真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 『仏説無常経』 臨終方訣 附

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1.解題

『仏説無常経』とは ―三啓経

『仏説無常経』とは人々と神々が、いや、全ての生けるものが老いと病い、そして死から決して逃れられるものではないことを主題とするもので、その不如意なる世界から脱する術が仏陀の説かれた法〈教え〉と律〈戒律〉とであることを、極めて簡潔に説いた経典です。

特に根本説一切有部[こんぽんせついっさいうぶ]において重用され、頻繁に読誦されていたことが知られます。たとえばその律蔵である根本説一切有部律の諸典籍では『無常経』にしばしば言及しており、様々な場面で読誦すべきことが説かれています。

なおパーリ語による分別説部所伝の三蔵そして漢訳四阿含には、『仏説無常経』と全く同様の経典を見出すことは出来ません。と言ってもそれは、ただちに『仏説無常経』がただ根本説一切有部独自に所伝した経であったことを意味しません。

そもそも、これについては後述しますが、現在伝わる『仏説無常経』は一、二世紀の北インドにて活躍したことで知られる尊者馬鳴[めみょう]〈Aśvaghoṣaによるとされる偈頌がその前後に付加されたものです。

馬鳴とは、説一切有部の大学僧であった脇尊者[きょう そんじゃ]〈Pārśvaの弟子であったとされる、特に詩文に秀でた仏教詩人として名高い人です。

流麗な正規サンスクリットのカーヴィヤkāvya体で著された仏陀やその弟子らの伝記であるBuddhacarita〈ブッダの行業〉Saundarananda〈美しきナンダ〉、そしてŚāriputraprakaraṇa〈シャーリプトラ伝〉、そしてバラモン教における絶対的身分差別varṇa. カースト制度〉を批判したVajrasūcī〈金剛の針〉等々は、往古より現在に至るまで世界中のサンスクリットを解する仏教徒に愛読される名著となっています。

漢語典籍として伝わっている『仏所行讃』はBuddhacaritaの、そして『金剛針論』はVajrasūcīの漢訳で、いずれも現在も必読書の一つです。ただし、漢訳『金剛針論』は法稱、すなわち七世紀のインドで活躍した唯識の学匠Dharmakīrtiの作とされており、馬鳴以降に加筆あるいは改訂された可能性が高いと現代言われています。また、豊富な仏教説話を載せる『大荘厳論経』も尊者馬鳴作とされています。

大乗に属する典籍で、漢訳典籍でしか伝わっていないものながら、特に支那以来日本でも非常に重要視されてきた『大乗起信論』、そして『大宗地玄文本論』もまた馬鳴の作と伝説されます。

『仏説無常経』には、そのような尊者馬鳴による偈頌が付されていることから、必ずしも根本説一切有部独自のものであったと短絡的に見なすことは出来ないのです。

さて、『仏説無常経』はまた『三啓経』あるいは『無常三啓経』・『三啓無常経』とも称されます。なぜ「三啓」と云うか。それは以下のような理由によるものであると、七世紀のインドおよび東南アジア諸国を遍歴して当時のインドにおける僧院の様相をかなり詳しく書き記した義浄三蔵によって伝えられています。

神州之地。自古相傳。但知禮佛題名。多不稱揚讃徳。何者聞名但聽其名。罔識智之高下。讃歎具陳其徳。故乃體徳之弘深。即如西方。制底畔睇及常途禮敬。毎於晡後或曛黄時。大衆出門繞塔三匝。香花具設並悉蹲踞。令其能者作哀雅聲。明徹雄朗讃大師徳。或十頌或二十頌。次第還入寺中至常集處。既其坐定。令一經師昇師子座讀誦少經。其師子座在上座頭。量處度宜亦不高大。所誦之經多誦三啓。乃是尊者馬鳴之所集置。初可十頌許。取經意而讃歎三尊。次述正經。是佛親説。讀誦既了。更陳十餘頌。論迴向發願。節段三開。故云三啓。經了之時。大衆皆云蘇婆師多。蘇即是妙。婆師多是語。意欲讃經是微妙語。或云娑度。義目善哉。經師方下上座先起禮師子座。修敬既訖。次禮聖僧座還居本處。第二上座准前禮二處已。次禮上座。方居自位而坐。第三上座准次同然。迄乎衆末。若其衆大。過三五人。餘皆一時望衆起禮。隨情而去。斯法乃是東聖方耽摩立底國僧徒軌式。

 神州〈支那〉の地にて古より相伝しているのは、ただ礼仏・称名だけであって、多くはその徳を讃じて称揚するものではない。何をもって「(仏陀の)名を聞く」とするかといえば、(文字通り)ただその名を聴くだけのことであって、(それだけでは誰も仏陀の)その智慧の高下を識ることなど出来ない。そもそも讃歎とは、具さにその徳を陳べることである。故に(仏陀を讃嘆することによって)その徳の弘く深いことを知り得るのである。
 そこで西方における制底畔睇祠堂の礼拝や日常の礼敬についてであるが、毎夕あるいは黄昏時に大衆は(精舎の)門を出て、まず塔を繞ること三匝してから香花を供える。そして(大衆)皆が蹲踞すると、(諷吟に)堪能な者に、哀雅な声でもって明々朗々と大師の徳を、あるいは十頌あるいは二十頌でもって讃嘆させるのである。それが終わると次に、また寺中に入って常の集会処に至る。そして既に各自(それぞれが坐すべき)坐に着いたならば、一人の経師を師子座に昇らせ、少しばかり経を読誦させるのである。その師子座は上座の先頭に置かれているが、その大きさや場所など適切に考慮されており、(不坐臥高広大床戒に反しないよう)高すぎず大きすぎないものである。
 誦される経は多くの場合、『三啓経』である。これは則ち尊者馬鳴Aśvaghoṣaが(偈を加えて)編纂されたものである。初めに十頌ほどあるが、これは経意を要約し、また三尊〈三宝〉を讃歎するものである。次に正経〈『無常経』本文〉で、これは仏陀が親しく説かれたもの。(正経の)読誦が終われば、更に十頌余りが陳べられ、迴向・発願が論じられている。(そのように)節段が三つに開かれていることから、(その前後に馬鳴の偈頌が付された『無常経』を)『三啓経』と称するのである。『三啓経』の読誦が終ったならば大衆は皆、「蘇婆師多〈支那〉subhāṣita」と言う。蘇suとは「妙」、婆師多bhāṣitaとは「語(の過去受動分詞)」の義であるが、その意は経典を讃じることが「微妙に語られたものだ」と思わせるためである。あるいは「娑度sādhu」とも言うが、その意味は「善き哉」である。
 経師が(師子座から)降りたならば、上座は先ず起って師子座を礼拝する。そして修敬し終ったならば、次に(往古の大徳らのために設えてある)聖僧の座を礼拝して元の座に還る。第二の上座は同じ様に二処を礼拝してから、次に上座を礼拝する。そして自らの座に戻る。第三の上座もまた同様で、衆saṃgha. 比丘衆の末席に至るまで同じくするのである。もしその衆が大人数であったならば、(上座から数えて)三人あるいは五人が(礼拝し)終ったならば、他の皆は一斉に衆に向かって起って礼拝し、随意に(座を)去るのである。このような法式は、東聖方東印度の耽摩立底國Tāmraliptiにおける僧徒の軌式である。

義浄『南海寄帰内法伝』巻二(T54. P227a
[日本語訳:沙門覺應]

あえてその前後も引用しましたが、義浄三蔵は支那における仏教僧らのなしている讃仏や礼拝が形式的で意味のないものであると批判した上で、本場である印度における本来のそれが如何なるものかを詳細に紹介しています。

ここでは東北印度の耽摩立底国、すなわちターンラプリティ国( ガンジス川河口部にあった港湾都市。現在のTamlūk)における僧院での礼拝・法式を示す中、『仏説無常経(三啓経)』が頻繁に唱えられていたことが伝えられています。ここでその僧院の所属部派には言及されていませんが、おそらくは根本説一切有部でありましょう。

肝心のなぜ『仏説無常経』を『三啓経』とも称するかの理由については、馬鳴尊者作の偈十頌ほどが経の前後に付され、いわば三部構成となっていることからであると、義浄は説明しています。

実際その構成は、これは本稿で示している『仏説無常経』を見てもすぐ知られることですが、まず初めに七偈(一偈:七言四句)と十偈(一偈:五言四句)があって、続いて本経があり、その後にまた十二偈(一偈:五言四句)と五偈(一偈:七言四句)が付されたものとなっています。その内容は、前の偈頌は三宝に帰依して経文の内容を要約したものであり、後の偈頌は、経の主題である無常を敷衍して説いてから回向・発願するもので、まさに義浄が上に示した一節で述べた通りのものとなっています。

厳密に言えば『仏説無常経』とは馬鳴尊者による偈頌を除いたごくごく短い部分のみではありますが、これを支那に招来して翻訳した義浄三蔵は、その総体を『仏説無常経 亦名三啓経』として訳出し今に伝えています。もはや言うまでもなく、それは当時すでにそのような形で伝持されていたためです。

もっとも、現在『大正新脩大蔵経』に収録されている『仏説無常経』には、これを本稿でも講じているのですが、さらに『臨終方訣[りんじゅうほうけつ]』なる書が付されています。これは僧俗の人の死に際し、いかにその最期を迎えさせるか、そしてその死後に周囲の人はいかにすべきかを、多分に浄土教的信仰を以て述べているものです。

しかし、『臨終方訣』については、上に挙げた『南海寄帰内法伝』のどこにも全く言及されておらず、またその内容からしても義浄三蔵が全く関知しないものです。そして、敦煌から出土した古写本にも、それは付されていないことが知られています。おそらくは宋代の支那において、意図的に印度風に撰述されて付加されたものと考えて間違いありません。これについてはまた後述します。

故に、本稿も同項で扱って解説してはいますが、『仏説無常経(三啓経)』と『臨終方訣』とは本来全く別のものであることを充分に留意する必要があります。

常用経典としての『仏説無常経』

ところで、『仏説無常経』を印度より支那へもたらし翻訳した義浄三蔵は、先に示した『南海寄帰内法伝』の一節もまさにそうですが、その処々にて唐代の支那における僧尼らが仏教ではなくむしろ儒教に基づいたあり方をしているのを批判しています。

他にまた、支那の南山律宗祖である道宣による律の解釈については猛烈な批判を加えています。

そもそも南山大師道宣は、印度における律の実際を知るために自ら渡天することを渇望していたものの、その望みをついに果たすことは出来ず仕舞いの人でした。そこで道宣は、支那国内にて『四分律』を主として漢訳の諸律蔵を読み込み、従来の支那における律学を継承もしくは斟酌し、また玄奘三蔵の渡天時の話や支那へ来訪した印度僧や胡僧から聞き取った話などによって、印度における僧院の有り様と比丘のあるべきようを、いわばあれこれ想像して、律蔵を解釈・講演しその教義を構築していました。

その著作の中には、どうしても律の理解出来ずにいた点について天人に質問してその答えを得たなどというものすらあります。『律相感通伝』です。中でも道宣の律研究の結晶というべきものが、『四分律行事鈔』等のいわゆる律三大部です。

道宣の諸著作は義浄三蔵の当時、支那の律宗には他に相部宗と東塔宗等がありましたが道宣の南山律宗が結局最も盛んとなり、いわば絶対的権威ある書として南山律宗の徒らに奉じられていました。なお、日本に初めて正規の律をもたらした鑑真大和尚は道宣の孫弟子にあたる人です。よって日本においても道宣は律宗の祖として篤く敬われています。

道宣の著作には非常に優れた点がもちろん多くあって、特に律を分析・整理した有益な概念・術語も甚だ多くあります。特にその南山律宗に基づいて『四分律』を依行してきた日本においては、今に至るまで律学の徒に必読・必携の書であることには違いありません。しかし一方、道宣が印度の実体を知らぬままにその慕情をつのらせしたが故にか、そして支那人らが一般に修辞を好むという性癖もあってか、他の支那の祖師らも押しなべてそうであったように、その教義は過度に思弁的・空理的で冗長となっている点も多く見受けられます。

義浄三蔵自身もまた、支那にあった頃に諸律蔵はもとより道宣の説にもよく触れており、律に通じた者として自負していたようです。義浄は、法顕や玄奘など渡天した先徳らへの敬慕と憧憬との思いが強く、やはり印度における比丘の実際を直接知ろうとして、ついに南海経由の海路にて渡天を果たします。そして印度各地やセイロン、そして東南アジアなど諸国をなんと二十五年間かけて遍歴。各地の僧院の様子や比丘の律儀行儀などをつぶさに見聞。

その結果、自身が支那にあった時に律の学者などと自負していたのを恥じ、何も知らないものであったと恥じています。そして支那で信奉されている道宣を含む律の学匠らの説について、『南海寄帰内法伝』にて真っ向から批判を加えたのでした。

帰国に際しては、それまで支那に請来されておらず、その存在もほとんど知られていなかった(あるいは無視されていた)根本説一切有部の律蔵、そして多数の顕教および密教の経典を持ち帰って翻訳を開始しています。それは武則天(則天武后)の治世、証聖元年695のことです。

『仏説無常経』はその中の一つであったわけです。

さて、義浄三蔵は、支那における仏教者が準じている喪制があまりに表面的・形式主義的な儒教の礼式に倣ったものであって、本来依るべき仏教の要素が皆無であることを批判。その上で、印度におけるそれはどのようなものであるかを紹介する中、『無常経』が比丘の葬送において用いられていることを伝えています。

又復死喪之際。僧尼漫設禮儀。或復與俗同 哀將爲孝子。或房設靈机用作供養。或披黲布而乖恒式。或留長髮而異則。或拄哭杖。或寢苦廬。斯等咸非教儀。不行無過。理應爲其亡者淨飾一房。或可隨時 權施蓋幔。讀經念佛具設香花。冀使亡魂託生善處。方成孝子始是報恩。豈可泣血三年將爲賽徳。不飡七日始符酬恩者乎。斯乃重結塵勞。更嬰枷鎖。從闇入闇。不悟縁起之三節。欲死趣死。詎證圓成之十地歟然依佛教。苾芻亡者。觀知決死。當日輿向燒處。尋即以火焚之。當燒之時親友咸萃。在一邊坐。或結草爲座。或聚土作臺。 或置甎石以充坐物。令一能者誦無常經。半紙一紙勿令疲久 其經別録附上 然後各念無常。還歸住處。

 また(支那において、僧尼の親・親族などが)死して喪する際には、僧尼は濫りに(経律に根拠を求めず、むしろ外道の行儀に従って)礼儀を設けて行っている。あるいは俗儒教と同様に哀しむことを以て孝子とし、あるいは自房に(死者を祀るための)霊机を設けることによって供養とし、あるいは黲布青黒色の喪服を着用して通常とは異なった(喪中である)様を示し、あるいは(頭を剃らず)長く髮を伸ばして(悲しみで身だしなみすら整えられないという)非常な様を見せ、あるいは哭杖喪中を示す杖で身体を支え、あるいは(日常の住居でない)苦廬粗末な小屋に寝泊まりするなど、それらは全て(儒教にしたがった儀礼であって、仏教者としての)教儀定められた行儀では無い。(よって、仏教徒がそのような儒教の礼式を)行わずともなんら過失とはならない。
 (対して、印度におけるそれを手本として、仏教者として本来なすべき)理とは、その亡者の為に一房を清掃して飾り、あるいは適宜に一時的に傘蓋や幔を設えて読経・念仏し、念入りに香花を供えて、亡魂が善処に転生するようにと願うのである。(それが)まさに「孝子」というものであって、そうして始めて報恩となり得るのだ。一体どうして(『礼記』のいう)「泣血三年」によって(亡き人の)徳に報いることとなり、また「不飡七日」して始めて恩に酬いることが出来るなどと云うのであろうか。それらはただ重ねて塵労煩悩を深め、更に(生死の苦海の)枷鎖に繋がらせるのみである。(それはあたかも)闇から闇へと入るようなものであり、縁起の三節三世両重の縁起を悟ることなく、死を欲して死に趣くのである。(そのようでは)どうして円成の十地大乗における菩薩の高い階位を証することなど出来ようか。
 そこで仏陀の教えに依ったならば、(その葬送に際しては先ず)苾芻[びっす]Bhikṣuの音写。比丘に同じの亡者があったならば、観察して確実に死んでいることを確認しなければならない。そしてその当日に(遺骸を)担いで焼き場に向かい、次いで火を以てそれを焚く。その遺骸を焼く時には(生前の)親友ら皆で集まり、(焼き場の)傍らにて坐す。(その坐す場所は)あるいは草を敷いて座となし、あるいは土を集めて(坐すための)台を作り、あるいは甎石を置いて坐席とするのである。そして一人の(読経の)堪能な者に『無常経』を読誦させるのであるが、それは半紙あるいは一紙ほど(の短いもの)であって、(読経が)長時間に渡って(参列者を)疲れさせるということが無い。その経については別途、録して(帝に)献上する。そうして後に(荼毘に参加した)各自は無常を念じつつ、それぞれの住房へと帰るのである。

義浄『南海寄帰内法伝』巻二(T54. P216b
[日本語訳:沙門覺應]

この『南海寄帰内法伝』での一節は、支那における喪の諸相が馬鹿げたものであることを示した後、印度において比丘が死して荼毘に付された際には、その荼毘の様子を見守った同法侶の一人によって『無常経』が読誦され、他の比丘らはそれを静聴して無常を念ずる様子を伝えるものです。

ここでまた義浄は、「半紙一紙」といって『無常経』が非常に短いものであることを表現しています。

事実『仏説無常経』自体は極めて短いもので、漢字の文字数で言えばわずか296文字(経題を除く)に過ぎません。日本で最も頻繁に読誦・写経などされている『般若心経』の274文字(経題を除く)より若干多い程度、ほとんど同じ分量である、と言えばわかりやすいでしょうか。

馬鳴によって前後に付された偈頌を併せても、漢字であれば1043文字程度で、千文字などと聞くと驚くほど長いように感じられるかもしれませんが、やはり短いものです。

故に比丘の葬送といっても、それは実に簡素で短時間にて済むものでした。むしろ荼毘の時間こそ非常に長くかかったに違いありません。亡くなった比丘の躯が薪の炎で焼かれるその様子を、ガスやマイクロ波により金属の箱の中で短時間であっさりと焼かれるような現代とは異なって、すぐ側で見続けることもまた、確かに人の身の無常なることを確認するものであったことでしょう。

そもそも、この記述にある比丘らの葬送における行動は、何に基づいて行われていたのか。

それは根本説一切有部の律蔵典籍の一つ、『根本説一切有部毘奈耶雑事』です。そこには、比丘が死亡した際にはその遺骸を火葬、あるいは水葬・土葬・風葬に付すべきこと、そしてその時に『無常三啓経』を読誦すべきことが定められています。

当時の比丘らがまさに律に基づいてその通りに行っていたことが、義浄三蔵の記録によって裏付けられます。

縁在室羅伐城逝多林。時此城中有一長者。 娶妻未久便誕一息。年漸長大。於佛法中而爲出家。遇病身死。時諸苾芻即以死屍并其衣鉢棄於路側。有俗人見作如是語。沙門釋子身亡棄去。有云。我試觀之。見已便識報諸人曰。是長者子各共生嫌。於釋子中爲出家者無有依怙。向若在俗諸親必與如法焚燒。苾芻白佛。佛言。苾芻身死應爲供養苾芻不知云何供養。佛言。應可焚燒。具壽鄔波離請世尊曰。如佛所説於此身中有八萬戸蟲如何得燒。佛言。此諸蟲類人生隨生若死隨死此無有過。身有瘡者觀察無蟲方可燒殯。欲燒殯時無柴可得。佛言。可棄河中。若無河者穿地埋之。夏中地濕多有蟲蟻。佛言。於叢薄深處令其北首右脇而臥以草稕支頭。若草若葉覆其身上。送喪苾芻可令能者誦三啓無常經。并説伽他爲其呪願。

 (仏陀が)室羅伐城Śrāvastī. 舎衛城の逝多林Jetavana. 祇園精舎におられた時のことである。その時、この都城に一人の長者があった。妻を娶ってから間もなくして一人の息子が生まれた。(その息子は)年を経て成長した後、仏法において出家したが病に罹って死んでしまった。そこで苾芻〈比丘〉達は、その遺骸と衣鉢とを路傍に遺棄した。するとそれを見た俗人はこのように言った、
「沙門釈子が人の亡骸を遺棄した!」
と。そこである者は、
「どれ私がそれを見てみよう。」
と言い、実際にそれを確かめて(その遺体が誰であるかが)判ると、それを人々に知らせ、
「これは長者の子である!」
と言ったのだった。人々は皆、(釈子らが人の遺骸を遺棄したことを)嫌悪し、
「釈子の中に出家した者には頼りとなる者など無くなるのだ。もし(死んだ長者の子が出家せず)俗に留まっていたならば、(死んだとしても)その親は必ず彼を如法に焚燒火葬したであろうのに。」
と批難した。そこでこの事を苾芻らは仏陀に報告した。すると仏陀は、
「苾芻がもし死亡したならば、彼の為に供養しなければならない。」
と定められた。しかし、苾芻らは具体的にどのように供養すべきかわからなかった。そこで仏陀は、
「適切に焚燒せよ。」
と言われた。すると具壽鄔波離[うぱり]Upāliは世尊に尋ねて、
「仏陀が(以前)説かれたところによれば、『この身体には八万戸の蟲がある』とのことでしたが、どうしてそれを燒くことなど出来るのでしょうか。」
と申し上げた。そこで仏陀は、
「この諸々の蟲類とは人が生まれるに隨って生じ、人が死ぬ時に隨って死ぬものであるから、焚焼しても過失とならない。ただし、遺骸に瘡はれもの・傷がある際は、それをよく観察して蟲〈蛆虫〉の無いことを確かめて(死肉に湧いた虫を焼き殺さぬようにして)から火葬せよ。」
と答えられた。(ところがある時、)火葬しようとした際に薪を得ることが出来なかった。そこで仏陀は、
「(火葬する薪を得られない時は)河に投じて水葬せよ。もし(水葬しえる)河が無い時は地に穴を掘って土葬せよ。」
と言われた。(しかし、)夏季は大地が湿って多くの蟲・蟻がある。(そのため虫多き土を掘れば虫を殺めることとなり、土葬することが出来なかった。)仏陀はそこで、
「草むらの深い処で、その遺骸の頭を北にして右脇腹を下にして臥せさせ、草枕でもってその頭を支え、もしくは草、もしくは葉でその遺骸の上を覆え。そして(その亡苾芻を)葬送する苾芻は、(読経や諷誦に)堪能なる者に『三啓無常経』を読誦させ、併せて伽他gāthā.偈頌を唱えさせて亡苾芻の為に呪願させよ。」
と定められた。

義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻十八(T24. P286c-287a
[日本語訳:沙門覺應]

ここで釈尊から荼毘にせよといわれたのを聞いた、後代「持律第一」と称される尊者鄔波離が、「以前『この身体には八万戸の蟲がある』と言われたのに、どうしてそれを焼く(殺す)ことなど出来るでしょうか」などと聞くあたり、現代の感覚からすると面白いやり取りと思えるものかもしれません。ここでいわれる蟲とは、もちろん今の生物学でいうところの組織、細胞の集合体のことですが、当時は自身の身体に「自分とは異なる生命がある」「自身とは雑多な生命の集合体である」という感覚や見方があったことが知られるでしょう。

そのような「人の身体には八萬戸の蟲がある」という表現は、譬えば法顯訳『大般涅槃経』などにも見られることで、それを尊者鄔波離は念頭にこう質問したのでしょう。

ところで、そもそもこれは「律」であり、すなわち仏陀の時代に定められた筈のことであります。そして事実、ここにもそのように言われています。にも関わらず、二世紀の馬鳴尊者が偈頌を付加して編纂した『三啓経』がここに当たり前のように言及されているのは甚だ不審です。こんな馬鹿な話はない。

あるいはここに言う「三啓」とは、実際そのような意味もあるのですが「三度申す」の意であって、「(その亡苾芻を)葬送する苾芻は、(読経や諷誦に)堪能なる者に『無常経』を読誦させること三啓し」と読むべきものであり、『無常経』を三度読誦させるという意味であるというならば、そのような不審も解消されるかもしれない。あるいは、訳者である義浄三蔵が、『南海寄帰内法伝』にてそう報告しているように、『無常経』の異称とされているのを訳語に持ち込んでそう記しただけと考えることも可能ではあるしょう。

しかしながら、戦前戦後の仏教学者西本龍山氏によれば、西蔵語による根本有部律の該当箇所を見ると紛れもなく「三啓経」に該当する語があり、それによって義浄が斟酌して「三啓」などとしたのでなく、梵本にもそのように書かれていたであろうことが予測されるといいます。

そして、義浄訳出の根本説一切有部律には、「無常経」ではなくてむしろ「三啓経」との語こそが、それこそ一、二箇所どころではなくそこかしこに読誦すべきものとして頻出します。やはり、これはどう考えてもおかしなことでありましょう。訳者である義浄三蔵がそのような矛盾に気づかないはずはない。

冒頭、『仏説無常経』とは「必ずしも根本説一切有部独自のものであったと短絡的に見なすことは出来ない」と述べましたが、それは以上のようなこともあるためです。これは根本説一切有部の成立がいつであったかやその経緯にも関わる事項です。

この点について、義浄はいかように考えていたかを知りたいところですが今となっては知り得よう筈もありません。またこの問題については全く別途の疑義を次々生じることとなるため、今は一応これ以上深追いしないこととします。

なお、今示したうちの「送喪苾芻可令能者誦無常経」の一節は、道誠の『釈氏要覧』巻下に仏教者の葬送儀礼を示す中で引かれていますが、そこには「三啓」の語が欠落してありません。

さて、『無常経』はただ単調に読誦されたのではなく「詠唱」されていたことが、また有部律の典籍によって知ることが出来ます。

佛告諸苾芻。從今已往我聽汝等。作吟詠聲而誦經法。佛聽許已諸苾芻衆。作吟詠聲而誦經法。及以讀經。請教白事亦皆如是。給孤長者因入寺中。見合寺僧音聲喧雜。白言聖者。今此伽藍先爲法宇。今日變作乾闥婆城。時諸苾芻以縁白佛。佛言苾芻不應作吟詠聲誦諸經法。及以讀經請教白事。皆不應作。然有二事作吟詠聲。一謂讃大師徳。二謂誦三啓經。餘皆不合。

仏陀は苾芻〈比丘〉たちに、
「今より以降、私は汝らに吟詠声によって経法を誦すことを許す。」
と告げられた。仏陀が(そのように)聴許されると、苾芻衆〈比丘僧伽〉は吟詠聲声によって経法を誦し、さらに読経や請教、白事僧伽運営のための提議もまた同様にするようになった。そこへ給孤長者がたまたま寺の中に入ってきたところ、寺僧ら皆が音声喧しくして(なんでも吟詠して)いる様を見たのだった。そこで、
「聖者よ、この伽藍はつい先日までは法宇〈仏法の殿堂〉であったのに、まさか今日来てみると乾闥婆城gandharva. 音楽神の居城に変わっていようとは。」
と(苾芻に)申し上げた。そこで苾芻たちはこれを仏陀に報告した。すると仏陀は、
「苾芻は吟詠声によって諸々の経法を誦してはならない。さらに読経や請教、白事も全てそのようにしてはならない。ただし、二つの場合は吟詠声をもってなせ。一つは大師の徳を称賛する時、二つには『三啓経』を誦す時である。その他は全て不可である。」
と定められた。

義浄訳『根本説一切有部毘奈耶雑事』巻四(T24. P223b
[日本語訳:沙門覺應]

これはそもそも、給孤独長者Anāthapiṇḍada. 祇園精舎の施主〉すなわち須達〈Sudatta〉が、外道らは(邪法であるとはいえ)その教法を朗々と美しい節をつけて吟じているのに対し、自らが信奉する仏教の比丘らは単調にそれを口にするだけで、それは「猶如瀉棗置之異器(あたかも棗[なつめ]を器にカラカラ、バラバラと寫す音のようである)」と不満に感じたことがきっかけであったといいます。

そこで給孤独長者は、仏陀にその教法を外道のように調子をつけて唱えることを許されるよう上申した結果、一悶着をへて、上のように限定的にそれを許されたのだ、と有部律は伝えています。

日本でいうところの声明[しょうみょう]の嚆矢が、まさにここに記されているわけです。

(ただし、声明śabdavidyāとは本来、古代印度における学問の分類「五明pañcavidyā」の一つであって、文法学・音韻学・文学のいわゆる梵語学を意味します。そして印度においては、これは現代にいたるまで同様ですが、サンスクリットの発音を正しく、そして美しく発し得ることは徳の一つであり、その詩偈を朗々と詠唱出来ることは大いに称賛されます。)

最初に示した『南海寄帰内法伝』には、耽摩立底(ターンラプリティ)国の一僧院において、夕方の仏塔や制底での礼拝や読経の際には讃仏のための偈頌や『無常三啓経』が朗々と吟じられる様子が伝えられていました。それはまさしく今挙げた有部律に基づいたものであったことが知られるでしょう。

正法 ―神々を教化する『仏説無常経』

『無常経』が読誦されたのは、何も今まで上に示したような日常の晩課(夕勤)や比丘の葬送時に限られたことではありません。

佛在曠野林。如世尊教苾芻不應斬伐諸樹。時諸授事苾芻縁斯事故。於諸營造咸皆廢闕。于時世尊知而故問具壽阿難陀曰。何故授事苾芻所有營作悉皆停息。時阿難陀白佛言。世尊。佛在室羅伐城。告諸苾芻不應斬伐諸樹。由此縁故無木可求。遂廢營作。佛告阿難陀。營作苾芻所有行法。我今説之。凡授事人爲營作故將伐樹時。於七八日前在彼樹下作曼荼羅。布列香花設諸祭食誦三啓經。耆宿苾芻應作特欹拏呪願。説十善道讃歎善業。復應告語。若於此樹舊住天神。應向餘處別求居止。此樹今爲佛法僧寶有所營作。過七八日已應斬伐之。若伐樹時有異相現者。應爲讃歎施捨功徳説慳貪過。若仍現異相者即不應伐。若無別相者應可伐之。若營作苾芻如我所制不依行者。得越法罪。

 仏陀が曠野林におられた時のことである。世尊の教えによれば、苾芻〈比丘〉は(生きた)樹木を伐採してはならない。そこで授事苾芻〈維那。精舎の管理運営を司る比丘〉はそのような規定によって、様々な(精舎伽藍の)修理・造営において(新たに木を伐採して用いることが出来ず、様々な施設が)ことごとく荒廃していった。これを知った世尊は、敢えて具壽阿難陀Ānandaに、
「どうして授事苾芻のなすべき精舎の管理・運営が悉く停滞しているのであろうか。」
と尋ねられた。そこで阿難陀が仏陀に、
「世尊よ、仏陀が室羅伐城におられた時、苾芻たちに『樹木を伐採してはならない』と言われましたが、それが為に材木を入手出来ず、ついに(精舎の)修理・造営が滞りました。」
と申し上げた。すると仏陀は阿難陀に、
「営作苾芻精舎の造営・修理を担当する比丘のすべきことについて、私は今これを説こう。およそ授事人担当する比丘。または淨人に樹を伐採させる指示者が造営の為に樹木を伐採しようとする時は、その七、八日前にその樹の下に曼荼羅を作り、香花を敷き詰め、様々な祭食を設け、『三啓経』を読誦し、耆宿苾芻〈長老比丘〉は特欹拏呪願dakṣiṇā-gāthā. 施偈を唱え、十善道を説いて善業を讃歎し、さらに『もしこの樹を住処とする天神があったならば、他所に去って別の住処を求めよ。この樹は今、仏法僧宝の為の造営に用いることとなり、七、八日後にこれを伐採する』と告げよ。もし樹を伐ろうとした時に怪異が現じたならば、(天神に対して)施捨することの功徳を讃歎し、慳貪の過失を説け。もしそれでもなお怪異が現じるようであれば(その樹はもはや)伐ろうとしてはならない。もし特に何も起こらないようであれば、その樹を伐採せよ。もし営作苾芻でありながら、私が制した通りに依行しなかったならば、越法罪単堕に抵触する罪となる。」
と告げられた。《後略》

義浄訳『根本説一切有部毘奈耶』巻二十七T24. P223b
[日本語訳:沙門覺應]

以上は波逸底迦Prāyascittika. 『四分律』でいう波逸提〉のうち「壊生種学処」が説かれる一節ですが、これにはまだ続きがあります。この後、六群比丘らが立ち木や生草を伐採し、あるいは果樹をもぎ取っているのを見た在家者らから批判され、それらの行為はすべて禁じられています。

実は仏教の出家者、比丘は生草を刈り取ることや立ち木を伐採すること、立ち木になる果実や種子を収穫するなどの行為は禁じられており、出来ません。

(現実問題、比丘のみで僧団を運営し、様々なそれら規定を「厳密に」遵守したならば、日々の営為がすこぶる不自由でほぼ立ち行かなくなることでしょう。そこでほとんどの精舎には、浄人といわれる在家信者が詰めていました。彼らは、比丘が律を遵守しつつ円滑に僧団運営出来るよう、比丘らの為し得ない行為をその代わりに行うのです。日本ではこれを近住[ごんじゅう]、あるいは寺男などとも言います。)

そして、これはなにも根本有部律に限って定められたことではなく、すべての律蔵にても同様です。その故は、生草は小さき虫など生命の住まいであり、樹木は(低級な)神々の住まいとされるものであってこれを伐採することは、その住処を奪うこととなるためです。

なおここで少々補足しておかなければならないことがあります。

仏教は草木をいわゆる生命とは見ているものの、これをいわゆる「有情」・「衆生」、「群生」の枠に入れることはありません。植物は意識の無いものであって、故に生死輪廻するものでは無いためです。よって、草木を伐採することを「殺生である」などと考えることは、全くありません。

また、支那にて時代を経るごとに道教などの影響をますます強め、戒も律も次第に無視するようになり独自の規律で動くようになった後代の禅宗では、営農によって自給自足生活を尊び良しとする風が生じています。また、それは寺院が寄進だけで運営できなくなったという、支那の寺院のあり方・経済事情に起因することでもあります。

そして日本においても、特に禅門の僧俗にはそれを「そういうもので、そうあるべきだ」などと受け取っている者もいまだ多くあります。が、農耕など僧である以上は決してしてはならない営為の一つです。どうしても農業あるいは園芸がしたいというのであれば、在家に戻って為せば良いだけのことです。

さて、いま示した根本有部律の一節には、律の規定に反して樹木を損ない、神々から住処を奪うことを回避するための(一時的な)例外法が示されています。

伐採予定の木々を住まいとしている(可能性がある)神々に事前にこれを知らせ、曼荼羅を作壇して慰撫し、説き伏せて別の樹を探すように促す際、『三啓経』およびを施頌を詠唱し、さらに十善業道を説いて教化しすべきことが説かれているのです。中でも、神に対して布施の功徳と慳貪の過失を説くあたり、実に仏教的です。

しかしなぜ『三啓経』であるのか。

營造伐樹時 應從樹神乞 
以諸花果食 設祭可隨時 
應爲誦正法 謂三啓等經 

(精舎)造営のため樹木を伐採する時は樹神に(去ることを)乞い、
諸々の花や果実・食を以て祭祀を行い、然るべき時に 
(その樹神の)為に正法を読誦せよ。いわゆる『三啓経』等である。

義浄訳 毘舍佉造『根本説一切有部毘奈耶頌』巻中(T24. P633b
[日本語訳:沙門覺應]

根本有部律の内容を偈頌として要約した『根本説一切有部毘奈耶頌』によれば、それはいわば「正法であるから」ということになるでしょう。その理由としては充分すぎるほどでしょうが、そもそも「経典はすべて正法」とされるものです。結局その要は、それを最も端的に程よい長さで表したものであったためなのかもしれません。

誰しもが憶えやすい比較的短いもので、またその意義を解しやすく、しかも詠唱が許されている。自他を教化するのにこれ以上好条件を備えたものなど、そうそうありません。

もしあったならば、それは必ず常用されるでしょう。いわば現在の日本における『般若心経』や南アジア・東南アジアにおける諸々のパリッタなど、『般若心経』についてはおよそ「その意義を解しやすい」とは到底言えないものではありますが、それに近いものです。

(上座部が信仰される国々で常用される経典類については、別項“上座部 常用経典集 ―パリッタ”を参照のこと。)

これ以上、さらに『無常経』がどのように用いられてきたかの典拠を示すことは不要で、すでに冗長であるのにより一層となるかもしれません。が、最後にもう一節短いものを示しておきます。

凡渉路時應爲法語。勿出惡言。或爲聖默然勿令心散亂。若至天神祠廟之處。誦佛伽他彈指而進。苾芻不應供養天神。若於路次暫止息時。或至泉池取水之處。皆誦伽他。其止宿處應誦三啓。

およそ道を行く時は法の為に語らなければならない。悪しき言葉を語ってはならない。あるいは聖なる沈黙を保って、心を散乱させることが無いように。もし天神を祀る祠廟の処に至ったならば、仏陀の伽他を誦しつつ弾指して進め。苾芻〈比丘〉は天神を供養してはならない。もし路傍にて暫し休息するならば、あるいは泉池など水を得られる処にてし、そこでは皆伽他を誦さなければならない。そして止宿する場所では『三啓経』を読誦しなければならない。

義浄訳 勝友造『根本薩婆多部律攝』巻十(T24. P583a
[日本語訳:沙門覺應]

これもまた波逸底迦Prāyascittikaいわゆる波逸堤の諸条項が説かれる中の「與苾芻尼同道行学処」が説かれる一節で、やむを得ず比丘が比丘尼と共に遠出しなくてはならない場合についての規定です。ここでは遠出し、その出先にて(当然比丘と比丘尼とは別々に)宿泊することとなった際は、その場所にて『三啓経』を読誦すべきことがいわれています。

ここで「比丘は天神を供養してはならない」すなわち「天神を崇敬し、もてなしてはならない」と言われる一節があることに気づき、不審に思った人もあるかもしれません。これは、神は人より勝れて強い力ある存在で一種の脅威ではあるが、しかし尊敬や帰依・信仰の対象にはなりえないという、仏教の基本的立場を表したものです。

今も南アジアや東南アジア、そしてチベットなどでも神々に対して誦経などしますが、それはあくまで神々を教化するためであり、またそれによって仏教の守護を依頼するためです。決して神々を「信仰」してのことではありません。

ここで『無常経』を誦せとされているのは、旅先の土地の神々を教化するのと、(比丘尼と同行していることで)比丘が心を散乱させぬようにする目的であるとみて良いでしょう。

以上、示してきた有部律にある様々な記述に依って、根本説一切有部においては『三啓経』が普段から常々用いられていた重要な経典であったことが充分に知りえたと思います。

『臨終方訣』とは

前述したように、この義浄三蔵訳の『仏説無常経』すなわち『三啓経』を収録している大正新脩大蔵経には、さらに『臨終方訣[りんじゅうほうけつ]』なる書が付されています。

これは僧俗の人の死に際し、いかにその最期を「安心させて」迎えさせるか、そしてその死後に周囲の人はいかにすべきかを浄土教の信仰者の立場から詳述したもので、現代風に言えば「臨終の手引」です。チベット仏教古派(ニンマ派)で用いられる、いわば「死後の手引」である『死者の書』に類するものではありません。

『臨終方訣』について文献学的解説は敢えてここでしませんが、前述のように、宋代の支那において撰述され『三啓経』に付加されたものと考えて間違いないものです。そして宋代の支那では、日本の恵心僧都源信によって著された『往生要集』が早い時期にもたらされ愛読されたという影響もあって、浄土教が流行していました。

支那の浄土教の祖とされる曇鸞は北魏の、そして善導は唐初の人であり、その影響を鎌倉期の法然や親鸞などは受けています。しかし、唐末から宋代にかけて流行した浄土教は、日本の『往生要集』がそのきっかけともなっています。

なお、恵心僧都源信は『往生要集』を著すに際し、南山律宗祖である道宣の著作『四分律行事鈔』や『関中創立戒壇図経』、そして『中天竺舍衞國祇洹寺図経』に記された印度の僧院における「比丘の死の迎え方」を大いに参照しており、それらを極楽往生を願う浄土教における臨終行儀として事寄せています。

『往生要集』は著された当初からその影響は実に甚大で、特に皇家公家など貴族間の信仰や文学には相当なる影響を与えています。実は、『平家物語』の「祇園精舎の鐘の声」は、そのような流れにおいて着想が得られ生みだされた一節です。

このあたりの経緯は、文学的・歴史学的にも非常に面白いところであるでしょう。そしてその初期において浄土教と律宗とは極めて密接、とは言えぬまでも、ある部分ではかなり近しい関係にありました。

特に信仰面においては、宋代の支那において南山律宗を中興した大智律師元照がその晩年に浄土教をも信仰しており、また平安後期に戒律復興を志してその先鞭をつけた実範も浄土教に晩年傾倒していたこともあって、日本では中世から近世に至るまで、多くの律僧らがその先例に倣って浄土教をも信仰していました。

いや、浄土教が律宗だけに影響を与えたなどということはなく、宋代以降の支那では密教も律宗も急速に衰退して影を潜め、代わりに浄土教が盛行して禅宗にも大きく影響し、ついにはその両者が融合して淨土禅とでも表したらよいものとなっています。

明代末にあたる江戸中期に日本に伝わった臨済宗黄檗派(黄檗宗)などまさしくそのようなもので、現在台湾に文化大革命の嵐をくぐり抜けて辛うじて残った仏教も同様です。

さて、肝心の『臨終方訣』の内容は「臨終の手引」であるとすでに述べましたが、もはや死がすぐそこに迫った者に対し、「仏教の肝要は戒定慧の三学にある」であるとか「六波羅蜜を修めよ」「善業を積め」などと言っても時すでに遅し。それは全く無駄なことです。

それまで仏教を熱心に信奉して持戒・修禅に励み、福徳・智慧を積み磨いてきた人であれば、それは意味ある、有意義なものとなるでしょう。しかし、そんな人は実に稀であって、むしろ自身の死に臨んで慌てふためき、あるいは畏れ、怒る者こそ多くある。

では、そこで肝要なことは何か。

語弊のある物言いとなりますが、時そこに至ればもはや、その人の信仰の対象・真偽・正邪などどうでもよく、死に逝く者をとにかく最大限「安心」させることです。その人の恐れや不安、いかりを取り除いて死を迎えさせることです。それがたとえあり得ないことであっても、それまでその者が生きてきた善悪いずれの業を帳消しになど決して出来ないことであっても、ある場合には「出来る」などと言い、とにかく最後の一念だけでも怒り無く、貪り無く、平安に迎えさせることです。

その方法を、浄土教の信仰者の立場から、実は支那人が書いたものであるのにあたかも印度の仏教徒が書いて義浄が訳したものであるかのような体裁で書かれたのが、『臨終方訣』です。

とは言え、『臨終方訣』が想定しているような、その本人がある程度はっきりした意識をもってその最期を迎えられることなど、いまや極めて稀な、殆どないこととなっているかもしれない。

画像:QOL

おそらく現代最も多いのは、病床にあって様々な薬剤や機材の助けのもと延々と、ある場合には無益に「生かされ」てしまい、その結果身体はまったく不自由でその意識は朦朧とした中、何もわからず漫然と死を迎える者でありましょう。

昔と比せば格段に身体的痛みは無く、それは間違いなく必要なことでしょうけれども、しかし人としての尊厳も無く、ただ病床の上にゴロンと寝かされ死をぼんやりと迎えさせられる。いや、「生かされている」ことによって、もはや他人に本人の意志を伝えることすら出来なくなり、むしろ身心は延々と苦しめら続けているかに思える場合もある。

巷間、「我々は生かされている、感謝!」などとそれを良い意味で口にする者が多いようです。が、しかし無益に「生かされている」ことは果たして感謝など出来ることなのか。

これは医学が昔にくらべて飛躍的に進んだ結果の、その功罪です。

『臨終方訣』はまた、ついにその人が死を迎えた後にどのようにその遺体や遺品を処理すべきか、その葬送において如何にすべきかなどをも示しています。そしてその葬送において、(亡者に対してでは決してなく)三宝に対して香華を以て供養し、また比丘に請うて『無常経』を読誦させしむべきこと。またさらに、それを聞く参列の聴衆はそれぞれ無常を念じるべきこと等が説かれます。

これらの記述は、この『臨終方訣』を撰じた者が間違いなく『南海寄帰内法伝』および諸々の根本説一切有部律の典籍を読んでいたことの証であります。

因みにこの『臨終方訣』は、仏教の看板を上げつつ葬儀や祖霊信仰を商材としてその祭式に専従することを生業とする、日本の僧職者らにより、その自身らの営業行為を正当化する根拠として注目され、牽強附会して取り上げられることがあります。

しかし、繰り返しますがこの『臨終方訣』の核心は、「死にゆく者」を如何に安心させるかであって、死後の葬送云云もその一部ではあるのですが、葬式自体はいわばおまけのようなものでその本質などでは全くありません。故に現代における葬式の根拠とするのは附会にすぎません。

強いて言うならば、浄土教が流行した南宋代の支那の仏教者によって著された、『臨終方訣』とは特に浄土教徒に対して「いかに臨終を迎えさせるか」を説く臨終行儀です。

無常について

先に述べたように、『仏説無常経』本文自体は極めて短いものでわずか漢字296文字に過ぎず、『般若心経』の274文字とほぼ同程度の小経です。

その内容は老病死の厭うべき不如意なるものであること、生命として不可避の根本的苦であることを強調するものです。そしてまた、そもそも仏陀が出家してついに仏陀となり、その所証の真理を法〈教え〉と律〈戒律〉として説かれたのも、生ある者が逃れることの決して出来ない老病死という苦が存ずるからこそであるとも説かれています。

『無常経』とはまさにその経題通り、無常をその主題とするものです。

無常と言えば、たとえば仏陀の教えの特徴として挙げられる「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」の三法印、あるいは「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静 一切皆苦」の四法印として挙げられる「諸行無常」を想起するかもしれません。

しかし、この『無常経』では「諸行」などとは言わず、より生命として直截的に感じ経験せられる、老・病・死とそれにまつわる苦を通して、一切世間の無常なることを示すものです。

まず苦と単純にいっても、仏教では苦に四苦八苦あるいは三苦があると分析します。

四苦八苦(苦聖諦)
No. Pāli 漢語 意味
1 jātipi
dukkhā
生苦 誕生に伴う苦しみ
2 jarāpi
dukkhā
老苦 老いに伴う苦しみ
3 byādhipi
dukkho
病苦 病に伴う苦しみ
4 maraṇampi
dukkhaṃ
死苦 死に伴う苦しみ
5 appiyehi sampayogo
dukkho
怨憎会苦 不快なものと関わることによる苦しみ
6 piyehi vippayogo
dukkho
愛別離苦 好ましいものと別れ離れることによる苦しみ
7 yampicchaṃ na labhati
tampi dukkhaṃ
求不得苦 求めるものを得られないことによる苦しみ
8 saṃkhittena
pañcupādānakkhandhā
dukkhā
五蘊盛苦 (色・受・想・行・識という)五つの集まりへの執着、五取蘊による苦しみ

世間にて、それが仏教に由来するものであると知らずに「四苦八苦」という言葉が比較的用いられていても、その原義は意外と知られていないようです。その意味は、今上に示したような実に具体的な人生における様々なる、それは誰でも必ず不可避に味わなければならない、苦しみどもです。

しかし、また苦しみを四苦八苦とは視点を変えて分類した場合には、苦苦[くく]・壊苦[えく]・行苦[ぎょうく]という三苦が言われます。仏教とは、平易にそして端的に云うならば、苦しみからの解脱を目標とする宗教です。故にその脱すべき苦しみについて、様々に考察してきました。

三苦
No. Pāli 漢語 意味
Sanskrit
1 dukkha-dukkha 苦苦 痛み等の肉体的苦しみ
duḥkha-duḥkha
2 vipariṇāma-dukkha 壊苦 自分が好ましい・愛おしいと思うモノが、痛み・病み・壊れ・死にゆく等、好ましくない状態に変化するときに感じる精神的苦しみ
vipariṇāma-duḥkha
3 saṅkāra-dukkha 行苦 存在すること自体の苦しみ、根源的苦
saṃskāra-duḥkha

このうち苦苦・壊苦を理解することは容易いでしょう。人は、それが苦しみであることを日常の経験のうちに知りうる。いや、ある程度年を重ねた者なら誰でも、もうすでに十分すぎるほど知っていることでしょう。そして苦苦とは、生きてその身体がある限り、これは仏陀であろうと例外なく、決して逃れることの出来ないことであることもたやすく理解できることでありましょう。

しかし、行苦は異なります。これはそう簡単に理解しうるものではありません。これを完全に理解するということは、すなわち悟りに至ることとほとんど同じです。

この行苦ということについて、説一切有部から出て経量部という部派を設立したと云われる尊者鳩魔羅多[くまらた]〈Kumāralātaという紀元一、二世紀頃の大学僧によると伝承される偈文の漢訳において、譬喩をもってよく表現したものがあるので以下に示します。

如以一睫毛 置掌人不覺 若置眼睛上 為損及不安
愚夫如手掌 不覺行苦睫 智者如眼睛 緣極生厭怖

一本のまつ毛を手のひらに置いても人はそれを覚知することがない。しかし、もし眼球の上にそれを置いたならば、(眼を)傷をつけ、あるいは不快感を覚えるようなものである。愚か者は手のひらのようなもので、行苦というまつ毛を覚知しない。智者は眼球のようなものであり、これ(行苦)に大変な畏れを抱く。

世親菩薩『阿毘達磨倶舎論』賢聖品(T29. P114b
[現代語訳:沙門覺應]

さて、行苦とはそのような普通の人は何とも思わない、それが苦であるなどと全く思いもしないものです。

そもそもこの場合にいわれる行とは、サンスクリットsaṃskāraあるいはパーリ語saṅkāraの漢訳ですが、実はこの行なる自体、理解するのが中々難しい概念です。行という漢訳語一文字では一見して何を意味するのか理解できないため、現代日本の仏教学者など大体はこれを「潜在的形成力」などと訳して言う場合が多くあります。しかし、率直に言ってそれもわかるようで全然何のことだかわからないものです。

そして結局、ただ先例に従ってそういうだけの庸流の学者も、またそれに倣うだけの僧職者も大概の場合、「やあ、行とは現代的訳語で潜在的形成力のことであって、実にめでたい」といった調子で、結局なんだかわからないまま済ましてしまっています。けれども、この行というものは仏教を行じていく上でその理解が不可欠の、非常に重要な概念です。

「行とは何か」の理解、その定義は伝統説に従ったならば明瞭で、以下のようなものとされます。

問五蘊有爲皆應名行。何縁於一獨立行名。答如十八界雖皆是法。而但於一立法界名。廣説乃至三寶三歸雖皆是法而但立一法寶法歸。如是五蘊雖皆是行。而但於一立行蘊名亦無有過。復次行蘊有一名。餘蘊有二名。一名者。謂共名。謂五種蘊皆是行故。二名者謂共不共名。共名如前。不共名者。謂餘四蘊欲令易了顯不共名。行蘊更無不共名故。但顯共名故名行蘊。《中略》 行謂造作。有爲法中能造作者思最爲勝。思但攝在此行蘊中。故此行蘊獨名爲行

問:(色・受・想・行・識の)五蘊とは有爲saṃskṛta. 造られたモノ。因縁所生法なのであるから、(五蘊の)すべては行saṃskāraの名が付されるべきであろうのに、どのような理由で一つに限って行蘊と言われるのであろうか。
答:(六根・六境・六識の)十八界すべては法dharma. 存在するモノゴトであるのに、しかしただ一つをもって法界と名付けるようなものである。あるいは(仏・法・僧の)三宝や(仏帰依・法帰依・僧帰依の)三帰依もすべて法dharma. 真理であるのに、しかしただ一つをもって法宝・法帰依とするようなものである。そのように、五蘊はすべて行ではあるけれども、しかしただ一つをもって行蘊と名づけることに、何の過失も無い。また次に、行蘊はただ一つ名のみであるが、他の蘊には二つ名がある。一つ名とはいわゆる共名[ぐうみょう]である。すなわち五種の蘊はすべて(本来的には)「行」であるからである。二つ名はいわゆる不共名[ふぐうみょう]である。共名については前述の通り。不共名とは、すなわち他の四蘊がいかなるものか解しやすくしようと(それぞれ)不共名を以て表したものである。しかし、行蘊は(つけるべき)不共名が無いために、ただ共名を以て「行蘊」と称するのだ。《中略》
行とは造作のことである。有為法の中において、よく造作するのは思cetanā. 意思が最たるものである。そして思はこの行蘊の範疇に包摂されることから、この行蘊にのみ行の名が冠されるのである。

五百大阿羅漢造『阿毘達磨大毘婆沙論』巻七十四(T27. P384c-385a
[現代語訳:沙門覺應]

これは五蘊のうち行蘊について論じられている一節です。

そもそもこの世の存在全ては因(原因)と縁(条件)によって「造られたモノ」すなわち有為[うい]であり、よって(本来的にはこの世の一切は)「行」に包摂されるべきものである。けれども、行蘊以外の諸法は他の名をもって表することが出来るからその他の名を用いてその範疇に納める。ただ特に行蘊に包摂されるのは、「行」以外に表しようのないものであるから特に行蘊というなどと説明されています。

そしてそこで、そもそも「行とは造作のことである」と定義されます。

造作とはすなわち「(物事を)作り出す働き」のこと、つまり「行為がなんらかの結果を生じさせる力」のことです。

いきなり「行とはsaṃskāraの漢訳で、現代で言えば潜在的形成力です」などと言われてもまったくわかりはしません。むしろここで「行とは造作」との伝統的定義のほうが、といってもそれは行の原語を直訳したようなものですが、しかし最も端的でその原義を比較的把握しやすいものといえます。

そしてこのように見たならば、ようやく学者の言う「潜在的形成力」とはそれをなんとか現代的に表しようと苦心して捻り出されたものだったか、と理解することも出来る。けれどもそれは同時に、一面的で舌足らずな言葉・表現であることも判ってしまう。

伝統説ではまた、そのうち最も力の強いものが思[し]であるとも定義されるためです。

では思とは何か。

思とはcetanāの訳語で、いわゆる意思のことです。しかし、「思とは意思のことです」などといわれても、やはりちょっとピンとこないかもしれない。

それは心の根本的働きであり、より具体的には「考えようとする精神的働き」あるいは「(知覚対象を)集めようとする精神的働き」です。人が閑処に修定して普段の粗雑な心の動きを鎮めていった時、しかしそれでも最後まで残って動き続ける何らか心の働きがあることを知るでしょうが、まさにその一つが思です。

これはつまり、(思という)心の行為が諸々の事象の元となり、それらを生み出し形作る、ということです。

そのような理解はそもそも阿毘達磨において初めて為されたのではなく、これは無論と言うべきか、そもそも仏語に基づいたものです。

心為法本 心尊心使 中心念善 即言即行 福樂自追 如影隨形

心は法dharma. 存在するモノゴトの本である。それは心を先とし、心が作るもの。心に善を念じてあるいは言い、あるいは行えば、福楽は自らに追いしたがう。影が形に従うように。

『法句経』双要品法句経第九(T4. P562a
[現代語訳:沙門覺應]

随分横道にそれてしまいましたが、行苦とは存在すること自体、および我が心を元にして未来に存在を作り出すことを苦しみとするものです。しかし、言葉としてはそのようなものかとある程度は理解できても、それを恐るべき苦として受け止めることは、やはり尊者鳩魔羅多がそう言ったように、普通の人には無いことでしょう。

行苦とは、「死んじゃおうかしら、人生が嫌になったから」「もう生きたくない、消えてなくなりたい」などと言う人の感ずる人生へのそれとは異なるものです。それは無有愛[むうあい]といわれる存在しなくなることへの憧れ・欲求であり、渇愛(根本煩悩)の表れの一つに過ぎません。

さて、しかしこの『仏説無常経』は、いや『三啓経』は、誰しも正常なる意識ある人や神であれば理解できる苦しみたる老・病・死を通し、生命の無常なることを説いたものです。

一般に、その教えや思想の内容が高尚で難解であることをもって、卑近で平易なものより勝れ、尊いとすることがあります。確かにそう言えることもあるでしょう。が、それはあくまでその卑近で平易なるものを確実に理解し、踏襲してこそのこと。

画像:莫迦な解説の見本

たとえば、同じような分量の『般若心経』など日本ではあまりに有名で、自身を仏教徒だと意識しない人ですら暗誦することが出来ることすらあります。そして信じられないほど多くの人・出版社からその解説本が出されて書店の棚のあちらこちらに並んでいます。が、非常に面白いことにその内容をまともに解する人は著者・読者ともにほとんど存在していません。

むしろまったく見当違い、的外れの理解をして済ましている者こそ多くある。あるいは抽象的・情緒的でまったくわからない、頓珍漢な解説者の話を聞きもしくは読んで、『般若心経』だけでなく仏教への興味をすら失ってしまったり、仏教など所詮前時代の遺産に過ぎない蒙昧の人の教であると断じてしまったりする者もある。

なぜか。

それは仏教の基本とするところ、仏教の世界観や価値観、そして釈尊の生涯など全くなおざりにして理解せず、また理解もさせず、いきなり身近にあって短いからというような理由で「猿でもわかる 般若心経」といった調子を取るからでありましょう。

しかしそれは、決して猿ではわかり得ることでない。

それはあたかも、そもそも四則演算など算数が出来ない者に数学を教えようとするようなもの。そしてその数学も段階をまったく無視して、いきなり高等数学を教えようとするようなものです。しかも、理系の学習過程を全く履修しておらず無論理解もしていない、純然たる文系の人がその教鞭を取っているというのであれば、もはや冗談以外のなにものでもない。

またあるいは、一定程度以上の数学の素養がなければ物理など到底出来ないようなものです。そして数学と物理のどちらが高尚であるかなどということは、一般に言うことは出来ません。

(「どちらというのであれば、言うまでもなく数学がより高尚である」という高等数学をもはや道として追求し愛する人は、もちろんあるでしょうけれども。)

ここまでいくともはや笑えないと思えるかもしれません。が、しかしそれと同様の事態が『般若心経』などについては平然と、当たり前のように行われています。結局、それは現代における日本仏教の程度というものを示しているのでしょう。

繰り返しの言となりますが、平易で短く誰しもが憶えやすいもので、またその意義は解しやすく、しかも音楽的詠唱が許されており、日常に度々用いて親しむことが出来る『無常三啓経』は、その故にもっとも身近で根本的な我が身命の無常を憶念させるものです。

脚下照顧

仏陀の随行として最も長く二十五年もの間側仕え、その教えに最も多く触れてきた阿難尊者は、しかしその偉大な師であり親族でもあった釈尊の死が目前に迫っていることを知って、それを受け入れられず、独り泣いていました。

そんな阿難尊者に対し、まもなく死を迎えようとする釈尊はやさしくなぐさめ、またたしなめられています。

alaṃ, ānanda, mā soci mā paridevi, nanu etaṃ, ānanda, mayā paṭikacceva akkhātaṃ ―‘sabbeheva piyehi manāpehi nānābhāvo vinābhāvo aññathābhāvo’; taṃ kutettha, ānanda, labbhā. Yaṃ taṃ jātaṃ bhūtaṃ saṅkhataṃ palokadhammaṃ, taṃ vata tathāgatassāpi sarīraṃ mā palujjī’ti netaṃ ṭhānaṃ vijjati.

「やめよ、アーナンダ、悲しむな。嘆くな。アーナンダよ、私はあらかじめこのように(繰り返し)説いたではないか。――『すべての愛しいもの、喜ばしいものからも別れ、異なるに至る』と。アーナンダよ、それはなんであれ、生じ、存在し、つくられ、滅びるものである。それを一体どうして『如来の身体が滅びないように』などとしえるであろうか。そのような理は存在しない。」

DN, Mahāparinibbānasutta, Ānandaacchariyadhamma
[日本語訳:沙門覺應]

預流果を得た聖者ではあっても、いまだ阿羅漢に達していない阿難尊者にとって、偉大な師との別離は、それが必ず訪れるものだと頭ではわかっていても、しかし真にわかりはしませんでした。

そう、無常という真理、死が誰にも等しく訪れてくるということ。そしてそれが多くの場合、いつ訪れるかわからず、突如としてやってくるということ。それは、誰しもがたやすくわかったつもりになることで、しかしその実わからないことです。

そのような、人が迷いのうちに死に、迷いのうちに生まれてまた死んでいく様をして、弘法大師空海はこのような言葉で表現しています。

それ生は吾が好むにあらず。死はまた人の悪むなり。しかれども猶、生まれ之[ゆ]き生まれ之いて六趣に輪転し、死に去り死に去て三途に沈淪す。我を生じる父母も生の由来を知らず、生を受くる我が身もまた、死の所去を悟らず。過去を顧みれば、冥冥としてその首[はじめ]を見ず。未来に臨めば、漠漠としてその尾[おわり]を尋ねず。三辰、頂に戴けども暗きこと狗の眼に同じく、五嶽、足を載すれども迷えること羊の目に似たり。日夕に営営として衣食の獄に繋がれ、遠近に趁り逐て名利の坑に堕つ。

そもそも、生生まれること、生きることとは私の好むことではなく、また死は人の憎むものである。しかしながらなお、(我々人は)生まれ変わり、生まれ変わりしながら(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天いずれかの)六趣に流転して、死に去り、死に行きながら(地獄・餓鬼・畜生の)三途に沈淪している。私を生んだ父母であっても、(我が)生の由来を知らず、生を受けた我が身もまた、死の行き先を悟れはしない。過去をかえりみたとしても、冥冥としてその始まりを見ることは出来ない。未来を臨んだとしても、漠漠としてその終わりを知ることなど出来はしない。(明るく輝く太陽と月と星々とを)この空に頂いていながら暗暗としていることは犬の眼に同じく、五嶽を足下に踏んでいたとしても迷えることは羊の目に似ている。昼夜に営々として衣食に追われる監獄に繋がれ、遠近わかたず追い求めて名誉と財産という深い坑に堕ちている。

空海『秘蔵宝鑰』巻上
[現代語訳:沙門覺應]

これではいけない。しかし、我々人は、どうにもならず、どうにも出来ずに生まれては死に、生まれては死んで、ひたすら苦しみの循環の中に漂うのみ。

そこで慈雲尊者は、空海と慈雲とでは時代が随分異なりますが依って立つところと向いている方角は一緒で、無常を憶念することについてこのような言を残しています。

此の五尺の身が、暫くは穏かに、暫くは病悩し、平癒して壮健に復るかと思へば、また諸の疾病を生ずる。日を送り、月を送り、歳を累ねて、何事か有ると思へば、終に衰老に帰する。膚は皺む。歯は落る。鬚髪は白くなる。腰はかゞむ。目は暗くなる。耳は遠くなる。此に極ったことぞ。たとひ智者の天地古今の理に通達するも、此を免れ得ぬ。勇者の力萬鈞を擧げ、一人千人に當るも、此を免れ得ぬ。此の事を决徹して疑はねば、聖智見を得る基となる。斷常二見の深坑は、此の中に超過する。今日且く少壮なるまゝに諸の戯笑遊興に心をよせ、悠然として月日を送るを迷と云ふじゃ。  此の身が如是世界に在る間に、或は水火風難に遇ふ。饑饉闘諍などに逢ふ。王難賊難に逢ふ。臣たる者は、侫者に隔てられて、忠義有りながら、身を亡し家を敗る。君たる者は、姦臣に欺かれて、國をあやまり身を危くする。妻子眷属、朋友隣里の間、十に八九は憂悩じゃ。心に適はぬじゃ。或は大にもあれ、小にもあれ、敵と云ふ者も出で來たる。古書にも、女無美悪。居宮見妬。士無賢不肖。入朝見疑とある。威勢ある家は、鬼神其の短を求むる。才能ある士は、衆人憎み謗る。古今同様じゃ。此の事を决徹して疑はねば、聖智見を得る基となる。 《中略》  暫くは憂来り、暫くは喜來り、此の愁去れば又彼の愁來り。此の喜びごと満ずれば又余の願求を起して、日夜に忽忽として止むこと無きうち、遅きか早きか、終に無常に帰する。世相斯の如し。極ったことぞ。たとひ月は熱なり。日は冷なりと云ふとも、此の事は云ひ消されぬじゃ。此を决徹して疑はねば、聖智見を得る基となる。斷常二見の深坑を此の中に超過する。今日も徒らに過し、明日も徒らに過し、更に百年千年の營みを思ふを迷と云ふ。多少の人が、近きを棄てゝ、遠きに走る。内を忘れて外に求むる。邪見に墮ることじゃ。

 この五尺150cmの身体は、一時は穏かであったり一時は病に悩まされたりし、平癒して壮健になったかと思えば、また様々な病に罹る。日を送り、月を送り、歳を累ねてどうなるかといえば、終には老衰に至る。皮膚は皺む。歯は落ちる。鬚髪は白くなる。腰はかがみ、目は暗くなり、耳は遠くなる。人とはそう決まったものである。たとえ智者であって天地古今の理に通達していたとしても、老死を免れることなど出来はしない。すさまじい筋力を持つ勇者で、一人で千人に相当するようなのも、老死を免れられはしない。この事を確信して疑いなければ、聖なる智見を得る基となる。「断常二見」という深い坑を超過するのである。今のところしばらくは健康であるからといって、様々に戯れ遊び、遊興に心をよせて、悠然と月日を送ることを迷いと云うのだ。
 この身体がこの世にある間に、あるいは水難・火難・風難に遇う。飢饉や戦争、闘争などに逢う。王難・賊難に逢う。家臣たる者は、侫人言葉巧みにへつらう腹黒い者にそそのかされて、忠義がありながらも身を亡ぼして家が衰える。為政者たる者は、姦臣邪悪な家臣に欺かれて政を誤り、身を危くする。妻子や親族、朋友・隣里の関係も、十に八、九は憂い悩みである。決して己の心に適いはしないのだ。あるいは大なり小なり敵とすら云う者も出て来るであろう。(支那の)古書『史記』にも、「女は美しくとも醜くとも宮廷に勤め暮せば妬まれ、男は賢かろうが不肖であろうが朝廷に勤めて政治に関わったならば疑われる」とある。威勢ある家は鬼神からその付け入る隙を伺われ、才能ある者は人々から憎まれ謗られる。これは古今同様の有り様である。この事を確信して疑い無ければ、聖智見を得る基となるのだ。 《中略》
 一時は憂い、一時は喜び、この愁いが去ったとしても、また別の愁いが生じる。この喜び事が満たされたとしても、また他の願い事を起こして、日夜に一瞬たりとも止むことが無い。そのうち遅かれ早かれ、終には死を迎えることになるのだ。世間の有り様はそのようなもので、そう決まったことである。たとい月が熱き星で太陽が冷たき星であったとしても、それは否定の仕様もないことだ。この事を確信していれば、聖智見を得る基となる。「断常二見」という深い坑を超過するのだ。今日も徒らに過ごし、明日も徒らに過ごし、さらに百年千年の営みがあるなどと考えることを迷いと云うのである。甚だ多くの人々が、(自分がまさに経験する我が人生という)近くを捨てて(言葉の上だけ崇高で深遠な思想という)遠くに走り、(自分が最も見るべき我が有り様という)内を忘れて(自分が決して経験し得ない空理空論というべき)外に求めている。そのようにして人は、邪見に堕ちるのである。

慈雲尊者『十善法語』巻第十二 不邪見戒之下
[現代語訳:沙門覺應]

人は往々にして我が足元、依って立つその場所を顧みることをしません。いや、「しない」というより「したくない」という場合もあるでしょう。良く言えば、夢見がちなのが人であり、悪く言えば、ほとんど妄想の中に生きるのが人です。

ここで慈雲尊者が口にする「断常二見」とは、断見と常見との二つの誤った思想、モノの見方です。

断見とは、いわば唯物論であり、全ては所詮物質であって生命は死ねば全て終わりとする思想。常見とは、例えば死後には「不滅の魂」の如きものとなって永遠なる死者の世界や神の世界に往くという考え。あるいは永遠不滅にして絶対の、救いを与えてくれる神がいるとする思想。

いずれも仏教からすれば事実誤認の、その故に邪な思想・モノの見方すなわち邪見とされます。

全ては必ず変化し滅びいく無常なるものであるということは、滅んだ状態すらまた永続せず再び生じてまた滅びる、というのが世界の真の有り様です。永遠に存するものはなく、永遠に滅することもありはしません。

(生死流転については別項“生死流転偈”を参照のこと。)

さて、『無常経』とは、我々人が常に「知ったつもり」となっている我が老・病・死そして他の老・病・死を念じて忘れざらしむものであることに間違いありません。またそれは所伝の部派や重用してきた部派が異なるものであったとしても、同じ仏教徒としてその所説の内容に異論を挟む余地などありはしないと思います。

その故に『無常三啓経』は、今の人もまた同じく奉じて日々に重用すべき、まさに「正法」を説く経典の一つです。

向後、この『無常三啓経』を、ただ学者らが文献学的・史学的にあれこれと弄ぶのとは異なって、あるいはただ仏教の仮面をかぶった土着の祖霊信仰の祭式執行を目的とすることなど無く、多くの仏教徒を益する経典として開板するため資金を募り、実際に経本として出版して日本においても普及すべく微力を尽くそうとの誓願を、愚蒙なる我が身でありますが今ここに建てます。

非人沙門覺應 稽首和南
horakuji@gmail.com

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2.凡例

本文

このサイトで紹介している『仏説無常経』は、『大正新修大蔵経』4巻所収のものを底本とした。

原文は漢文であるため、原文・訓読文・現代語訳を併記し、対訳とした。

難読と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた。

現代語訳は、基本的に逐語的に訳すことを心がけたが、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

また、現代語訳には、難解あるいは特殊な語句について一々脚註を参照する煩を除くよう、〈〉にその簡単な語句説明を付した。

脚注

補注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付し、脚注に列記した。

非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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