真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ Majjhima Nikāya, Ānāpānasatisutta(中部『安般念経』)

本文6ページ中2ページ目を表示
解題凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6
原文 |  日本語訳

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ トップページに戻る

1.パーリ語原文

Ānāpānassatisutta

Tena kho pana samayena bhagavā tadahuposathe pannarase komudiyā cātumāsiniyā puṇṇāya puṇṇamāya rattiyā bhikkhusaṅghaparivuto abbhokāse nisinno hoti. Atha kho bhagavā tuṇhībhūtaṃ tuṇhībhūtaṃ bhikkhusaṅghaṃ anuviloketvā bhikkhū āmantesi – ‘‘apalāpāyaṃ, bhikkhave, parisā; nippalāpāyaṃ, bhikkhave, parisā; suddhā sāre patiṭṭhitā. Tathārūpo ayaṃ, bhikkhave, bhikkhusaṅgho; tathārūpā ayaṃ, bhikkhave, parisā yathārūpā parisā āhuneyyā pāhuneyyā dakkhiṇeyyā añjalikaraṇīyā anuttaraṃ puññakkhettaṃ lokassa. Tathārūpo ayaṃ, bhikkhave, bhikkhusaṅgho; tathārūpā ayaṃ, bhikkhave, parisā yathārūpāya parisāya appaṃ dinnaṃ bahu hoti, bahu dinnaṃ bahutaraṃ. Tathārūpo ayaṃ, bhikkhave, bhikkhusaṅgho; tathārūpā ayaṃ, bhikkhave, parisā yathārūpā parisā dullabhā dassanāya lokassa. Tathārūpo ayaṃ, bhikkhave, bhikkhusaṅgho; tathārūpā ayaṃ, bhikkhave, parisā yathārūpaṃ parisaṃ alaṃ yojanagaṇanāni dassanāya gantuṃ puṭosenāpi’’.

‘‘Santi, bhikkhave, bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe arahanto khīṇāsavā vusitavanto katakaraṇīyā ohitabhārā anuppattasadatthā parikkhīṇabhavasaṃyojanā sammadaññāvimuttā – evarūpāpi, bhikkhave, santi bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe. Santi, bhikkhave, bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe pañcannaṃ orambhāgiyānaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā opapātikā tattha parinibbāyino anāvattidhammā tasmā lokā – evarūpāpi, bhikkhave, santi bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe. Santi, bhikkhave, bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā rāgadosamohānaṃ tanuttā sakadāgāmino sakideva imaṃ lokaṃ āgantvā dukkhassantaṃ karissanti – evarūpāpi, bhikkhave, santi bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe. Santi, bhikkhave, bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ parikkhayā sotāpannā avinipātadhammā niyatā sambodhiparāyanā – evarūpāpi, bhikkhave, santi bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe.

‘‘Santi, bhikkhave, bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe catunnaṃ satipaṭṭhānānaṃ bhāvanānuyogamanuyuttā viharanti – evarūpāpi, bhikkhave, santi bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe. Santi, bhikkhave, bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe catunnaṃ sammappadhānānaṃ bhāvanānuyogamanuyuttā viharanti…pe… catunnaṃ iddhipādānaṃ… pañcannaṃ indriyānaṃ… pañcannaṃ balānaṃ… sattannaṃ bojjhaṅgānaṃ… ariyassa aṭṭhaṅgikassa maggassa bhāvanānuyogamanuyuttā viharanti – evarūpāpi, bhikkhave, santi bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe. Santi, bhikkhave, bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe mettābhāvanānuyogamanuyuttā viharanti… karuṇābhāvanānuyogamanuyuttā viharanti… muditābhāvanānuyogamanuyuttā viharanti… upekkhābhāvanānuyogamanuyuttā viharanti… asubhabhāvanānuyogamanuyuttā viharanti… aniccasaññābhāvanānuyogamanuyuttā viharanti – evarūpāpi, bhikkhave, santi bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe. Santi, bhikkhave, bhikkhū imasmiṃ bhikkhusaṅghe ānāpānassatibhāvanānuyogamanuyuttā viharanti. Ānāpānassati, bhikkhave, bhāvitā bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā. Ānāpānassati, bhikkhave, bhāvitā bahulīkatā cattāro satipaṭṭhāne paripūreti. Cattāro satipaṭṭhānā bhāvitā bahulīkatā satta bojjhaṅge paripūrenti. Satta bojjhaṅgā bhāvitā bahulīkatā vijjāvimuttiṃ paripūrenti.

このページのTOPへ / パーリ語原文へ / 日本語訳へ / 語注へ

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ 仏教の瞑想へ戻る

2.日本語訳

『安般念経』(2) ―比丘僧伽について

その時、十五日の布薩の日にしてコームディーの四ヶ月祭となる満月の夜、世尊は、露地にて比丘僧伽に囲まれ坐されていた。そこで、世尊は、清閑として沈黙している比丘僧伽を見渡され、比丘たちに告げられた。――「比丘たちよ、(この汝ら)*1 駄弁を弄することがない*2 。比丘たちよ、(この汝ら)衆は無駄口をたたくことから離れている。清浄なる真実において安立している。比丘たちよ、そのようなのがこの比丘僧伽である。比丘たちよ、そのようなのがこの衆である。そのような衆とは、もてなすに値するものであり、(食事などを)供えるに値するものであり、供養するに値するものであり、合掌するに値するものであり、この世界におけるこの上ない福田*3 である。比丘たちよ、そのようなのがこの比丘僧伽である。比丘たちよ、そのようなのがこの衆である。そのような衆に、少々(の物)が与えられれば多く(の利益)がもたらされ、多く(の物)が与えられてより多く(の利益)がもたらされる。比丘たちよ、そのようなのがこの比丘僧伽である。比丘たちよ、そのようなのがこの衆である。そのような衆は、この世においてまみえることは稀である。比丘たちよ、そのようなのがこの比丘僧伽である。比丘たちよ、そのようなのがこの衆である。そのような衆は、行李*4 と共に長い長い道のりを赴き、まみえるに値する衆である。」

「比丘たちよ、この比丘僧伽には、煩悩を滅ぼし、(修行を)完成し、為すべきことが為され、重荷を下ろし、自己の利益をすでに得、生存にまつわる軛を滅ぼし尽くし、完全なる理解によって解脱した、阿羅漢*5 たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、五下分結*6 を盡くし、(死後には天界に)化生*7 してその世から(人界へと)還ってくること無く涅槃を得る者[不還]*8 たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、三結*9 を盡くし、貪欲と瞋恚と痴*10 とを減衰する一来*11 があり、一度だけこの世に戻って苦しみの終焉を成すであろう。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、三結を盡くし、もはや悪趣に堕ちることが無く*12 三菩提*13 に至ることが決定した、預流*14 が存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。」

「比丘たちよ、この比丘僧伽には、四念処*15 の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、四正勤*16 の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。…乃至…四神足*17 に、…乃至…五根*18 に、…乃至…五力*19 に、…乃至…七覚分*20 に、…乃至…八支の聖道*21 の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、慈の修習*22 に専心没頭して住している比丘たちが存する。…乃至…悲の修習*23 に専心没頭して住している、…乃至…喜の修習*24 に専心没頭して住している、…乃至…捨の修習*25 に専心没頭して住している、…乃至…不浄の修習*26 に専心没頭して住している、…乃至…無常想の修習*27 に専心没頭して住している比丘たちが存する。――比丘たちよ、そのような比丘らが、この比丘僧伽には存している。比丘たちよ、この比丘僧伽には、アーナーパーナサティ[安般念]*28 の修習に専心没頭して住している比丘たちが存する。比丘たちよ、アーナーパーナサティが修習され習熟されたときには、大きな果報と大きな利益がある。比丘たちよ、アーナーパーナサティが修習され習熟されたときには、四念処を完成する。四念処が修習され習熟されたときには、七覚分を完成する。七覚分が修習され習熟されたときには、明と解脱*29 とを完成する。」

日本語訳:沙門覺應 (慧照)
(Translated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

このページのTOPへ / パーリ語原文へ / 日本語訳へ / 語注へ

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ 仏教の瞑想へ戻る

3.脚注

  • 衆[しゅ]…‘parisā’。集い、集団。→本文に戻る
  • 駄弁を弄することがない…‘apalāpāyaṃ’・‘nippalāpāyaṃ’。出家者は普段、寡黙であることが勧められ、また修行が進むほど自ずから寡黙となっていく。もっとも、それは口下手であることとは全く異なり、必要であるときには雄弁・饒舌であり、また直截にものを言うに畏れることがない。さらには、何事かを説明するに、譬喩を用いるに巧みで簡明であることが徳とされる。
    瞑想に専心している期間は、極力言葉を発せず、また何事につけ言葉を発しなければならないような環境に身を置かないことが、己が精神を明晰にするに非常に有効な手段である。その期間中、いかなる言葉をも発せず、極力その身体的動作も抑制して静かであることは、瑜伽を修習する者に強く推奨する。
    もっとも、ただ寡黙で静かであるだけならば路傍の石塊、下町の頑固むっつり親父となんら異なることがない。ただその表面だけそうすれば良いというのではなく、「何故、自分がそのようにするのか」のその動機と目的とを忘れてはならない。実際のところ、南方の分別説部の出家修行者の多くが、そのような「理想的あり方」の表面だけ真似、取り繕って事足れりとしてしまった本末転倒となっている。そしてそれは他人事ではなく、人とはややもすると忽ちそのようになってしまうものであるから、自らもよくよく注意しなければならないことである。
    これに直接関しない事柄となるが、英語にはregurgitate (regurgitation)という語がある。これは「飲み込んだものをもどす(吐く)」ことを意味する語であるけれども、転じて「(人の言うこと・聞いたことを)オウム返しに言う」「(理解すること無く)繰り返す」を意味する語でもある。たとえば仏陀の言葉でも過去の大徳の言葉であっても、それをただ繰り返すだけならば、それはあたかも吐きもどされたゲロのような汚物である。元は同じでも、まるで別ものである。しかし、それは食物などではなく言葉であるから、吐き戻されたゲロであってもそっくり同じように見えてしまうが、どうしてもそこには吐瀉物の臭気が漂う。そのようでは自他を損なうものとなるであろう。そのようではいかにも勿体無いというものである。仏陀の教え、達磨はregurgitateではなく、あくまでdigest (digestion)、すなわち消化・吸収して会得しなければその用をなさない。同じ口にするのならば、これを吐き戻す如くにするのではなく我が血肉としなければならないし、それがそもそもの目的であったろう。けれどもそれは、先に述べたように南アジア・東南アジアの分別説部においてもただregurgitationとなって、むしろそうすることこそが褒むべきもの、讃うべきものという文化・習慣を形成するに至って膠着している。そこでは、まさしく臨済禅師など禅の師家らが自身の言葉が記録され、また繰り返す者を大変嫌った、その訳がまさしく現実化して明らかなものとなっている。このことは憶念すべきことであろう。→本文に戻る
  • 福田[ふくでん]puññakkhetta。功徳を生み出す場。田畑に種を播けばいずれ大きな収穫となるように、それに布施をなすことによって大きな功徳がもたらされることから、このように言われる。福田とは漢訳で用いられる言葉。いまここに挙げられている文言は、分別説部で読誦される僧伽への帰依の言葉と同様。別項“仏陀の教え”の“Sangha guna(帰依僧)”を参照のこと。→本文に戻る
  • 行李[こうり]…‘puṭosenāpi’。「旅行かばん」あるいは単に「籠」などとしても良いかも知れなかったけれども、ここはあえて古風に「行李」とした。MA,‘Puṭosenāpīti puṭosaṃ vuccati pātheyyaṃ. taṃ pātheyyaṃ gahetvāpi upasaṅkamituṃ yuttamevāti attho. ‘‘Puṭaṃsenā’’tipi pāṭho, tassattho – puṭo aṃse assāti puṭaṃso, tena puṭaṃsena, aṃse pātheyyapuṭaṃ vahantenāpīti vuttaṃ hoti.’→本文に戻る
  • 阿羅漢[あらかん]Arahanta。声聞における修行の最終目標にして最高の境地。分別説部では、悟りの智慧(菩提)には五つの浅深があるとする。それはすなわち、上から正等覚(sammāsambodhi)・独覚(paccekabodhi)・無上声聞覚(aggasāvakabodhi)・大声聞覚(mahāsāvakabodhi)・初因声聞覚(pakatisāvakabodhi)。第一のものが仏陀、第二は独覚仏、残りの三つは阿羅漢の菩提。現在の人が到達可能であるのは、それらの中で智慧の最も劣る、最後の初因声聞覚に限られるとされる。→本文に戻る
  • 五下分結[ごげぶんけつ]pañca orambhāgiyāni saṃyojanāni。衆生を下界(欲界)に結びつける五つの結(煩悩)。その五つとはすなわち、有身見(Sakkāyadiṭṭhi / 我が有るとの思考)・疑(vicikicchā / 業と輪廻・因果、四聖諦に対する疑い)・戒禁取見(sīlabbataparāmāsa / 涅槃を得ることの因とならない誤った戒・道徳を信じて行うこと)・貪欲(kāmacchanda / 特には性欲)・瞋恚(byāpāda / 自他を害さんとする思い)。→本文に戻る
  • 化生[けしょう]…‘opapātikā’。両親(雌雄)の性交や受精などの過程を経ずして、忽然と誕生する生命。仏教では、生命の誕生の仕方を四種に分類する。その四つとはすなわち、胎生・卵生・湿生・化生。そのうちの化生とは、下は地獄や餓鬼の衆生、上は天界の神々の誕生の仕方をいう。ここでは後者の神々のそれを指す。→本文に戻る
  • 還ってくること無く涅槃を得る者…‘parinibbāyino anāvattidhammā’。一般にAnāgāmin、漢訳で不還[ふげん]あるいは阿那含[あなごん]といわれる聖者。人としての一生の中でこの境涯に達した者は、死後もはや人間として生まれ変わること無く、天界のいずこかに生まれ変わってそこで修行を完成し、解脱する。これに五種の別があることが説かれる。別項“仏教の瞑想”の“五停心観”、あるいは“Saṃyutta Nikāya, Ānāpānasaṃyutta(相応部安般相応)”の“Dutiyaphalasutta(果報経第二)”を参照のこと。→本文に戻る
  • 三結[さんけつ]…‘tiṇṇaṃ saṃyojanānaṃ’。五下分結のうちの有身見・疑・戒禁取見の三。→本文に戻る
  • 貪欲[とんよく]と瞋恚[しんに]と痴[ち]rāgadosamoha。貪りと怒りと無智の三つの根本煩悩。しばしば三毒といわれる。預流果に至った者は三結を断じてはいるもののいまだ三毒がそのままあり、一来果にてこの勢力を漸漸と減じていく。→本文に戻る
  • 一来[いちらい]Sakadāgāmin。人としての人生の中でこの境涯に至った者は、死後一度だけ天界に転生。神としての一生を終えた後に、ふたたび人として生まれ変わって、そこで解脱を得ることからこのように言われる。漢訳で一来、あるいは斯陀含[しだごん]。→本文に戻る
  • もはや悪趣に堕ちることが無く…‘avinipātadhammā’。預流果に至った者は、もはやこの境地から脱落・後戻りすることなく、また地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わることもなくなって、必ず七回生まれ変わり死に変わるうちに菩提を得ることが定まる。声聞における不退転の境涯。→本文に戻る
  • 三菩提[さんぼだい]sambodhiの音写語。「正しい悟り」の意で、正覚と漢訳される。ここでは阿羅漢の正覚を指す。
    上述したように、分別説部ではこれに五つの浅深があるとする。仏陀のそれは無上正覚。『般若心経』などにいう「阿耨多羅三藐三菩提」すなわち無上正等正覚は仏陀の悟りで、阿羅漢のそれとは区別される。
    声聞乗すなわち小乗では、人は仏陀はもとより独覚仏にも到底成り得ないとして、阿羅漢こそが人の到達可能な最高の境涯とする。分別説部でも、仏陀となるには、幾多の長大な宇宙的時間(劫)を、生まれ変わり死に変わりしながら十の波羅蜜を満足しなければならないとされ、それは不可能であるとする。また、阿羅漢となるためにも、同様に十波羅蜜を長大な時間をかけて満足しなければ成り得ないとするが、その期間は仏陀に比して著しく短い。しかし、いずれにせよ劫を経なければならないという。これは大乗のではなく、あくまで分別説部の説。
    大乗でも同様に、三大阿僧祇劫という想像を絶するほどの長大な時間のなかで、六波羅蜜を満足しなければならないとする。なお、分別説部の説く十波羅蜜と大乗の説く六波羅蜜(十波羅蜜)の内容は少しく異なる。→本文に戻る
  • 預流[よる]sotāpannasota(流れ)にāpanna(入った・落ちいった)で、預流と漢訳される。その流れとは、四向四果あるいは四双八輩といわれる声聞の聖者の類を意味する。先の注12.で述べたように、預流果に至った者は悪趣に堕ちることが無く、最大で七回、人か神として転生する間に阿羅漢果を得るとされる。預流に至った者は聖者であるけれども、いまだ三毒煩悩は健在であり、それによってしばしば悩み苦しむ。なお、分別説部においては預流向の者など実質的に存在し得ない。なんとなれば、預流向に至った者は、一瞬というにも満たない三、四刹那の後に、自ずから預流果となるとされるためである。漢訳語には他に入流[にゅうる]、あるいは須陀洹[しゅだおん]との音写語もある。→本文に戻る
  • 四念処[しねんじょ]catāro satipaṭṭhānā’。直訳すると「四つの念(忘れないこと・気をつけること)の設置」。一般に、身体が不浄なるもの(身念処)、感受が苦(受念処)、心は無常(心念処)、法は無我(法念処)であることを、それぞれ対象を念じて観察することによって知る修習法。分別説部では、最後の最初の身念処は止(samatha[サマタ])、次の二つは止観(samathavipassanā[サマタヴィパッサナー])、最後の法念処は観(vipassanā[ヴィパッサナー])の修習であると定義される(『清浄道論』)。
    この四念処以下、三十七菩提分法あるいは七科三十七道品と総称される七つの修道法、修道内容が列挙される。契経には、四念処を筆頭として以下の順序に説かれるけれども、必ずしもその順に納めるべきものというものではない。これらは基本的にそれぞれ独立した別個のもの。一般に、特に四念処・七菩提分、そして八正道が重要視される。なお、これら三十七菩提分法が、それぞれいかなる心所を本性とするかの定義は、それぞれ部派によって若干異なっている。→本文に戻る
  • 四正勤[ししょうごん]catāro sammappadhānā。直訳すると「四つの正しい努力」。その四つとはすなわち、未だ生じていない悪を生ぜぬよう努める断断・すでに生じた悪を永く断ぜしめようと努める勤律儀断・未だ生じていない善を生ぜしめるよう努める随護断・すでに生じた善をさらに強く確かなものとするよう努める修断。これはむしろ日常において憶念し、諸々の修行において総括的に行われるべきもの。→本文に戻る
  • 四神足[しじんそく]cataro iddhipādā。直訳すると「四つの神通力(超自然的能力)の基」。pādaには足との意もあるが、漢訳の神足(神通力の足)はそれに従ったもの。他に四如意足・四如意分との漢訳語もある。その四つとはすなわち、勝れた三摩地を得ようと欲すること(欲如意足)・勝れた三摩地を得るために努力すること(精進如意足)・心を守護して三摩地を得よう念を保つこと(念如意足)・智慧によって三摩地を得ようと観察すること(思惟如意足)。
    仏教では、第四禅に至った者でその獲得を望むならば、五神通が得られると説く。→本文に戻る
  • 五根[ごこん]pañca indriya。直訳すると「五つの能力」。その五つとは信仰・精進・念・定・慧。信仰と慧、精進と定とは互いにバランスを保つべきものと言われ、念はそれ自身常に働かせるべきものとしていわれる。→本文に戻る
  • 五力[ごりき]pañca bala。直訳すると「五つの力」。先の五根をさらに強め確固たるものとさせること。→本文に戻る
  • 七覚分[しちぼだいぶん]satta bojjhaṅga。直訳すると「七つの悟りの構成要素」。その七つとはすなわち、念覚分・択法覚分・精進覚分・喜覚分・猗覚分・定覚分・捨覚分。漢訳では他に七菩提分・七覚支などという。→本文に戻る
  • 八支の聖道[しょうどう]ariya aṭṭhaṅgika magga。一般に八正道。その八とはすなわち、正しい見解(正見)・正しい思考(正思惟)・正しい発言(正語)・正しい身の振る舞い(正業)・正しい生活手段(正命)・正しい努力(正精進)・正しい念(正念)・正しい三摩地(正定)。ここに言う「正しい」とは何を意味するか、仏教を通じて学ぶことによって知られるであろう。→本文に戻る
  • 慈の修習mettābhāvanā。慈しみの心を持ち、育てるための瞑想。以下、慈・悲・喜・捨の修習についての詳細は、別項“仏教の瞑想”の“四無量観”を参照のこと。
    また、仏教における瞑想を意味する語の一つがbhāvanāで、この原義を知っておくことは非常に重要であるが、これについての詳細は別項“仏教の瞑想”の“瞑想とは”を参照せよ。→本文に戻る
  • 悲の修習karuṇābhāvanā。同情(哀れみ)の心を持ち、育てるための瞑想。→本文に戻る
  • 喜の修習muditābhāvanā。他の幸福を喜ぶ心を持ち、育てるための瞑想。→本文に戻る
  • 捨の修習upekkhābhāvanā。なにごとにも執着せず、動じない心を持ち、育てるための瞑想。→本文に戻る
  • 不浄の修習asubhabhāvanā。自身ならびに他身を不浄のものであると見て、それが執着し渇望するに値しないものと解し、特に愛欲を退治するための瞑想。→本文に戻る
  • 無常想の修習aniccasaññābhāvanā。世のすべては無常であることを観じ想起して、貪欲を退治するための瞑想。→本文に戻る
  • アーナーパーナサティ(安般念)の修習ānāpānassatibhāvanā。本経の主題。自身の吸う息・吐く息に集中し念じることを軸に、四念処ならびに七覚分を成就する瞑想法。漢訳では持息息、あるいは安般念・安般守意とされる。アーナーパーナサティについての詳細は、別項“仏教の瞑想”の“安般念(持息念・数息観・アーナーパーナサティ)”において総合的に講説している。→本文に戻る
  • 明[みょう]と解脱[げだつ]vijjāvimuttivijjā(明)はmagga(道)、vimutti(解脱)はphala(果)であると解される。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

このページのTOPへ / パーリ語原文へ / 日本語訳へ / 語注へ

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ 仏教の瞑想へ戻る

本文6ページ中2ページ目を表示
解題凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6
原文 |  日本語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。