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‡ 『法句譬喩経』塵垢品第二十六

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1.解題

『法句譬喩経』とは ―読経の意義について

画像:釈迦に説法

ここで紹介する『法句譬喩経』とは、およそ750の偈頌が伝えられている漢訳の『法句経』各品(各章)の中からそのいくつかを取り沙汰し、といってもその分量は三分のニにも及ぶのですが、それに寓話を付して説くことによってその偈文の意義内容を説いているものです。よってこれは、ただしく経典というよりもむしろ『法句経』の注釈書的典籍です。

ここではその『法句譬喩経』から、特に「なぜ仏教徒は読経するのか?」という問いに対する一つの回答・根拠となるものとして、そのとある一章を紹介しています。

古来、これは必ずしも日本人に限ったことでもないのですが、日本ではその人が真に仏教徒であろうと仏教徒でなかろうと、「読経する」ということが当たり前のように行われています。

しかしながら、その当たり前に行われている「読経という行為」について、なぜ行っているか考えたことすらない人が相当多いように思われます。

それはおそらく、「親がやっていたから」・「みんなやっているから」というような理由からなんとなくやっている、という場合がほとんどであるようです。

そして、巷間には「ホトケサマにお経をあげる」などと言って、仏・菩薩の像や誰か高僧の像などの前であたかも一曲やるかのように読経をする人が、これは僧俗問わずにあります。

しかし、そもそも経典とは仏陀やその高弟が、我々のために説かれた教えを記したもの。で、ありますから、それはむしろ「釈迦に説法」を文字通りやっているようなもので、まさに逆さま事に他なりません。

故に、しかつめらしい顔で「ホトケサマにお経をあげる」などということはまったくもって滑稽な行為、それはまるで落語である、とすらいえましょう。それがいくら「心を込め」、「一生懸命」行っていることだとしても、それはまるきり無駄な、愚かしいことです。

「いや、私は釈迦に説法などというつもりなど毛頭なく、ただ死者の鎮魂のため、先祖の供養のために経を唱えているのだ」

「仏といっても、日本では亡者は皆ホトケなのだから、それに対して経をあげているのだ」

「私の場合は、ある願いを叶えるために経を毎日読誦している」

などという人も現実に多くあります。

そうして、そのようなことについて何か言おうとするならば、ただちにこのような主張をしてくる人も少なからずある。

画像:法事あるある

「唱えている経典の意味などわからない。しかし、わからずとも心が大事、そうしたいという気持ちが大事なのだろう?ならば、これでいいのだ!」

が、では「供養のために経を唱える」とはどういうことでしょうか。なぜ読経することが供養になるのでしょう。

いや、「死者・先祖を供養」といいますが、供養とはなんでしょう。また「日本では亡者は皆ホトケ」といいますが、…それはいったいどういうことでしょう。それがどういうことか、その思想的背景をわかったうえで言っているのでしょうか。そもそも、そのホトケとは一体なんだと思っているのでしょうか。またしばしば世間では、「心・気持ちが大事」と言われますが、それはなぜでしょう。そしてそれは本当でしょうか。

なぜそう言うのか?なぜそのように言えるのか?

「みんながそう言っているから」

「本当かどうかなんてわからない。けれども、周りがやっているからそれに従っている」

要するに、ほとんどの人が何もわからずそうしている、ただなんとなく習慣として行っている。誰かのどこかで聞いた言葉を、たいして考えること無しにただ言っているに過ぎない、というのが現状のように思えます。

それはまさに、多くの日本人がまったく絶対的(無意識的)に信仰している、世間をこそ信じ畏怖の対象とする「日本教」のありかたの一形態というものでもありましょう。

もっともこれは、そのほとんどが極めて熱心な日本教信者であるところの現代日本人に限ったことではなく、人は文化にまつわる習慣というものの多くについて、その淵源など知らず行っていることが多いようです。そしてその一々を知る必要が必ずしもあるわけでもなく、また知ろうとしてもわからない、という場合すらもあります。

しかしながら、仏教という宗教について、もしくはこれを仏教にまつわる文化的習慣としてでも良いでしょうが、多くの人が読経というものを非常に重要な、欠くべからざる行為として行っています。読経とは些末な一作法や一習慣というのではなく、多くの人にとってそれは極めて重要な位置を占めている核心的行為とすらなっている、と言えましょう。

にも関わらず、その意義と根拠、本来の目的とを知らずに等閑視したままで、「みんなやっているから、やるのだ」というのではまったく無知蒙昧なことであり、それを放置したままで気づきもしない、などというのは甚だ遺憾の極みというもの。

けれども実は、そのように「なんとなくやっている」「よくわからんけれどもそうしている」のは日本の僧職者の大部分にも全く同様に言える話で、彼らも実際の所「何故か?」などよくわからず、また疑問に思ったことすらもなく、とりあえず世間に従ってやっているようなのが多くあります。

そして僧職者の場合、その理由もわからず「とりあえず」であっても、葬式や法事・廻向など、日本社会ではそれで彼らの稼ぎ口となってしまう、金になってしまうという状況となっています。

これはもはや喜劇。

しかし、このような事態は、生まれがたき人間として生まれ、さらに遇いがたき仏法に遭えたという仏教の視点からすれば、あまりに勿体無いことであります。

なぜ読経するのか?

冒頭述べたように、ここで紹介する『法句譬喩経』にて取り上げられている、漢訳の『法句経』にはその回答・根拠の一つとなる以下のような一節が伝えられています。

不誦爲言垢 不勤爲家垢
不嚴爲色垢 放逸爲事垢
慳爲惠施垢 不善爲行垢
今世亦後世 惡法爲常垢
垢中之垢 莫甚於癡 
學當捨惡 比丘無垢

誦さぬことは言葉の垢、勤めぬことは家の垢であり、
厳粛ならざることは身なりの垢、放逸は修道の垢である。
物惜しみは恵施の垢であり、不善は行の垢であって、
現世にもまた後世にも、悪法は常に垢である。
垢の中の垢には、癡より甚しきものは無い。
道を学ぶ者はまさに垢を捨てよ。比丘達よ、無垢たれ。

『法句経』巻下(T4. P568b
[日本語訳:沙門覺應]

またその理解をより確かにするために、パーリ三蔵におけるDhammapadaでの該当する偈文も以下に示します。

asajjhāyamalā mantā, anuṭṭhānamalā gharā.
malaṃ vaṇṇassa kosajjaṃ, pamādo rakkhato malaṃ.
malitthiyā duccaritaṃ, maccheraṃ dadato malaṃ.
malā ve pāpakā dhammā, asmiṃ loke paramhi ca.
tato malā malataraṃ, avijjā paramaṃ malaṃ.
etaṃ malaṃ pahantvāna, nimmalā hotha bhikkhavo.

読誦しないのは経典の汚れであり、手入れしないのは家屋の汚れである。
怠惰であることは身なりの汚れであり、不注意であることは真理を護る者の汚れである。
不倫は女の汚れであり、物惜しみは施す者の汚れである。
悪法はこの世においても来世においても汚れである。
これらの汚れよりも甚だしい汚れ、それは無明であり、汚れの最たるものである。
比丘たちよ、この汚れを捨て去り、汚れ無き者となれ。

KN. Dhammapada, Malavagga 241-243 (2.18)
[日本語訳:沙門覺應]

この偈文は決して「仏教徒は読経せよ」などということを言うためだけに説かれているものではありません。その主旨は「無明こそが汚れの最たるものである」ということ、そして「修道者らはその汚れを拭い去って汚れなくあれ」ということです。

しかしその冒頭は、まさしく「なぜ読経するのか」の根拠の一つとなる一節です。

ただし、この一節はあまりに短すぎ、具体性に欠けます。その根拠とはなりえるものではあるでしょうが、「なぜ?」ということに対する回答としては弱いものです。そこで『法句譬喩経』の所説はそれを補完するものとなります。

ここでは紹介しませんが、それは南方の分別説部の大成者とも言うべき大徳Buddhaghosa[ブッダゴーサ]による、パーリ語のDhammapada[ダンマパダ]の注釈書Dhammapada-aṭṭhakathā[ダンマパダ・アッタカター]においても同様で、仏教徒がその当初からなぜ読経してきたかの意義・理由を示したものとなっています。

いや、ただ『法句経』だけを示したのみであれば、あるいは精髄反射的に「それは初期の仏教徒や、南方の仏教徒についてのみ言えたことであって、大乗そして日本には関係の薄い話であろう」などといった浅薄なる反論を試みる者も現れるかもしれません。

しかし、ここで示した仏教における根本的とも言うべき読経というものにたいする態度・位置づけは、近世の日本における大徳においても、まったく同様に取られていました。

その一例を示しましょう。

経巻は元より処に隨て読誦し思惟して、佛の教勅を忘却せぬ為じゃ。そう心得て護持せられよ。

経典とは元来、適切な時と場所で読誦し、その意義を思惟して、仏陀の教えを忘れないようにするためのものである。そう心得て経典を護持しなさい。

『慈雲尊者法語集』
[日本語訳:沙門覺應]

このような態度、理解はさらに遡って中世、鎌倉期の諸大徳においても同様です。

人は我祈の為とて、経陀羅尼の一巻をも読まず、焼香礼拝の一度をもせずとも、心身正くして、有べき様にだに振舞はば、一切の諸天善神も是を護り給へり。願も自ら叶ひ、望もたやすく遂るなり。六借く、こせめがんよりも、何もせずして、只正くしてぞ在べき。心づかひは、物に触て、誑惑がましく、欲深く、身の振舞は、いつとなく、物荒く、不当に放逸にては、証果の羅漢僧に誂て、百萬の経巻を読しめ、千億の仏像を造て祈る共、口穢て経読者の罰あたるが如し。心穢て祈する者は、弥よ悪き方には成り行く共、所願の成就する事は、ふつと有まじきなり。其を愚なる者、心をば直さずして、己れが恣ままの欲心計に纏されて、祈らば何にか叶はざらんと、猥りに憑を懸て、愚痴なる欲心深き法師請取て、心神を悩し、骨髄を摧て、祈り叶へぬ物故に、地獄の業を作り出すこそ、げに哀に覚ゆれと云々。

 人は「自分の願いを叶えたい」としても、経典や陀羅尼の一巻ですら読誦する必要などなく、焼香や礼拝を一度でもしなくとも、心と身体の行いを正しくして「あるべきよう」に生活していれば、すべての諸天善神もその人を守護してくれるのだ。その願いも自然に叶い、望みも容易に遂げることができるだろう。見苦しく、恨みがましく祈るより、なにもしないでただ(自らを)正してあるべきである。
 心根が、モノを見聞きするにつけ、欲に惑わされるほど欲深で、身の振る舞いが常に粗暴で節度なく勝手気ままであっては、悟りにいたって阿羅漢となった聖僧に頼みこみ、百万もの経典を読誦させたり、一千億体の仏像を造立したりしたとしても、普段口汚い者が経典を読めばむしろ罰があたるようなものである。
 心が穢れていながら祈る者は、ますます悪い状況になっていくことはあっても、願いが叶うことなどまったくありえない。にもかかわらず愚かな者は、自分の心を正しもせず、己の自分勝手な欲望に踊らされて「祈りはきっと通じるだろう」などと矢鱈に願を掛け、愚かで道理のわからぬ強欲な僧侶に(読経・祈祷などを)請いて、心を悩まし苦心惨憺して、祈りを叶えようとする。が、それはむしろ地獄へ堕ちる業となるに過ぎず、(私にはそのような者らの「祈り」が)真に哀れに思えてならない。

高信『栂尾明恵上人遺訓(阿留辺畿夜宇和)』
[日本語訳:沙門覺應]

ここで明恵上人は、「願いを叶えるために読経する」などということを全く否定されています。

祈りは尊い? ―「祈らない」仏教

画像:浪漫としての祈り

そもそも、何を目的に読経するか以前の問題として、「祈る」とはなんでしょうか。

祈りと一口にいっても種々様々です。

しかし、今ここでは一応「祈りとは、何らか超常的存在に対し、己が願望を叶えてほしいとすがりつくこと」、あるいは「それへの信仰を、それに対して吐露する行為」としておきましょう。

日本人にとっての信仰とは、その対象が特定の神やホトケなどではないためにそう言われるのでしょうが、「日本人のほとんどは無宗教である」などと一般に言われます。が、日本人はことあるごとに、そしてまったく自然に、あちこちで祈りまわっています。

そして、「宗教に金がかかるのはおかしい」などと言う者が多いのにもかかわらず、それがたとえ少額であろうとも、その対象が何かも良くわからなかったとしても、むしろ喜んで賽銭を投げまわる者も多くあります。

けれども、身体健全を祈って健康になるなら医者・病院はいらない。学問成就を祈願して学を為し得る、受験に合格するのならば、勉学する必要など無い。世界平和を祈念して世界平和になるのならば、有史以前から世界は平和でありましょう。

よって、その意味では祈りなど何の意味もない。それは経験的に充分承認されることでしょう。

しかし、それに対してこういうことを主張する人もいる。

「いや、私はホトケサマにお百度参りをして祈り続けた結果、ガンが治った。これはホトケサマにお参りした功徳に違いない」

「俺はこれまで真言宗の寺の息子と生まれたのにもかかわらず、まともにオダイシサマを信じもせず、ひたすら酒・女・賭博に趣味と、放蕩生活を続けてきた。そんな中、あのバイクの事故…。恐ろしい大怪我を負い、意識を失って数日間もの間、生死をさまよった。その間、夢か現かオダイシサマが私の前に現れたのだ。そう、まさにオダイシサマのお陰で私は助かり、私は初めて信仰に目覚めたのだ。ほれ、これがその時の傷だ。オダイシサマは必ず助けてくださるのだから、オマエも懸命に拝まなあかんゾ」

「私がやってきた事業に失敗して多額の借金を抱え、絶望の淵にあって自殺まで考えていた時、それは実に不思議なことであったが、それまで信仰などまるでしていたなかった観音様のお導きとしか思えぬことがあり、お陰で窮地を脱することが出来た」

無論、例えば『日本霊異記』を始めとして、そのようなことを主題とした奇譚・霊験譚は日本に古来あり、それらには話として大変面白く、文学として非常に優れたものが多くあります。

しかし、これはその祈りの対象が万能の神であろうが、八百万の神であろうが、仏菩薩であろうが誰か高僧であろうが、精霊であろうが先祖であろうが、全く変わらず言えることですが、そのような祈りなどせずともガンが治った、病気が治った、あるいは必死の事故から生き延びた、などという人も五万とあることです。

それと同時に、それとはまったく逆に必死に祈り続け、ひたすら信じ続けたのにも関わらず、何の報いも無く、虚しく失意のうちに終わった、などということも世の中にはそれこそ数知れないでしょう。

故に「祈りの功徳」「何か尊いもののお計らい」で何事か奇跡が起こる、などということは決して単純には言えません。

さらにそう言えば、往々にして狂信的新興宗教団体あるいは密教系の拝み屋腹によって、このような主張もよくなされています。

画像:よくいる中高年密教系僧職者の戯言

「愚かにして哀れなる汝らは真の信仰というもの、真に信ずべきものを知らない。しかし、私のように本当に信仰すべきものを知り、それに対して至心に祈ったならば、それは決して虚しくはならない。必ず正しき祈りは叶うのだ!」

「必死に拝んだ、懸命にお題目を唱えたのに一向に物事が良い方向に行く気配がない?それはあんたがまだまだ真の信仰を確立せず、また本当の意味でお題目を唱えていないからだ!すぐにそんなことを言いだす性根がその証拠じゃないか。ほれ、あのひとなんかあんたよりもっと悪い状況だったのに、今じゃああのとおり。あんたももっと自身を持って信心し、仲間と一緒に懸命に題目すればきっとウンヌンカンヌン」

いやいや、これは別段、有象無象の新興宗教や拝み屋などのいかがわしい者らに限らず、真言宗や天台宗などの有名寺院・大寺院で、密教系の修法をソッチ方面でしか理解出来ない愚かな中高年の住職らも、実に似たようなことを言うのです。

「私も若い頃は毎日の法務に忙殺されてマトモに拝むこともなかったが、最近ホトケさんを真面目に拝みだしてから、ちょっと法力がついてきたように思う。除霊や祈祷が出来るようになってきたんだ。やっぱりボーさんは拝まなきゃダメだぞ」

「毎日拝んでいるとな、段々とわかってくるんや。理屈やないんや。え?無常?空?輪廻?なんやそれ?ところで最近、ワシも霊が見えだしてな…」

「弁天さん拝むと、信者がようけい金持ってくるんやゾ?実際な、このまえ弁天さん拝んで三週間目に、信者が突然、現金で三千万持ってきよったんや。やっぱり弁天さん拝むと金が入るっチューのはホンマやな。キミも弁天さん拝んだほうがえぇで?」

「あの家は礎石に墓石使っとったから、アイツの家族全員ろくな死に方せんかったんや。でもまぁ、それがわかってからワシが毎日毎日オダイシサマのゴビョーにお参りしだしたから、まぁなんとかなっとるんじゃ」

現実として、失笑せずにはいられないこの手のことを常日頃、至極真面目な顔をして言う、実にアレな僧職の人々が極めて多いのです。

そして、むしろそのような彼らこそが、積極的に「仏教では~」「密教では~」とのまったく仏教も密教も関しない漫談を人々の前で展開し、さらに人々にそれらに対する誤解を招いています。

ところで、彼らが盛んに口にする「拝む」というのは、密教の三密瑜伽の行法を修することです。けれどもしかし、形ばかり密教の云云をしてはいるのですけれどもその内実は文字通り「ホトケサマを拝んでしまっている」のが現状であって、密教などまったく関係なく、木や銅などで出来たにすぎない仏像を「ナムナム~」と崇拝しているに過ぎません。

もちろん日本では信教の自由が保証され、人はなんでも自分の信じたいものを信じる権利があって、自由になんでも信じたら良いでしょう。けれども、「祈りは叶う」などという信仰は要するに本人の思い込み、妄想の類に過ぎません。

信じなければわからない真理など、真理ではない。

なんであれ、祈ろうが祈るまいが同じ結果となるのであれば、祈ることはその結果の必要条件ではない。

現代には「念ずれば花開く」などという言葉を残した人もあり、それをまた好んでオウムのように繰り返している人々もあります。そもそも「念ずれば花開く」との言葉を残したのは坂村真民氏ですが、彼は必ずしもそのような意味で言ったのではないでしょう。けれども、この言葉を愛好する人々には、「真に祈り願え続ければ必ず叶う」という意味で使う人々が実に多いようです。

そのような意味で言う人々は、花が咲くのに必要なのは「念ずる」ことではなく、適切な温度と栄養、そして光などであることを無視・軽視しているのでしょう。しかし、念じなくとも開く花は開くのです。

(相矛盾する様々な思想・宗教に対していかなる態度をもってするべきかについては、別項“Kesamutti sutta ―カーラーマへの教え”を参照のこと。)

もっとも、これは現代的考えの一つとして、そのような「祈り自体に意味などない」ことは百も承知の上で、「本人がそう思い込むことで多少なりとも積極的な状態を保つことが出来るなら結構なことだ」という、道具主義的な見地からの意見もあるでしょう。

そしてそのような「祈りという行為がもたらす精神・身体への好影響」なるものは、科学的に証明されたもの、もしくは科学的に証明し得るものとして、特定の信仰の宣伝材料・布教材料とする人々もあります。

実際、信じている人にとっては「何事かに祈る」という行為は、何事か精神的危機にある人の精神を崩壊させず保ち得る、恐れや迷いに混乱する精神をなんとか統一し得るという効果が認められる場合もある。それは確かなことのようです。

よって、「私は祈ったほうが心が落ち着く」であるとか「祈ると怒りや憎しみの心が治まる」というのであれば一先ずそうしたら良いと思います。

しかし、そもそもそのようなことは「その祈りの目的」では無いものでしょう。

すると、あるいはまた、このような主張をする人も世間には多くあるように思われます。

「祈りが叶うか叶わぬかは一先ず置くとして、世界に宗教は種々様々あるとはいえ、そこに通じて言えることは祈りが尊い、ということだ」

「祈りとは人に独自の行為であって、それは崇高な、尊いものである」

「祈りこそ人類普遍の尊い行いであると、かのダライ・ラマ14世猊下もおっしゃっている」

…果たしてそうでしょうか。

確かに、場合によってはそのように言えることもあるでしょう。まったく異なる教義・思想・世界観をもつ世界中の宗教、いや宗教だけでなく人一般の間から共通項を探り出そうとした時、もちろん思想として「絶対に祈らない」という人もあるでしょうけれども、それはおそらく「祈り」となるでしょう。

しかし、「祈り」と言葉では同じに表現できたとしても、思想・宗教が異なり、またその世界観などが異なれば、実はまるでその内容や意義・重みが違っているものです。

いや、あるいはそんな難しいことを言わずとも、たといまったく神などに祈ることをしない人であっても、例えば最愛の人などが危篤だ、事故にあって瀕死の状態だ、飛行機事故で行方不明だ、などという知らせを突然聞いた時、「あぁ、頼む。死なないでくれ。どうか、なんとか命だけは…」と、誰に対してでもなく自ずから心中「祈る」ことはあるでしょう。人の生来もつ、精神的な働きとしてそのように「祈る」ことがある。

その故に、その対象や意味内容などを問わず、種々雑多な文化・国々・地域の人々の中にあって、その共生や協調を求めた時、「祈り」というものを特に強調することとなるのはある意味必然でありましょう。

「祈りは人類普遍の行為であって、その故に尊い」と。

けれども、では古今東西の歴史を振り返ってみた時にそのようなことが無条件に言えるでしょうか。答えは「否」でありましょう。

それは現在においてもなお、特にイスラム教徒によって世界のあちこちで「神の名の下」「祈りのもと」、恐ろしいテロが行われています。しかし、人が祈りつつ、しかしむしろ祈りによってさらに恐ろしい行為を重ねてきたのは、何もユダヤ教をはじめとするキリスト教・イスラム教など絶対唯一神を信仰する宗教に限ったことではありません。

人は、祈りながら祈る人を殺し、また祈りをせぬといって人を殺してきた。

いや、日本史上、西洋や中東であったような血みどろの激しい宗教戦争、といえるほどのものはありませんでした。

しかし、「祈り」を背景にして傍若無人のかぎりを尽くした者らが存在していた。西洋でのそれらと同じように、日本では僧職にあった宗教者らがむしろ宗教(仏教)という権威を利用し傘にきて、己等の土地と利権のために血みどろの争いを展開していたのです。

それは比叡山の山法師(僧兵)が、先ずその悪しき代表例でありましょう。あるいは「祈り」をかさに貴族らにおもねり、自身らの利養を図ってきた多くの真言や天台の学僧・祈祷師らも、古来多く存在しています。

また、近世までの日本社会の下層においても、一概に言うことは不適切ではありますが、「祈り」が利用された浄土一揆や法華一揆が盛んに起こって多くの人命が失われてきました。

さらにいえば、人を殺すということまでいかなくとも、これは僧侶によるものでなくて平民らによってなされたことですが、明治維新に日本全国で吹き荒れた廃仏毀釈による激しい暴力も見逃してはなりません。廃仏毀釈で庶民たちが率先して何をしたのかを知れば、現代しばしば商業主義的あるいは浪漫的に主張される「日本のココロ」「日本の伝統ブンカ」などという言葉など、まったく片腹痛い限りというもの。

そして現代においても、寺院の多くは「亡者への祈り」を商売のネタ・生業として存在しており、またいわゆる霊能者などと言われる拝み屋腹は「先祖の祟り」「親族の因縁」など愚かな迷信を吹き込んで人々から金品を巻き上げ、狂信的新興宗教団体は「正しい信仰」「正しい祈り」を標榜して他者に信仰を強制するなどし、中には強大な権力と財力を握って政教分離原則すら公然と破って平然としている者らもあります。

しかし、それらは総じて仏教本来のあり方からして遠くかけ離れたものである、といって全く可なるものです。

仏教の祈り ―自他が安楽であれと願うこと

そもそも仏教において祈りといえるのは誓願すること。あるいは、より具体的に四無量心観のことです。

(四無量心および四無量心観については別項“四無量心”ならびに“四無量心観の修習”を参照のこと。)

誓願とは自分がその行動とその結果を規定して、その規定に沿うよう励むいわば達成目標のことです。また四無量心とは、自他の平安を願い喜ぶことにより、むしろ自心の怒りや害心を陶冶し、さらには自他に対する愛着を離れて平静であることを目的としたものです。その結果として、具体的に他を利することにつながる、としたものです。

特に、「自他」と言ったときの他とは一切衆生であって、「憎っくき彼奴を除いた、その他の人」や「特に私の愛する某に限る」「特にあなただけ」などと限定されたものではありません。

たとえば、同じく明恵上人にまつわる話として、以下のようなものが伝わっています。

人の、祈祷して給ふべき由所望申しければ、上人云はく、「我は朝夕一切衆生の為に祈念を致し候へば、定めて御事も其の数の中にてましまし候らん。去れば、別して祈り申すべきに非ず。叶ふべき事にて候はば、叶ひ候はんずらん。又叶ふ間敷事にて候はば、仏の御力も及ぶまじき事にて候らん。其の上、平等の心に背きて御事計り祈り候はん事、親疎有るに似たり。左様に親疎あらん物の申さん事をば、仏神もよも御聞き入れ候はじ。仏神の御内証恥かしく候。又仏は、方々の御事をば、一子の如く思食し候に、叶へても進せられ候はぬは、何にも様こそ候らめ。譬へば、をさなき者毒を知らで食したがり候を、親の奪ひ取り候をば、甚だ恨みて泣き候が如し。一旦は本意なき様に候へども、終にはよかるべきはからひ也。されば仏をも神をも御恨み有るまじく候。又不信放逸の心ある人をば千仏も救ひ給はぬ事也。去れば、我が身の拙き事を顧みて、身をこそ恨み給ふべく侍れ。祈り叶はざらん時も、仏の御計らひ、様ぞ有らんと思い給ふべし。加様に申し候へば、先聖の掟を背きて、人の祈りせじと申す物狂ひありと云ふ沙汰に及びぬと覚え候。先聖は皆方便在りて述べ置き給へる子細あるを、然るに我等様の無智の者、左右無くそれを学ばば大きに誤りあるべし」とて、聞き入れ給はざりけり。

 ある人が明恵上人に祈祷して欲しいと所望したところ、上人はこう答えられた。
「私は朝夕に生きとし生けるもの全ての為に祈念をしていますから、間違いなくあなたもその数の中に入っております。それゆえ、あなたの為だけに祈る必要などありません。(あなたの願いが)叶うべき事であれば、叶うでしょう。また叶うべきでない事であれば、仏のお力も及ばぬ(無理な願い)事なのでしょう」
「その上、平等の心に背いて私があなたばかりの為に祈ることなど、一方を依怙贔屓するようなもの。そのように親疎分け隔てして一方を贔屓するような者の言うことなど、仏も神々もまさかお聞き入れられはしないでしょう。仏や神々の御内証に対して恥ずかしいことです」
「また仏陀は、あなたがた一人一人をこそ一人子のように思われているのに、願いを叶えて下さらないのはまったく理由のあることに違いないこと。例えば、幼子がそれに毒のあることを知らずに食べたがるのを、親が奪いとったならば、たいそう恨んで泣くようなもの。その場は不満を感じるかもしれないけれども、結果的には良い計らいなのです。それゆえに仏をも神々をも恨まれることの決して無いように。また不信心にして勝手気ままで乱暴なる人など千の仏であっても救い得ないことです。よって、我が身の拙いことを顧みて、自身の不徳をこそ恨まれるように。祈りが叶わなくとも、仏のお計らいのこと。きっと叶わぬに十分な訳があってのことだろうと思われたらよいでしょう」
「しかし、私がこの様なことを申し上げれば、釈尊や過去の偉大な仏弟子の教えにそむいて、(あの明恵は)人から頼まれたにも関わらず祈らないなど変人であるといった噂が立つことでしょう。過去の仏や偉大な仏弟子達は皆(人々を導く為の)方便として(祈祷などについての)教えや事跡を残されたという事情があるのを、我々のような智慧の無い者どもが、上下左右をわきまえぬが如くに無闇にそれらを学び実行すれば大きな誤りとなるでしょう」
このように明恵上人は仰り、(祈祷の依頼を)聞き入れられなかった。

『栂尾明恵上人伝記』
[日本語訳:沙門覺應]

ここで上人は、仏陀をあたかも「願いを叶えてくれる存在」かのように捉えていますが、それは当時の人々の仏陀観の表れでもあるでしょう。が、そもそも仏陀はそのようなものではない。

また、ここでは仏菩薩を神々とが同列に語られており、現代の人にはそれに違和感を感じる者もあるかもしれません。が、鎌倉期当時の日本では、天照大神を始めとする日本の神々とは仏菩薩が垂迹したもの、仏菩薩の影のようなものである、という理解が当然のこととされていました。

本地垂迹説といわれる、日本の神々に対する見方です。日本の神々は仏菩薩の化身であるからより尊い、という理解です。たとえば現在の日本でも信仰されている八幡神など、その初めから仏教との関わりが極めて深い、いや、仏教なくしては絶対にありえなかった神です。

さて、このような明恵上人の態度に比して、現代の僧職にある人は「祈り」というものについてどのような意識をもっているかを示す好例として、とある世間でも比較的高名な、現代の真言宗を代表する一人とも言うべき僧職者の老翁による随筆があるのでここに示します。

■ 続 いのり ―生かせ いのち―
 もう三十年余り前のことですが、インド料で中国のチベット自治区と接するインドのラダック地方に行って学術調査をしたことがあります。
 この地方には由緒正しい古い曼荼羅が数多く現存していて、第二次、第三次の調査隊を派遣して三年がかりで詳しい調査にあたりました。現地に滞在してチベット仏教のお寺に入り込み、毎朝の勤行をはじめ、お寺の色々な行事を拝ませていただいたり、曼荼羅を描いた壁画やタンカ(仏画を描いた画布)を撮影したりしているうちに、お坊さんたちとも親しくなります。
 これらのお寺のご住職さんによく尋ねました。「何のためにお祈りしているのですか。」すると返ってくる返事が、「世の中すべての人々のしあわせを祈っています」と不思議にほとんど同じなのです。
 最初、この言葉を聞いたときに、誰も彼も変わらない答えだ。どうも胡散臭いな、と正直思いました。これらのお寺には、付近に住む病気に苦しんでいる住民たちが来て、お坊さんにお加持をしてもらっているのをしばしばみていたからです。
 チベットの坊さんも本当は病気平癒だとか農作物の豊作とか、身近な問題の祈願をされているのではないか。でも異国人には、建てまえ論で応対している、と疑っていたことも事実です。
 その後、チベットに外国人が入息できるようになって、チベットの僧侶と接触する機会も格段に増えました。ところがどなたに聞いてもほぼ同じような答えが返ってくることに気づいたのです。学識をもち、地位もあるチベット仏教の僧侶にとって、祈りとは人々のしあわせを願うことだ、と素直に信じているに違いないと思うようになりました。
 チベット仏教の最高指導者であるダライラマ猊下にお目にかかり、お話を伺うたびに、自己の損益は二の次にして、世界の苦しむ人々のために、真剣に祈り続けられている高潔な人格に触れ、チベット仏教の僧侶の方々が生きとし生ける者のしあわせを本音で祈ることが、単なる建てまえではないことにますます確信がもてるようになりました。
 本音の祈りが本人の知らないうちに建て前の祈りに変わり、建てまえの中に本音が自然に吸収されてしまうということもありうるように思います。
 先日テレビでおなじみのあるタレントの方が、テレビ番組として放映するために四国八十八ヶ所をめぐり終えて、高野山にお参りにこられた時、対談させていただきました。
 その方は巡礼の最初のうちは、買った馬券がよくあたるようにと祈ったと冗談交じりに言われていました。ところが八十八ヶ所を巡拝しているうちに、自分の気持では、自然に東日本大震災によって亡くなられた方々の御冥福を、お祈りするようになったとも漏らしておられました。
 霊場巡礼という行を続けているうちに、欲の皮のつっぱった祈りが、いつの間にか清らかな祈りの中に自然に解消してしまう。現実に起こりうることです。

『高野山教報』平成26年 (2014) 4月1日

人によっては、これを読んでも何とも思わないかもしれません。「何も問題などないではないか」、「ここに書いてあることの何がおかしいというのか」と。あるいは彼の見識に感心すらしてしまう人もあるかもしれません。「流石はかの大僧正」、「いやはや、センセーのご見識には敬服するばかりです」などと。

画像:オボーサンの祈り

この随筆の筆者は実に、それを別段何だとも思わずして、あまりにも率直に自身の「祈り」というものに対する本音のところを明かしてしまっています。そして、彼自身が経験したチベットの僧らの思いも、(そもそも自身も信仰しているはずの)仏教の祈りというものすらもまるで理解することも無く、最後まで「建て前と本音」という自身の祈りに対する態度を拭うことができず、その傍観者を決め込んでいます。

もちろん、ここに示したのは一例にすぎません。

が、これは現代の「日本のオボーサン」と言われる僧職者のほとんど多くにも該当する態度であると言えるものです。それは、信者や檀家などの人前・著作の中では「生きとし生けるものが~」などと言ってはいるものの、結局はそれは「建て前」(お商売として)でのことでしかありません。

いや、もちろん口では「仏陀はシムリョーシンを説かれた。ジヒが大切なのです!」、「空海は『虚空盡き、衆生盡き、涅槃盡きなば我が願いも盡きなむ』という大誓願を建てられた。アリガタイ!」などと褒めそやし、「祈り」「祈りは尊い」といいながら「全ての人が幸せでありますように」「世界平和!」などと舌先三寸で繰り返しそれっぽいことを建て前としては言いはするのですけれども、上に挙げたような老翁がうっかり(?)吐露してしまっているのが実際というものです。

日本の僧職者の多くが極めて不勉強で不見識であるということもその大きな一因であるでしょう。けれども、他にもまた、彼らにとって「祈り」とは間接/直接を問わず飯の種であり、また「祈り」が個人の欲望を叶えるものでなければ彼らの収入に繋がらないが故にそのようになってしまう、ということがきっとあるのでしょう。

しかし、そもそも仏教における祈りは世間で言われる祈りとは性質を異にしたものであり、また仏陀とは「祈れば、その願いを叶えてくれる存在」などではありません。

そのゆえに、「祈りなど唾棄すべき未開な行為だ」などと見なして完全に排除する必要などなく、おそらくは人に固有の行動であろう祈りをなしたい人はいくらでも祈ったら良いでしょうけれども、通仏教的世界観や教義からしても、仏教では世間で言われるような意味での「祈り」など重要なものではないのです。

実際、「本来、仏教は祈らない宗教である」という理解は、むしろ仏教外の人々、たとえばバチカンの神父らによってもなされています。

彼らにとって祈りとは、あくまで絶対的存在に対するものであって、そのようなものの存在を認めない仏教においては、祈りなどあり得ないためです。そしてそのようなバチカンの神父らの仏教に対する理解は正しいものです。

なぜ修行するのか ―何のために「経典を読む」のか

さて、あるいは明恵上人よりやや時代の下った方で、当時の人々から「生人の釈迦」とさえ称えられ崇められていた興正菩薩叡尊は、これも明恵上人や慈雲尊者の言葉と同様の主旨でありますが、以下のように仰られています。

一、学問可韻事
或時ノ御教訓云、学問スルハ心ヲナヲサム為ナリ。当世ノ人ハ物ヲヨク読付ムトノミシテ心ヲナヲサムト思ヘルハナシ。学問ト申ハ、先其ノ義ノ趣ヲ心得テ常ニ我心ヲ聖教ノ如クナリヤ否ト知ナリ。我心ヲ聖教ノ鏡ニアテ見ルニ、教ニ背クトコロヲバ止メ、自ラアタルヲバ弥ハゲマシ、道ニスヽムヲ学問トハ申ナリ。只暫ク文字ヲバイツモ読付ラレヨ。先イソギ各心ヲ直サルベシ。心ヲ直サヌ学問シテ何ノ詮カアル。イカニ聖教ヲ習トイヘドモ、菩提心ナキ人ハ冥加ナキ也。只ヨロヅヲ差置テ菩提心ヲ発テ、其上ニ修行スベシ。足手ヲ不レ安修行スルヲバ所依ト名ク。心ヲ直スヲモテ修行ノ源トスベシト云々。

一、学問は韻を得べき事
ある時のご教訓で(叡尊和上は)仰せになった。
「(仏教において)学問するのは、心を直すためである。最近の人は、ものをよく読みつけて知ろうとするばかりで、心を直そうと思う者が無い」
「そもそも(仏教において)学問するということは、まずその教えの意図を理解し心得て、それから常に自分の心が聖教に説かれる教えの通りであるか否かを確認していくものである。自分の心を聖教という鏡に映しだし、教えに背くところがあれば止め、教えに沿っているところはますます励まして道を進んでいくこと〈いわゆる四正勤〉、それを(仏教における)学問と云うのである」
「ただ少しの時間であっても、仏典を常日頃から読むようになさい。そうして先ずは、急ぎそれぞれ己が心を直さなければならない。心を直さぬ学問などして、どのような意味があるというのか。どれだけ多くの聖教を習い憶えたとしても、菩提心の無い人には功徳などない。ただ万事を差し置いて菩提心を発し、その上で修行しなければならない。手足を休めず(怠ること無く)修行することを所依と言う。心を直すことをもって、修行の核心とすべきである」

『和上御教誡等打聞撰集(興正菩薩御教誡聴聞集)』
[日本語訳:沙門覺應]

まさに至言。

実際、そのようなものであると理解し、無闇矢鱈に唱える人が多いことは今も昔も変わりないことでありましょうが、経典とは決して、それを読誦するだけで何事か意味のある、あやしげな呪文のごときものではありません。

また、読誦自体は決して「他人のため」・「亡者のため」・「先祖のため」のものではありません。その内容を記憶し理解し、我が心身に薫習して、あくまで「現実の己が行動」に反映させるために読誦するのです。

人というものは「一度聞いたならば、直ちに、十全にそれを行うことが出来る」などというものでは全く無い。故に繰り返し繰り返し、一つ一つ学び、理解し、日々行わなければならない。

これはすべての勉学についても、スポーツなどについても全く同様に言えることで、別段宗教的云々に限ったことではありません。繰り返し習い行い、自らをその理想とする状態へと近づけていく。弛まぬ努力を続け、それまで知らなかった物事を知り、理解していく。

そう、修行とはそういうものです。

修行とは、冬にエイエイ気合を入れながらザバザバ冷たい水を浴びたり、雪降る中でモゴモゴ読経しながら滝に打たれたり川に入ったり、断食や極度の粗食をしたり、意味の分からぬ真言陀羅尼を何万遍も唱え続けたりすることでも、ドンドコドコドコ太鼓を鳴り響かせながらワーワー経文を唱えたりすることでも、白装束で野山を長距離歩き回ったりすることでも、護摩など延々と行ってその炎をヤセ我慢したりすることなどでも決してない。

画像:北野武『教祖誕生』

それら世間で「キビシーシュギョー」と思われている振る舞いは、その見た目も聞こえも派手で、素人目には「いかにも何かやっている」「やんごとない」などと感じられることではあるのでしょう。

けれども、それらの行為自体に価値ある中身などまるでありません。

しかもそれを人にわざわざ公開してやっているとなれば、それは畢竟、信仰(金)集めのための純然たる演技(パフォーマンス)でしかありません。

明恵上人は、仏道修行の本質についてこのような事を言われていたといいます。

或る時云はく。末世の衆生 、仏法の本意を忘れて、只、法師の貴きは光るなり、飛ぶなり、穀をたつなり、衣を着ざるなり、又学生也、真言師也とのみ好みて、更に宗と貴むべき仏心を極め悟る事を弁へざる也。上代大国、猶此の恨みあり。況んや末世辺州、何ぞ始めて驚くべきやと。上人常に語り給ひしは、光る物貴くは、蛍・玉虫貴かるべき。飛ぶ物貴くは、鵄・烏貴かるべし。不食不衣貴くは、蛇の冬穴に籠り、をながむしのはだかにて腹行ふも貴かるべし。学生貴くは、頌詩を能く作り、文を多く暗誦したる白楽天小野皇などをぞ貴むべき。されども、詩賦の芸を以て閻老の棒を免るべからず。されば能き僧も徒事也、更に貴むに足らず。只仏の出世の本意を知らん事を励むべし。文盲無智の姿なりとも、是をぞ梵天・帝釈天も拝し給ふべき。

 あるとき(明恵上人が)仰せられた。
「末世の人々は、仏教の本意を忘れて、ただ法師が尊いのは(不思議な)光を放つからだ、(神通力があって)空中を飛ぶからだ、断食するからだ、(寒い中でも)衣を着ないからだ、あるいは博識だからだ、真言密教で祈祷をするからだ、といった事ばかり取り沙汰し、決してその核心として貴ぶべき仏の悟りを極め悟ろうとすることがない」
「とは言え、仏ご在世のインドにおいても、やはりこの様なことが無かったわけではない。ましてや今のような末世の辺境国たる日本では、今更驚くべき事でもなかろう」
 そして上人は常日頃、このようにも語られていた。
「光る物が貴いというのであれば、蛍や玉虫を貴べばよい。飛ぶ物が貴いと言うのであれば、鳶や烏も貴いことになるだろう。断食や衣を着ないのが貴いと言うのであれば、蛇が冬眠で穴に籠もっているのや、尾長虫の裸で地面を這っているのを貴んだらいい。博識な者が貴いというならば、頌詩を作るのに通じ、古典を多く暗誦していたという白楽天や小野篁をこそ貴んだらよかろう」
「しかしながら、詩賦の才能によって閻魔の(老・病・死という)棒を避けることなど出来はしない。それゆえに博識な僧など虚しいものあって、殊更に貴ぶ必要などない。ただ仏陀がこの世に現れて成し遂げられ、教え残されたことを悟らんとすることにこそ励むべきである。たとえそれが文盲・無知であっても、悟りを求めて努め励む者をこそ、梵天や帝釈天も礼拝するのである」

『栂尾明恵上人伝記』巻上
[日本語訳:沙門覺應]

実は、このような明恵上人と同様の思考、やたらと不可思議な事象を取り沙汰してアリガタイと思ったり、寒行・断食などすることこそアリガタイ修行であると考えたり、博識で弁説巧みな者をアリガタイと見なしたりすることの批判は、仏陀ご在世の昔において、しかも優れた尼僧によって、すでになされていたことでした。

それは、寒さの中で川に入ることで「身を清める」「悪業を消し去れる」などと考え実践していたバラモンへの、プンニャーテーリー(Puṇṇātherī)という比丘尼からの批判と教示とを伝える、以下の偈において見ることが出来ます。

yo ca vuḍḍho daharo vā, pāpakammaṃ pakubbati.
dakābhisecanā sopi, pāpakammā pamuccati.
ko nu te idamakkhāsi, ajānantassa ajānako.
dakābhisecanā nāma, pāpakammā pamuccati.
saggaṃ nūna gamissanti, sabbe maṇḍūkakacchapā.
nāgā ca susumārā ca, ye caññe udake carā.
orabbhikā sūkarikā, macchikā migabandhakā.
corā ca vajjhaghātā ca, ye caññe pāpakammino.
dakābhisecanā tepi, pāpakammā pamuccare.
sace imā nadiyo te, pāpaṃ pubbe kataṃ vahuṃ.
puññampimā vaheyyuṃ te, tena tvaṃ paribāhiro.

(バラモン曰く、)
「老人でも若者でも、悪しき行いをなしても、彼は水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来る」
(プンニャーテーリー曰く、)
「いったい誰が、無知でありながら無知なる者に、『水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来る』などということを語ったのであろう?」
「(もしそれが真実であるとすれば、)蛙や亀や蛇や鰐など、その水の中にうごめくもの全ては(何もせずとも)、必ず(死後には)天界に赴くこととなるであろう」
「(そして、もしそれが真実であるとすれば、)羊の屠殺人・豚の屠殺人・漁師・鹿の狩人・盗賊・死刑執行人など、悪しき行いを為す者らもまた、水浴によって悪しき行いを消し去ることが出来ることになるであろう」
「そしてもし、これらの水が、汝が以前に為した悪を流し去ってしまうのであれば、これら水は(汝が為した)功徳をも流し去ってしまうであろう。であれば、それによって汝は、(善でもなく悪でもない)門外漢〈何者でもない者〉となってしまうであろうに」

KN. Therīgāthā, soḷasanipāto, Puṇṇātherīgāthā (KN 9.65)
[日本語訳:沙門覺應]

明恵上人がこの偈を読んでいた、などということはおよそありえないことです。が、しかし、以上のようにほとんど同様の合理的思考によって、世間の人が「アリガタイシュギョー」「キビシーシュギョー」と見るような類の行為を批判されています。

水だけではなく、火によっても、また他の諸々の儀礼・儀式などによっても、人はその行為・業を清めることなど出来はしません。

これらは、仏教の目指すべき所、そしてそのための修行の本質が見事に描き出されたものです。

繰り返しますが、日本には現代においてもなおこのようなことをさも「アリガタイ、キビシー修行」だとして仰々しく行っている僧職の人や拝み屋風情が多くあります。が、そんなことをしても何の意味もありません。

いや、「それっぽく人に思われる」ということはあるでしょう。そしてそれによって信者が増え、己の懐が暖かくなる、ということはあるでしょうけれども。ああ、いやいや、それがむしろ目的でそうしている場合がほとんどでありましょう。

さて、やや本題からずれてしまいました。

いずれにせよ、悟りを求めて勤め励むものの亀鑑、それが経典であり、それを自らのあり方、生き方に反映させるために繰り返し読み、我が身を照らし直すために行うことの一つが読経です。

そうしてそれが「現実の己が行動」に反映された時こそ、そこに功徳なるものがある。

では、そもそも功徳とは何か?

功徳とは、端的に言えば「利益」のことです。利益と言ってもそれは、努力した結果として自らの心身に備わる「良い性質」のことです。

唱えるだけで意味がある、願いが叶う、悟るなどというのであれば、それをテープであろうがCDであろうがMP3であろうが何かに吹き込んだのをずっとかけ続けていれば良い。ああ、いや、そうするとそれを掛けている機械こそが仏陀になる、ということになるでしょうか。もちろん、そんなことはありえない。

画像:心の師となるも、心を師とせざれ(『涅槃経』)

また、「心が大事なのだ!」「要は気持ちの問題なのでしょう?」などという主張については、仏教が心や人の気持というものをいかに理解しているかを知れば、ただちに破綻するものです。そのような意味では、心や気持ちなどけっして大事なものではない。

あるいはこう主張する人もあるかもしれません。

「いや、意味などわからなくても読誦するだけで意味がある。実際、読誦するだけで功徳があると説く大乗経典がある!」

「日本では法然や日蓮など、むしろ唱えることをこそ推奨した者もいるではないか」

八万四千の法門と形容されるほど様々な教えが説かれる仏教において、そういう経典もあるにはあるでしょう。そしてそのような経典に基づき、様々な我説を展開した輩なども長い歴史の中には確かにある。

しかし、その内容をさらに読み、また三国伝来の仏教の伝統というものを鑑みたならば、それが決して「読誦するだけで意味がある」などとされたものでは到底ない、ということが理解できるのではないでしょうか。

例えば「十万遍この真言を唱えれば、アレコレとんでも超常現象が起こって、みんな幸せ」などと説く経典があったとして、それを現実に行ってみてもそんなことは決して起こりません。言うまでもなく、などと言わず実際にやって確かめてみても、そんなことは決して起こりはしないのです。

そもそも、安直に言うと語弊がありますが、そういうものではないのだから。

もはやさらに言葉を重ねる必要も無いでしょうが、最後にまた慈雲尊者の言葉を引いて終わりとします。これをもって日々の読経というもの、いや、仏教というものに対する態度を新たにしていただければ幸甚。

誦経と云ふは、佛語を受誦して、此を以て心地を照す。一句半偈ことごとく甘露味にして、無漏大定より等流し来る所じゃ。雪山道士は、羅刹の為に身を棄捨して求る。帝釈天王は、野干の為に坐となって求る。口誦すら業障を消除し、善功徳を得る。心憶念すれば累劫の迷習を解脱し、聖慧を獲得す。三乗の差別あれども、もと一法性の印ずる所じゃ。終に一佛乗に帰して、更に餘帰なしじゃ。肝要は、密教を奉持する者は観誦功を累ぬるに在る。顕説を奉持する者は如説修行に在る。

 読経とは、仏陀の教えを受持して読み、それを自分に引き当て、自心を直すことである。(経文の)たとえ一句半偈でも、そのいずれもが不死をもたらす妙味であって、汚れ無き深い修禅の境地から溢れ出たものである。
 雪山童子は、(「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」という偈文を聞くため)羅刹に身命を捨てようとまでした。帝釈天は、(仏陀の教えを知っているという)野干〈狐の化物〉を上座に坐らせ、自らは下座に坐ってその教えを求めたのである。
 口で経文を読誦することでも業障を消除し、善功徳を得る。心に憶念すれば幾億もの過去世で積み重ねてきた己が迷習から解き放たれ、聖なる智慧を獲得する。
 (仏教には声聞乗・縁覚乗・菩薩乗という)三乗の相違があるけれども、根本は一つの真理である。それらは畢竟、一仏乗に帰結するものである。肝要は、密教を信奉する者は(真言の意義一つ一つを観察し習得する)「観誦」を積み重ねることにある。顕教を奉持する者は(経律に仏陀が音気になられている通りに修行する)「如説修行」にある。

慈雲尊者『十善法語』巻第五
[日本語訳:沙門覺應]

非人沙門覺應 敬識
horakuji@gmail.com

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2.凡例

本文

このサイトで紹介している『法句譬喩経』は、『大正新修大蔵経』4巻所収のものを底本とした。

原文は漢文であるため、原文・訓読文・現代語訳を併記し、対訳とした。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

現代語訳は、基本的に逐語的に訳すことを心がけたが、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

脚注

補注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付し、脚注に列記した。

非人沙門覺應 敬識
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