真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 実恵 『阿字観用心口決』

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1.解題

『阿字観用心口決』とは

画像:阿字観・無断転載厳禁 法樂寺(All rights reserved. HORAKUJI)

『阿字観用心口決』とは、伝説によれば平安初期の弘法大師空海774-835が口述したのを、その高弟の一人であった桧尾僧都実恵[じちえ]786-847が筆記したものとされている書です。

また『阿字観用心口決』とは、主として『無畏三蔵禅要』の修禅について説かれた後半部を下敷きに、『大日経』ならびにその注釈書である『大日経疏』・『大日経義釈』における阿字等についての所説に依拠して阿字(の象徴する法)などを対象とする観法、すなわち阿字観を世に説いた初めてのものと云われている書です。『蓮花三昧経』なる出自不明の少々怪しい経典からの引用も一部されています。

ただし、『阿字観用心口決』の文章にやや稚拙の感あり、またその典拠の一つとなっている『大日経義釈』が空海(および実恵)存命時には未だ日本にもたらされていない書典であることから、伝承通り阿闍梨口説のものとは受け取りがたいものとなっています。けれども、この書が空海の所説であるとして世に現れて以降、やがて平安後期頃から真言宗でこの書に注目する人が現れ、例えば興教大師覚鑁[かくばん]〈1095-1144など諸々の学僧により、これを敷衍展開した様々な阿字観の解説書や次第〈修法の手順が書かれた書〉が著されてきました。

中でも現在評価されているものの一つとして、高野山正智院の道範1178-1252が遺した『阿字観消息』があります。これは正しく次第ではなく、その題のとおり阿字観について説明した手紙なのですが、当時高野山の学侶で随一といわれた人であった道範らしく、その内容は顕教を踏まえて密教を展開させる比較的丁寧な内容のものとなっており、体裁を整えればそのまま次第として用い得るものです。

対して当時随一の学僧であったとされる覚鑁が著した阿字観についての諸典籍は時に空理的・形式的に過ぎた感あって、不遜な物言いとなりましょうが、いま実用するに耐えるものではありません。

いずれにせよ、『阿字観用心口決』とは、真言宗の瞑想を代表するものなどとして現在世に宣伝されている阿字観を初めて説いたと思われる書であり、阿字観を知らんとする者は須く読むべき最初のものです。

いや、この書を読む前にはまず、そもそも「阿字とは何か」を知らなければならない。そこでそれから先ずは以下、講じていきます。

阿字とは

画像:梵字悉曇文字による阿字・無断転載厳禁 法樂寺(All rights reserved. HORAKUJI)

阿字観の阿字、すなわち梵字悉曇の「अ(a / あ)」の音写である一字は、梵語anutpāda[アヌトパーダ]の頭文字です。

そもそも梵語における「」とは、これは阿字を理解するのに最も留意しておかなければならない点ですが、「~で無い」・「非~」などといった否定を表す接頭辞です。

阿字とは先ず、「否定を表する文字」であるわけです。

すなわち、anutpādaとはan直後に母音があるためnが追加される+ utpādaであって、「誕生」や「生成」・「出現」を意味するutpādaを否定するものです。そのようなことから、anutpādaは古来、不生[ふしょう]あるいは無生[むしょう]と漢訳されます。

ところで、阿字がそのような意義あるものとされるのは、何も密教に始まるものでも密教に限られたものでもなく、大乗において常識的に説かれていることによります。

有陀羅尼。以是四十二字。攝一切語言名字。何者是四十二字。阿羅波遮那等阿提秦言初阿耨波柰秦言不生行陀羅尼菩薩聞是阿字即時入一切法初不生。如是等字字隨所聞。皆入一切諸法實相中。是名字入門陀羅尼。如摩訶衍品中説諸字門。

(四十二文字の)陀羅尼dhāraṇīがある。その四十二字を以て、一切の語言名字〈言語と文字〉を包摂する。何が四十二字であろうか。阿अ / a・羅र / ra・波प / pa)・遮च / ca・那न / na等(の四十ニ字)がそれであって、阿提ādi-は秦〈支那〉では「初」と言い、阿耨波柰anutpādaは秦で「不生」と言う。陀羅尼を行じる菩薩がこの阿字を聞いたならば、たちまち一切法の初不生に入る。これらの(四十ニ字からなる)字字は、(その音を)聞くに従って、皆な一切諸法の実相の中に入る。これを字入門陀羅尼と云う。「摩訶衍品」〈玄奘訳『大般若波羅蜜多経』巻五十三「辯大乗品」〉の中にて諸字門が説かれている通りである。

鳩摩羅什訳 龍樹『大智度論』巻ニ十八(T25. P268a
[現代語訳:沙門覺應]

この『大智度論』の一節の最後に竜樹が挙げている「摩訶衍品」とは、玄奘訳『大般若経』でいうところの「辯大乗品」のことですが、このように言及されている以上は当然、その「摩訶衍品」の所説を知らなければならないでしょう。

ではその「摩訶衍品」では、どのように説かれているのか。

復次善現。菩薩摩訶薩大乘相者。謂諸文字陀羅尼門。爾時具壽善現白佛言。世尊云何文字陀羅尼門。佛言善現。字平等性。語平等性。言説理趣平等性。入諸字門。是爲文字陀羅尼門。世尊。云何入諸字門。善現。若菩薩摩訶薩修行般若波羅蜜多時。以無所得而爲方便。入𧙃字門。悟一切法本不生故。入洛字門。悟一切法離塵垢故。入跛字門。悟一切法勝義教故。入者字門。悟一切法無死生故。入娜字門。悟一切法遠離名相無得失故。《中略》
善現。如是字門。是能悟入法空邊際。除如是字表諸法空更不可得。何以故。善現。如是字義。不可宣説。不可顯示。不可執取。不可書持。不可觀察。離諸相故。善現。譬如虚空是一切物所歸趣處。此諸字門亦復如是。諸法空義皆入此門方得顯了。善現。入此𧙃字等名入諸字門。

「善現Subhūti. 須菩提。解空第一といわれた仏弟子よ、菩薩摩訶薩bodhisattva-mahāsattvaの大乗相とはいわゆる諸文字陀羅尼門である」
その時、具壽āyusmat. 尊者・長老の意善現は仏陀にこう申し上げた。
「世尊、文字陀羅尼門とは何でしょうか」
そこで仏陀は善現に云われた。
「字平等性・語平等性・言説理趣平等性をもって諸字門に入る、これを文字陀羅尼門という」
「世尊、諸字門に入るとはいかなることでしょうか」
「善現よ、菩薩摩訶薩は般若波羅蜜多を修行する時、無所得を以て方便と為し、𧙃अ / a字門に入る、一切法が本初より不生なることを悟るが故に。洛र / ra字門に入る、一切法が塵垢より離れていることを悟るが故に。跛प / pa字門に入る、一切法の勝義教なることを悟るが故に。者च / ca字門に入る、一切法が死生無きことを悟るが故に。娜न / na字門に入る、一切法は名相を遠離して得失無きことを悟るが故に」 《中略》
「善現よ、これらの字門によって能く法の空辺際に悟入することが出来る。これらの字が表する意義以外、諸法の空なることを求めても得ることは出来ない。何故ならば、善現よ、これらの字義は宣説出来ないものであり、顕示出来ないものであり、執取出来ないものであり、書持出来ないものであり、観察出来ないものである、諸々の相を離れているが故に」
「善現よ、譬えば虚空が一切の物の帰属する所であるように、この諸字門もまた同様である。諸法が空なることの義は、全てこの門に入ることによって、まさに完全に顕わとなる。善現よ、この𧙃字等の名に入ることが、諸字門に入ることである」

玄奘訳『大般若波羅蜜多経』巻五十三(T5. P302c
[現代語訳:沙門覺應]

この『大般若経』の一節は、大乗の般若空、あるいは中観をいくらかでも学んでいなければ理解し難い文言に溢れたものとなっています。すなわち、これについては後述しますが、この一節が言わんしていることを理解するには、算数ができなければ数学など出来ないように、仏教の基礎的な理解、中でも大乗の般若空についての基礎的知識が不可欠となります。

画像:arapacana

なお、『大智度論』で「四十ニ字」であるとか「諸字門」と言われる、『大般若経』にてअ (a)र (ra)प (pa)च (ca)न (na)等の字義が述べられている諸々の字は、梵語の母音(の一部)と子音とを総じたもので、『華厳経』などにても説かれています。そして、四十二字を以て一応、「全ての音」を表するものだとされます。

ただし、梵字の基本とされるアルファベットには、四十二字と五十字との二説があり、四十二説も重要ではあるのですが一般には五十字説が通用しており、梵語としては五十字説が標準となっています。

(ここでは完全な余談となりますが、文殊菩薩の五字呪といわれる真言は、日本では「あらはしゃのう」などと訛りに訛って唱えられ、全く意味を為さないものとなっています。が、その訛化した「あらはしゃのう」とは、この四十二字の最初の五文字「ア・ラ・パ・チャ・ナ」であって、それは一切法の本初不生などをそれぞれ表したものです。)

さて、この『大智度論』において鳩摩羅什は、「अ(a)」と「आ(ā)」のいずれも単に「阿」と音写してしまっていますが、しかしअ(a)とआ(ā)とはそれぞれ別の、別といっても短音か長音かの違いなのですが、一応異なった音(字)です。梵語には十二あるいは十六の母音〈字母〉があって、これを摩多mātāともいうのですが、その中でअ(a)とआ(ā)とは別個の字母とされているためです。

しかし「अ(a)」と「आ(ā)」とはしばしば混同され、ここで鳩摩羅什もまたそうしているように、いずれも単に「阿」であるとして音写されてきました。その上で、この『大智度論』の一節においても言及されていることですが、阿字はまたādi-、すなわち最初であるとか根源を表するものともされます。

そこで阿字は、それらādi-(本初)とanutpāda(不生)とを合したādi-anutpāda、すなわち本不生[ほんぷしょう]または本初不生[ほんしょふしょう]を表するものとされます。

ādi-はまたこの場合、「万物を創造する根本」であるとか「万物を生み出す根源」が含意されます。それは例えば、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などにおいて主張される万物の創造主たる唯一神、あるいは印度教における全ての根源とされるブラフマンや創造神としてのブラフマー(梵天)などを指したものでもあります。

諸法本初不生 ―世界の一切は虚ろで不確かなるもの

画像:阿字 諸法本初不生

では、ここで不生(生じたものでない)、無生(生まれたものでない)とは一体どういうことか。阿字が表するという「本初不生」の意味は何であるのか。

それはすなわち、この世にある全ての事象・存在は、その中にはもちろん我々人も含まれますが、誰か創造神や根源などといったものから「生み出されたものでは無い」・「作り出されたものでは無い」、もしくは「それ自ら生み出たものでは無い」ということ。

延いてはそれは、多くの宗教でその存在が主張され、信仰されるような「創造神や根源的存在など存在しない」、ということをも表する語ともなっています。

阿字が意味する本初不生、または単に不生とは、仏教の核心たる縁起pratītyasamutpāda・縁起生pratatya-udbhava、空śūnyaまたは無自性asvabhāvatāと同義です。

なお、本稿で紹介する『阿字観用心口決』において、阿字には「空」・「有」・「不生」の三義があるとされています。

字有空有不生三義。空者森羅萬法皆無自性是全空也。然依因縁假體現萬法歴然而有之有也。譬如意珠湛七珍萬寶而如隨縁降寶。破玉見中一物無之。雖然隨縁生寶非無。是以知空有全一體也。是云常住。常住即不生。不生者不生不滅也。是名字大空當體極理。

 この字に、「空」・「有」・「不生」の三つの意義がある。「空」とは、森羅万象にはすべて自性〈恒常不変の実体〉など無く、それは全く空っぽであること。しかしながら、因縁〈原因と条件〉によって仮にその姿を現し、あらゆる事象が歴然として有るように見えることから「有」である。
 それは譬えば、如意宝珠〈印度以来「意のままに願いを叶える」とされる伝説的宝玉〉が七珍万宝を内包しており、縁に従って宝を降らすようなものである。けれども如意宝珠を壊して中を見たとしても何も無い。(宝珠は)縁に従って宝を降らせるのである。この譬えによって知るであろう、「空」と「有」とは全く一体であることを。これを常住と言う。常住とは即ち「不生」である。不生とは不生不滅のことである。これを字が意味する、「大空の当体の極理」と名づける。

伝:空海述 実恵筆『阿字観用心口決』
[現代語訳:沙門覺應]

ここで「有」とは、「依因縁假體現萬法歴然而有之有也(因縁によって仮にその姿を現し、あらゆる事象が歴然として有るように見えることから「有」である)」とされます。すなわち森羅万象の「有」とは「仮に有る」ということであって、それは因縁〈因縁生起・縁起生〉のことであると。

それにしても、ここで「有」ということを説明するために持ち出されている如意宝珠の譬えはまったく上手くなく、全然喩えになっていません。

おそらく、『大日経疏』でしばしば如意宝珠を用いた比喩がなされているのに倣って言おうとしたのであり、あるいはまた地・水・火・風・空の五大を象徴した五輪塔のその最上部にあるように、空大を如意宝珠の形に擬していることにも依るのでしょう。しかし、もし人がこの喩えを聞いたとしても、特に現代に於いてならばなおさら、「是以知(これによって知るであろう)」ことなど誰も無いと思われるものです。

さて、ここで言わんとされていることを確かに知るには、このような主張が何に基づいたものであったか、その典拠を知らなければなりません。

ところで、『阿字観用心口決』が伝説通り空海口説のものではないとしても、空海は阿字の意義について同様のことを、その著『吽字義』において述べています。

一吽字相義分ニ。一解字相ニ釋字義。初解字相者又分四。四字分離故。金剛頂経釋此一字具四字義。一賀字義。ニ阿字義。三汗字義。四麼字義。 《中略》
阿字義者訶字中有阿聲。即是一切字之母。一切聲之體一切實相之源。凡最初開口之音皆有阿聲。若離阿聲則無一切言説。故為衆聲之母。若見阿字則知諸法空無。是為阿字字相。 《中略》
阿字實義者有三義。謂不生義。空義。有義。如梵本阿字有本初聲。若有本初則是因縁之法。故名為有。又阿者無生義。若法攬因縁成則自無有性。是故為空。又不生義者即是一實境界即是中道。故龍猛云因縁生法亦空亦假亦中。又大論明薩婆若有三種名。一切智與二乗共。道種智與菩薩共。一切種智是佛不共法。此三智其實一心中得。為分別令人易解故作三種名。即此阿字義。

 一つの吽字हूँ / hūṃについて、相〈形態・特徴〉と義〈意義〉とのニつに分かち、第一には字相を解釈し、第二に字義を解釈する。初めに字相を解釈するには、またさらに(吽字を)四つに分かつ。(吽字は)四字に分離することが出来るためである。『金剛頂経』では、この一字を解釈して四字の義が具わるとされる。一つには賀字ह / haの義、ニつには阿字अ / aの義、三つには汗字ऊ / ūの義、四つには麼字म / ma)の義である。 《中略》
 阿字の義について。訶字ह / haの中に阿अ / aの声〈音〉がある。すなわち、それはすべての字の母であり、すべての声の本体であり、すべての実相の根源である。およそ最初に口を開いた時の音には皆、阿の声が有る。もし阿の声を離れたならば、あらゆる言説は存在し得ない。故に(阿とは)様々な声の母とする。もし阿字を見たならば、則ち諸法〈諸々の事物・事象・存在〉が空無であることを知る。これを阿字の字相とする。 《中略》
 阿字の実義には三義がある。それは「不生」の義・「空」の義・「有」の義である。梵本〈サンスクリット原語〉に従ってこれを言えば、阿字には本初ādi-の声がある。もし本初が有るならば、それはすなわち因縁の法である。故に「有」という。また阿には無生の義がある。もし法が因縁によって成立するものであるならば、それは則ち自性〈恒常不変の実体〉など有りはしないということである。この故に「空」という。また、「不生」の義とは、即ち一実の境界であって、これを中道という。
 故に龍猛Nāgārjuna. 龍樹は(『中論』において)「因縁生の法は空であり仮であり中である」と説いている。また『大智度論』においては、薩婆若sarva-jña. 一切智について説明するのに三種の名を以てしている。一切智は二乗と共通するものであり、道種智は菩薩と共通するものであり、一切種智はただ仏陀のみ有するものであると。これらの三智は、実に一心の中において得られるものである。(しかしながら、本来一つのものであるけれども)そのように分別することによって人々に理解し易くさせるために、三種の名が立てられている。すなわち、これらもまた阿字の義である。

空海『吽字義釈』(弘全 Vol.3, P55-56
[現代語訳:沙門覺應]

ここで空海は、阿字には「不生」・「空」・「有」の義があるといい、またそのそれぞれが「中道」・「無自性空」・「因縁之法」を意味するものであるとして、それが龍樹の『中論』・『大智度論』に基づいた言であるとしています。

そしてまたその上でこの一節に続き、それが『大日経疏』巻七にある一節であることを明示してはいないものの、阿字についての註釈をまるごと引いて、阿字の表する一切諸法本不生〈あらゆる事物・存在は縁起生なるものであって、無自性空にして仮有なるもの〉という普遍の真理に、阿a. あという音を抜きにしてはいかなる言語も成立しないことを重ね、それがあらゆる存在の根底であるとしています。

そしてそれを完全に知り抜くことが、まさに『大日経』の説く「如実知自心」であって、仏陀に等しい智慧すなわち一切智智であることを示しています。

これは阿字というものを理解する上で非常に重要な箇所となるため、空海が引用した『大日経疏』の一節をここに示しておきます。

經云。謂阿字門一切諸法本不生故者。阿字是一切法教之本。凡最初開口之音皆有阿聲。若離阿聲則無一切言説。故爲衆聲之母。凡三界語言皆依於名。而名依於字。故悉曇阿字。亦爲衆字之母。當知阿字門眞實義。亦復如是。遍於一切法義之中也。所以者何。以一切法無不從衆縁生。從縁生者。悉皆有始有本。今觀此能生之縁。亦復從衆因縁生。展轉從縁誰爲其本。如是觀察時則知本不生際。是萬法之本。猶如聞一切語言時即是聞阿聲。如是見一切法生時。即是見本不生際。若見本不生際者。即是如實知自心。如實知自心即是一切智智。故毘盧遮那。唯以此一字爲眞言也。而世間凡夫。不觀諸法本源故。妄見有生。所以隨生死流不能自出。如彼無智畫師自運衆綵。作 可畏夜叉之形。成已還自觀之。心生怖畏頓躄於地。衆生亦復如是。自運諸法本源畫作三界。而還自沒其中。自心熾然備受諸苦。如來有智畫師既了知己。即能自在成立大悲漫荼羅。由是而言。所謂甚深祕藏者。衆生自祕之耳。非佛有隱也。

 経〈『大日経』巻二〉に「阿字門一切諸法は本不生の故に」と説かれているのは、阿字が一切法教の本であるからである。凡そ最初に口を開く音には、すべて阿の声がある。もし阿の声を離れたならばあらゆる言説は存在し得ない。故に(阿を)衆声の母とする。凡そ三界の言語は、すべて名〈単語〉に依って成立している。そして名とは字文字。またそれによって表される音〉に依って成立するものであるから、悉曇〈サンスクリットの古い文字体系の一つ。ここでは単にサンスクリットの意〉の阿字をもって様々な字の母とする。まさに知るべきである、阿字門の真実義もまたそれと同様であることを。それは一切法〈あらゆる事物・事象・存在〉の義において普遍なるものである。なんとなれば、一切法で衆縁〈様々な条件〉によって生じないということは無いのであるから、縁によって生ぜるものには全て、その初めが有りその本が有る。しかしそこで今、その能生[のうしょう]の縁〈何事かを生み出す条件〉を(それぞれ)観察してみたならば、それらもまた諸々の因縁によって生じたものである。(そのようにその基を突き詰めていけば、果てしなく)展轉し、(すべて)縁に従って生じたものである。(創造神・創造主などといった万物の始源や根源を主張する者は畢竟、無限遡行の過失に陥って、ついにその「究極の始源」を証すことなど出来はしない。)
 一体、何者がその根本であろうか。そのように観察していった時、則ち「本不生際」とは万法の本であることを知る。それはあたかも、あらゆる言語を聞いた時には必ず阿の声を聞くようなものである。そのように一切法の生を見た時、すなわち本不生際を見るのである。もし本不生際を見る者は、実の如く自心を知る。実の如く自心を知るとは即ち、それが一切智智である。
 故に毘盧遮那〈大日如来〉は唯だこの一字〈阿字〉を以て真言とされた。しかるに世間の凡夫は諸法の本源を観察することなど無いため、妄りに「生が有る」と考える。そのようなことから生死流転し自ら解脱することが出来ない。それはあたかも、智慧の無い画師が自ら筆を振るって怖ろしい夜叉を描きあげた後、それを自分で見て、そのあまりの畏ろしさに卒倒してしまうようなものである。衆生〈生けるもの〉もまたそれと同様である。自らが(なんらか恒常にして絶対的実在たる)諸法の本源があると妄想して三界を作り上げ、むしろ自らその中に埋没し、自らの心が炎のように燃え盛って諸々の苦しみを受ける。如来という智慧ある画師は、(それが自らが描いた絵に過ぎないものであることを)全く理解しており、その上で(この世の一切が本不生であることを、衆生に視覚的に開示するため、)自在に大悲漫荼羅を建立する。
 このようなことから、いわゆる甚深秘蔵〈密教〉とは、衆生自らがこれ〈諸法本不生〉を秘密としてしまっているのであって、仏陀が何かを隠そうとしてそうあるものではない。

一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之餘(T39. P651c
[現代語訳:沙門覺應]

本題から少しばかり離れますが、あるいはここで「阿という音・字が諸々の言語の母とすることは良いとして、それは別にサンスクリットに限定されたことで無いのではないか。それともサンスクリット自体や悉曇という往古のその文字体系が、何らか神聖視された、いわば呪術的特別なものであって、その他の言語には該当しないことであるのか」などと疑問に思う人があるかもしれない。

そのような疑問が生じるのは誠にもっともなことです。

実は、今挙げた『大日経疏』の一節の直前にて、「そもそも真言密教とは何か」が明らかにされているのですが、それはまたそのような疑問への回答ともなっています。

經云。祕密主云何眞言法教者。即謂阿字門等。是眞言教相。雖相不異體體不異相。相非造作修成不可示人。而能不離解脱現作聲字。一一聲字即是入法界門故。得名爲眞言法教也。至論眞言法教。應遍一切隨方諸趣名言。但 以如來出世之迹始于天竺。傳法者且約梵文。作一途明義耳。

 経〈『大日経』巻二〉に「秘密主〈金剛薩埵〉よ、真言法教〈真言密教〉とは何であろうか。それはすなわち阿字門(一切諸法本不生)である云々」と(毘盧遮那〈大日如来〉により)説かれていることについて、それがまさに真言の教相〈教えの特徴〉である。
 その相〈姿・特徴〉は体〈本質〉に異なったもので無く、その体は相に異なったものでは無い。(このような真言の)相は(何者かによって意図的に)創造されたものでなく、(何故そうであるかの所以を)人に示すことなど出来はしない。それはしかし、「解脱」〈無自性・空たること〉を離れること無しに、声字〈音と文字〉として現にある。一つ一つの声字は、(それぞれあらゆる存在が無自性空・本不生であるという真理を象徴・開示しているものであって)すなわち法界に入る門であるから、「真言法教」と言うのである。
 これをさらに敷衍して言ったならば、真言法教とは、あらゆる方角のあらゆる趣〈境涯・生命のあり方〉における言葉において普遍なるものである。ただし、如来が世に出られたのが天竺〈印度〉であったことから、その法〈教え・真理〉を伝える者らは、仮に(印度の言語である)サンスクリットを例とした一つの方法により、その意味を明らかにしているのに過ぎない。

一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之餘
T39. P651b-c
[現代語訳:沙門覺應]

これは現在の日本において密教者を自称する真言宗や天台宗の僧職者らの大部分も完全に誤認している点でもあるのですが、真言陀羅尼とは必ずしも「サンスクリットでなければならない」というものではありません。

釈尊が印度に生を受けて仏教が始まり、またその故に当然ながらその地の言語であるサンスクリット(など印度語)によってその教えが説かれ伝えられてきたものであるために、それを敬し、サンスクリットによって真言を学び、また言うに過ぎません。とはいえ、そのようなことからも、真言はサンスクリットの語彙を前提としており、やはりサンスクリットに対する一定の理解が必須とはなります。

ついでに言うならば、そのようにサンスクリットの語の頭文字一字にて表される、一般的仏教すなわち顕教の教理への理解無しには、真言として説かれる一連の言葉・音をどれほど口にしたところで、それはまるで意味の無い迷信・呪文の類となる。

真言密教の本質は、この世のあらゆる言語を構成する声字[しょうじ]、すなわち音あるいは字というものは、いずれもこの世のあらゆる存在・事象が縁起・無自性であるという真理を開示したものである、と理解する点にあります。

声字というものに対する見方が世間のそれと全く異なっているという点からも、「真言密教」と言われます。それを確かに理解したならば、その者の世界は全く劇的に変わったものとなるでしょう。そしてその時、その者にとってはもはや密教は密教では無くなるでしょう。

法身有अ義。所謂法身者諸法本不生義。即是實相。 《中略》
名之根本法身為源。從彼流出稍轉為世流布言而已。若知實義則名真言。不知根源名妄語。

 法身にअの義がある。いわゆる法身とは本不生の義であって、すなわちそれが実相である。 《中略》
 名の根本とは法身〈अ〉を源とするものである。それより流出して次第に転変し、世間に行われる言語となる。もし(あらゆる声字の)実義〈「本不生」等の諸々の声字に象徴される真理〉を知ったならば、それ〈ありとあらゆる音・言語〉は真言となり、その根源〈本不生など音が開示する真理〉を知らないままならば(世間のあらゆる音・言語は)妄語である。

空海『吽字義釈』(弘全 Vol.3. P38
[現代語訳:沙門覺應]

そしてやはり空海もまたこのように、法身と阿字と本不生(実相)の等しいことを明らかとし、また真言のなんたるかを総括しています。

以上示したように、世間一般に思われているように「サンスクリットであるから真言である」・「真言であるならばそれはサンスクリットでなければならない」などと言えたものでは決して無い。そして、その意味においては、真言はかならず悉曇文字で記述しなければならないということも無い。

(凡庸な僧職者らにより、「真言とはホトケサマのお言葉のことです」などといった幼稚な、しかししばしば真言についてなされる説明は全くの論外で、そもそも自身が理解していないのであれば、それについて沈黙しなければならない。あるいは「信者や檀家らに難しいことを言ってもわからんからそう言うのだ」などというしばしば口にされる苦しい弁明に対しては、そもそも日頃から仏教について正しくまともなことを、それがたとい簡単なことであっても説いてすらいないのに何をか言わんやと云うべきでありましょう。)

いや、もちろん仏典に悉曇で書かれているならばそれを悉曇としてそのまま正確に読み、発音しなければならないし、それを写すときも悉曇にて記述しなければならない。けれども、全ての音・文字は真理を開示しているものであるという、真言というものの本質からいえば、「真言は必ずサンスクリットであって悉曇文字で書かなければならない」ということは無いわけです。

因みに、ここで空海も述べているように、法身とは本不生という一切諸法の有り様・真理のことであり、巷間そのようにしばしば誤解されるているような何か人格を持ったホトケサマ、万物の創造主たる根本神の如きモノでは断じてありません。すなわち、純然たる法身〈自性法身〉としての大日如来とは、本不生という真理の象徴です。

(空海が『辯顕密二教論』などにて定義した密教の特徴の一つに「法身説法」があります。そしてそれ以来、法身によって説法されたのが密教であってそれは顕教に無いことである、と理解されてきました。しかし、では法身とは具体的に何か、あるいはその説法とは何か、ということはしばしば言及も考究もされず無視され、普通に考えれば法身が文字通りアレヤコレヤと説法することなどありえないと思われるのですが、ただオウム返しに「密教は法身説法」と繰り返されています。そのような曖昧で不可解な説を解消するべく、中世に生じた新義真言宗では自性法身が説法するのではなく、加持身が説法するのだ、として理解されています。この辺のことは一般にまったく意味不明の形而上学的議論であろうため、ここではこれ以上深入りしません。)

なお、話が前後し、またその内容も重複したものとなってしまいますが、実は空海が『吽字義』にて阿字の意を「空」・「有」・「不生」であるとしている一節もまた、『大日経疏』の一節を全く引用したものに過ぎません。すなわち、それは空海独自の解釈などでは無い。

阿字自有三義。謂不生義。空義。有義。如梵本阿字有本初聲。若有本初則是因縁之法。故名爲有。又阿者是無生義。若法攬因縁成。則自無有性。是故爲空。又不生者即是一實境界。即是中道。故龍樹云。因縁生法。亦空亦假亦中。又大論明薩婆若。有三種名。一切智與二乘共。道種智與菩薩共。一切種智是佛不共法。此三智。其實一心中得。爲分別令人易解故。作三種名。即此阿字義也。

 阿字自らに三義がある。それは「不生」の義、「空」の義、「有」の義である。梵本〈サンスクリット原典〉の阿字には本初ādi-の声がある。もし本初が有るならば、それはすなわち因縁の法である。故に「有」という。また阿には無生の義がある。もし法が因縁によって成立するものであるならば、それは則ち自性〈恒常不変の実体〉など有りはしないということである。この故に「空」という。また、不生とは即ち一実の境界であって、これを中道という。
 故に龍猛Nāgārjuna. 龍樹は、(『中論』において)「因縁生の法は空であり仮であり中である」と説いている。また『大智度論』においては、薩婆若sarva-jña. 一切智について説明するのに三種の名を以てしている。一切智は二乗と共通するものであり、道種智は菩薩と共通するものであり、一切種智はただ仏陀のみ有するものであると。これらの三智は、実に一心の中において得られるものである。(しかしながら、本来一つのものであるけれども)そのように分別することによって人々に理解し易くさせるために、三種の名を立てている。すなわち、これが阿字の義である。

一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之餘
T39. P649b
[現代語訳:沙門覺應]

結局のところ、阿字が表するとされる空・仮・中、あるいは不生・空・有という語の意義を知るには、その基である龍樹の所説を先ずは知らなければなりません。

いや、そもそも大乗を学ぶ者もしくは奉ずる者でありながら、龍樹の『中論』などその諸著作に触れていないなど全くの論外というもの。

諸法有定性。則無因果等諸事。如偈説
衆因縁生法 我説即是無
亦爲是假名 亦是中道義
未曾有一法 不從因縁生
是故一切法 無不是空者
衆因縁生法。我説即是空。何以故。衆縁具足和合而物生。是物屬衆因縁故無自性。無自性故空。空亦復空。但爲引導衆生故。以假名説。離有無二邊故名爲中道。是法無性故不得言有。亦無空故不得言無。若法有性相。則不待衆縁而有。若不待衆縁則無法。是故無有不空法。

 諸法に定性〈恒常不変の性質・ 自性〉があるならば、因果等の諸事象など起こり得ないであろう。偈に曰く、
諸々の因縁生〈pratītyasamutpāda. 縁起〉の法を、
私は即ち無〈śūnyatā. 空性〉であると説く。
それはまた仮名[けみょう]〈prajñapti. 施設〉であって、
それは中道〈madhyamā〉の義である。
未だ曾て一つの法〈dharma. 事物〉として、
因縁生で無いものなど存在しない
そのようなことから一切の法で、
空ならざるものなど存在しない
諸々の因縁生の法を、私は即ち空であると説く。何故ならば、衆縁〈様々な条件〉が具わり和合してこそ、法〈事物〉は生じるためである。その法とは、諸々の因縁〈原因と条件〉に依存したものであるから、無自性である。無自性であるから空である。そして空もまた空である。ただ衆生〈意識あるもの〉を引導する為に、(そのような真理を)仮名によって説く。有と無との二辺を離れるから、これを中道という。(ありとあらゆる)法には性が「無い」から「有る」ということは出来ない。しかしまた、空が(実在として)「無い」からといって「無い」ということも出来ない。
 もし(なんであれ)法に性相[しょうそう]〈恒常不変の、固有な性質(性)と姿・働き(相)〉があるならば、衆縁など無くとも(自然に、どこからともなく)存在し得るであろう。(しかしながら、)もし衆縁が無ければ法は存在し得ない。この故に空ならざる法など存在しないのだ。

青目・鳩摩羅什訳 龍樹『中論』巻四(T30. P33b
[現代語訳:沙門覺應]

ここで一応注意すべき点として述べておきますが、今挙げた漢訳『中論』とは、二世紀の印度僧であった龍樹〈Nāgārjuna. 龍猛〉Mūlamadhyamaka-kārikā〈『根本中頌』〉に対して四世紀の印度僧青目[しょうもく]〈Piṅgala.  賓伽羅〉が(共訳とされる鳩摩羅什を通して)漢語によって著した注釈書であり、上記の一節の中では字下げにより示した偈頌以外は龍樹によるものではなく青目の註釈です。

画像:四句分別

以上のように龍樹は、因縁生pratītyasamutpādaすなわち縁起とは、空性śūnyatā・仮名prajñapti・中道madhyamāと同義であると宣言しています。

それ自身・それ自体によって存在し得るものなどこの世に全く存在しないこと。人という存在をもちろん含めたあらゆる事物・事象は、何らか他の原因と条件により生起するものであって、いわば仮初[かりそめ]に、一時的にのみ諸々の集合として存在しえるもの。しかしその存在を支える諸条件を失えば忽ち滅び去ってしまうものです。

(ただし「滅びる」と言っても、全ては滅すれば忽ち無に帰するというのではなく、それぞれが業に従ってまた生じては滅するという輪環を繰り返す、という生死流転をその前提としている点を無視してはいけない。)

そのような、あらゆる事物の縁起してこそ有り得る在り方を空性と云い、また仮名[けみょう]と云い、さらにまた中道とも云う、というのが龍樹の主張です。

このような龍樹の主張についてより確かに知るためには、声聞乗における諸部派の中でも特に説一切有部における「三世実有 法体恒有」の見解や、Ātman(我)などといわれる常住普遍の存在を認めようとする外道の見解がどのようなものであるかを、少なくとも概観しておかなければなりません。でなければ、龍樹のここで言わんとしていることを把握することは全く難しいこととなるでしょう。

そしてまた、上に示した龍樹『中論』では「仮名」と云われ、『大日経疏』にては「有」とも表され、また他には施設[せせつ]とも言われる語の意味を理解しておくことも必須となります。それはサンスクリットprajñaptiあるいはパーリ語paññattiの漢訳です。そして、これを現代日本語に訳したならば、仮定・概念といったものとなります。

(ただし、律蔵や律の註釈書においてprajñaptiあるいはpaññattiという語は、全く別の意を表する語として用いられます。)

あらゆる存在・行為・事象は、例えば「Aである」・「Aではない」などという言葉・概念によって規定することが出来、そのように種々様々に規定された言葉・概念を組み合わせ、また駆使することに依って我々は思考し、また会話することが出来ます。

そこで仏教では、中でも特に大乗に於いては、「Aである」とされる何事かは、「A」として不変的・恒常的に存在するものではなく、あるいはその背後に「A」を「A」たらしめる何らか絶対不変の実在があって「A」とされるものでもない、と看破されます。あくまで「A」とは、「仮にAとされるもの」・「一応、Aとして名づけられたもの」に過ぎないのであって、それを仏教では仮名あるいは施設といいます。

なお、ここで念のため注意しておきますが、龍樹によって主張された空・仮・中の中道とは、たとえば釈尊が初転法輪において説かれた中道、すなわち四聖諦の道諦の具体である八正道とは意味合いが全然異なっていることを理解していなければなりません。

画像:不可得とは何か

また、顕教でも説かれ、密教では『大日経』などで非常に頻繁に説かれる「不可得」なる語があります。が、にも関わらず、その意についてもやはり現今のほとんどの密教者らは全然理解しておらず、ただ舌先三寸で用いるだけの語となっています

では不可得とは何か。

それは文字通り「得ることが出来ない」ことです。では、何を「得ることが出来ない」のか。それは、ありとあらゆる事物の根源・本源、恒常普遍の実在するモノのことです。何故に「得ることが出来ない」のか。それは、そんなモノなどいくら懸命に探しても何処にも無く、どれほど推求しても見出だせず、初めから無いモノなどついに「得ることが出来ない」ためです。

すなわち、不可得とは本不生の別の謂であり、それはまた空・仮名・中道を意味するものです。

一一字門皆言不可得者。爲明中道義故。今且寄車字門説之。如觀鏡中面像。以本質爲因淨鏡爲縁。有影像現見。爲是所生之法。妍蚩之相現前不謬。故名爲有。以種種方便推求都不可得。是名爲空。此有此空皆不出鏡體。體即一名中。三相不同而同不異而異。是故世間論者不能思議。

 (三十七字門の)一々の字門において全て「不可得」と言うのは、中道の義を明かす為である。
 今は仮に、छ〈cha・車〉字門についてこのことについて説明したならば、鏡の中の面像を見る場合、本質を以て因とし、浄鏡を縁として、その影像を現に見ることが出来るが、この様なのを所生の法という。(鏡に写った影像は)その妍蚩[けんし]〈美醜〉の姿も現前して謬ることはない。その故にこれを「有」と言う。(しかし、それは結局影像でしか無いために)種種の方便によって推求〈探求〉したとしても全て不可得である。その故にこれを「空」と言う。この「有」とこの「空」とは皆、鏡という本体を出るものではない。その本体が一つであることを「中」と言う。
 これら(空・仮・中という)三相は、不同であり同、不異にして異なるものである。そのようなことから、世間の論者は(空・仮・中なる諸法の有様を)理解することが出来ないのだ。

一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻七 入漫荼羅具縁品第二之餘
T39. P656c
[現代語訳:沙門覺應]

以上、もちろんこれだけで必要十分であるなどとは言えませんが、阿字が一切諸法すなわちこの世のあらゆる事物・事象が本不生にして不可得であることを表するものであり、そしてその本不生とは空性・仮名・中道、すなわち縁起生を意味するものであることを示しました。

画像:三法印

さて、本不生とは畢竟、三法印として挙げられる「諸行無常 諸法無我 涅槃寂静」を一語で表したものであるとも言えます。

仏教の核心、仏陀の根本教説とは苦・集・滅・道の四聖諦であり縁起法であり、また一切諸法の真実なる姿、すなわち不浄・苦・無常・無我であることを真に知り抜くことが、いわゆる悟りです。それは顕教であろうが密教であろうが、その表現の否定的・肯定的の異なりはあっても全く通じ共通しているものです。

不生不滅と本有常住

以上のように基礎的なところを最低限述べた上で、極めて注意しなければならない点を以下挙げておきます。

その点とは、諸法の実相について、これは特に支那における天台の学僧ら以来「本有常住[ほんぬじょうじゅう]」とも表現されてきたことです。本有常住、それを文字通り受け取って言うならば、「本源より有って恒常的に存在し続ける」という意となりましょう。が、しかし、それは先に示した本不生の意とまるきり逆の意となるものです。

そして日本の密教においてもまた、本有常住という表現は頻繁に用いられてきました。そもそも真言宗を日本に請来して立宗した空海自身、本有であるとか常住であるとかいう表現をしばしば用いてます。また、空海は『吽字義』にて密教と顕教との異なりを言わんとする中において、「唯有大日如来於無我中得大我(ただ大日如来あって無我の中に大我を得る)」と云い、それを「表徳之実義」などと表現してもいます。

空海は、縁起や無自性空ということを表現するに際して、遮情[しゃじょう]と表徳[ひょうとく]との二つの方法があるとして、例えば「縁起は『有る』のか?」という問いに対し、それら二つの方法に基づいてまったく正反対の答えを以てし、その理由をそれぞれ述べています。

しかしそれは結局、ただ表現の方法や視点が違うというだけのことであって、顕教と密教とが全く異なる真理を説いているということではありません。

ところが、本有常住であるとか大我であるとかいう言葉を、文字通りそのままの意味に理解する者、いや、理解したがる者が古来多くあります。それは往々にして、いわゆる「吾が仏尊し」といった精神に基づいたもので、密教は根本的に顕教とは異なる、違わなければならない、違うからこそ優れているのだ、とする詮無い心情によるものなのでしょう。

実は、本稿で講述している『阿字観用心口決』においても、まさに本有常住という言が用いられてます。

經所説如實知自心者見本不生際也。見本不生際爲一切智智。一切智智者即大日也。故眞言教即身成佛者見本不生際也。本不生者一切諸法從本以來不生不滅本有常住也。煩惱本本來不生煩惱。菩提本來不生菩提也。如是知名一切智智。然我等生滅去來當眼易知不生不滅所不知也。如此諸法本來不生不滅義顯教盛談之。故此不生不滅之名言不密教不共談。

 経〈『大日経』〉に説かれる「実の如く自心を知る」〈如実知自心〉とは、本不生際を見ることである。本不生際を見ることを一切智智という。一切智智とはすなわち大日である。故に、真言の教えにおける「即身成仏」とは、本不生際を見ることである。本不生とは一切諸法〈あらゆる事物・事象〉は本来、不生不滅であって本有常住であることを意味する。煩悩も本来、不生の煩悩である。菩提も本来、不生の菩提である。このように知ることを、一切智智と名づける。
 しかしながら、我々にとって事物が生滅し去来することは目に見えて知り易いことであるのに対し、不生不滅は知り難いことである。そのように諸法が本来、不生不滅であることは、顕教にても盛んに論じられていることである。よって不生不滅という名言は、密教独自の説などではない。

伝:空海述 実恵筆『阿字観用心口決』
[現代語訳:沙門覺應]

この一節における、「本不生とは一切諸法は本来、不生不滅であって本有常住であることを意味する」に続けて「我々にとって事物が生滅し去来することは目に見えて知り易いことであるのに対し、不生不滅は知り難いことである」としている言は、それだけを切り取ってしまえば、その意をたやすく人を誤解させるのに十分なものです。

「本不生とは不生不滅であって本有常住である。そして現前の事物の栄枯盛衰、物事が生滅していくことは、誰の目にもわかりやすく明らかなことである。けれども事物が真実には不生不滅であって本有常住であることは知り難い、と言われる。ということは、事物が生滅することは仮初のこと、幻のようなものであって、実はすべての存在は不生不滅で本来常住、すなわち無始の昔より不滅で有り続けるものだ、ということであろう。なるほど、密教は一般的な仏教の思想・見解とは全く異なる、より深い真理を看板をするものであるか。おお、やはり密教は素晴らしい!これが本当の『あるがまま』の意なのだ」

このような短絡的で、その故にあらぬ方向に飛躍した理解をしている者が、密教の僧徒や信徒には相当数あります。

実は顕教についても密教についても無知であるにも関わらず、ただ自身が密教を奉ずる宗に属しているという理由からだけで、顕教と密教との異なりを無闇に強調。あるいは殊更に密教の優位性を主張しようとして、むしろ仏教自体から逸脱してしまった者があります。すなわち、表には仏教の看板を挙げておきながら、実はその思想・見解がまるきり外道のそれと一緒となってしまっている者があるのです。

よって本有や常住などという言葉・表現は、特に注意すべきものです。

とはいえ、空性を表するために非常によく用いられる「不生不滅」という一般的表現ですら、無智の人にかかれば「究極の真理は常住であるから不生不滅というのだ」と理解されてしまう。あるいは、「この世の一切の事物は空なるもの、本不生であるとして、しかしそのような空たること、本不生であるという真理は不変であって実在するものであろう」と考えられてしまうでしょう。

そしてそのような輩のあることは一千二百年以上前から、いや、おそらくは仏陀御在世の昔から存在しています。

衆生之性本性無所有。由修行故。知此衆生之性本性空寂。由覺知是性空故。唯有名字而不可得也。謂空空性唯有名字。畢竟求不可得。此即是不可得空。非如劣慧者執是空性以爲實有也。

 衆生の性には、本性など有りはしない。修行することによって、この衆生の性は本性空寂なることを知り得る。その性が空なることを覚知することに由り、ただそれが(「衆生」という)名字〈名称〉に過ぎないものであって不可得である(ことを知る)。すなわち空を空ずる性は、ただ名字のみ有って、畢竟じてそれを求めたとしても不可得である。これをすなわち不可得空という。劣慧の者〈智慧・知性の劣った者〉がこの空性ということに執着し、(空性という真理を)以て実有とする様なことではない。

一行『大毘盧遮那成佛経疏』巻十九 百字成就持誦品第二十二
T39. P773a
[現代語訳:沙門覺應]

人は自分と他者とを比したとき何が異なっているかを様々な意味で気にし、しばしばその異なっている点を優劣の根拠とします。そして他に比して独自であることは、社会の中における自らの存在価値に繋がり、それを売りにしてその生存や優位を勝ち取る術ともなり得るものです。

独自であること、個性的であること、場合によってはそれは素晴らしく、追求すべきことです。しかしそれを仏教の思想・宗旨宗派の教学にまで強ちに持ち込もうとするのは全く愚かな、誤った行為です。

ところで、現代の密教学者や真言宗の僧職の人らがもっともらしく好んで用いる、「宇宙の意識」であるとか「大宇宙の命」、「生命の根源」・「生命の息吹」、あるいは「大宇宙〈マクロコスモス〉と小宇宙〈ミクロコスモス〉の合一」・「宇宙と一体となる」などという抽象的で何の意味もなく、むしろ人に大なる誤解をもたらすであろう言葉・表現を用いる人や書籍にも十分な注意が必要です。

これらの言は、まさに外道のそれに他なりません。

それは1970から90年代にかけてオカルトと疑似科学とのブームに併行し、多くそれらと夾雑して流行してしまった「密教ブーム」の中で非常によく用いられた表現で、未だにそのようなおかしな表現を使いたがる輩は真言宗の僧職者や御用学者らの中にも実に多くあります。いわば昭和の亡霊とでもいいましょうか。

そのような表現を使いたがるのはそもそも、仏教自体に対する無知や曲解に基づくものであったり、仏教の本来とは異なって、この世界をあくまで肯定的に見ようとする態度から生み出されたりしたものなのでしょう。

(仏教における世界観については、別項“『仏説譬喩経』 ―出離のすすめ”を参照のこと。)

仏教がこの世をいかに見ているのか。その世界観はいかなるものか、その教えの根本は何であるか。その核心とはいかなるものであるか。それを知らず、あるいは知りながらいたずらに世間に迎合する説を唱えようとするのは、欺瞞以外の何物でもありません。

もし密教は他にして優れており顕教とまったく異なるものだなどという見解を、何も理解せぬうちから持っているようではその人の前途はまったく暗澹たるもので、むしろますます生死輪廻の苦海に沈淪することになるに違いありません。

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なぜ阿字が満月輪に描かれるのか

画像:二種の阿字観の構成(無断使用厳禁: HORAKUJI, All ritght reserved.)

阿字観の修習に際しては一般に、それが絶対に必要ということは実は無いのですが、右に示したような図が書かれた軸が用いられます。

瑜伽の修習において、なんらか一つの図像・図形などを対象としてこれを観念・集中すること、それは一般にいわゆる止śamatha. 奢摩他の修習の一つとされるものです。また、その色形には様々な意味付けがされてきたことも、部派仏教などにおいても行われることであって、密教に始まるものでも独自のものでもありません。

たとえば三、四世紀頃の獅子国〈スリランカ〉における分別説部無畏山寺派の大徳、優波底沙Upatissaによる典籍『解脱道論』には、瑜伽の修習法の一つとして円形・方形・三角形など様々な形状の図像・曼荼羅〈密教におけるそれとは異なる〉を対象とすべきことが説かれています。

(分別説部における曼荼羅を用いた瑜伽法の一例については、別項“地遍の修習”を参照のこと。)

ただし、密教における様々な瑜伽法で用いられる図像は、部派におけるそれよりも象徴化・意義付けが複雑かつ多様化しており、それはここで講述している阿字観についても同様です。

よって阿字観が図像を用いるものであるからと言って、それをただちに奢摩他[しゃまた]の修習であると言うことは出来ません。なんとなれば、上に述べたような阿字の意義を知見することは、すなわち観vipaśyanā. 毘鉢舎那の修習の領域に属するものとなるためです。実際、阿字観を修する中でその始終、阿字の図像を凝視するなどということは無く、それを文字通り見つめるのは最初のみです。

さて、阿字観に用いる図像、それは白い円形の中に蓮華が描かれ、その上に阿字が載っているという形態で比較的単純なものです。しかし、やはりそのそれぞれが仏教の教義を、といっても特に大乗のものですが、象徴的に表現したものとなっています。

そのようなことから、阿字観を修習せんとする者は、先に示した阿字が象徴する本不生の意義など事前にそれらを十分に学習・理解している必要があります。でなければ、仏教では種々様々なる修習法・瑜伽法が説かれている中で、特に阿字観を行ずるその意味も利益も全く無い。

いや、そもそも仏教におけるいわゆる瞑想というものがいかなるものであって、どのような目的を持つものであるのかを知らなければならない。

(別項“瞑想とは何か”を参照のこと。)

空海の言葉には以下のようなものがあります。

医王之目觸途皆藥。解寶之人礦石見寶。知與不知何誰罪過。

優れた医師の目には道の(傍に生える様々な草木)全てが薬として映り、宝石に詳しい人には(大地に転がる)鉱石を見れば宝となる。(事物の真価を)知ると知らないとでは、一体誰の罪過となるであろうか。

空海『般若心経秘鍵』(弘全 Vol.3, P11
[現代語訳:沙門覺應]

何も知らない者に、それと伝えないまま希少な薬草を渡し、あるいはうちに金剛石〈ダイヤモンド〉を含む鉱石を与えたところで意味はなく、与えられた者からすればそれらはただのゴミ・ガラクタであってたちまち捨てられてしまうでしょう。

では、阿字観にて用いられる図像のそれぞれの意味とは何か。何故に白い円形が描かれ、また先に述べた本不生を意味する阿字が、蓮華の上に描かれるのか。その意義を示す典拠の一つ、それが『金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論』いわゆる『菩提心論』です。

諸佛大悲。以善巧智。説此甚深祕密瑜伽。令修行者。於内心中。觀日月輪。由作此觀。照見本心。湛然清淨。猶如滿月光遍虚空無所分別。亦名覺了。亦名淨法界。亦名實相般若波羅蜜海。能含種種無量珍寶三摩地猶如滿月潔白分明。何者。爲一切有情。悉含普賢之心。我見自心。形如月輪。何故以月輪爲喩。謂滿月圓明體。則與菩提心相類。凡月輪有一十六分。喩瑜伽中金剛薩埵至金剛拳有十六大菩薩者。《中略》
又摩訶般若經中。内空至無性自性空。亦有十六義。一切有情於心質中。有一分淨性。衆行皆備。其體極微妙。皎然明白。乃至輪迴六趣。亦不變易。如月十六分之一。凡月其一分明相。若當合宿之際。但爲日光。奪其明性。所以不現。後起月初。日日漸加。至十五日圓滿無礙。所以觀行者。初以阿字發起本心中分明。只漸令潔白分明。證無生智。夫阿字者。一切法本不生義
准毘盧遮那經疏釋阿字。具有五義。一者阿字短聲是菩提心。二阿字引聲是菩提行。三暗字長聲是證菩提義四惡字短聲是般涅槃義。五惡字引聲是具足方便智義。又將阿字。配解法華經中開示悟入四字也。開字者卽開佛知見。雙開菩提涅槃如初阿字。是菩提心義也。示字者。示佛知見。如第二阿字。是菩提行義也。悟字者。悟佛知見。如第三暗字。是證菩提義也。入字者。入佛知見。如第四惡字。是般涅槃義。總而言之。具足成就。第五惡字。是方便善巧智圓滿義也

 諸仏は大悲により、善巧智を以て、この甚深なる祕密瑜伽を説かれ、修行者の内心の中にて、日月輪を観想させる。この観想を行じることによって本心を照見するに、湛然として清浄なること、あたかも満月の光が虚空に遍じて分別することが出来ないようなものである。これをまた無覚了と名づけ、また浄法界と名づけ、また実相般若波羅蜜海と名づける。能く種種無量の珍宝三摩地を含むこと、あたかも満月の潔白にして分明なようである。何故ならば、一切有情は悉く「普賢心」を包含しているからである。我が自心を見るに、その形は月輪のようである。何故に月輪をもってその喩えとするかと言えば、満月の円明なる体とは、則ち菩提心と相類するためである。
 凡そ月輪には十六分ある。それをまた瑜伽の中の、金剛薩埵から金剛拳に至るまでの十六大菩薩〈『金剛頂経』所説の大日如来以外の四仏を囲繞する菩薩〉があることに喩えるのだ。《中略》 また『大般若経』の中に、内空より無性自性空に至るまで、また十六義がある。
 一切有情〈生きとし生けるもの〉はその心質の中に於いて、一分〈若干〉の浄性があって(その徳によって生来的に、菩提を得るための)諸々の行をすべて備えている。その体は極めて微妙であって、皎然として明白である。そしてそれは、(今生を終えて)六趣に輪廻したとしても変易することはない。それはまるで月の十六分の一のようなものである。凡そ月のその一分の明相は、もし合宿〈朔日〉の際に当たったならば、日光によってその明性を奪われるため、(月の姿を)現わすことが無い。後に起つ月の初めから、日日漸く加していって十五日に至ると円満無礙(の満月)となるのだ。そのようなことから、観行者は、初めは阿字を以て本心の中に一分の明を発起して、ただ漸く潔白分明とならしめ、無生智を証する。
 そもそも阿字とは、一切法の本不生なることを意味する。『大日経』の疏〈『大日経義釈』〉の説に准じたならば、阿字を解釈するに具さに五つの義があるという。一には阿字短声अ / a、これは菩提心。二には阿字引声आ / ā、これは菩提行。三には暗字長声अं / aṃ、これは証菩提の義。四には悪字短声अः / aḥ、これは般涅槃の義。五には悪字引声आः / āḥ、これは具足方便智の義である。
 また、阿字をもって『法華経』の中の「開示悟入」の四字に配当して解釈する。「開」の字は仏知見を開く。すなわち並びに菩提涅槃を開くのである、初めの阿字अ /aのように。これが菩提心の義である。「示」の字は仏知見を示す、第二の阿字आ / āのように。これが菩提行の義である。「悟」の字は仏知見を悟る、第三の暗字अं / aṃ)のように。これが証菩提の義である。「入」の字は仏知見に入る、第四の悪字अः / aḥ〉のように。これが般涅槃の義である。総じてこれを言えば具足成就であって、第五の悪字आः / āḥである。これが方便善巧智円満の義である。

不空訳『金剛頂瑜伽中發阿耨多羅三藐三菩提心論』(T32. P574a-b
[現代語訳:沙門覺應]

『菩提心論』とは、伝説に依れば龍猛菩薩が著したとされるもので、空海が最も重要なるものであって真言宗の後学の徒は須らく学習すべしとした典籍の一つです。実際、日本における密教を理解するのに『菩提心論』を読まず、等閑視することなど決してありえない、とまで言えるものとなっています。

もっとも、龍樹著とするには数々の不審点があり、今示した一節でも善無畏三蔵および一行禅師が逝去して以降に成立した『大日経義釈』の説が引かれ、また『法華経』の「開示悟入」に阿字の諸義を配当するなどといった極めて支那的解釈が説かれているため、特に日本の天台宗からは平安の昔以来、龍樹作ではなく不空が支那で著したものであろうと見られています。そしてその見方はおそらく正しいものです。

参考までに併せて挙げはしましたが、『菩提心論』におけるअ (a)・आ (ā)・अं (aṃ)・अः (aḥ)・आः (āḥ)という阿字および阿字を元とする四字の義を述べ、またそれらを『法華経』の「開示悟入」の四字に配当する等と言った説は、阿字観には直接関係が無く、今は特に気に留める必要もありません。

さて、以上示した『菩提心論』においてはまず、心(の本性)は満月のようなものであること、また満月の姿が菩提心に相似たものであるとされます。そして満月には十六分があって、それはまた『金剛頂経』系の密教にて説かれる十六大菩薩に喩えられること、さらには『大般若経』などにて説かれる「十六空」に比せられるものである、とされます。

もっとも、そのように満月が十六大菩薩や十六空に比する典籍があるからといって、それで舞い上がってしまってはいけない。それはただ、いわばその位置づけのためやその背景にあるものとしての名目として言われているだけであって、実際の阿字観の修習においては何ら関知しません。

いずれにせよ、阿字観にて用いられる図像の円形は満月を模[かたど]ったものであって、それは吾人それぞれの浄菩提心の象徴とされます。

では浄菩提心、菩提心とは何か。ここにいわれる菩提心とは、一般的な菩提心の意とされる「悟りを求める心」などといったものではなく、特に「無自性空なる心の実相」を示したものです。

祕密主心不住眼界。不住耳鼻舌身意界。非見非顯現。何以故。虚空相心。離諸分別無分別。所以者何。性同虚空即同於心。性同於心即同菩提。如是祕密主。心虚空界菩提三種無二。

「秘密主〈金剛薩埵〉よ、心は眼界になく、耳・鼻・舌・身・意界にもない。見えるものではなく、現れるものでもないのだ。なんとなれば、心は虚空のようなものであって、諸々の分別・無分別から離れているから」
「その故は何かと言えば、その本性が虚空と同様であれば、それは心と同じであり、その本性が心と同様であれば、それは菩提と同じであるから。そのように、秘密主よ、心と虚空界と菩提との三種は別々のものではない」

『大毘盧遮那成仏神変加持経』巻一 入真言門住心品第一(T18, P1b-c
[現代語訳:沙門覺應]

さて、従来の密教学者や僧職の人々には、上に示したような諸典籍の説を、(文献学的にはそのようにしなければならないという場合もあるでしょうけれども、)それぞれ明確に統合すること無く、全く別個のものとして理解・説明する傾向があったように思われます。

しかし、それでは全然いけない。もちろんそれらは明瞭につながったものであって、それぞれ全く一つの方向を向いて同じことを言わんとしたものです。散乱した点をつなげて線としてついに一箇の図とすることもなく、ただ点を点として表現するだけに留めたならば、その全体を理解することなど出来ません。

今示した『大日経』における、「なんとなれば、その本性が虚空と同様であればそれは心と同じであり、その本性が心と同様であれば、それは菩提と同じであるから。そのように、秘密主よ、心と虚空界と菩提との三種は別々のものではない」という一節。

そして、『大日経疏』にある一節であって空海もまた『吽字義』において引いた、「もし本不生際を見る者は、実の如く自心を知る。実の如く自心を知るとは即ち、それが一切智智である」という一節。

さらに、『菩提心論』の「本心を照見するに、湛然として清浄なること、あたかも満月の光が虚空に遍じて分別することが出来ないようなものである。《中略》 我が自心を見るに、その形は月輪のようである。何故に月輪をもってその喩えとするかと言えば、満月の円明なる体とは、則ち菩提心と相類するためである」という一節。

これらは全て一つのことを示しています。それは、心とは無自性空なるものであること、本不生なるものであることです。繰り返しますが、ここでいわれる菩提心とは、そのような本不生なる心の正体のこと。そしてそれが、いわゆる自性清浄心prakṛti-pariśuddha-cittaです。また心が本不生であることを真に知ることが菩提であり、それが『大日経』に説かれる「如実知自心」です。

さて、阿字と月輪とがそのような意味内容の真理の象徴であるとして、ではなぜさらに白蓮華〈紅蓮華でも青蓮華でもない〉が描かれるのか。蓮華は何を象徴したものであるのか。その答えの一例は、『大日経疏』における以下の一節にあります。

内心妙白蓮者。此是衆生本心。妙法芬陀利花祕密摽幟。花臺八葉。圓滿均等如正開敷之形。此蓮花臺是實相自然智慧。蓮花葉是大悲方便也。

内心の妙白蓮とは、衆生の本心の妙法なる芬陀利花puṇḍarīka. 白蓮華、祕密の摽幟〈象徴〉である。花臺・八葉(の形状)は、円満均等にして正しく開敷している形である。この蓮花臺は実相、自然の智慧(の象徴)であり、蓮花葉は大悲方便(の象徴)である。

一行記『大毘盧遮那成仏経疏』巻五(T39, P631c
[現代語訳:沙門覺應]

このように『大日経疏』では、といってもこれは特に大悲胎蔵生曼荼羅の中台八葉院についての所説ではあるのですが、白蓮華の花臺〈蓮のうてな〉とは実相・自然智の象徴であるとされます。そしてその実相・自然智とは結局、本不生でありまた一切智智の換言です。

そのようなことからもまた、『阿字観用心口決』では、いま挙げた『大日経疏』の一節を引用しつつ、なぜ阿字観において用いられる形像に蓮華が描かれるのかが以下のように述べられています。

如此諸法本來不生不滅義顯教盛談之。故此不生不滅之名言不密教不共談。然今密教規模者。所不及凡夫見聞覺知。不生不滅體直顯種子三摩耶形令知見之令修之。是顯教都所不知也。所言本不生體者。種子अ字三形八葉蓮花也。《中略》
内心妙白蓮者。此是衆生本心也。妙法芬陀利華者हृद心也。此心蓮可觀也。其觀想樣心中可觀有八葉蓮花。蓮花形世間如蓮花形。唯此蓮花計可觀也。又蓮花者हृद心是也。चित्त心住此蓮花。此二心暫時不離故蓮華上可觀月輪。月輪者चित心也。चित्त心形實如月輪形也。月輪形圓形事如常水精珠等。又蓮花種子अ字也。故月輪中可觀अ字。

 このように、諸法が本来「不生不滅」であることは、顕教でも盛んに論じられていることである。よって不生不滅という名言は、密教において独自に語られるものではない。しかしながら今、密教が語るところのそれは、凡夫[ぼんぷ]prithagjana. 凡庸の人の見聞覚知が及ぶものではない。「不生不滅」の本質を直に種字[しゅじ]〈字による象徴〉・三摩耶形[さまやぎょう]〈形像による象徴〉によって表し、(密教行者に)知見させ、実体験させるものである。これは顕教のうちいずれの教えにも説かれていないことである。いま言うところの本不生の本体とは、種字がअ字であり、三摩耶形は八葉の蓮華である。 《中略》
 「内心の妙白蓮」とは、衆生の本心である。妙法芬陀利華とは、हृद心[ふりだしん]hṛdaya. 心臓である。そのような心蓮を観じなければならない。それを観想する際には、「心中に八葉の蓮華がある」と観ぜよ。蓮華の形は世間の蓮花の形と同様である。ただこの蓮花ばかりを観ぜよ。また、蓮花とはचित्त心[しったしん]citta. 意識である。चित्त心とはその蓮花に住するもの。これらの(心臓と意識との)「二つの心」は、一瞬足りとも離れない不可分のものであることから、蓮華の上に月輪を観想するべきである。
 月輪とはचित्त心である。चित्त心の形は、まったく月輪の形に同じである。月輪の形が円形であることは、水晶の珠などのような(平面〈二次元〉の円ではなくて球形〈三次元〉の)ものである。また、蓮華の種字はअ字である。このことから、月輪の中にअ字を観想すべきである。

伝:空海述 実恵筆『阿字観用心口決』
[現代語訳:沙門覺應]

ここでは阿字の下に描かれている蓮華は心臓の象徴ともされ、また月輪は意識の象徴ともされます。そしてそれら、いわば物理的な心臓と精神的な意識という「二つの心」が不可分であることをもその理由として、蓮華の上に月輪を観想すべきであると述べられています。

そこで、では何を根拠に心臓と心意識とが不可分であるなどと言われるのか。それは、小乗諸部派が構築した教義体系である阿毘達磨[あびだるま]において、心臓が意識の座であるとされているのを受けてのことです。

現代の大脳生理学が、心とは頭蓋骨に収まっている大脳の機能に過ぎないであろうとしているのに対し、仏教では、心とは単なる脳の機能などではない、心臓に坐するものと見做しているためです。

さて、上に二種の阿字観に用いられる図を示しましたが、その二種の図の違いは、蓮華が月輪の中に描かれているか下に描かれているかにあります。では、何故そのような違いがあるかと言えば、その根拠とする典籍を『大日経』・『大日経疏』とするか『金剛頂経』あるいはその系統の経軌とするかに依ります。

今示した『阿字観用心口決』の一節では、明らかに『大日経疏』に基づいた阿字観の仕方が述べられています。

ところで、今一般に阿字観とは、阿字と月輪と蓮華との三つの要素で構成される、それら全ての組み合わせを観想することが必須のものとされています。しかしながら、実は必ずしもそうではない、ということが『阿字観用心口決』にて述べられています。

今此अ字蓮花月輪三中。若蓮花計觀。若蓮花月輪觀。若蓮花अ字可觀。可任行者意也。

今これらअ字・蓮華・月輪の三つにおいて、あるいは蓮華だけを観想し、あるいは蓮華と月輪とを観想し、あるいは蓮華とअ字とを観想しても良い。行者の意に任せるべきことである。

伝:空海述 実恵筆『阿字観用心口決』
[現代語訳:沙門覺應]

このように言われるのは、上に示してきたように、अ字・月輪・蓮華のいずれもが、結局全く同じことを意味する象徴であることに尽きると言えましょう。

そもそも、いわゆる阿字観を含めた密教の瑜伽法とは、その真理を自ずから全く把握することを目指したものに過ぎません。その真理とは、この世のあらゆる存在・事象が縁起せる無常なるものであること、無自性空なるものであること、すなわち本不生であることです。そしてそれは、仏教が、大乗が全く悟るべきとして目指すものです。

そのようなことから、必ずしも阿字観とはअ字・月輪・蓮華の全てを観想し、そのそれぞれが示す意義を逐一観察する必要は無いということになる。すなわち、何であれ諸法の本不生や縁起生を観る修習であれば、それは突き詰めれば広義の阿字観です。

密教において特徴的・独自であると言えるのは、真理を悟るため様々に象徴を駆使するその修習法、すなわち方法論においてのことに過ぎません。一般に密教の瑜伽法とは、厳密に経軌と正統な阿闍梨の所伝に則って修めなければならないとされるものではあります。が、特に狭義での阿字観においては、そしてこれはその嚆矢である『阿字観用心口決』の所説に拠れば、厳密に規定されたものでは全くありません。

そのようなことからも、一般に阿字観とは「初心の人であっても修しやすいものである」などと言われるのかもしれません。いや、そもそもそのような言は、『阿字観用心口決』にかくあることによります。

入此觀門行者雖初心生死輪迴永絶。行住坐臥無離皆是阿字觀也。易行易修而速疾頓悟也。若既座逹必非半跏法界定印行住坐臥悉अ字事思。

 この観門に入る行者は、たとい初心であったとしても生死輪廻を絶ち、行住坐臥の常時にこの阿字観を離れる事はない。行ない易く修し易く、速疾に頓悟するものである。もしすでに座(して阿字観を修すること)に熟達したならば、必ずしも半跏坐して法界定印など結ばずとも、行住坐臥の常日頃からअ字を思うようになるであろう。

伝:空海述 実恵筆『阿字観用心口決』
[現代語訳:沙門覺應]

しかし、これは繰り返しの言とはなりますが、そもそも阿字に象徴される奥旨すなわち本不生の示す意味・語義を、表面上ではあってもまずは論理的に知っておかなければ、いわゆる阿字観を修する必然性も価値もありません。

月輪観

画像:月輪観本尊・無断転載厳禁 法樂寺(All rights reserved. HORAKUJI)

阿字観に連なる修習に、日本で月輪観[がちりんかん]といわれるものがあります。

これは満月に見立てた白い円形を、それはやはり自らの浄菩提心を象徴したものですが、その色と形とを対象として集中し、三昧を深めていく瑜伽法の一つです。

最初は軸に描かれた図像を見つめて修めるのですが、やがては目を閉じてもその形と色とを意識にありありと保持出来るようにしなければなりません。そしてそれが意識のうちで明らかな輝きを持つようになったならば、これを最大限拡張し、その後はまた収斂させていくべきものとされます。

もっとも、特定の修習として説かれ「月輪観」と称されるものは直接経説に基づいたものではなく、八世紀頃の印度から支那に密教をもたらした大阿闍梨の一人とされる善無畏Śubhakarasiṃha三蔵によるいわば授戒次第であり、また簡略に密教の修禅の術が伝えられた『無畏三蔵禅要』に基づいたものです。

善無畏三蔵は特に『大日経』系の密教の相承者であったと言われ、実際『無畏三蔵禅要』でも『大日経』および『大日経疏』に基づいた事項を多数説いているものの、心に観想した月輪を拡大・収縮させるという法に関しては、『大日経』に基づいたものではなく『金剛頂経』系の経軌の所々に説かれるものです。

ところで、先にも少し言及したことですが、そのように図形を対象として三昧すなわち定を深めようとすることは、例えば分別説部における止の業処を用いた瑜伽法に類する修習でもあります。

また、以下に延べることは上記の書典などに説き示されたことではなく、仏教者として、あるいは瑜伽行者としての常識的な話として言うことであり、また実際に瑜伽を自ら修めてみればたちまち理解できることですが、いきなり「心とは満月のようであって円満にしてそれは輝いている。最初は現前にある満月の図像を対象としても良いけれども、最終的には目を閉じても明瞭に光り輝く満月輪をありありと我が意識のうちに観想し、それを保持せよ」などと言われても、それを全く受け入れることは困難であり、また言われたとおりたやすく出来ることではありません。いや、そんなことはいきなり出来ない。

これは阿字とは本不生を意味するものである等といったことを理解する以前の問題で、我々人の普段の意識というものまったく落ち着き無くせわしく飛び回っており、あるいは世間でいかに生き抜くか、世間における諸欲をどれほど享受するかに汲々としており、到底もちろん自らを含めたあらゆる事物の「本不生」であるとか「不生不滅」、「縁起生」であるという真理を如実に知見することなど出来ようはずもないことです。

「物事には原因と結果がある」、「生命や事物には始めと終りがある。生まれたならば、いつか必ず死がある」。そんなことは、「わかりきったことで、殊更に言うまでもないこと」というのが普通の感覚でありましょう。それを知ること・言うことは、普段の意識でもなんら支障ないことであるでしょう。しかし、そのような見方もまた、縁起や本不生ということを如実に知ることへの障害となります。

釈尊は成道されて後、その悟られた法すなわち縁起法を、世間に開示することをためらわれています。

何故か。それは縁起法が甚深微妙であってまことに見難く、いくらこれを説いたところで人は理解し得ず、ただ疲労困憊するのみであろう、と仏陀は考えられたからであると言われます。

adhigato kho myāyaṃ dhammo gambhīro duddaso duranubodho santo paṇīto atakkāvacaro nipuṇo paṇḍitavedanīyo. ālayarāmā kho panāyaṃ pajā ālayaratā ālayasammuditā. ālayarāmāya kho pana pajāya ālayaratāya ālayasammuditāya duddasaṃ idaṃ ṭhānaṃ yadidaṃ idappaccayatāpaṭiccasamuppādo.

 私が得たこの真理は深遠で、見がたく、解しがたく、静謐で、極妙であり、推量の域を超え、微妙であり、賢者によって知られるものである。しかしながら、人々は執着することを喜び、執着することを楽しみ、執着することを享受している。そこで、人々は執着することを喜び、執着することを楽しみ、執着することを享受しているが故に、(人々には)此縁性idappaccayatāすなわち縁起paṭiccasamuppādaは見がたい。

SN. Sagāthāvagga, Brahmāyācanasutta (6.1.1)
[日本語訳:沙門覺應]

しかし、そのように考えられていた仏陀のもとに、当時のインドでは宇宙の創造神にして最高神として信仰されていた梵天という神が現れて最上の敬意をもって礼拝し、「世間にも少数とは言えこれを理解する眼あり耳あるものがあって、そのような人々のために是非とも法を説いて欲しい」との懇請があります。

そこで、釈尊があらためて世を見渡してみた結果、確かにそのような人々があり、「ではそのような人々のためにこそ法を説こう」と決意されたと言われます。梵天勧請[ぼんてんかんじょう]といわれる説話です。

その時、仏陀がひるまれたほどに、人をして理解困難なる真理、それが縁起法です。

例えば、釈尊の随行を務められていた阿難尊者ですら、ある時このような思いが起こったことを経典は伝えています。

āyasmā ānando bhagavantaṃ etadavoca — “acchariyaṃ, bhante, abbhutaṃ, bhante. yāva gambhīro cāyaṃ, bhante, paṭiccasamuppādo gambhīrāvabhāso ca, atha ca pana me uttānakuttānako viya khāyatī”ti. “mā hevaṃ, ānanda, avaca, mā hevaṃ, ānanda, avaca. gambhīro cāyaṃ, ānanda, paṭiccasamuppādo gambhīrāvabhāso ca. etassa, ānanda, dhammassa ananubodhā appaṭivedhā evamayaṃ pajā tantākulakajātā gulāgaṇṭhikajātā muñjapabbajabhūtā apāyaṃ duggatiṃ vinipātaṃ saṃsāraṃ nātivattati.

 阿難尊者は世尊にこのように言われた。
「不可思議なものです、大徳よ!驚くべきものです、大徳よ!この縁起法とはなんと深遠であり、その相もまた深遠なることは。けれどもしかし、私には(縁起法とは)一目瞭然の(わかりきった)もののように思われます」
と。(すると世尊は答えられた。)
「阿難よ、そのように言ってはならない。阿難よ、そのように言ってはならない。この縁起法は深遠であり、その相もまた深遠なるものである。阿難よ、この真理に対する無知と無理解によって、人は、糸がもつれ絡まったかのように、腫れ物に覆われたように、ムンジャ草やパッバジャ草のように、悪趣・苦界・堕処への輪廻saṃsāraを超えることが出来ないのである」

DN, Mahāvagga, Mahānidānasutta
[日本語訳:沙門覺應]

阿難尊者は、ひとまず仏陀の説かれた縁起法を賛嘆しておきながら、しかし縁起法がそれほどまでに難解なものなどとは思われないとの感想を、実に率直に釈尊に述べています。けれども、釈尊はこれを「そのように言ってはならない」とたしなめられ、その理由について、あらためて十二縁起の一一を然々と、阿難尊者に説かれています。

大乗における無自性空と同義とされる縁起とは、十二縁起における縁起よりさらに深淵なものであるとされるため、なおさら本不生ということは、そんな表層のことでも単純なことでもありません。それはまさしく捉え難く知り難い、微妙であり微細なる真理です。

(縁起とは何かについて、その根本については別項“Paṭiccasamuppāda [縁起(十二縁起とは何か)]”を参照のこと。)

故にまず、人はその普段の意識を沈め穏やかにしなければならない。それは同時に、自らの念smṛti. 注意力・把持力と定samādhi. 集中力との力を強め深めなければならないということです。それにはやはり、清潔な閑所においてじっくりと自らを陶冶する時間を設けなければなりません。

それまで音楽など全く縁遠かった者で鍵盤になど触れたこともなかった者が、何かピアノのクラッシクの名曲を弾きたくなってピアノを始めたとして、いきなりそれを流麗に弾くことなど誰であっても決して出来はしません。

音符の読み方、そして楽譜の見方、基本的な運指や姿勢をまず学び、実際にごく簡単な練習曲から次第に難解な曲へと修練に修練を重ね、初めてある程度ピアノが弾けるようになり、模倣に模倣を重ねてやがてみずから個性というべき味を出せるようになることでしょう。その上達までの遅速はもちろん、才能に左右されるものでもあるでしょうが、なによりもまずは本人のやる気が第一です。

いわゆる瞑想、瑜伽を行じることも全く同様です。仏教における瑜伽、すなわちいわゆる瞑想とは、我が心を耕し育むこと、陶冶することを目的とするものです。

月輪観(ひいては阿字観)を修する際は、月輪が(心の正体とは本不生なるものであるという)菩提心の象徴であるという意義から先ずは一旦全く離れ、我が念力と定力とを強めるための通仏教的な術として始めなければならない。やがて我が心に念と定とを十分に備えることが出来たならば、その時には我が心とは満月輪のように文字通り光り輝くものであることを自ずから体験することになる。

そのような体験は、必ず月輪を観想の対象としてこそ得られるものではなく、術として安般念であっても何でも得うるもので、それはまさに禅定〈初禅〉に(もう少しで)達することの証となるものです。

しかし、そのような光明を経験したからといって舞い上がってはいけない。それはもちろん物理的な光ではなく、禅定を得た者であれば誰でもが「必ず」経験する、ただ意識の上での一現象に過ぎません。それは確かにすこぶる非日常なる、いわば衝撃的な体験になりうるものですが、それを経験することが目的などではもちろん無い。

(とはいえ、このように事前に「光明を必ず経験する」などと述べてしまうと、それを意識的に目的化してはいないなどと云いながらも、それをまさに一つの指標や目処として目標化してしまい、光明の体験を過度に求め、また期待する者が続出します。結果としてそのような者らは、何ら体験することも証果を得ることも出来ず、往々にして挫折します。中世、明恵上人や禅僧らが口にした「徒者[いたずらもの]になるべし」とは、その類の者らはなんら結果やその経過を期待せず修禅に励むべきとする、戒めの言葉です。)

そこで行者がそのような状態に至った意識において、無自性空なる心の正体としての菩提心を自ら観ること、すなわち「如実知自心」に到ることがその目的です。

以上のように見たならば、先に「阿字観に連なる修習」などと述べはしましたが、いま月輪観と称される法は止と観のいずれの修習をも備えた、それ自体で完結した優れたものだということが出来るでしょう。

次應修三摩地。所言三摩地者。更無別法。直是一切衆生自性清淨心。名爲大圓鏡智。上自諸佛下至蠢動。悉皆同等無有増減。但爲無明妄想客塵所覆。是故流轉生死不得作佛。行者應當安心靜住。莫縁一切諸境。假想一圓明猶如淨月。去身四尺。當前對面不高不下。量同一肘圓滿具足。其色明朗内外光潔。世無方比。初雖不見久久精研尋當徹見已。即更觀察漸引令廣。或四尺。如是倍増。乃至滿三千大千世界極令分明。將欲出觀。 如是漸略還同本相。初觀之時如似於月。遍周之後無復方圓。作是觀已。即便證得解脱一切蓋障三昧。得此三昧者。名爲地前三賢。依此漸進遍周法界者。如經所説名爲初地。所以名初地者。爲以證此法昔所未得。而今始得生大喜悦。是故初地名曰歡喜。亦莫作解了。即此自性清淨心。以三義故。猶如於月。一者自性清淨義。離貪欲垢故。二者清涼義。離瞋熱惱故。三者光明義。離愚癡闇故。又月是四大所成究竟壞去。是以月世人共見。取以爲喩令其悟入。行者久久作此觀。觀習成就不須延促。唯見明朗更無一物。亦不見身之與心。萬法不可得。猶如虚空。亦莫作空解。以無念等故説如虚空非謂空想。久久能熟。行住坐臥。一切時處。作意與不作意。任運相應無所罣礙。一切妄想。貪瞋癡等一切煩惱。不假斷除。自然不起。性常清淨。依此修習。乃至成佛。唯是一道更無別理。此是諸佛菩薩内證之道。非諸二乘外道境界。作是觀已。一切佛法恒沙功徳。不由他悟。以一貫之。自然通達。能開一字演説無量法。刹那悟入於諸法中。自在無礙。無去來起滅。一切平等。行此漸至昇進之相久自證知。非今預説所能究竟。

 次にまさに三摩地samādhi. 三昧・定・集中力を修めよ。ここでいう三摩地とは、これ以外に別の法など無いもので、これこそ一切衆生の自性清淨心である。これを名付けて大円鏡智という。上は諸々の仏陀より、下はごく小さな虫などに至るまで、(本性としては)それらは悉く全て平等であって優劣など無い。ただし(諸仏以外のものは)無明や妄想という客塵煩悩によって覆われている。その為に生死流転して作仏〈無上菩提を得ること。解脱すること〉出来ないのである。行者はまさに心を安んじて、定にとどまれ。(色・声・香・味・触・法という)すべての認識対象に心を奪われることなかれ。
 仮に、満月のように明るい円を観想せよ。(その位置は)身体から四尺120cmばかり前方に高からず低からず、その大きさは一肘45cmほどの円形である。その色は明朗であって内外ともに一点のくもり無く、世に比較できるものがないほどである。初めはうまく観想出来くとも、継続して日々研鑽したならば、徐々にアリアリと現前するかのようになるであろう。(そのように出来たならば)更に観想し続け、次第にその大きさを広げよ。あるいは四尺ほどまで次第に広げ続け、ついには三千大千世界に遍く広げていくのを、極めてアリアリと観想しなければならない。観想を終える際には、(拡張したときと)同じように徐々に収斂させていき、最終的には最初の一肘ほどまでにせよ。
 最初は満月のようなものを観想するが、遍く広げていった時には方形・円形などの形を意識する必要はない。この観想を成就したならば、それが解脱一切蓋障三昧の証得である。この三昧を得た者を地前の三賢〈十住・十行・十廻向〉という。
 これからまた漸進して法界にまで遍からしめた者を、経説のとおり初地〈十地(十聖)の最初の位〉というのである。初地といわれる所以は、この法を証して未だかつて得たことの無い境地を、今初めて得たことによって大なる喜悦を生じるためである。このようなことから初地を名づけて歓喜地と言う。しかし、(もし三昧を成就し初地に至ったとしても)「私は悉地を得た。全く理解した」などと思ってはならない。
 この自性清浄心には三つの意義があることから、あたかも月のようなものである。一つは自性清浄の義。貪欲という垢から離れているからである。二つには清涼の義。瞋恚という熱悩から離れているからである。三つには光明の義。愚痴という闇から離れているからである。また、月とは(地大・水大・火大・風大の)四大からなるもので遂には壊れゆくものであるけれども、月は世の人々皆が見るものであるから、これを以て喩えとし、それ〈自性清浄心〉に悟入させようとするのである。
 行者が久しくこの観法を行じて観習成就したならば、(時間の)長短もおぼえず、ただありありと(心が満月輪のように輝くのを)見ることだけがあって、他に何も(意識に)生じることはない。また(自らの)身体と心とをすら認識することもなくなるであろう。万法〈あらゆる事象・事物〉は不可得〈無自性空・中道・仮名〉であって、さながら虚空のようである。ただしここで空解〈虚無主義的理解に執着すること〉をおこしてはならない。(そのような境地においては)なんら認識することすら出来ない等となるために虚空のようであると云いはするけれども、空想〈虚無主義〉を説いているわけではない。永くよく(この観法に)習熟したならば、行住坐臥のすべての時と場所において、意識的・無意識的にただ行なうままに行いながら、しかし障碍となるものも無いであろう。すべての妄想、貪・瞋・癡などすべての煩悩は、強いて制し断ずる必要が無くなり、自然に起こることもない。(行者の)心性は常に清淨となる。
 この修習によって、ついには成仏に至るであろう。ただこれこそ一道であって、さらに別の理など無い。これは諸仏諸菩薩の内証の道であって、諸々の二乗や外道らの境界ではない。この観法を修し終わったならば、すべての仏法の無量の功徳を、他に依ることなく悟るであろう。ただ専心にこれを貫徹したならば、自ずから通達するであろう。(梵字)一字が有する意義を敷衍して無量の法を説き示し、たちまちに諸法の中に悟入して、自在無礙である。(諸法は)去ることも・来ること・起こること・滅することも無い、すべて(畢竟して無自性空であるという点において)平等である。これを行じて漸く(悉地へと)至る際には、(自身の境地が)昇進したその徴を、久しく時を経て自ずから証知するであろう。それは今このように説いたからといって、それで完結するものではない。(自らが実際に精進して修め、自ら実際に体験しなければならないことである。)

善無畏『無畏三蔵禅要』(T18, P945b-c
[現代語訳:沙門覺應]

(『無畏三蔵禅要』については別項“善無畏『無畏三蔵禅要』”を参照のこと。)

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浄厳覚彦 ―近世における密教を曲解した人の代表

画像:外道 浄厳覚彦

江戸初期、他宗との別異、すなわち自宗の優位性・独自性を主張せんとするがあまり、阿字諸法本不生の意義をも独自に解釈し、さらに極端に敷衍して「釈迦の説いた縁起は虚妄」などとまで宣わった真言僧、浄厳覚彦[じょうごん かくげん]が現れています。

「釈迦の説いた縁起は虚妄」、そのような主張やもはや仏教者から発せられたものとは到底思えぬ、まったく呆れてものも言えないほどの主張です。

浄厳とは、もと高野山の学侶であった人です。学侶とは、高野山には中世以来、学侶方[がくりょがた]・行人方[ぎょうにんがた]・聖方[ひじりがた]という三種の僧の立場・あり方があったうちの一つです。学道を専らとし、経論や修法についての知識を蓄え、伝法会や論議という法会の中で、その見解を他の学侶と戦わせて切磋琢磨する学問僧を、学侶と言います。

もっとも、元来高野山にはいわば学侶しか存在していませんでした。しかし、平安後期には学侶の下に仕えて諸堂の荘厳や法会・行事の裏方など雑事を行う行人という立場が、そして鎌倉中期には日本各地を巡って勧進を募る半僧半俗の聖[ひじり]という立場が生じ、それが定着するようになりました。

いわば本来的な僧侶である学侶、そして学侶に仕え、高野山諸堂の維持・経営を司る行人。そして、高野山に属して(ほとんど嘘八百とも言うべき)弘法大師信仰など各地に広めながら勧進を行う、実際としては俗人の聖とで、それぞれの立場とその役割を超えずにありました。しかし、時代とともに行人と聖の勢力は増して学侶に匹敵。しばしば互いに勢力争いを起こすまでに至り、中世末期から近世に入るとその対立は決定的深刻なものとなったようです。

閑話休題。さて、そのような高野山の学侶であった浄厳は、しかし、その優秀さからかその性格からか、ある他の学侶の深い恨みを買い、高野山金剛峯寺の子院の一つである釈迦文院にて密教の修法中、突如として襲われ刺殺されかけています。瀕死の重傷を負った浄厳は高野山を降り、しばらく河内の実家に滞在して養生していたものの、最終的に関東に行った人です(その後、生家に建てられたのが河内延命寺で現存)。

やがて、江戸初期の江戸にて真言宗の戒律復興を図った最初の人となり、またさかんに各地の人々に授戒や結縁潅頂を行って非常に多くの人を教化しています。また、将軍綱吉ならびに母公の帰依を受け、湯島に霊雲寺を建立。

彼の行業のうち特筆すべきは、高野山南院に相伝されていた真言宗の事相(小野流)における一流派、安詳寺流を再編集し、のちに新安詳寺流〈新安流〉と呼ばれる一流を興したことです。もっとも、浄厳自身には、新しい流派を自ら立てたという意識は微塵もなかったようです。彼からすると経典や儀軌など確かな典拠に基づいて、古のあるべき姿に安詳寺流を古のあるべき姿に「修正しただけ」というほどのものでした。

浄厳によって復古された安詳寺流は、後に「御簾流[みすりゅう]」とまで称されるようになっていきます。それは、浄厳によって再編された安祥寺流が、たとえば御簾の中にある者からは外をよく見通せるけれども外からは御簾の中を伺い知ることは出来ないのと同様に、安詳寺流からは広く他の諸流を見渡せることが出来るものの他流から安詳寺流を窺い知ることは出来ない幽遠なるものである、という賛辞でした。

その故に、浄厳は、現代における真言宗でも大変著名な人で、「事相家」などといわれる僧職の人々から特に尊敬、いや、崇敬されています。

しかしながら、浄厳は高野山の学侶であったとはいうものの、教相面で顕教の理解が全くお粗末であり、あるいは密教に関して独善的に過ぎたものとなっており、彼の著作に見られる論理も全く見当違いの方向へ飛躍してしまっていました。そして浄厳を信奉する現代の事相家といわれる人々の中には、それを理解している者も理解し得るだけの知見・能力を持った者などほとんど絶無と言って良い。

実は、浄厳の事相や悉曇についてではなく、その思想内容がいかなるものであったかは学問的にもほとんど知られておらず、そもそも近世の仏教自体が学会から軽んじられているように思いますが、密教学者や史学者でそれを研究しようとするする者も非常に稀です。

しかし、浄厳の思想がいかに異常であったかは、同時代、南都諸大寺や京都叡山などに遊学するなど広く顕教を修めたうえで密教に深く通じた近世稀代の大学僧であった智積院の泊如運敞[はくにょ うんしょう]〈1614-1693から、浄厳が「外道」とまで呼ばれ非常に激しく非難されていたことからも、ある程度推し量れることが出来るでしょう。

浄厳はまた事相面だけではなく、悉曇についても優れた業績を残した人でもありました。特に浄厳による『悉曇三密鈔』は、同時代の悉曇に関する書物の中では白眉というべきものです。もっとも、より後代に出た日本における悉曇学の頂点に達した人である慈雲尊者などは、浄厳の悉曇に関する業績に対して一定の敬意を示しつつも、その悉曇理解が浅く、誤り多いものであると批判しています。

実は、浄厳が『悉曇三密鈔』を著して出版するに際し、運敞は浄厳の学識とその内容を称える序文を寄せていました。運敞は当初、浄厳を若いながらも当代のすぐれた学僧として認知していたのです。しかしながら、浄厳が特に阿字に対する自身の解釈を開陳しだすや、その非仏教なる見解に驚いた運敞は猛烈な批判を開始。すると浄厳は運敞を「老人」として自身の見解があくまで正しいと反論し、激しい応酬が繰り返される一大論戦となっています。

しかしながら、現存する浄厳の著作を読めば確かに、仏教者として驚きを通り越して呆れてしまうようなこと、あまりに飛躍した持論を浄厳は書き散らしており、その見解は外道と非難されて至極当然と言えるものです。そしてそのような彼の「とんでも仏教理解」は、彼に依って編纂された安祥寺流の聖教次第の中にても随所に開陳されており、特に「字輪観」という密教の行法の中でもっとも重要な箇所にても遺憾なく発揮されています。

近世初期はその時流として、朱子学に対して山鹿素行が古学を起こし、また記紀に直に基づいて後代の無根拠で杜撰な説を廃すべきとした国学が隆盛して様々な優れた学者らが現れていたように、彼浄厳もまた儀軌に通じて忠実に密教の行を再編しようとした復古的態度を取った点では高く評価すべき人です。しかし、繰り返し強調しておきますが、彼の顕教に対する理解は惨憺たるもので、それは密教行者として致命的な点です。

結局、密教の作法などを儀軌に忠実なものにしたとしても、導かれる仏教理解がそのようでは、彼の事相面での業績はすべて台無しであった、と断じて全く過言なきものです。

そしてまた浄厳は、江戸前期の真言宗における「吾が仏尊し」精神を遺憾なく発揮した「宗旨がたまり」の典型というべき人でもあって、真言宗についてひどく独善的な理解をしており、その見解がまるきり外道そのものであることも相俟って、範とすべき人などでは決してありません。

浄厳のごとき「仏教徒の仮面をかぶった外道の人」、いわば八世紀の印度に現れ「仮面仏教徒」とも言われた印度教のŚaṅkara[シャンカラ]の逆を言ったような者になってしまわないためにも、阿字観を行ぜんとする人もまた、顕教の確かな理解が不可欠です。

現代における催事の一つとしての阿字観

画像:阿呆字観

繰り返しますが、密教は顕教の理解なしに触れて良いようなものではなく、顕教の前提なくしては到底理解しえないものです。阿字のなんたるかを理解せずして行うことに意味など全く無い。

そのように修習の前提とされる何事かを理解しておかなければならないことは、何も阿字観に限ったことではなく、仏教の瞑想すなわち止観の根本的修習法である安般念などを修するに際しても全く同様です。

それは例えば、非常に高い高い難所たる山に登ろうとするには、すでにその登頂に成功した先達にその行程とその状況とを聞いて地図を得てその情報を自らじっくりと考え、またコンパスを準備し、そうして初めて実際に登攀に赴く、というようなもの。

そのように段階を踏んで実際の修習に望むことを仏教では、三慧と言います。

もしなんら行くべき道を知らず、ただ闇雲に山頂を目指すようでは、たちまち麓の森などで迷うばかりとなってしまうでしょう。この場合、とにかく理屈はどうあれやってみれば良いのだ、ただひたすら歩いていたならばいつかは目的地に着くであろう、ということは決してありません。

そのようにして山に入った愚か者は、たちまち(必然的)遭難者となって山岳救助隊のご厄介となり、ついには世間から白眼視されるのと同じような結果を生み出すでしょう。瞑想して頭を(ますます)違えてしまったようなのや、突き抜けた増上慢の輩となるようなのは、それこそ世間にはゴロゴロ存在します。

しかしながら、真言門徒の中には、先に触れた浄厳と同じように、ただちに「真言宗では何々」・「密教では云々」と、前提としての顕教を踏まえず理解せず、にも関わらず密教の顕教に比しての優位性・独自性を牽強付会の説でもって述べようとし、その言動がそのまま外道になっている者が少なからず見られます。

この『阿字観用心口決』という書体においてかく説いているため、このように云うのは甚だ矛盾となりますが、一部の人が巷間盛んに宣伝する「初心の者でも容易に修し得、達しやすい」などと言えるようなものでもありません。本書にそう書いているとはいえ、このような言は自ら達してこそ放ち得るものでしょう。そしてまた、自らが阿字観を真剣に行なってみたならば、そのような言が文字通りのものでないことを容易く、自ずから知ることになる。

いや、普段の生活を離れ、閑処に座って瞑想もどきのことを数十分でも体験することにより、多少ながらも我が心を平安とする功徳を体感することはあるでしょう。けれども、それは別に阿字観を修めたからこそのことではありません。

その程度のことであれば、わざわざ仰々しく阿字の描かれた軸など用意する必要はなく、しかつめらしく座禅を組む必要もない。あるいは小鳥さえずる山林にじっと佇み、木々や鳥や虫たちの音に耳を澄ませるほうがよっぽど精神にも健康にも良いでしょう。形ばかり瞑想の真似事をしてみたとしても、それは時間の無駄とすら言える。

ところで、阿字観について述べようとする人がほとんど必ずと言っていいほど口にする、以下のような歌があります。

阿字の子が 阿字の古里立ちいでて
また立ち帰る 阿字の古里

この歌は空海によって作られたものだ、その愛弟子智泉が早逝した際に詠まれたものだ、などと巷間伝説されています。しかし、それは事実などでは到底無い、実に拙い伝説に過ぎません。

この歌は歌であるからが故に、様々に解釈し得るものではありましょう。けれども、これをそのまま読んだならば、阿字という根源から生み出た者は、やがてまた死んで阿字という根源に還っていくのだ、ということになる。そして一般にそのように理解されており、またここにいう阿字とは「母なる大日如来である」・「生命・宇宙の根源・原初」などと受け取られています。どうしてもその「始まり」があって欲しい人間の性向が表出したものといえましょう。

しかし、それもまったく取るに足らない幼稚な理解であり、そもそもこの歌を空海作のものとして見なすべきでも、阿字の意義を示すものなどとして取り上げるべきでもありません。それが人を容易く誤解させ、妄想を膨らませるだけのいわば「浪漫仏教」を象徴するが如き詮無いものであるからです。

それを揶揄した歌を一句。

阿呆の子が 阿呆な古歌立ち聞いて
また繰り返す 阿呆の戯言

画像:創られた伝統、疑似科学のオカルト本としての阿字観を説いた代表的書籍

現在、真言宗の各派には、阿字観を一般の人々に公開し実習させているところが少なからずあります。それは1970年代から90年代における世間の一部において、瞑想ブームとでも言えるものを迎えていたことに対し始まったものです。

また、真言宗は瑜伽宗などとも言われるその建前上、実は教学的に何の根拠も無く、馬鹿の一つ覚えのように「南無大師遍照金剛」などと繰り返すだけの(到底仏教とも密教とも思われない)大師信仰に寄りかかっていては不十分かつ時代に不適合であり、禅宗がそうして一定の成功を収めているように、やはり密教らしく独自の瞑想を用いた布教をするべきではないか、などという程度の、そして今更とすら言うべき動機によったものでした。

他がやっているから己もやらなければならない、兎にも角にもなんでもやってみればいい、と言うものではありません。

いずれにせよ、そのように始まった阿字観を一般にも実習させようとする流れには、あるいは独自性をさらに強めようとして、阿息観だの阿字観体操だのと、奇妙奇天烈なものを考案して実行させる者が出現。あるいはその実修中、「宇宙が云々」・「大生命の息吹が脈々と云々」などと、実に抽象的で滑稽な誘導の言葉を、始終並べ挟んでみる者が続出しています。

(これは高野山真言宗が阿字観布教なるものを始めだした初期、公式にそうするべきなどと言って、いわばその「指導要領書」まで出していたことに基づく愚行です。それはつまり、その最初から何もわからない、しかし「その道の権威」などと言われてしまっていた人々が、とりあえずそれっぽいこととして始めていたことの証でもあります。)

ひどいのになるとアンビエント音楽や指導者の愛好曲を終始流してみたりなどと、もはや「住職の娯楽」と呼ぶべきものをすら通り越し、何かのご冗談とすら言えるような意味不明・根拠不明のアジカンを行わせている輩共があります。

これらの事から推して知られるでしょうが、そもそもその指導に当たっている本人が、実はまるで瑜伽について素人。指導歴は長いが、瞑想に関する経論の知識はほとんど絶無であって、自身のまともな瞑想歴も無いに等しい、などという馬鹿げた話も決して珍しくありません。

実際、宗団が与える瞑想指導であるとか阿字観指導の「資格」なるものを持つ指導員らなど、せいぜい阿字観について概説書の類を二、三冊を読んだことがある程度、そして宗団の開講するなおざりな講義を一、二度、数日間受けた程度ということがほとんどです。

無論、経論の所説に通じていればいるほど良い、その経験が長ければ長いほど良い、などということは決してありません。ですが、全体としてはその内容がまったくお粗末極まりなく、まったく不確かで無根拠なる、阿字観に興味を持った人々をあらぬ方向に誘導させていくだけのものとなっています。

瞑想を修める格好を取り繕うのは多くの人に出来てしまうことでしょう。

しかし、ではその結果はどうかと聞かれても、
「え~っと、気持ちが良かったです」
「(なんとなく)宇宙を感じました」
「あぁ、これはいいですねぇ。これはそう、癒しですね?」
「阿とか何とかはよくわかりませんが、こんな素晴らしい体験初めてです!感動しました!」
では、阿字観など行う必要など全く無い。それはむしろ害悪でありましょう。

それではただ観光客など人集めのための余興に過ぎない。実際、各宗団もただ観光客相手の余興としてやらせており、その意味では目的は達せられているのでしょうけれども。

先にピアノの喩えをもってしたように、これは何も瞑想に限らず世のほとんどのことに該当することですが、何でも段階を踏んで基本から徐々に、そして確実に修めていくことが不可欠です。

人の機根は万差

仏教は、人それぞれの立場・能力に応じて様々に説かれたものであり、(その原理・原則は唯一であるとはいえ)修行法は唯一ではありません。真言宗徒である、密教徒であるからといって、必ずしも阿字観を修する必要もありません。

自らの機根と縁とに従い、様々な経論にあたって仏教の理解を進めつつ、五停心観などから漸漸として瞑想を進めていけば良い。もし自らの器が値するものであり、縁あり機が満ちて、密教を正しく修め得ることが出来たならば、それをまた本格的に、真剣に修めれば良いでしょう。

仏陀という偉大な王が遺し、僧伽という相続者らが引き継ぎ守り磨いてきた、その全てが価値ある宝です。密教も、その数ある宝のうちの一つで、確かに独自で優れた方法論を伝える尊いものです。しかし、いま密教でなければ必ず駄目なのだ、ということは全くありません。

江戸後期のその昔、大阪を中心に仏教復興運動を展開した慈雲尊者などは、野中寺にて二十歳を過ぎて比丘となり、懸命に多くの経論を読み漁って修学に励んでいましたが、ある日いくら該博な知識・教養を得たところで人生の苦難を解決し乗り越えることなど出来ないことを「多聞は生死を度せず、仏意とはるかに隔つ」と、律蔵に伝わる仏滅直後に行われた第一結集に至るまでの経緯を読んだことで気づきます。

そこで尊者は、法楽寺に帰って師の忍綱和尚から法樂寺住職位を継いだものの、たった二年で住職を放棄して法弟に譲ってしまいます。そして、仏教の肝心は戒律を正しく護持した上で修禅し、自らの心を明らめなければならないと、万事擲って懸命に阿字観を修したといいます。

尊者が阿字観を選んだのは、以前、十九山村墓寺の大輪律師という人から阿字観についてかなり詳細に教授されていた、ということがあるのでしょう。またそれ以外にも、当時の世間でも阿字観が「初心の者でも容易に修し得、達しやすい」などと謳われていたことを素直に受けてのことであったかもしれません。しかし、それで尊者が突如として証悟したということは当然なく、「やや証入する所あり」という程度のことであったといわれます(『正法律興復大和上光尊者伝』)。

尊者が野中寺にあった頃、その経蔵にて必死に多くの経論を読み漁って仏典について多くの知識を蓄えていたとは言え、修禅の基本、根本的な事項を誰かに教授されたことはなく、いきなり「修禅せねば」などと決意し阿字観を修めたとて、それはいわば暗中模索のことであったろうと思われます。

そのようなこともあり、慈雲尊者は信州の正安寺にあった洞上における当代の禅師、大梅法撰[だいばい ほうてん]〈1682-1757のもとに足掛け二夏参じ、それは当然曹洞宗の伝統においてのことでしたが、修禅のイロハを一から学んでいます。

しかし結局、尊者は曹洞の禅師らと仏教に対する見解は一致することはなく、独り山中において生涯を送るべきと考えていた中、故あって法樂寺に還っています。そしてそこで独坐する中、ついに尊者は開悟したといいます。その後、尊者は開悟の楽しみを享受し、修禅を続けていたようですが、それは傍に雷が落ちても気づかなかったほどの深い禅定に達するものであったと伝えられています(『正法律興復大和上光尊者伝』)。

尊者がその時、どのような修習を行じていたかの伝えはありませんが、それはおそらくもはやいわゆる阿字観などに依るのではなく、先程から言及する広い意味での阿字観によるものであったのでしょう。

(それを強いて「広義の阿字観」などと表現する必要などありはしませんが、阿字観というものの目指す所、開陳しようとしている真理が密教に特殊なものでないことを示すため、ここではあえてそう言っておきます。)

阿字観を修すといっても、阿字の字義を知ることは勿論のこと、修禅・瑜伽ということ自体について何も知らないで修めるのと知って修めるのとでは雲泥の差があります。

そもそも、これも前述したことのさらなる繰り返しとなりますが、仏教の修習、中でも大乗における瑜伽法はすべて、広義の意味での阿字観です。なんとなれば、その悟得を目指すものが、もとより自心を含めた一切法の本不生を知見することであり、それが阿字の象徴するものであるのだから。そして阿字観とは、仏教の修習の核心である止観という枠組みを、観想という術によっていずれも実現するものです。

「好むと好まざると、ただ永遠に生き死にし続けなければならない」という輪廻というおそるべき苦海を脱するための術、安般念や不浄観、界分別観や三密瑜伽などの修禅・瑜伽法を、少しでも多くの人がそれぞれ自ら正しく修め、漸漸としてであってもその功徳を自ずから証することを、願ってやみません。

一般に、人は三昧を修めることを好まず、また修めずして悪しきもの、価値なきものとみなしてきました。それは別段、今に限った話ではなく、仏陀御在世の当時から同様であったようです。しかし、定を修めずして、ただ学解や知識を深めても己を真に救うことなど出来はしません。

それは決して容易いことではなくとも、その証果はただ机上において想像するのみのものではなくして、たちまち自らが目の当たり知ることの出来る、真に尊く稀有なるものです。

貧道覺應 稽首和南
horakuji@live.jp

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2.凡例

本文

このサイトで紹介している『阿字観用心口決』は、雷密雲編纂『阿字観秘決集』(香川県綾歌郡坂出町定光院発行/明治四十五年五月三十一日)所載のものを底本とした。底本には、編者によって多くの異本との異同など冠註が付されているが、ここではそれらに一切触れなかった。

なお、現在容易に被欄し得るものに大正新脩大蔵経所載のもの(T77, P415a)があるが、本稿にて底本としたものとは多少の異同が見られる。

原文は漢文であるが、読解に資するよう、さらに訓読文・現代語訳を併記し、対訳とした。底本には本文中の数カ所、阿字など梵字悉曇による表記があるが、Web上では画像ファイルを使用しない限り再現不可能である。そこで、ここでは画像ファイルを使用する代わりに、たとえば悉曇の「阿」字の場合は、現在インド一般にて用いられているDevanāgalīa、すなわち「」をあてて代用している(本来の梵字悉曇による阿字は、上の解題冒頭に付した画像ファイル参照のこと)。

しかし、その他の語に関しては、デーヴァナーガリー文字による再現・代用も不可のため、その慣用読みを括弧内にカタカナで閉じ、それが本来梵字で表記されていることを示している。

文中数カ所に見られる割り注などは、下付文字表記とし、それが割り注であることを示している。

訓読は底本に付されている返り点に従った。訓読文においては、旧漢字は現行のものに適宜改めている。また、難読と思われる漢字あるいは単語には、ルビを[ ]に閉じて付している。

現代語訳は、基本的に逐語的に訳している。しかし、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合が多々ある。それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

語注

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。

本文に経論からの引用がされている箇所は、判明した範囲でその典拠を示した。それらは『大正新修大蔵経』による。例えば引用箇所が『大正新修大蔵経』2巻177項上段であった場合、(T2, P177a)と表示している。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭 覺應 敬識
(horakuji@live.jp)

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