならいこと、もはや存在せぬことを最終目標とするものです。その故に、仏教において生とは決して無条件に肯定され、賞賛されるべきものではありません。

すなわち、今こうして生きていることは過去の業の結果であり、それはまた苦しみに他ならないもので、せっかく人として今この生を受けているならば、ここで苦しみの連鎖を止めずんばあるべからず、とするのが仏教です。

実際、このような仏教の世界観・人生観をして厭世的である、ペシミズムである、という人もあります。確かに、この世を無条件に肯定的になど仏教が見ることはないので、厭世的であるというなら確かにそう言うことも出来るでしょう。

もっとも、日本の僧職者の中にはそのような仏教の世界観を良しとせず、世間の見方に迎合せんとしてこのようなことを言う輩が多くある。

「いやいや、仏教はけっして厭世的ではないのです。むしろこの世を、この人生を積極的に生きることを説くのが仏教なのです!」

「そのままでいいんだよ?」

「にんげんだもの。何事も程よく楽しんで、この世を謳歌したら良いのです」

しかし、これらはどこまでも寺院経営者としての営業上の言葉、あるいは僧職にありながら仏教について実にお粗末な知識・理解しか持ち合わせていない大半の日本のオボーサンの無知に基づく戯言にすぎません。

そのような日本仏教界の現状について、しばしば「日本の僧職者にはまともに仏教を説く者、行う者がほとんどない」という声を耳にします。

が、それもそのはず。滑稽な話ですが、仏教をまともに説いてしまうと、彼らのありかたと完全に矛盾し、ほとんどまったくの自己否定となってしまいます。その故に立場上そして営業上、まともに説けるはずがない。

故に現今の日本の僧職者の大方は、一日の営業時間のうちのホンの数時間だけ袈裟衣を着、しかつめらしい顔やそれらしい笑顔を取り繕い、合掌しながらこう繰り返すのみです。

「仏さまの大慈大悲!人は一人では生きていけない。あぁ、ありがたぁい。おかげさまぁ~」(数珠をジャラジャラもみしだく)

「ゴセンゾさまに感謝の心!手と手をあわせてシアワセー」(ジジババに仏教の小難しいこといってもどうせわからんし、ワシもようわからんから、とりあえずこう言っておけば良いのだ)

「笑顔が一番、笑う門には福来たる!笑って生きる、それが一番!」(爺婆どもにはこれが鉄板)

「亡くなった方は必ずあの世で見守っておられる。だからキチンと葬式を挙げ、法事を欠かさず、毎日仏壇に手を合わせ、節目節目に墓参りを欠かしてはならない」(院号がほしいなら一桁アップ。それからウチの墓地で契約しろ。あと法事はちゃんとうちの寺でヤレ)

「とにもかくにもココロが大事。にも関わらず、近頃の人々はココロを忘れてモノに支配されてしまっている。ナゲカワシヤァ」(今晩はミナミか新地か…、いや久しぶりに足を伸ばして祇園で遊ぶか)

誰しも日本の僧職の話を聞いたことがある者ならば、きっとこの類の「ご冗談」は、幾度も耳にしているに違いありません。

いや、「そんな馬鹿な」と思われる人もあるかもしれません。が、それ以前に僧職者の多くが仏教のことをまったく知らない、ということが日本では決して珍しい話ではないのです。

彼らの言のほとんどが仏教など関しない薄っぺらい処世術の類でしか無く、たまに「仏教では~」などと言ってみてもその根拠などまるでないのは、僧侶を自称していながら五欲に溺れ、この世を謳歌せんとしている人々のおためごかしであるため。むしろ彼らのいう「説法」のほとんど多くは邪見に基づく邪義・邪説にすぎない、とすら言えるものです。

(現今の日本では、邪義・邪説だの邪見だのと言うと非常に極端に聞こえ、むしろ「そんなこと言う方がおかしい」と思われてしまうかもしれません。が、事実その言に根拠が全然ないこと、そして往々にして仏教とまるで逆のことを説いているのを控えめに形容しても、そのように言う他ない、という現状が残念ながらあります。)

「餅は餅屋」とは言いますが、日本の僧職者らがやっているこの餅屋は、何も餅のことを知らず売らずに、しかし餅屋の看板を上げて商売をしているという、世にも奇妙な様態を見せてます。

確かに「この世をいかに生きるか」を仏教は説くものです。が、その「この世」をいかに見るかで随分話が変わるのです。

さて、いずれせよ仏教の第一歩は、生きることには苦しみと滑稽な愚かさとがあることを見出し、その基となるものから離れることです。

それを「出離」あるいは「出要」などと仏教では言います。

出離の思いを持たず、あるいは実際に出離せずして仏教を理解しようとすることは、たとえば大海にただよう小舟の上に独りあってそこから手を伸ばし、我が身を一切濡らさずして、深き海底に潜む財宝を欲しがるようなものです。

出離が仏道の初門において重要な世界観とその実際の態度であることは、小乗(声聞乗)であろうが大乗であろうが全く変わりません。

(関連する事項として、別項“前方便”を参照のこと。なお、出離は解脱と同義語で用いられもする。)

そのような仏道の第一歩が、巧みな譬喩によって説かれたのがこの『仏説譬喩経』です。

正見 ―この世が真にはいかなるものか

生きることは苦しみである、生・老・病・死は苦である、そのように世界を、人生を見ること。そしてまた、世界は因果応報によってあること、生死輪廻して果てしないと見ること、それを仏教では正見といいます。八正道の第一です。

たとえば慈雲尊者は、その正見ということについて、以下のように語られています。

正法とは、経律論を多く記したを云ふでない。神通あるを云うでない。光明を放つを云うでない。無碍辯舌を云ふでない。向上なるを云ふでない。唯だ佛の行はせられた通りに行ひ、佛の思惟あらせられた通りに思惟するを云ふ。佛の思惟し行はせられた通りとは、近くは八正道じゃ。八正道とは正見正思惟、正語正業、正命正精進、正念正定のハつじゃ。正見とは諸法無我等を観じ断滅の見を起さぬことじゃ。正思惟とは諸法の自相平等相を思惟して疑はぬことじゃ。正語とは口四の悪を慎み守り失命の因縁にも犯ぜぬことじゃ。正業とは身三の善を守り刀杖火水難にも犯ぜぬを云ふ。正精進とは如是の法において精進修行するを云ふ。正念とは如是の法を憶念して日夜に忘れぬを云ふ。正定とは如是の法において一心憶持決定一相なるを云ふ。是れが正道の基じゃ。委きことは次第に先輩に聞て憶念したがよい。是の中に先ず正見が第一大切な事じゃ。見處が正しからねば餘事は皆黒闇じゃ。餘事の法の如くならぬは皆見の正しからぬ故じゃ。

 正法とは、経典・律蔵・論書の数々が記されたのを言うものではない。神通力〈不可思議な超常的能力〉のあることを言うものではない。光明を放つこと〈不可思議な現象が生じるもの〉を言うのではない。無碍辯舌〈立板に水のようであること〉を言うのではない。向上〈他より優れていること〉を言うのではない。ただ仏陀が行われた通りに行い、仏陀が思惟せられた通りに思惟することを言う。
 仏陀の思惟し行われた通りとは、近くは八正道のことである。八正道とは正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定の八つである。
 正見とは、諸法無我等を観じて、断滅の見〈唯物論的見解・因果応報を否定する思想〉を起さぬことである。正思惟とは、諸法の自相平等相を思惟して疑はぬことだ。正語とは、口四〈妄語・綺語・悪口・両舌〉の悪を慎み守り、命を落すようなことがあってもこれを犯さぬことである。正業とは、身三〈不殺生・不偸盗・不邪淫〉の善を守り、刀杖火水難に際しても犯さぬことを言う。正精進とは、如是の法〈仏陀が説かれた教え〉において精進修行することを言う。正念とは、如是の法を憶念して日夜に忘れぬことを言う。正定とは、如是の法において一心憶持決定一相〈心を一処に留め、集中して揺るがぬ心の状態〉たることを言う。
 これらが正道の基である。詳しいことは次第に先輩に聞き、憶念したらよい。これらの中で、先ず正見が第一に大切な事である。見処〈思想・世界観〉が正しくなければ他事はすべて黒闇となる。他事が法の如くでないのすべて、見の正しくないのが原因である。

『慈雲尊者法語集』(『慈雲尊者全集』vol.14. P331
[現代語訳:沙門覺應]

人の人生とはいかなるものか、世界とはいかなるものと見るか。その初門となるべき寓話を説くのが『仏説譬喩経』です。

この『仏説譬喩経』に説かれている寓話を、単に「あら、これはおもしろい。よく出来た仏教説話だ」などと受けとるだけであれば、とは言えそのような人は巷間はなはだ多いのですけれども、畢竟仏教について何も理解することは出来ないでしょう。

しかしこれを、まさしく「我が人生の滑稽にして愚かなる、そして悲しきありさまである」と真に捉えたならば、それが実に菩提心を発するきっかけとなるに違いありません。

いま、ここに私が『仏説譬喩経』を紹介したのもやはり、それがたとい少しであっても菩提心を発す人の現れることを期してのことであり、またやがてそのような人がそれぞれ真摯に仏道を修めることを願ってのことに他なりません。

非人沙門覺應(Bhikkhu Ñāṇajoti
horakuji@gmail.com

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2.凡例

本文

このサイトで紹介している『仏説譬喩経』は、『大正新修大蔵経』4巻所収のものを底本とした。

原文は漢文であるため、原文・訓読文・現代語訳を併記し、対訳とした。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

現代語訳は、基本的に逐語的に訳すことを心がけたが、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

脚注

補注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付し、脚注に列記した。

非人沙門覺應 敬識
horakuji@gmail.com

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