真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 実恵 『阿字観用心口決』

解題凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ トップページに戻る

1.原文

次廣觀者。義釋云。若行者見一切從縁起法皆是毘盧遮那法界身。爾時十方通同爲一佛國。是名究竟淨菩提心 今此釋意者。對一切縁起諸法皆照毘盧遮那法身也。其故一切諸法不出色心二法。色心二法即是六大也。六大即是毘盧遮那法界身也。爾時十方通同爲一佛國者。既押一切縁起諸法直照毘盧遮那法身故。十方淨土六道穢所無有差別。同一法界宮也云云 心寂靜時住略觀。心散亂時可住廣觀。此二觀門是極祕也。行住坐臥無懈。精進修行速可開顯淨菩提心者也 
已上祕觀也云云

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ 仏教の瞑想へ戻る

2.訓読文

次に広観とは、義釋1に云、行者若し一切縁従起する法2は皆是れ毘盧遮那の法界身なりと見れば、爾時に十方通同して一仏国と為る。是を究竟の淨菩提心と名く 

今此の釈の意は、一切縁起の諸法に対して皆毘盧遮那法身と照すなり。其の故は一切の諸法は色・心の二法3を出でず。色・心の二法は即ち是れ六大4なり。六大は即ち是れ毘盧遮那法界身也。爾時に十方通同して一仏国と為るとは、既に一切縁起の諸法を押へて直に毘盧遮那法身と照すが故に、十方の浄土と六道5の穢所と差別有ること無く、同く一法界宮なり云云 

心寂静なる時は略観に住し、心散乱する時は広観に住すべし。此の二の観門は是れ極秘なり6。行住坐臥に懈ること無く、精進修行して速に淨菩提心を開顕すべきものなり。

已上、秘観なり云云

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ 仏教の瞑想へ戻る

3.現代語訳

次に、広観とは、『大日経義釈』に、
「行者がもし、一切の縁に依って生起する法は、すべて毘盧遮那Vairocana. 大日の法界身であると見たならば、その時、十方通同して一仏国となる。これを究竟の浄菩提心と名づける」とある。

今、この『義釈』における註釈の意味は、一切縁起の諸法を、すべて毘盧遮那の法身であると見極めること。その故は、一切の諸法は色・心の二法に過ぎないためである。色・心の二法とは、(地・水・火・風・空・識の)六大である。六大とは、毘盧遮那法界身である。「その時、十方通同して一仏国となる」とは、既に一切縁起の諸法をして毘盧遮那法心であると見極めていることから、十方の浄土と六道の穢所とに異なりがあることはなく、(浄土も穢土も)同じく一法界宮であるとの意。

心が寂静である時は、略観を修め、心が散乱している時は、広観を修めたらよい。この(略観と広観との)二つの観門は極秘である。行住坐臥に怠ること無く、精進修行して速やかに浄菩提心を開顕すべきである。

以上が秘観である。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ 仏教の瞑想へ戻る

4.語注

  • 義釋[ぎしゃく]…『大日経義釈』。善無畏説・一行筆とされる『大日経疏』は完全に編集されたものでなかったため、改めて善無畏の指導のもと一行が再編集したものを、その両者の逝去後、さらに支那僧の智儼と温古が再治したもの。
     『義釈』は『大日経疏』が後に再整理されたものであるため、やはり『大日経疏』に比してその内容は理解しやすいものとなっている。また『大日経疏』には伝わっていない説も収録されている。しかし、理解しやすくなっているとは言え、『義釈』が善無畏や一行以降の人によって手を入れられたものであって、『大日経疏』の説とやや異なっているという点から、真言宗では『大日経疏』を主として用い、しかし天台宗は『義釈』を主として『大日経』を理解しようとする傾向が伝統的に強い。
     ただし、ここで『阿字観用心口決』が『大日経義釈』を引用するのは不審である。なんとなれば、日本に『大日経義釈』がもたらされたのは空海没後十年以上を経た承和十四年847九月のことで、それは日本天台宗の入唐僧円仁による。また承和十四年は実恵が没した年でもあるが、それは十一月のことであるため、辛うじて実恵が『大日経義釈』に触れていた可能性も無いことは無い。よって、ここで『義釈』を引いたのは実恵であって空海ではなかった、と解することも一応可能ではある。→本文に戻る
  • 縁従起する法…因縁生起する事物・事象。様々な原因と条件によって生じては滅する、無自性空なるこの世全ての物事・事象。→本文に戻る
  • 色・心の二法…物質と精神という、世界を構成する二つの事物。→本文に戻る
  • 六大[ろくだい]…世界のあらゆる存在、事象や生ける物を構成する、地大・水大・火大・風大・空大・識大の六つの要素。六大の「大」とは「普遍」の意であって、それが全てを構成する普遍なるものであることから六大という。
     地大とは、堅固を本質とし保持する作用をもつもの。水大とは、湿気を本質とし収集する作用をもつもの。火大とは、熱を本質とし成熟させる作用をもつもの。風大とは、動きを本質とし成長させる作用をもつもの。空大とは、自在であることを本質とし、障害無きことを作用とする。識大とは識別することを本質とし、決断することを作用とする。
     六大について色心の二法でいえば、地・水・火・風・空大が色法であり、識大が心法となる。→本文に戻る
  • 六道[ろくどう]…衆生が生死輪廻するうちの六種のありかた。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の境涯。地獄から餓鬼まで、あるいは地獄から修羅までのあり方は、特に苦しみ多く忌むべきものであるということから、三悪趣もしくは四悪趣と言われる。
     俗に言われる「三途の川を超える」とは、「死んでも三悪趣には生まれ変わらない」ということであって、生者と死者の世界の間には「三途という名の川がある」ということではない。→本文に戻る
  • 此の二の観門は是れ極秘也…ここでは上来示した略観と広観とが極秘のものであることが述べられている。しかしその内容自体、率直に言って「極秘」などと特に厳重に秘密とすべきものとは思われぬものである。
     そもそも、この世の一切が無自性空・本不生であることを知らんとする修習は全て、それが顕教のものであろうが密教の所説であろうが、広い意味で阿字観であることは前述の通りである。そしてここで述べてられている内容は、特に『大日経』などでそう規定されているように三昧耶戒を受けていなければ教授することが出来ない、と密教と規定されるものとは必ずしも言えない。阿字の実義は密教不共のものではなく、他者に秘密にするべき内容などでは無いためである。
     けれども、何でもかんでもとにかく他に公開し、誰であれ人を選ばず行わせれば良い、などといったものなど実は仏教に無い。これは仏陀が「私には、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は無い」と言われたということとは、本質的に異なる話である。人には人それぞれの境遇・能力・立場があり、また物事を学び行うのに適切な時機というものが確かにある。故にやはり、なんであれ瑜伽を修めることを希望する者には、その機根に適した方法と時機とを選んで正しく教授しなければならない。→本文に戻る

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ 仏教の瞑想へ戻る

解題凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。