真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 訶梨跋摩 『成実論』止観品(4)

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1.原文

問曰。若断貪名遮断者。経中説。従貪心得解脱。従恚癡心得解脱。又説断貪喜故心得好解脱。又説従欲漏心得解脱。如是皆応名遮解脱非実解脱。

答曰。是中亦説無明断。故知是畢竟解脱。若説断貪或是遮断或畢竟断。若不生真智則是遮断。隨生真智是畢竟断。無有用止能畢竟断貪。若然者。外道亦能畢竟断貪。而実不然。故知但是遮断。

問曰。経中説。以止修心依観得解脱。以観修心依止得解脱。是事云何。

答曰。行者若因禅定生縁滅智。是名以止修心依観得解脱。若以散心分別陰界入等。因此得縁滅止。是名以観修心依止得解脱。若得念処等達分攝心。則俱修止観。又一切行者。皆依此二法得滅心解脱

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2.訓読文

問て曰く。若し断貪を名づけて遮断とせば、経の中に説かく、貪心より解脱を得、恚癡心より解脱を得*1 と。又た説かく、貪喜を断ずるが故に心は好解脱を得る*2 と。又た説かく、欲漏より心は解脱を得る*3 と。是の如きは皆な応に実解脱に非ずして、名づけて遮解脱とすべし。

答て曰く。是の中に亦た無明の断を説く。故に知ぬ、是れ畢竟解脱なりと。若し貪を断ずるを或は是れ遮断、或は畢竟断と説かば、若し真智を生ぜずんば則ち是れ遮断なるも、真智を生ずるに隨わば是れ畢竟断なり。止を用いては能く畢竟して貪を断ずること有ること無し。若し然らば、外道も亦た能く貪うを畢竟断ずるも、実には然らず。故に知ぬ、但だ是れ遮断なり。

問て曰く。経の中に説かく。止を以て心を修し観に依りて解脱を得。観を以て修を心し止に依りて解脱を得*4 と。是の事云何。

答て曰く。行者の若し禅定に因りて滅を縁ずる智を生ぜば、是れを名づけて止を以て心を修し観に依りて解脱を得とす。若し散心を以て陰界入等を分別し、此に因りて滅を縁ずる止を得ば、是れを名づけて観を以て心を修し止に依りて解脱を得とす。若し念処等の達分を得て心を摂さば、則ち俱修止観なり。又た一切の行者、皆な此の二法に依りて心を滅し、解脱を得。

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3.現代語訳

問い: もし貪欲を名づけて遮断とするのであれば、経典の中にある「貪心より解脱を得、恚癡心より解脱を得」との説、「貪喜を断じることによって心は好解脱を得る」との説、また「欲漏より心は解脱を得る」との説、これら経説は、すべて実解脱では無く遮解脱とするべきであろう。

答え: これら経説の中ではまた別して無明の断が説かれているのである。故に知るべきである、これらは畢竟解脱である、と。もし貪欲を断じることを、ある場合には遮断でありと言い、またある場合には畢竟断であるなどと説くのであれば、もし真智が生じていないのであればこれを遮断とし、真智が生じているのであれば畢竟断である。止を修めるだけでは、畢竟して貪欲が断じられるということは無い。もしそれが可能であるというのならば、外道もまた能く貪欲を畢竟断することが出来るであろうが、実際はそのようなことはない。このようなことから、ただこれは遮断である。

問い: 経の中に説かれている、「止によって心を修し、観によって解脱を得る。観をもって心を修め、止によって解脱を得る」と。これは一体どういうことであろうか。

答え: 行者に、もし禅定によって縁滅智が生じれば、これを名づけて「止をもって心を修し、観によって解脱を得る」とするのである。もし散心をもって陰・界・入などを分析し、このことによって縁滅の止を得たならば、これを名づけて「観をもって心を修め、止によって解脱を得る」とする。もし、念処などの達分を得て心を摂めるのは、「倶修止観」という。すべての行者は、皆この(止と観との)二法によって心を滅し、解脱を得るのである。

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4.語注

  • 貪心より解脱を得云々…このままの文言は経典中に見いだせない。あるいは求那跋陀羅訳『雑阿含経』「云何為解脱清浄断。謂聖弟子貪心無欲解脱。恚癡心無欲解脱。如是解脱」(大正2, P149上段)の件か。→本文に戻る
  • 貪喜を断ずるが故に云々…。→本文に戻る
  • 欲漏より心は解脱を得る…このままの文言は、『阿毘達磨法蘊足論』(大正26, P494上段)に見られる。また衆賢(Saṃghabhadra[サンガバドラ])は、『阿毘達磨順正理論』にて「諸有先依根本靜慮入見諦者。得無学時寧従欲漏心得解脱。就依未至入見諦者。及次第者説故無失。(中略) 経言従欲漏心得解脱。有具二因有一因故。謂於欲離繫得。無漏得者二因故言心脱欲漏。一得彼無学離繫得故。二得彼無学厭患治故。若不得者唯由一因。故此契経義皆成立。此中理趣如前已辯」(大正29, P652下段-P653上段)と述べ、この一説がやはり経文からの引用であることを示している。しかし、現今の経中には見出せない。
    なお、『大毘婆沙論』における欲漏の定義は以下のとおり。「云何欲漏謂欲界除無明諸余結縛随眠随煩悩纏是名欲漏」(大正27, P243下段)。欲漏だけ断じたとしても、それで解脱にいたることはないことは有部でも十分承知しているところであるが、訶梨跋摩は問者にあえてこのような問いを設けさせている。→本文に戻る
  • 止を以て心を修し云々…このままの文言は、経中に見出せない。しかし、『阿毘達磨大毘婆沙論』巻一百二の以下の件にて見られる。「問何等阿羅漢唯修盡智無学正見二無漏慧。何等阿羅漢。具修盡無生智無学正見三無漏慧耶。答有阿羅漢心善解脱非慧善解脱。有阿羅漢心慧俱善解脱。前唯修二。後具修三。復次有阿羅漢因力加行力不放逸力皆狹小。有阿羅漢因力加行力不放逸力皆廣大。前唯修二。後具修三。復次有阿羅漢是奢摩他行。有阿羅漢是毘鉢舍那行。前唯修二。後具修三。如二行二楽二欲二愛亦爾。復次有阿羅漢修止為先而入聖道。有阿羅漢修観為先而入聖道。前唯修二。後具修三。復次有阿羅漢以止修心依観得解脫有阿羅漢以観修心依止得解脱。前唯修二。後具修三」(大正27, P527上段-中段)。→本文に戻る

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