真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 訶梨跋摩 『成実論』止観品(3)

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1.原文

問曰。若爾則無聖所愛戒。

答曰。以諸学人漏未盡故我心時発。是故於戒生愛。非阿羅漢我心永滅而生愛也。

問曰。劬阿羅漢於時解脱六返退失。恐第七退故以刀自害。若失有漏不応自害。故知時解脱不名有漏。

答曰。此人退失所用断結禅定。於此定中六返退失。第七時還得此定。便欲自殺。爾時尋得阿羅漢道。是故魔王謂。学人死繞尸四辺遍求其識来。白佛言。世尊。云何汝弟子未漏盡而死。佛言。此人已拔愛根得入泥洹。

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2.訓読文

問て曰く。若し爾らば則ち聖所愛の戒無きや。

答て曰く。諸の学人は漏の未だ盡きざるを以ての故に我心、時に発る。是の故に戒に於いて愛を生ず。阿羅漢は我心を永く滅して而も愛を生ずるには非ざる也。

問て曰く。瞿提阿羅漢*1 は時解脱に於いて六返退失し、第七の退を恐るるが故に刀を以て自害す。若し有漏を失するならば応に自害すべからず。故に知んぬ、時解脱を有漏と名づけずと。

答て曰く。此の人、所用の断結の禅定を退失し、此の定の中に於いて六返退失し、第七の時に還た此の定を得て、便ち自殺せんと欲す。爾の時、尋いで阿羅漢道を得たり。是の故に魔王は学人は死せりと謂いて尸の四辺を繞りて遍ねく其識を求め来たり、佛に曰して言さく。世尊。云何が汝の弟子の未だ漏盡せずして死ぬやと。佛の言く。此の人、已に愛根を拔きて泥洹に入ることを得と。

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3.現代語訳

問い: もしそうであるならば、「聖者が愛好するところの戒」というものは無いのであろうか。

答え: 諸々の修行途上の者らは、いまだ煩悩が尽きてはないために我心が、しばしば起こる。ために戒について愛執を生じるのである。阿羅漢は、我心を断滅しており、愛を生じることはないのである。

問い: 瞿提(ゴーディカ)阿羅漢は、時解脱したにも関わらず六度にわたって退転。七度目に得た時解脱から退転することを恐れたために、刀でもって自害した。もし、有漏を失したのであれば自害する必要はなかった。このことから知られるであろう、時解脱は有漏ではないということが。

答え: 瞿提は、修めていたところの断結の禅定から退転すること六度に渡り、七度目に再びこの禅定を得たとき、自殺しようと思い立ったのである。まさにその時、阿羅漢道を得たのである。そのため、魔王は(瞿提は修行途中で命を落としたと思い込み)「未完の修行者が死んだ」と云って、その遺骸の周囲を廻って彼の意識を探し求め、(しかしついに見つからずして、)仏陀にこのように申し上げたのである。「世尊よ、一体どうして汝の弟子は、いまだ煩悩を尽くさずに自ら死んだのであろうか」と。仏陀は答えられた。「この人(瞿提)は、すでに渇愛を抜っして涅槃に入ったのである」と。

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4.語注

  • 瞿提阿羅漢[くていあらかん]…自殺した諸仏弟子の中でも最も有名な比丘(?)。瞿提はパーリ語Godhika[ゴーディカ]の音写名。この典拠となっている『雑阿含経』における音写名は、瞿低迦あるいは瞿低。また『大智度論』における音写名は、劬提迦となっている。このゴーディカ尊者の自殺についての話は、すでに『成実論』不退品第二十九(大正32, P257下段)において論じられており、そこでは劬提との音写名が用いられている。『成実論』はやや訳語に統一を欠くことが見られる。
    この典拠となる『雑阿含経』巻三十九にはこうある。ゴーディカ尊者という比丘が、王舎城の山中にあって孤独に、そして真摯に道を求めて修行に励み、ついに「解脱」した。しかし、それも束の間、退転し、また励んで解脱を得るもやはり退転。ついにその回数、六度に渡って深く思い悩んでいた。そこで、七度目の退転が無いようにと七度目の解脱を得たとき、ゴーディカは自ら刀でもって自殺した。その時、彼が解脱せずに自殺したと思い込んだ魔王パーピヤス(波旬)は、ゴーディカの意識をその死した地の近くで四方探し回るも、ついに見いだすことが出来なかった。仏陀は魔王に告げた。そのとき彼は、全く「解脱」していたのである、と(大正2, P286上段-中段)。これと同様の話は、Saṃyutta Nikaya (i. 120 f.) にあり、その注釈書Saṃyutta Nikaya Aṭṭhakathā (i. 144 f.) ならびにDhammapada Aṭṭhakathā (i. 431 f.) に、これがいかなることを意味するかの注釈を載す。
    説一切有部は彼は時解脱の阿羅漢であったとしているのに対し、『成実論』はその自殺する直前にこそゴーディカ尊者は完全に解脱(好解脱)した、というものである。しかし、すると尊者は自殺する直前に自殺する必要が無くなっていたわけである(もっとも、パーリ経典の注釈書では、彼がナイフで喉を切った直後に阿羅漢になったのだと注釈し、この矛盾の解決を図っている)。ここでの議論同様、ゴーディカ尊者が数度にわたって「解脱」したにも関わらず退転したのはどういう訳か、ということは、いくつかの論書でも触れられている。いずれにせよ、釈尊はこの時、自殺について否定も肯定もされていない。ところで、多くの比丘が(不浄観を修めて過度に厭世的になり)次々と自殺を図ったため、釈尊が不浄観をいたずらに説き、修めさせるのを禁じたという逸話は、諸律蔵に載る。→本文に戻る

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