真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 『仏説尸迦羅越六方礼経』

解題・凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ トップページに戻る

1.解題

シーンガーラカへの教え

『仏説尸迦羅越六方礼経』は、仏陀がマガダ国Magadha・摩訶陀〉の首都であったラージャグリハRājagṛha・王舎城〉に滞在されていた時、シーンガーラカSīṅgālaka・尸迦羅越〉という名の一人の青年に対してなされた説法を伝える経典です。

時にこれを単に『六方礼経』とも称します。

(*パーリ語ではSiṅgāla[シンガーラ]。)

さて、シーンガーラカは、朝起きたならば東・西・南・北・天・地の六方向に対し四拝していました。早朝、托鉢中であった仏陀は、そのように六方を礼拝している青年のあることを認められ、彼のところに近づいてその理由を問われます。しかし、彼は実は自分はなぜ六方を礼拝するのかの意味・目的などわからず、ただ亡き父がそうせよと命じていたのに従ってそうしているだけであると答えます。そこで仏陀はシーンガーラカに対し、六方を礼拝することの真の意味を明らかにされていかれる、というのが本経の内容です。

仏陀は礼拝という行為自体を全く否定されることはないものの、それが現実的な意味内容を持ち、実際の日常の行為に善く反映されるものでなければ、礼拝などしても意味は無いと説かれます。要するに、仏陀は闇雲に六方を礼拝していたシーンガーラカの行為を換骨奪胎し、(特に世俗の)人はいかに生きるべきかをより現実的・実際的に説かれていきます。

仏陀は、「(亡父が命じて)六方を礼拝せよとしたのは、身をもってただ礼拝することではないであろう」と説かれます。そこで彼が六方を四拝していることに掛け、まず四種の戒めるべき行為と四種の制するべき心の働き、そして自らの身と家とを滅ぼす為すべきでない六種の行為、すなわち四悪と六事が示されます。

そして六方向それぞれ、すなわち東方に両親、南方に師、西方に夫、北方に親族・朋友、地に奴婢〈雇用者〉、天に沙門〈仏教の出家者〉が当てられ、身をもって礼拝することについては親と子・師と弟子・夫と妻・親族/朋友と自分・雇用主と雇用者・出家と在家の相互の関係における、いわばあるべきようのことであると説かれていきます。

例えば東方にあてられる親と子との関係においては、子は親に従い仕えるべきであるけれども、親にもまた子に対してなすべき義務があるとされています。すなわち、東方を礼拝するのは、子としては親を実際に敬って事えることであり、また親としては子を大事に保護し導き育てることであるとされるのです。

ところで、本経は漢語仏典としてはその最初期に翻訳されたものとなる、紀元二世紀中頃の人、安世高[あんせいこう]によってなされたものです。まず、安世高は支那人ではなく安息国〈パルティア〉出身の人であり、またその訳文については訳語や体裁の統一がいまだ全くなされていない、いわゆる古訳の経典であるため、かなり読みにくい漢文となっています。

若干の相違点・出入は存するものの本経とほぼ同内容の教えを伝えるものとしては他に、漢語仏典では『長阿含経』巻十一「善生経」(T1. P70a)や『中阿含経』巻三十三「善生経」(T1. P638c)、『仏説善生子経』(T17. P252b)などがあります。またパーリ語によって伝えられた経典としては、Dīgha Nikāya, pāthikavaggapāḷi, Siṅgālasutta (DN 31.1) があります。

本経における世俗におけるいわば倫理的教説は、大乗経典や大乗の諸大徳からもしばしば取り上げられており、古来、大乗・声聞乗の違いを問わず重要視されてきた経典の一つです。

慣習?因習?

画像:ビジネスとしての仏教と祖霊崇拝

思えばシーンガーラカのように、あるい祖父母や両親に倣い、あるいは地域の人々に従って、その意味もわからず昔からの慣習を漫然と行うだけということは、今の世にもしばしば見られることです。

なんだかわからないけれどもやっている。根拠など知らない。けれどもまわりがそうしているから慣習としてそれに従っている。その意味・目的も価値もわからないし、何も実感など出来ない。けれどもやっぱりなんとなく「そういうものなのだ」と思いつつ漫然と行ってはいる、という人は少なくないことでしょう。

仏教に関するものでその具体例を挙げてみれば、読経というごく当たり前になされている行為があります。

しかし、仏教にまつわるものとしてごく当たり前になされている行為、いや、むしろ欠くべからざる行為と見なされているであろう読経であっても、実のところその意味・目的も知らず、ただ周囲に倣ってとりあえず行っている人は非常に多いに違いありません。

また、盆や彼岸などの習慣も、その起源・由来と今現在の実際のところなど、その違いをよく理解している人などまず無いと見てよい。

(なぜ読経するのか、その意味・目的については別項“『法句譬喩経』塵垢品第二十六 ―なぜ読経するのか”を参照のこと。)

そしてさらにまた、墓参りや死者に戒名を付けることなども、まるでその意味・目的など知らない人がほとんどでしょう。であるにも関わらず、その不明なことを義務として半強制的にさせられ、少なからぬ金銭が要求されるとなれば、これを大いに不満とする人が多く出ても何ら不思議ではありません。

(死者を慰撫し、あるいは救うことなど出来るのか。そのような問いに対する仏教における回答については別項“Ashibandhakaputta sutta ―死者を救うことは出来ない”を参照のこと。)

そのような慣習に対するモヤモヤとした状況、漫然とながらしかしずっと行われている行為に言うなれば漬け込み、全く無根拠で単なる思いつきであったり、むしろ仏教とは完全に反する内容であったりするものを、自己の利益に誘導するためにさも本当のことであるかのように世人に吹聴。そして、それを当初の目的通り自身の商売の種とするような輩は、寺院や葬儀屋の経営者そして墓石屋、はてまたは新興宗教の運営者など、今もそこらに跋扈しています。

それにしても、そのような人々の商売文句を聞いていると、一体どうしたら仏教の名のもとにそのような嘘八百を飄々と言えるのかしらん、と不思議に思えるほどです。しかし、そう言わないと寺商売や祖霊崇拝商売など、人の漠然とした信仰を利用した集金活動が成立しないのでありましょう。

事実、率直に言って現在の先祖供養や墓にまつわる行為のほとんど、例えば盆・彼岸・戒名・墓参などは、寺院や葬儀屋、墓石屋や仏壇仏具屋の飯の種に過ぎないものとなっています。それらはすでにその意味も目的も必然性も全く無い因習となっており、今となってはもはや必ずしも行う必要など無い、とすら言えるものです。

それら慣習の背景に、その起源としては別として、実際の仏教としての確たる根拠などありません。

事実、すでに都会だけではなく地方の人ですら葬儀や法事の簡素化、盆や彼岸にまつわる地方の習慣を簡略化したり廃絶したりし、流行りの「墓じまい」を真剣に考えるようになっています。そもそも、普通の庶民が墓も仏壇も必ず構えなければならないなどということはありません。構えたら構えたでそれを重荷に思うのであれば、最初から無いほうが良いというものです。

寺院経営者や拝み屋、仏壇屋・墓石屋などは、それが自身らの経営を傾けることに直結することもあって、そのような祖霊信仰や民間信仰にまつわるあれこれを廃しようとする社会の傾向に、「けしからんことだ」「伝統の危機だ」「日本の精神性はどこへいった」などと感情的に反発しています。しかし、それこそ何をか言わんやというところでありましょう。

とは言え、その起源や由来、意味・目的などはっきりしない社会や家の慣習の類を、親の敵のように全て完全に排除する必要などありはしないでしょう。実際、それらの中には、なんとなく「文化」という言葉によって包含しうるものとなっている場合もあることでしょうし、社会の風物詩となっているものもあります。

そしてまた、「人の行動全てはすべからく意義付けされたものでなければならず、全て何らかの目的を持ったものでなければあるべからず」などとしたならば、普通の生活を送る人にとっては実に窮屈に感じる事態となってしまうことでしょう。

しかし、やはりどうせ何事か日課として行っている行為があるならば、そして実はその意味内容などわからず漫然と行っているとすれば、もしそれを自身が生きていく上で意味あるもの、人生において価値あるものとして行えるようになれば、それに越したことはありません。いや、それがよっぽど良いに違いありません。

人は、私はどう生きるか、いかに生きるべきか

およそ二千五百年前、仏陀はその指針を人に示され、それは今に至るまで伝えられています。それは決して、現代の人が仏教に対してもっているであろう、いわゆる「抹香臭い」ものではないし、また霊が云々などと言った超常的、過度に宗教的なものでもありません。

その教えは、現代においてなお価値あるものであって、その指針となる教えの一つが『仏説尸迦羅越六方礼経』に示されています。

それは特に、出家者に対してではなく、世俗にあって自らの人生を送る普通の人々に対して説かれたものです。

シーンガーラカがしていた六方を礼拝するに類する慣習、何か宗教的行為や儀礼をその意味もわからずただ漫然と行うのではなく、悪を離れて善を修めるべく自らの行為を戒め、自他相互に敬意とけじめをもって現実に接することとして換骨奪胎すること。それは、人の信仰の有無・その違いを問わず、現代においてもなし得ることであると私は信じます。

事実、本経『仏説尸迦羅越六方礼経』は、明治・大正・昭和と近現代においても諸宗の僧職者や学者、あるいは事業家などによってしばしば注目され、その内容が講義・出版などされて世に示さんとする努力がなされてきたものです。

現在、日本では仏教が、これは時流だけではなく日本の僧職者ら自身の怠慢・怠惰に基づくものでもあるのでしょうが、もはやその真価を発揮することなどほとんど無く、長い歴史の中でただ諸々の慣習に埋没してますます顧みらぬようになっています。

あるいは狂瀾を既倒に廻らさんとするに等しいことでありましょう。しかし、ここにまた本経を示すことによって、仏陀の教えの何たるかを片鱗を知って自身を自身で救う道を歩むきっかけとなる人が幾ばくかであっても現れれば幸甚。

非人沙門覺應 敬識
horakuji@gmail.com

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ “仏陀の教え”へ戻る

2.凡例

本文

このサイトで紹介している『仏説尸迦羅越六方礼経(六方礼経)』は、『大正新修大蔵経』1巻所収のものを底本とした。

原文・現代語訳を併記し、対訳とした。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・現代語訳のみの項を設けている。

原文は、原則として底本のまま旧漢字を用いている。ただし、現代語訳では、適宜現行の漢字に変更した。

訓読文および現代語訳では読解を容易にするため適宜段落を設けたが、それらは全て訳者の意によるもので原文に拠ったものではない。

現代語訳は、基本的に逐語的に訳すことを心がけたが、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

脚注

補注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付し、脚注に列記した。

非人沙門覺應 敬識
horakuji@gmail.com

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ “仏陀の教え”へ戻る

解題・凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。