真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Majjhima Nikāya, Ānāpānasatisutta(中部『安般念経』)

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1.パーリ語原文

Ānāpānassatisutta

Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ bhagavā sāvatthiyaṃ viharati pubbārāme migāramātupāsāde sambahulehi abhiññātehi abhiññātehi therehi sāvakehi saddhiṃ – āyasmatā ca sāriputtena āyasmatā ca mahāmoggallānena āyasmatā ca mahākassapena āyasmatā ca mahākaccāyanena āyasmatā ca mahākoṭṭhikena āyasmatā ca mahākappinena āyasmatā ca mahācundena āyasmatā ca anuruddhena āyasmatā ca revatena āyasmatā ca ānandena, aññehi ca abhiññātehi abhiññātehi therehi sāvakehi saddhiṃ.

Tena kho pana samayena therā bhikkhū nave bhikkhū ovadanti anusāsanti. Appekacce therā bhikkhū dasapi bhikkhū ovadanti anusāsanti, appekacce therā bhikkhū vīsampi bhikkhū ovadanti anusāsanti, appekacce therā bhikkhū tiṃsampi bhikkhū ovadanti anusāsanti, appekacce therā bhikkhū cattārīsampi bhikkhū ovadanti anusāsanti. Te ca navā bhikkhū therehi bhikkhūhi ovadiyamānā anusāsiyamānā uḷāraṃ pubbenāparaṃ visesaṃ jānanti.

Tena kho pana samayena bhagavā tadahuposathe pannarase pavāraṇāya puṇṇāya puṇṇamāya rattiyā bhikkhusaṅghaparivuto abbhokāse nisinno hoti. Atha kho bhagavā tuṇhībhūtaṃ tuṇhībhūtaṃ bhikkhusaṅghaṃ anuviloketvā bhikkhū āmantesi – ‘‘āraddhosmi, bhikkhave, imāya paṭipadāya; āraddhacittosmi, bhikkhave, imāya paṭipadāya. Tasmātiha, bhikkhave, bhiyyosomattāya vīriyaṃ ārabhatha appattassa pattiyā, anadhigatassa adhigamāya, asacchikatassa sacchikiriyāya. Idhevāhaṃ sāvatthiyaṃ komudiṃ cātumāsiniṃ āgamessāmī’’ti. Assosuṃ kho jānapadā bhikkhū – ‘‘bhagavā kira tattheva sāvatthiyaṃ komudiṃ cātumāsiniṃ āgamessatī’’ti. Te jānapadā bhikkhū sāvatthiṃ osaranti bhagavantaṃ dassanāya. Te ca kho therā bhikkhū bhiyyosomattāya nave bhikkhū ovadanti anusāsanti. Appekacce therā bhikkhū dasapi bhikkhū ovadanti anusāsanti, appekacce therā bhikkhū vīsampi bhikkhū ovadanti anusāsanti, appekacce therā bhikkhū tiṃsampi bhikkhū ovadanti anusāsanti, appekacce therā bhikkhū cattārīsampi bhikkhū ovadanti anusāsanti. Te ca navā bhikkhū therehi bhikkhūhi ovadiyamānā anusāsiyamānā uḷāraṃ pubbenāparaṃ visesaṃ jānanti.

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2.日本語訳

安般念経(1) ―序分

このように私は聞いた*1 。――ある時、世尊はサーヴァッティー*2 プッバーラーマ*3 にある鹿母講堂*4 において、衆多の高名な上座*6 弟子*6 らと共に、――尊者サーリプッタ*7 、尊者マハーモッガッラーナ*8 、尊者マハーカッサパ*9 、尊者マハーカッチャーヤナ*10 、尊者マハーコッティカ*11 、尊者マハーカッピナ*12 、尊者マハーチュンダ*13 、尊者アヌルッダ*14 、尊者レーヴァタ*15 、尊者アーナンダ*16 、そしてその他の高名な上座の弟子らと共に、留まっておられた。

さてその時、上座比丘たちは、新比丘*17 たちを教え、諭していた*18 。またある上座比丘たちは、十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、二十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、三十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、四十人の比丘を教え、諭していた。彼ら新比丘たちは、上座の比丘たちに教誡され訓誡され、崇高で以前よりもさらに勝れたる(境地)を知った。

その時、十五日の布薩*19 の日にして自恣*20 の満月の夜、世尊は、露地にて比丘僧伽*21 に囲まれ坐されていた。そこで、世尊は、清閑として沈黙している比丘僧伽を見渡され、比丘たちに告げられた。――「比丘たちよ、私はこの(汝ら比丘たちの)行跡[進歩]に満足している*22 。 比丘たちよ、私の心はこの行跡に満足している。その故に、比丘たちよ、いまだ得ざるを得るがため、いまだ達せざるに達するがため、いまだ現証せざるを現証するがために、さらに一層つとめ励め。私はここサーヴァッティにてコームディーの四ヶ月祭*23 を待つであろう」と。さて、地方の比丘たち*24 は聞いたのであった――「皆が言うには、世尊は彼のサーヴァッティにてコームディーの四ヶ月祭を待たれるであろう」と。彼ら地方の比丘たちは、世尊にまみえるためにサーヴァッティに赴いた。さて彼ら上座比丘たちは、さらに一層、新比丘たちを教え、諭していた。またある上座比丘たちは、十人の比丘を教誡し、訓戒していた。またある上座比丘たちは、二十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、三十人の比丘を教え、諭していた。またある上座比丘たちは、四十人の比丘を教え、諭していた。彼ら新比丘たちは、上座の比丘たちに教誡され訓誡され、崇高で以前よりもさらに勝れたる(境地)を知った。

日本語訳:沙門覺應 (慧照)
(Translated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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3.脚注

  • このように私は聞いた‘Evaṃ me sutaṃ’。パーリ経典のほとんど多くの経典は、このように言ってから経が始まる。ほとんどすべての漢訳経典もまた、漢訳者によって文言は若干異なるが、「如是我聞(是の如く我れ聞けり)」と始まる。ここに言う私(我)とは、仏陀滅後三ヶ月後に王舎城にて、五百人の阿羅漢によって行われた第一の法と律との結集において、すべての経を誦出したと伝承されるアーナンダ(阿難)尊者。→本文に戻る
  • サーヴァッティーSāvatthī。北インドのガンジス川中流域(現インドのウッラルプラデーシュ州北東部)に栄えた古代国Kosala[コーサラ]の、いわば首都であった都市。漢訳では、舎衛国あるいは舎衛城。コーサラ国とは、当時のガンジス川中流域を中心とする北インドには、十六大国といって十六の国々があったと経典に伝承されているが、その中でも最も強大であったという内の一国。
    釈尊在世当時のコーサラ国王Pasenadi[パセーナディー]は、釈尊の最大の外護者の一人であったとされる。しかし、仏陀ご在世中、この王が死んで王位を継承したその子Vidūdabha[ヴィドゥーダバ]王によって、仏陀の一族たる釈迦族はほとんど皆殺しにされ、仏陀の故国は滅びる。そしてそれからまもなく、そのコーサラ国自体も同じく北インドで覇権を競っていたMagadha[マガダ]国によって滅ぼされる。
    この釈迦族が滅ぼされる経緯について生まれたのが、「仏の顔も三度まで」という格言。巷間、この格言の意味はまるで異なったものとして誤用されている。正しい意味、本来の意味は“明恵上人の手紙(6)”のを参照のこと。→本文に戻る
  • プッバーラーマPubbārāmaārāmaとは「園」の意。サーヴァッティーの東方にあった園。鹿母講堂をいう。
    漢語・日本語でいう伽藍[がらん]とは、もともと僧伽藍の略であるが、これはsaṃghārāmaの音写語で「僧園」・「精舎」の意。日本語で俗にいう、中に人も何もないことを言う「がらんどう」とは、この語に由来する。→本文に戻る
  • 鹿母講堂Migāramātupāsāda。サーヴァッティの長者でMigāra[ミガーラ](鹿子)に嫁いだVisākhā[ヴィサーカー](毘舎佉)の寄進によって建てられた精舎。祇園精舎にならび称される仏陀ご在世の大精舎の一つ。数多くの教えがこの地で説かれた。
    夫ミガーラは最初、六師外道の一人Nigantha[ニガンタ]の信者であったけれども、妻ヴィサーカーの勧めによってついに仏陀の信者となる。やがてミガーラは仏陀への信仰へ導いいてくれたことを感謝して、ヴィサーカーを“māta”(母)と呼んだ。このことから、彼女は“Migāramāta”(ミガーラの母・鹿子母)と呼ばれるようになる。→本文に戻る
  • 上座thera。年長、長老の者。仏教では、僧侶の席次を決めるのは、具足戒を受けてより一年のうち三ヶ月間の雨安居を正しく過ごしてきた数によってのみ定められる。広義では、相対的にある比丘に対して過ごした雨安居の数が多い比丘が上座であるが、狭義には受具して後相当の年数を重ねた者で、法と律とに通じて、なお行に長けた行学兼備の高徳の人をのみ指して言う言葉。契経(AN, dutiyauruvelasutta)には、therakaraṇa dhammaと云って、上座とする為の四種の条件が説かれる。現在のスリランカなどではこのような区別などされず、出家してまもない比丘であっても総じて僧名の下にthero(上座)が付せられて誰彼無く呼ばれる。→本文に戻る
  • 弟子sāvaka。教えを聞く者、すなわち弟子の意。漢訳ではこれを声聞[しょうもん]という。ここでは以下、高名な仏弟子のうち幾人かの名が列挙される。しかし、彼らは経の内容に全く関しておらず、いわば本経を荘厳するために名が挙げ連ねられているようなものとも言える。→本文に戻る
  • サーリプッタSāriputta。舎利弗[しゃりほつ]あるいは舎利子。仏陀の高弟のうち智慧第一と、もっとも智慧が勝れていたと讃えられる人。バラモン階級出身。実名Upatissa[ウパティッサ]。ウパティッサは彼の出た村の名Upatissagāmaによるもの。しかし、母の名がRūpasāri[ルーパサーリ]ということからSāriputta(サーリの子)との呼称があり、仏典ではほとんどこの名が用いられている。また一部の仏典では、Sārisambhava[サーリサンバヴァ]ともされる(“Apadāna”)。
    もともと六師外道といわれる沙門の一人Sañjaya[サンジャヤ]に師事していたが、開悟してまもない五群比丘の一人Assaji[アッサジ]との邂逅によって仏陀の門人となる。以降、仏弟子の中でも主導的な役割を担う大弟子となっていく。この経緯については別項“仏陀の教え”の“Dhammakāya ghātā(法身偈)”を参照のこと。→本文に戻る
  • マハーモッガッラーナMahāmoggallāna。目蓮あるいは目犍連。仏陀の高弟のうち神通第一と、その神通力の最も秀でたるを讃えられる人。バラモン階級出身。実名Kolita[コーリタ]。コーリタは、ウパティッサに同じく彼の出た村の名Kolitagamaに因むものという。母の名はMoggallāni[モッガッラーニ]。サーリプッタとは幼い頃から無二の親友であったといい、二人揃ってサンジャヤの弟子として出家。しかし満足できず、いつか二人のうちどちらかが良き師・教えに巡り会えたならば必ずそれを一方に知らせる、という約束を交わしていた。ついにサーリプッタは仏陀の教えに出逢い、これを告げられたモッガーラーナは二人して仏門に入り、諸仏弟子中において二大巨頭となる。
    しかし、モッガッラーナ尊者の最期は悲惨なもので、外道(ジャイナ教)の信徒に激しく打ちのめされて殺されている。それは、尊者が、前世において盲目の両親を疎ましく思って森に連れ出し、妻と計って打ち殺したという、その因果のためであったという。尊者は事前に外道の襲撃があることを知っていたものの、それが避けがたい自らの業果であるとも知って、あえてそれを避けなかったのだと云われる。シャーリプッタ尊者は、莫逆の友モッガッラーナ尊者の非業の死に際し、仏陀に暇を告げ、自らの寿命を捨てて先に涅槃している。→本文に戻る
  • マハーカッサパMahākassapa。摩訶迦葉。漢訳名に飲光がある。仏陀の高弟のうち頭陀第一と、その行業の最も清貧にして厳しいことが称えられる人。マガダ国はMahātittha[マハーティッタ]村のバラモン階級出身。実名Pippali[ピッパリ]。仏陀滅後、その法と律とが散逸してしまわぬようにと結集を開催することを主導した。そのとき、マハーカッサパ尊者の齢は120歳であったと伝説される。もっとも、仏典における120歳というのは、大変な高齢であったことを形容する言葉で実年齢ではない。いずれにせよ、それは尊者が仏陀より年長であったろうことを示唆している。マハーカッサパ尊者とアーナンダ尊者とは不仲であったような記述が仏典のそこここに記録されているが、分別説部ではこれをマハーカッサパ尊者のアーナンダ尊者への愛情の現れであると楽観的・肯定的に捉えている。
    大乗では、尊者はKukkutagiri[クックタギリ](鶏足山)に入定して、未来仏たる弥勒仏を待っていると伝説される。余談ながら、慈雲尊者の僧としての実名は摩訶迦葉尊者にちなんで飲光[おんこう]という。→本文に戻る
  • マハーカッチャーヤナMahākaccāyana。あるいはMahākaccāna[マハーカッチャーナ]とも。摩訶迦旃延。仏陀の高弟のうち論議(広説)第一と、仏陀の教えを敷衍して説くことが最も優れていた人と称えられる。Avanti[アヴァンティ]の首都Ujjenī[ウッジェーニー]のバラモン階級出身。父はまさしく国のバラモン(司祭)であったといい、父の死後これを嗣ぐも仏陀に出会って出家。分別説部では、現在もいまだ用いられているパーリ語の文法書“Kaccāyana-vyākaraṇa”は、このマハーカッチャーヤナ尊者によるものと伝説される。→本文に戻る
  • マハーコッティカMahākoṭṭhika。あるいはMahākoṭṭhita[マハーコッティタ]とも。仏陀の高弟のうち無礙解第一と、仏陀の教えを論理的に理解することに最も優れていた人と称えられる。→本文に戻る
  • マハーカッピナMahākappina。罽賓那、あるいは迦匹那。出自の詳細は不明。けれども相応部因縁品の”Mahākappinasutta”では大威力(神通力)あり説法に優れて巧みな人と称えられ、また同じく相応部大品のMahākappinasuttaでは彼が安般念によってすぐれた境地を得た人として、仏陀から讃えられている。漢訳経典(『増一阿含経』巻廿二)にても、「能行出入息 迴轉心善行 慧力極勇盛 此名迦匹那」(大正2, P662下段)との偈によって安般念に秀でた人として讃えられている。→本文に戻る
  • マハーチュンダMahācunda。サーリプッタの弟であり、仏陀の随行のうちの一人とも伝えられる人。実名Samanuddesaであったという。マハー(偉大な)が冠されているように、仏陀の高弟の一人として挙げられるが、経典自体からはその出自など詳細を知り得ない。→本文に戻る
  • アヌルッダAnuruddha。阿那律。仏陀の従兄弟でMahānāma[マハーナーマ]の兄弟。釈迦族(クシャトリヤ階級)出身。仏陀の高弟のうち天眼第一と、その天眼のもっとも優れていたことが称えられる。彼が出家したのは、マハーナーマの勧めによってであり、同じく釈迦族からĀnanda[アーナンダ]・Bhagu[バグ]・Kimbila[キンビラ]・Devadatta[デーヴァダッタ]、そしてシュードラ(奴隷)階級で理髪師のUpāli[ウパーリ]と共にであったという。サーリプッタからの八大人覚の教示により、そして仏陀の助言によって阿羅漢果を得ている。釈尊が亡くなる際にはアーナンダ尊者と共に側仕えており、偉大な師の死に際して、涙を止め得ないアーナンダ尊者と対照的に、世の全ては無常であることを静かに冷静に見つめている。尊者の最期はVajji[ヴァッジ]のVelugāma[ヴェールガーマ]であったといい、世寿115歳であったと伝えられる。
    北伝では、仏陀の説法中、覚えず居眠りをしているのを咎められたアヌルッダ尊者は、以降不眠の誓いを建て、失明するに至ったと云われる。しかし、むしろこれによって天眼を得た、と云われる。南伝でも尊者が、数十年間も不眠であったと伝えている。→本文に戻る
  • レーヴァタRevata。梨婆多。サーリプッタの実の末弟。仏弟子中、阿蘭若住の比丘のうち最も勝れた人であったと称えられる。→本文に戻る
  • アーナンダĀnanda、音写名は阿難、漢訳名は歓喜など。仏陀の従兄弟で、アヌルッダならびにマハーナーマ(の異母弟?)、ならびにデーヴァダッタの兄弟。仏弟子中多聞第一と、仏陀の言動・その教説をもっとも耳にし、記憶していた人と称えられる。仏陀が成道された翌年、アヌルッダらと共に出家。ほどなく預流果を得たという。仏陀の成道から二十年後、その随行として僧伽から指名されるもこれを最初拒絶。しかしついにこれを受け入れ、以降仏陀の般涅槃までの二十五年間を、あたかも身にその陰が付き従うように、常に行動を共にし、仏陀の身の回りの世話をしたという。南方の伝説では仏陀と同じに日に生まれたのであるといい、とするとその最期は老老介護のようなものであった(そもそも、老いた釈尊の随行を誰かにさせよう、とするときに同年の者を使おうとするなど少々考えにくい。そのようなことからすると、これについてのセイロンに発する南方の伝承にはいろいろ不合理な点があって、ただちに承服できるものではない)。
    アーナンダ尊者は、出家して四十四年間、仏陀の最期を迎えてもついに阿羅漢果を得ることは出来ず、仏陀の死に際してはその悲しみをこらえることが出来ず涙にくれている。このことは多くの仏教美術の主題となっている。しかし、仏滅後の三ヶ月後に行われる結集の日の朝、なんとか阿羅漢として結集に参加しようと明け方まで瞑想に励むもついに果たせず、疲れた身体を横たえようとしてその頭が枕につくかつかないかというその瞬間、期せずして阿羅漢果を得る。これによって、晴れて阿羅漢として結集に参加し、ウパーリ尊者の律の誦出に続いて、法すなわち経を誦出している。
    以降、尊者は多くの弟子を育てている。尊者の最後は壮絶なもので、尊者の死が近いことを耳にしたマガダとヴェーサーリーとの近隣国の王とその軍勢とが、尊者の舎利をめぐって今にも争いを起こさんとする構えを見せる中、尊者は、河の中洲にあって火生三昧に入り、自らその身を燃やしてその遺骨を分配したと伝えられる。
    尊者の涅槃に関して興味深い説話を伝えるものに、玄奘三蔵の『大唐西域記』がある。それによれば、老齢となった尊者がマガダ国の林を散歩していたところ、偶然にも沙弥が誤った教法を口にしているのを耳にする。これをたしなめた所、この教法は沙弥の優れた師より聞いたものであって、誤っているのは老いさらばえて耄碌した長老(アーナンダ)である、と逆に笑われ責められ、「もはや仏滅から時を経、正法も失われかけている。衆生は煩悩にまみれて、これを教誡することは困難であり、これ以上世にとどまっていても利は少ない。もはや般涅槃の時である」と決心したことに依るという。『大唐西域記』 「阿難陀者如來之從父弟也。多聞總持博物強識。佛去世後繼大迦葉。任持正法導進學人。在摩揭陀國於林中經行。見一沙彌諷誦佛經。章句錯謬文字紛亂。阿難聞已感慕增懷。徐詣其所提撕指授。沙彌笑曰。大德耄矣。所言謬矣。我師高明春秋鼎盛。親承示誨誡無所誤。阿難默然退而歎曰。我年雖邁為諸眾生欲久住世。住持正法。然眾生垢重難以誨語。久留無利可速滅度。於是去摩揭陀國趣吠舍釐城。度殑伽河泛舟中流。摩揭陀王聞阿難去。情深戀德。即嚴戎駕疾驅追請。數百千眾營軍南岸。吠舍釐王聞阿難來。悲喜盈心。亦治軍旅奔馳迎候。數百千眾屯集北岸。兩軍相對旌旗翳日。阿難恐鬪其兵更相殺害。從舟中起上昇虛空。示現神變即入寂滅。化火焚骸骸又中折。一墮南岸。一墮北岸。於是二王各得一分。舉軍號慟。俱還本國。起窣堵波而修供養」(大正51, P909下段)
    仏陀の高弟とされた人の多くはバラモン階級あるいはクシャトリヤ階級出身、しかも軒並み裕福な家の出の人で、ウパーリ尊者はむしろ異例である。これはその階級を受け継ぐ血が優れている、ということではなく、そのような社会階級がそのまま教育の有無・高低・優劣に反映されていると見ることが出来る。仏陀の教えは、無教養の人に容易く受け入れられ、理解されるものではなかった。「衣食足りて礼節を知る」というが、「衣食が足りても幸福にはなれない」こと、衣食の質と量とが幸福の質と量とに関しないことは、ほとんど衣食が足り礼節(すなわち教育)ある人にこそ真に知り得ることであろう(例外的に、現代ではブータンの如き例もあり、彼の国は決して物質的には豊かではないけれども、「幸福」についての教育そして西洋的先進諸国からの情報の抑制によって、自身を幸福であると感じる人が多いといわれるが、定かでない)。
    現状衣食が足りていない者、足りていないと感じる者どもは、ひたすらこれを追い求めることに終始して人生を終える。それもまた人生。
    いずれにせよ、そのような状況が仏陀ご在世のインドにはすでに現出しており、そして今にいたるまでさして変わっていない。いや、それはこの娑婆世界において決して変わることがない。→本文に戻る
  • 新比丘[しんびく]‘nave bhikkhū’。具足戒を受けてまもない比丘。律蔵では、具足戒を受けた後、その比丘は自身の師である和上の元で最低五年間、基本的に十年間、法と律とを学ばなければならないと規定している。この間に新比丘は基本的な比丘としての行儀作法や律の規定する諸項目・諸儀礼、経典・論書を学び、波羅提木叉を暗唱する。なんらか事情があって和上の元を離れる場合には、具足戒を受けて五年以上経過し、法と律とに通じた依止師(阿闍梨)を定め、その下について従わなければならないとされる。→本文に戻る
  • 教え、諭していたMA, ‘Ovadanti anusāsantīti āmisasaṅgahena dhammasaṅgahena cāti dvīhi saṅgahehi saṅgaṇhitvā kammaṭṭhānovādānusāsanīhi ovadanti ca anusāsanti ca.’→本文に戻る
  • 布薩[ふさつ]uposatha、またはposathaとも。満月と新月の日すなわち十五日毎に行われる、僧伽においてもっとも重要な儀式の一つ。その地域・境界に住んでいる全ての比丘が、特定の一処(戒壇など)に集まり、一人の上座比丘が波羅提木叉を暗唱するのを、他の比丘たちが静聴して行われる。しばしば僧侶の反省会・懺悔の儀式などと説明されるが正確でない。布薩とは、僧伽の清浄性を確認する儀式であって、それまでの十五日間、またはそれ以前になんらか罪を犯している比丘は、布薩に参加することは出来ない。ただちに出罪可能なものであれば、布薩に参加する以前に懺悔して出罪しておく。もし、同一地域・境界にある比丘が一人でもこれに参加していなかった場合は、その布薩は不成立となって再度全員集まって行わなければならない。詳細は別項、“戒律講説”の“現前僧伽と四方僧伽”を参照のこと。
    しかし、実際には分別説部の諸国でもこれを厳密に行なっている寺、現前僧伽はほとんど皆無に等しい。チベット、支那でも同様。日本は律の伝統が滅びたために、これを行う意義すら存在していない。ただ法式としてこれをいまだ伝えているのは、律宗・真言宗・真言律宗に限られる。禅宗でも儀礼としてこれを行うところが存するが、禅宗のそれは律と直接に関しない支那的儀礼。→本文に戻る
  • 自恣[じし]pavāraṇā。雨安居の最後の日、満月の日に行われる、いわば雨安居の終式。その昔は、自恣を迎えてからの一ヶ月間、比丘たちは袈裟衣を縫い繕うなどして次の安居に備えたり、遊行のための旅支度を整えた。これを衣時という。→本文に戻る
  • 比丘僧伽[びくそうぎゃ]bhikkhusaṅgha。比丘の集い。四人以上の比丘が一処にあることによって成立する。詳細は別項、“戒律講説”の“僧伽とは何か”ならびに“七衆―仏教徒の七つのあり方”を参照のこと。→本文に戻る
  • 満足している‘āraddho’ārabhatiの過去完了形で「始めた」・「励んだ」、あるいは「成し遂げた」・「得た」であるが、そうすると意味がよく取れない。よってここは注釈書の説によった。MA, ‘Āraddhoti tuṭṭho.’(āraddhoとは、満足している[の意])。→本文に戻る
  • コームディーの四ヶ月祭…‘komudiṃ cātumāsiniṃ’。komudiは雨季の四ヶ月間の最期の月となるKatthikaの満月の日。なぜこの日をコームディーと言うのかについて、これは長部の注釈書においてであるが、ブッダゴーサは以下のように解している。‘Komudiyāti kumudavatiyā. Tadā kira kumudāni supupphitāni honti, tāni ettha santīti komudī.’。本経の復註書でも以下のように言う。MT, ‘Komudīti kumudavatī. Tadā kira kumudāni supupphitāni honti.’Komudīとは、kumuda[睡蓮]である。その時、kumuda[睡蓮]が満開となるためにかく云われる)。→本文に戻る
  • 地方の比丘たち…‘jānapadā bhikkhū’。jānapadaは「地方」の意であるが、多くの言語でそうであるように、「田舎くさい」「洗練されていない」「俗塵にまみれた」といった意が暗に込められている場合がある。ここでは教導することの必要な比丘たちとして登場している。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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