真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Saṃyutta Nikāya, Ānāpānasaṃyutta

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1.現代語訳

一法経 (1-1)

サーヴァッティでのことである。世尊はこう告げられた。――「比丘たちよ、一法が修習され習熟されたときには、大きな果報と大きな利益がある。何が一法であろうか?アーナーパーナサティである。では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習され、どのように習熟されたときには、大きな果報と大きな利益があるであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が、阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。
①長く入息しては『私は長く入息している』と、彼は知る。長く出息しては『私は長く出息している』と、彼は知る。②短く入息しては『私は短く入息している』と、彼は知る。短く出息しては『私は短く出息している』と、彼は知る。③『私は一切身を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は一切身を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。④『私は身行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は身行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。
⑤『私は喜を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は喜を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑥『私は楽を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は楽を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑦『私は心行を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑧『私は心行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。
⑨『私は心を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑩『私は心を満足させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を満足させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑪『私は心を統一して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を統一して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑫『私は心を解脱させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を解脱させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。
⑬『私は無常を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は無常を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。⑭『私は離欲を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は離欲を随観して、出息する』と、彼は学ぶ。⑮『私は滅を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は滅を随観して、出息する』と、彼は学ぶ。⑯『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。
実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。」 (安般相応 一法品第一)

菩提分経 (1-2)

「比丘たちよ、アーナーパーナサティが修習され習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習され、どのように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益があるであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が、アーナーパーナサティと倶なる念菩提分を修習する。遠離により、離欲により、滅によって、棄捨[=涅槃]へと至る。アーナーパーナサティと共なる択法覚分を修習する。…乃至…アーナーパーナサティと共なる捨覚分を修習する。遠離により、離欲により、滅によって、棄捨へと至る。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。」 (安般相応 一法品第二)

清浄経 (1-3)

「比丘たちよ、アーナーパーナサティが修習され、習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習されどのように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益があるであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。」 (安般相応 一法品第三)

果報経第一 (1-4)

「比丘たちよ、アーナーパーナサティが修習され、習熟されたときには、大きな果報と大きな利益がある。では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習されどのように習熟されたときには、大きな果報と大きな利益があるであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたときには、大きな果報と大きな利益がある。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたときには、二つの果報のうちの一方が期待される。――目の当たりに見た真理(法)についての完全なる智慧[阿羅漢果]か、もしわずかに(煩悩の)余依があるならば阿那含[不還果]どちらかかの。」 (安般相応 一法品第四)

果報経第二 (1-5)

「比丘たちよ、アーナーパーナサティが修習され、習熟されたときには、大きな果報と大きな利益がある。では比丘たちよ、アーナーパーナサティがどのように修習されどのように習熟されたときには、大きな果報と大きな利益があるであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたときには、大きな果報と大きな利益がある。」

「実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたときには、七つの果報と利益が期待される。何が七つの果報と利益であろうか?①彼は目の当たりに見た法についての完全なる智慧にあらかじめ到達する。もし彼が目の当たりに見た法についての完全なる智慧にあらかじめ到達しなければ、その場合には、②彼は死の瞬間に完全なる智慧に到達する。もし彼が目の当たりに見た法についての完全なる智慧にあらかじめ到達せず、もし彼が死の瞬間にも完全なる智慧に到達することがなければ、その場合には、五下分結を悉く滅して、③中間での般涅槃者[中般涅槃]となる。…④(上界に)再生して般涅槃者[生般涅槃]となる。…⑤(上界に再生して)努力を要しない般涅槃者[無行涅槃]となる。…⑥(上界に再生して)努力を要する般涅槃者[有行涅槃]となる。…⑦上流にアカニッタ天に至る者[上流色究竟]となる。――実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたときには、これら七つの果報と利益が期待される。」 (安般相応 一法品第五)

阿梨瑟吒経 (1-6)

サーヴァッティでのことである。世尊はこう告げられた。――「比丘たちよ、汝らはアーナーパーナサティを修習しているであろうか?」と。このように言われたとき、尊者アリッタは世尊にこう申し上げた。――「大徳よ、実に私はアーナーパーナサティを修習しています」と。「ではしかし、アリッタよ、汝はどのようにアーナーパーナサティを修習しているのであろうか?」。「大徳よ、私は諸々の過去における欲楽への愛欲を棄てており、諸々の未来における欲楽に対する愛欲を鎮めています。そして、私は内と外とのものごとに対する嫌悪の想いを、よく一掃しています。ただ念じて私は入息し、ただ念じて出息します。実にこのように、大徳よ、私はアーナーパーナサティを修習しています。」

「それはアーナーパーナサティである、アリッタよ。私は『それは(アーナーパーナサティ)では無い』と言わない。しかしまた、アリッタよ、アーナーパーナサティを詳細に満足するについて、汝はよく意を用いて聴きなさい。私は説くであろう」。「そのとおりに、大徳よ」と、尊者アリッタは世尊に答えた。世尊はこう告げられた。――

「ではどのように、アリッタよ、アーナーパーナサティを詳細に満足するであろうか?アリッタよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。長く入息しては『私は長く入息している』と、彼は知る。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、アリッタよ、このようにアーナーパーナサティの詳細なる満足がある。」 (安般相応 一法品第六)

摩訶罽賓那経 (1-7)

サーヴァッティでのことである。さてその時、尊者マハーカッピナは、世尊からほど近いところで結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えていた。世尊は、尊者マハーカッピナが程近いところで結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えているのを、確かに見られた。(尊者カッピナを)見られてから、比丘たちに告げられた。――

「比丘たちよ、汝らは、あの比丘の身体が揺れ動いたり震えたりするのを、見るであろうか?」と。「大徳よ、いつであれ私たちがあの尊者の見るときには、衆徒の中央に坐っていても、独りで坐っていても、かの尊者の身体が揺れ動いたり震えたりするのを見ることがありません。」

「比丘たちよ、三昧の修習と習熟によって、その比丘はいかなる困難もなく苦心することもなく思うままに、比丘たちよ、身体の動揺や震えがなく、心の動揺や震えもない三昧を獲得する。では比丘たちよ、身体の動揺や震えがなく、心の動揺や震えもない三昧とは何であろうか?」

「比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧の修習と習熟がされたときには、身体の動揺や震えがなく、心の動揺や震えもない。では比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がどのように修習され、どのように習熟されたときには、身体の動揺や震えがなく、心の動揺や震えもないであろうか?」

「比丘たちよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。…乃至…『私は捨離を随観して、入息する』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息する』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、このようにアーナーパーナサティ三昧が修習され習熟されたときには、身体の動揺も震えがなく、心の動揺や震えもない。」 (安般相応 一法品第七)

灯明喩経 (1-8)

「比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧が修習され習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。では比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がどのように修習され、どのように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益があるであろうか?」

「比丘たちよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。長く入息しては『私は長く入息している』と、彼は知る。長く出息しては『私は長く出息している』と、彼は知る。…乃至…『私は捨離を随観して、入息する』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息する』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がこのように修習され、このように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。」

「私もまた、比丘たちよ、三菩提以前、未だ完全なる理解に至っておらず菩薩であったとき、同じくこの住処によって多く住した。比丘たちよ、私がこの住処によって多く住したときには、身体も眼も疲れ果てることがなかった。そして、執着すること無しに、我が心を煩悩より解脱させた。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『私の身体も眼も疲れ果てることがないように。そして、執着すること無しに、我が心を煩悩より解脱させん』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『我が(俗世での)家庭生活に関する諸々の記憶と思惟とを、捨て去れられるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『嫌悪をもよおすモノにおいて、嫌悪無き想に住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『嫌悪をもよおさぬモノにおいて、嫌悪の想に住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『嫌悪をもよおすモノにおいても、嫌悪をもよおさぬモノにおいても、嫌悪の想に住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『嫌悪をもよおすモノにおいても、嫌悪をもよおさぬモノにおいても、嫌悪無き想に住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『嫌悪をもよおさぬモノと嫌悪をもよおすモノとの双方を避け、平静[捨]の想に住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『諸々の欲楽から遠離し、諸々の不善のことがらから遠離して、尋と伺と倶なる、遠離より生ぜる喜と楽[離生喜楽]ある、初禅に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『尋と伺とを鎮め、内なる清らかな信仰[内等浄]と心の統一と、無尋にして無伺なる、三昧より生じる喜と楽[定生喜楽]ある、第二禅に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『喜より離れ、捨、念そして正知に住し、身体における楽を覚知して、――聖者たちが彼は捨・念あって安楽に住す[捨念楽住]と宣説せられる所の、第三禅に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『楽を捨断し苦を捨断し、以前の喜と憂とを滅して、苦でもなく楽でもなく、捨による念の清浄[捨念清浄]なる、第四禅に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『物質的なモノという想い[色想]を全く越え、障碍の想い[瞋恚想]を滅して、多様なる想いに注意を払わぬこと[不作意]によって、無辺なる虚空という、空無辺処に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『空無辺処を全く越え、無辺なる識という、識無辺処に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『識無辺処を全く超え、少しのモノも存在しないという、無所有処に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『無所有処を全く越え、非想非非想処に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「この故に、比丘たちよ、もしある比丘が『非想非非想処を全く越え、想受滅に達して住せるように』と望むならば、まさにこのアーナーパーナサティ三昧が、よく意を用いて為されるべきである。」

「実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がこのように修習され、このように習熟されたとき、もし彼が安楽を感受[楽受]したならば、それは『無常である』と、彼は知る。『執着すべきものでない』と、彼は知る。『享受すべきものでない』と、彼は知る。もし彼が苦を感受[苦受]したならば、『それは無常である』と、彼は知る。『執着すべきものでない』と、彼は知る。『享受すべきものでない』と、彼は知る。もし彼が苦でもなく楽でもないものを感受[不苦不楽受]したならば、『それは無常である』と、彼は知る。『執着すべきものでない』と、彼は知る。『享受すべきものでない』と、彼は知る。」

「もし彼が安楽を感受したならば、彼はそれに囚われること無く感受する。もし彼が苦を感受したならば、彼はそれに囚われること無く感受する。もし彼が苦でもなく楽でもないものを感受したならば、彼はそれに囚われること無く感受する。彼が身体を際限とする受を感受したならば、『私は身体を際限とする感受を感知している』と、彼は知る。彼が生命を際限とする受を感受したならば、『私は生命を際限とする感受を感知している』と、彼は知る。『身体の崩壊と、上は生命が尽きることにより、享受すべきでないすべての受は、まさにこの存在において冷たきものとなるであろう』と、彼は知る。」

「比丘たちよ、それはまさに、行灯(の火)が、胡麻油と灯心とを縁として灯るようなものである。そして、胡麻油と灯心とが尽き果て(火にとっての)食物の無いことによって、それは消え失せるであろう。比丘たちよ、実にまさしくそのように、比丘が身体を際限とする受を感受したならば、『私は身体を際限とする感受を感知している』と、彼は知る。彼が生命を際限とする受を感受したならば、『私は生命を際限とする感受を感知している』と、彼は知る。『身体の崩壊と、上は生命が尽きることにより、享受すべきでないすべての受は、まさにこの存在において冷たきものとなるであろう』と、彼は知る。」 (安般相応 一法品第八)

毘舍離経 (1-9)

このように私は聞いた。――ある時、世尊はヴェーサーリーの大林重閣講堂に留まっておられた。そこで、世尊は、比丘たちに様々な方法でもって不浄論を説かれた。不浄を賞賛され、不浄観を賞賛された。

その時、世尊は比丘たちに告げられた。――「比丘たちよ、私は半月独坐したい。托鉢の食を送る者を除いて、誰も私に近づく者が無いように」と。「そのとおりに、大徳よ」と、彼ら比丘たちは世尊に答え、誰一人として世尊に近づかなかった、托鉢の食を送る者を除いては。

その時、彼ら比丘たちは――「世尊は様々な方法でもって不浄論を説かれた。不浄を賞賛され、不浄観を賞賛された」と、様々な異なる手段でもって不浄観に専心して修行した。彼らは、この(穢らわしき)身体によって困惑し、恥じて悩み、厭い嫌うようになって、(自らを殺してもらうための)暗殺者を探した。ある日には、十人の比丘たちが刀を手にした(=自殺した)。ある日には、二十人…乃至…三十人、ある日には、六十人の比丘が(刀を)手にした。

その時、その半月が過ぎて、世尊は独坐より起たれ、尊者アーナンダに語りかけられた。――「アーナンダよ、いったいどうして比丘衆が少なくなったようであるのだろうか?」と。「大徳よ、なぜならそれは、『世尊は、比丘たちに様々な方法でもって不浄論を説かれた。不浄を賞賛され、不浄観を賞賛された』と、彼らは様々な異なる手段でもって不浄観に専心して修行しました。彼らは、この(穢らわしき)身体によって困惑し、恥じて悩み、厭い嫌うようになって、(自らを殺してもらうための)暗殺者を探しました。ある日には、十人の比丘たちが刀を手にしました。ある日には、二十人…乃至…三十人、ある日には、六十人の比丘が(刀を)手にしました。善い哉、大徳よ、もし世尊が(不浄観とは)異なる術を示されたならば、この比丘衆は完全なる智を確立するでしょう。」

「ならば、アーナンダよ、ヴェーサーリーに止住していそれらすべての比丘たちを、集会場に集めなさい」。「そのとおりに、大徳よ」と、尊者アーナンダは世尊に応諾し、ヴェーサーリーに止住していそれらすべての比丘たちを集会場に集めて、世尊に近づいた。世尊に近づいてから、このように申し述べた。――「大徳よ、比丘衆は集まりました。世尊が適切と思われる時に(お越し下さい)、大徳よ。」

その時、世尊はその集会場に近づかれた。近づかれてから、定められた座所に坐られた。坐られてから、世尊は比丘たちにかく告げられた。――「実に、比丘たちよ、このアーナーパーナサティ三昧が修習され習熟されたならば、寂静にして妙勝、また美味にして安楽なる住処であって、已に生起し、また未だ生起していない諸々の悪・不善なる法を、たちまちに消し去り、滅する。」

「比丘たちよ、それはまさに、暑季の最後の月において多くの土埃が(空に)巻き上げられているとき、突然の時ならぬ強い雨が、(巻き上がった土埃を)たちまちに消し去り、滅するようなものである。比丘たちよ、実にまさしくそのように、アーナーパーナサティ三昧が修習され習熟されたときには、寂静にして妙勝、また美味にして安楽なる住処であって、已に生起し、また未だ生起していない諸々の悪・不善なる法を、たちまちに消し去り、滅する。では比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がどのように修習され、どのように習熟されたならば、寂静にして妙勝、また美味にして安楽なる住処であって、已に生起し、また未だ生起していない諸々の悪・不善なる法を、たちまちに消し去り、滅するであろうか?」

「比丘たちよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がこのように修習され、このように習熟されたならば、寂静にして妙勝、また美味にして安楽なる住処であって、已に生起し、また未だ生起していない諸々の悪・不善なる法を、たちまちに消し去り、滅する。」 (安般相応 一法品第九)

金毘羅経 (1-10)

このように私は聞いた。――ある時、世尊はキミラ[キンビラ?]の竹林に留まっておられた。そこで、世尊は、尊者キミラに告げられた。――「さて、キミラよ、アーナーパーナサティ三昧がどのように修習され、どのように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益があるであろうか?」と。

このように言われたとき、尊者キミラは黙然としていた。二度、世尊は…乃至…三度、世尊は尊者キミラは告げられた。――「さて、キミラよ、アーナーパーナサティ三昧がどのように修習され、どのように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益があるであろうか?」と。実に三度、尊者キミラは黙然としていた。

このように言われたとき、尊者アーナンダは世尊にかく申し述べた。――「世尊よ、まさにその時です!世尊がアーナーパーナサティ三昧をお説きになられるに、善逝よ、まさにふさわしい時です!世尊の(説かれるのを)聞いて、比丘たちは憶持するでしょう」と。

「ならば、アーナンダよ、よく意を用いて聴きなさい。私は説くであろう」。「そのとおりに、世尊」と、尊者アーナンダは世尊に答えた。世尊はかく説かれた。――「アーナンダよ、アーナーパーナサティ三昧がどのように修習され、どのように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益があるであろうか?アーナンダよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、アーナンダよ、アーナーパーナサティがこのように修習され、このように習熟されたならば、大きな果報と大きな利益がある。」

「どのような時であれ、アーナンダよ、比丘は長く入息しては、『私は長く入息している』と知る。長く出息しては『私は長く出息している』と、彼は知る。短く入息しては『私は短く入息している』と、彼は知る。短く出息しては『私は短く出息している』と、彼は知る。『私は一切身を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は一切身を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は身行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は身行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。――その時、アーナンダよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、身体における身随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。どのような理由によってであろうか?アーナンダよ、――入息と出息、これを名づけて“ある種の身体”であると、私は説く。この故に、アーナンダよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、身体における身随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、アーナンダよ、比丘は『私は喜を覚知して、入息しよう』と学ぶ。『私は喜を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は楽を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は楽を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を覚知して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。――その時、アーナンダよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、感受における受随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。どのような理由によってであろうか?アーナンダよ、――入息と出息によく意を用いること、これを名づけて“ある種の感受”であると、私は説く。この故に、アーナンダよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、感受における受随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、アーナンダよ、比丘は『私は心を覚知して、入息しよう』と学ぶ。『私は心を覚知して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を満足させて…乃至…、『私は心を統一して…乃至…、『私は心を解脱させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を解脱させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。――その時、アーナンダよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、心における心随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。どのような理由によってであろうか?アーナンダよ、念を失って正知することがなければ、アーナーパーナサティ三昧の修習は無いと、私は説く。この故に、アーナンダよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、心における心随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、アーナンダよ、比丘は『私は無常を随観して、入息しよう』と学ぶ。…乃至…『私は離欲を随観して…乃至…、『私は滅を随観して、…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。――その時、アーナンダよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、法における法随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。般若[智慧]により、貪欲と憂いとの捨断を見、彼は“明らかに観る者”となる。この故に、アーナンダよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、法における法随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「アーナンダよ、それはまさに、大きな四つ辻において大きな盛り土があったとしよう、もし東の方角から馬車や荷車が来たならば、その盛り土を崩し平らかにするであろう様なものである。もし西の方角から来たならば…乃至…、もし北の方角から…乃至…、もし南の方角から馬車や荷車が来たならば、その盛り土を崩し平らかにするであろう様なものである。実にこのように、アーナンダよ、比丘が身体における身随観に住したならば、諸々の悪・不善の法を崩し平らかにする。感受についての…乃至…、心についての…乃至…、法における法随観に住したならば、諸々の悪・不善の法を崩した平らかにする。」 (安般相応 一法品第十)

一法品第一(了)

それらの目録は――
一法と菩提分、清浄と二つの果報;
阿梨瑟吒・罽賓那・灯、毘舍離と金毘羅である。

一奢能伽羅経 (2-1)

ある時、世尊はイッチャーナンガラのイッチャーナンガラ林に留まっておられた。そこで、世尊は、比丘たちに告げられた。――「比丘たちよ、私は三ヶ月独坐したい。托鉢の食を送る者を除いて、誰も私に近づく者が無いように」と。「そのとおりに、大徳よ」と、彼ら比丘たちは世尊に答え、誰一人として世尊に近づかなかった、托鉢の食を送る者を除いては。

その時、その三ヶ月が過ぎて、世尊は独坐より起たれ、比丘たちに語りかけられた。――「比丘たちよ、もし他の教義を信奉する修行者[外道]らが、このように尋ねてきたならば――『友よ、沙門ゴータマは雨安居所において、どのような住処に常々住したのであろうか?』と、このように汝らが尋ねられたならば、比丘たちよ、その他の教義を信奉する修行者らに解答すべきである。――『友よ、実に世尊は、雨安居所において、常々アーナーパーナサティ三昧に住されたのである』と。比丘たちよ、ここに私は、念じて入息し、念じて出息する。長く入息しては『私は長く入息している』と、私は知る。長く出息しては『私は長く出息している』と、私は知る。短く入息しては『私は短く入息している』と、私は知る。短く出息しては『私は短く出息している』と、私は知る。『私は一切身を覚知して、入息しよう』と、私は知る。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、私は知る。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、私は知る。」

「なんとなれば、比丘たちよ、誰でも正しく語る者は言うであろう。――『それは聖なる住処[聖住]である』と。『それは崇高なる住処[梵住]である』と。『それは如来の住処[如来住]である』と。アーナーパーナサティ三昧を正しく語る者は言うであろう。――『それは聖なる住処である』と。『それは崇高なる住処である』と。『それは如来の住処である』と。比丘たちよ、学ぶべきこと有る者[有学]であり、心が未だ達しておらず、比類なき軛からの安穏を求めて住する彼ら比丘らは、アーナーパーナサティ三昧が、彼らに修習され習熟されたなたらば、諸々の煩悩の滅尽へと導く。実に、比丘たちよ、阿羅漢であり、煩悩が尽き、(修行が)完成し、為されるべきことが為され、重荷を下ろし、自己の利をすでに得、存在の結縛を滅ぼし尽くし、完全に理解し、解脱した、彼ら比丘らは、アーナーパーナサティ三昧が、彼らに修習され習熟されたならば、この世における安楽なる住処[現法楽住]と、そして念と正知へと導く。」

「なんとなれば、比丘たちよ、誰でも正しく語る者は言うであろう。――『それは聖なる住処である』と。『それは崇高なる住処である』と。『それは如来の住処である』と。アーナーパーナサティ三昧を正しく語る者は言うであろう。――『それは聖なる住処である』と。『それは崇高なる住処である』と。『それは如来の住処である』と。」 (安般相応 第二品第一)

疑惑経 (2-2)

ある時、尊者ローマサカンビヤ[ローマサヴァンギーサ?]はニグローダ園にて、カピラヴァットゥの釈迦族の者たちの中で、留まっていた。さて、釈氏マハーナーマは、尊者ローマサカンビヤのところに近づいた。近づいてから、尊者ローマサカンビヤを礼拝し、一方に坐した。一方に座してから、釈氏マハーナーマは、尊者ローマサカンビヤにこう申し上げた。――「大徳よ、かの学ぶべきこと有る者の住処[学住]とは、すなわちかの如来の住処[如来住]でしょうか。それとも学ぶべきこと有る者の住処は異なり、如来の住処は異なるのでしょうか?」と。

「友マハーナーマよ、かの学ぶべきこと有る者の住処とは、すなわちかの如来の住処ではない。実に、友マハーナーマよ、学ぶべきこと有る者の住処は異なり、如来の住処は異なる。友マナーナーマよ、学ぶべきこと有る者[有学]であり、心が未だ達しておらず、比類なき軛からの安穏を求めて住する彼ら比丘らは、それら五つの障碍[五蓋]について捨断して住している。何が五であろうか?①貪欲の障碍を、彼らは捨断して住している。②悪意[瞋恚]の障碍を…乃至…、③無気力[惛沈]と物憂さ[睡眠]の障碍を…乃至…、④落ち着きの無さ[掉挙]と後悔[悪作]の障碍を…乃至…、⑤(業や輪廻、四聖諦に対する)疑い[疑]の障碍を、彼らは捨断して住している。」

「友マハーナーマよ、学ぶべきこと有る者[有学]であり、心が未だ達しておらず、比類なき軛からの安穏を求めて住する彼ら比丘らは、それら五つの障碍について捨断して住している。」

「友マハーナーマよ、阿羅漢であり、煩悩が尽き、(修行が)完成し、為されるべきことが為され、重荷を下ろし、自己の利をすでに得、存在の結縛を滅ぼし尽くし、完全に理解し、解脱した、彼ら比丘らには、それら五つの障碍はすでに捨断され、根本を断ち切られ、(根元を失った)多羅樹の様に、存在しないものの様に、未来においてもはや生ずることのない法[不生法]である。何が五であろうか?①貪欲の障碍はすでに捨断され、根本を断ち切られ、(根元を失った)多羅樹の様に、存在しないものの様に、未来において生ずることのない法である。②悪意の障碍はすでに捨断され…乃至…、③無気力と物憂さの障碍は…乃至…、④落ち着きの無さと後悔の障碍は…乃至…、⑤(業や輪廻、四聖諦に対する)疑いの障碍はすでに捨断され、根本を断ち切られ、(根元を失った)多羅樹の様に、存在しないものの様に、未来においてもはや生ずることのない法である。」

「友マナーナーマよ、阿羅漢であり、煩悩が尽き、(修行が)完成し、為されるべきことが為され、重荷を下ろし、自己の利をすでに得、存在の結縛を滅ぼし尽くし、完全に理解し、解脱した、彼ら比丘らには、それら五つの障碍はすでに捨断され、根本を断ち切られ、(根元を失った)多羅樹の様に、存在しないものの様に、未来においてもはや生ずることのない法である。実に、友マハーナーマよ、次のような方法によってもまた知られるべきである。どのように――学ぶべきこと有る者の住処は異なり、如来の住処は異なるかを。」

「さてその時、友マハーナーマよ、世尊はイッチャーナンガラのイッチャーナンガラ林に留まっておられた。そこで、友マハーナーマよ、世尊は比丘たちに告げられた。――『比丘たちよ、私は三ヶ月独坐したい。托鉢の食を送る者を除いて、誰も私に近づく者が無いように』と。『そのとおりに、大徳よ』と、友マハーナーマよ、彼ら比丘たちは世尊に答え、誰一人として世尊に近づかなかった、托鉢の食を送る者を除いては。」

「その時、友よ、その三ヶ月が過ぎて、世尊は独坐より起たれ、比丘たちに語りかけられた。――「比丘たちよ、もし他の教義を信奉する修行者[外道]らが、このように尋ねてきたならば――『友よ、沙門ゴータマは雨安居所において、どのような住処に常々住したのであろうか?』と、このように汝らが尋ねられたならば、比丘たちよ、その他の教義を信奉する修行者らに解答すべきである。――『友よ、実に世尊は、雨安居所において、常々アーナーパーナサティ三昧に住されたのである』と。比丘たちよ、ここに私は、念じて入息し、念じて出息する。長く入息しては『私は長く入息している』と、私は知る。長く出息しては『私は長く出息している』と、私は知る。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、私は知る。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、私は知る。」

「なんとなれば、比丘たちよ、誰でも正しく語る者は言うであろう。――『それは聖なる住処[聖住]である』と。『それは崇高なる住処[梵住]である』と。『それは如来の住処[如来住]である』と。アーナーパーナサティ三昧を正しく語る者は言うであろう。――『それは聖なる住処である』と。『それは崇高なる住処である』と。『それは如来の住処である』と。」

「比丘たちよ、学ぶべきこと有る者であり、心が未だ達しておらず、比類なき軛からの安穏を求めて住する彼ら比丘らは、アーナーパーナサティ三昧が、彼らに修習され習熟されたなたらば、諸々の煩悩の滅尽へと導く。」

「実に、比丘たちよ、阿羅漢であり、煩悩が尽き、(修行が)完成し、為されるべきことが為され、重荷を下ろし、自己の利をすでに得、存在の結縛を滅ぼし尽くし、完全に理解し、解脱した、彼ら比丘らは、アーナーパーナサティ三昧が、彼らに修習され習熟されたならば、この世における安楽なる住処[現法楽住]と、そして念と正知へと導く。」

「なんとなれば、比丘たちよ、誰でも正しく語る者は言うであろう。――『それは聖なる住処[聖住]である』と。『それは崇高なる住処である』と。『それは如来の住処である』と。アーナーパーナサティ三昧を正しく語る者は言うであろう。――『それは聖なる住処である』と。『それは崇高なる住処である』と。『それは如来の住処である』と」。「実に、友マハーナーマよ、こような方法によってもまた知られるべきである。どのように――学ぶべきこと有る者の住処は異なり、如来の住処は異なるかを。」 (安般相応 第二品第二)

比丘経第一 (2-5)

さて、衆多の比丘たちが世尊のところに近づいた。近づいてから、世尊に礼拝し、一方に坐した。一方に坐してから、彼ら比丘たちは世尊にこう申し上げた。――「大徳よ、一法があって、修習され習熟されたならば、四法を完成するでしょうか?四法があって、修習され習熟されたならば、七法を完成するでしょうか?七法があって、修習され習熟されたならば、二法を完成するでしょうか?」と。「比丘たちよ、一法があって、修習され習熟されたならば、四法を完成する。四法があって、修習され習熟されたならば、七法を完成する。七法があって、修習され習熟されたならば、二法を完成する。」

「しかし、大徳よ、一法が修習され習熟されたならば、四法を完成する、とはどのようなことでしょうか?四法が修習され習熟されたならば、七法を完成する、とはどのようなことでしょうか?七法が修習され習熟されたならば、二法を完成する、とはどのようなことでしょうか?」。「比丘たちよ、実にアーナーパーナサティ三昧が一法であり、修習され習熟されたならば、四念処を完成する。四念処が修習され習熟されたならば、七菩提分を完成する。七菩提分が修習され習熟されたならば、明と解脱を完成する。」

「では比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がどのように修習され、どのように習熟されたならば、四念処を完成するであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が阿蘭若に行き、あるいは…乃至…、実に比丘たちよ、七覚分がこのように修習され、このように習熟されたならば、明と解脱とを完成する。」 (安般相応 第二品第五)

比丘経第二 (2-6)

さて、衆多の比丘たちが世尊のところに近づいた。近づいてから、世尊を礼拝し、一方に坐した。一方に坐してから、世尊は、彼ら比丘たちにこう告げられた。――「実に、比丘たちよ、一法があって、修習され習熟されたならば、四法を完成するであろうか?四法があって、修習され習熟されたならば、七法を完成するであろうか?七法があって、修習され習熟されたならば、二法を完成するであろうか?」と。「大徳よ、我々の教え[法]は世尊に根ざしています…乃至…、世尊の(説かれるのを)聞いて、比丘たちは憶持するでしょう。」 「比丘たちよ、一法があって、修習され習熟されたならば、四法を完成する。四法があって、修習され習熟されたならば、七法を完成する。七法があって、修習され習熟されたならば、二法を完成する。」

「では、比丘たちよ、一法が修習され習熟されたならば、四法を完成する、とはどのようなことであろうか?四法が修習され習熟されたならば、七法を完成する、とはどのようなことであろうか?七法が修習され習熟されたならば、二法を完成する、とはどのようなことであろうか?実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧が一法であり、修習され習熟されたならば、四念処を完成する。四念処が修習され習熟されたならば、七菩提分を完成する。七菩提分が修習され習熟されたならば、明と解脱を完成する。」

「では、比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がどのように修習され、どのように習熟されたならば、七菩提分を完成するであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が、阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは空屋に行って結跏趺坐し、身体を直くし面前に念を備えて、ただ念じて彼は入息する。ただ念じて彼は出息する。…乃至…『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。

「比丘たちよ、どのような時であれ、比丘は長く入息しては、『私は長く入息している』と知る。長く出息しては『私は長く出息している』と、彼は知る。短く入息しては『私は短く入息している』と彼は知る。…乃至…『私は一切身を覚知して…乃至…、『私は身行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は身行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。――その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、身体における身随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。どのような理由によってであろうか?比丘たちよ、――入息と出息、これを名づけて“ある種の身体”であると、私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、身体における身随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は喜を覚知して…乃至…、『私は楽を覚知して…乃至…、『私は心行を覚知して…乃至…、『私は心行を止息させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心行を止息させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。――その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、感受における受随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。どのような理由によってであろうか?比丘たちよ、――入息と出息によく意を用いること、これを名づけて“ある種の感受”であると、私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、感受における受随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は心を覚知して…乃至…、『私は心を満足させて…乃至…、『私は心を統一して、出息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を解脱させて、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は心を解脱させて、出息しよう』と、彼は学ぶ。――その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、心における心随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。どのような理由によってであろうか?比丘たちよ、念を失って正知することがなければ、アーナーパーナサティ三昧の修習は無いと、私は説く。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、心における心随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘は『私は無常を随観して…乃至…、『私は離欲を随観して…乃至…、『私は滅を随観して…乃至…、『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。――その時、比丘たちよ、比丘は熱心に、正知し、念じ、法における法随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。般若[智慧]により、貪欲と憂いとの捨断を見、彼は“明らかに観る者”となる。この故に、比丘たちよ、比丘はその時、熱心に、正知し、念じ、法における法随観に住す。この世における貪欲と憂いとを調伏して。」

「実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がこのように修習され、このように習熟されたならば、四念処を完成する。」

「では比丘たちよ、四念処がどのように修習され、どのように習熟されたならば、七菩提分が完成するであろうか?どのような時であれ、比丘たちよ、比丘が身体における身念処に住する時には、――その比丘には確立された忘失することの無い念がある。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に確立された忘失することの無い念がある時には、――その比丘に念覚分の生起がある。比丘が念覚分を修習する時には、念覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「彼はそのように念に住し、般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに至る。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘がそのように念に住し、般若によって、かの法を簡択し、考察し、深慮するに至る時には、――その比丘に択法覚分の生起がある。比丘が択法覚分を修習する時には、択法覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに 彼には努力[精進]が弛むことなく生起する。どのような時であれ、比丘たちよ、般若によってかの法を簡択し、考察し、深慮するに 比丘に努力[精進]が弛むことなく生起する時には、――その比丘に精進覚分の生起がある。比丘が精進覚分を修習する時には、精進覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「努力が生起したならば、穢れなきことからの喜びが生じる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に努力が生起し、穢れなきことからの喜びが生じた時には、――その比丘に喜覚分の生起がある。比丘が喜覚分を修習する時には、喜覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「喜びある意識に対して、(彼の)身体が軽安となり、また心も軽安となる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に、喜びある意識に対して身体が軽安となり、また心も軽安となる時には、――その比丘に猗覚分の生起がある。比丘が猗覚分を修習する時には、猗覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「軽安なる身体と安楽に対して、彼は心を統一する。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に、軽安なる身体と安楽に対して、彼が心を統一する時には、――その比丘に定覚分の生起がある。比丘が定覚分を修習する時には、定覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「彼は、そのように統一された心を“明らかに観る者”となる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘が、そのように統一された心を“明らかに観る者”となる時には、――その比丘に捨覚分の生起がある。比丘が捨覚分を修習するときには、捨覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」

「どのような時であれ、比丘たちよ、比丘が感受における…乃至…、心における…乃至…、法における法随観に住する時は、――その比丘に確立された忘失することの無い念がある。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘に確立された忘失することの無い念がある時には、――その比丘に念覚分の生起がある。比丘が念覚分を修習する時には、――念覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。」…乃至…

「彼は、そのように統一された心を“明らかに観る者”となる。どのような時であれ、比丘たちよ、比丘が、そのように統一された心を“明らかに観る者”となる時には、――その比丘に捨覚分の生起がある。比丘が捨覚分を修習するときには、捨覚分はその比丘の修習とともに完成へと向かう。比丘たちよ、四念処がこのように修習され、このように習熟されたならば、七菩提分を完成する。」

「では比丘たちよ、七菩提分がどのように修習され、どのように習熟されたらならば、明と解脱とを完成するであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が、念覚分を修習する。遠離により、離欲により、滅によって、棄捨[=涅槃]へと至る。彼は、択法覚分を修習する。遠離により、離欲により、滅によって、棄捨[=涅槃]へと至る。…乃至…、捨覚分を修習する。遠離により、離欲により、滅によって、棄捨へと至る。実に比丘たちよ、七覚分がこのように修習され、このように習熟されたならば、明と解脱とを完成する。」 (安般相応 第二品第六)

結縛捨断経 (2-7)

「比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧が、修習され習熟されたならば、結縛の捨断へと導く…乃至…。」 (安般相応 第二品第七)

随眠断絶経 (2-8)

「…随眠を断絶へと導く…。」  (安般相応 第二品第八)

行路遍知経 (2-9)

「…行路の遍知へと導く…。」  (安般相応 第二品第九)

漏尽経 (2-10)

「…煩悩[漏]の滅尽へと導く。比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧が、どのように修習され、どのように習熟されたならば、結縛の捨断へと導くであろうか?…随眠の断絶へと導くであろうか?…行路の遍知へと導くであろうか?…煩悩の滅尽へと導くであろうか?比丘たちよ、ここにおいて比丘が、阿蘭若に行き、あるいは樹下に行き、あるいは…乃至…、『私は捨離を随観して、入息しよう』と、彼は学ぶ。『私は捨離を随観して、出息しよう』と、彼は学ぶ。実に、比丘たちよ、アーナーパーナサティ三昧がこのように修習され、このように習熟されたならば、結縛の捨断へと導く。…乃至…随眠の断絶へと導く。…乃至…行路の遍知へと導く。…乃至…煩悩の滅尽へと導く。」 (安般相応 第二品第十)

第二品(了)

それらの目録は――
一奢能伽羅・疑惑、阿難が他に二つ;
比丘(が二つ)・結縛・随眠、行路・漏尽である。

安般相応 第十(了)

日本語訳:沙門覺應
(horakuji@gmail.com)

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