真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 慧警 『無畏三蔵禅要』

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1.原文

次應發弘誓願。我久在有流。或於過去。曾行菩薩行。利樂無邊有情。或修禪定。勤行精進護持三業。所有恒沙功徳。乃至佛果。唯願諸佛菩薩興慈願力。加威護念令我乘斯功徳。速與一切三昧門相應。速與一切陀羅尼門相應。速得一切自性清淨。如是廣發誓願。令不退失速得成就

次應學調氣。調氣者。先想出入息。從自身中一一支節筋脈。亦皆流注。然後從口徐徐而出。又想此氣。色白如雪潤澤如乳。仍須知其所至遠近。還復徐徐從鼻而入。還令遍身中。乃至筋脈悉令周遍。如是出入各令至三。 作此調氣。令身無患冷熱風等悉皆安適。然後學定。輸波迦羅三藏曰。汝初學人。多懼起心動念罷息進求而專守無念以爲究竟者。即覓増長不可得也。夫念有二種。一者不善念。二者善念。不善妄念。一向須除。善法正念。不令復滅。眞正修行者。要先正念増修。後方至於究竟清淨。如人學射久習純熟。更無心想行住恒與定倶。不怕不畏起心。爲患虧於進學

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2.訓読文

次に応に弘誓願を発すべし。我れ久しく有流に在り、或は過去に於て、曾て菩薩行を行じ、無辺の有情を利楽し、或は禅定を修し、勤行精進して、三業所有の恒沙の功德、乃至佛果を護持す。唯だ願くば諸佛菩薩、慈願力を興して加威護念し、我をして斯の功徳に乗ぜしめ、速かに一切三昧門と相応せしめ、速かに一切陀羅尼門1と相応せしめ、速かに一切自性清淨2を得せしめたまえ。是の如く広く誓願を発して、退失せしめざれば速かに成就を得ん。

次に応に調気3を学すべし。調気といっぱ、先ず想へ、出入の息は、自らの身中の一一の支節筋脈より、亦た皆な流注す。然して後ち口より徐徐に出づと。又た想へ、此の気は、色白きこと雪の如く潤沢なること乳の如しと。仍て須く其の至る所の遠近を知るべし。還して復た徐徐に鼻より入り、還て身中に遍からしめ、乃至筋脈悉く周遍ならしむ。是の如く出入すること各三たびに至らしむ。此の調気を作して、身を患無からめ、冷熱風等悉く皆な安適ならしめ、然して後ち定を学すべし。

輸波迦羅三蔵の曰く、汝初学人、多く起心動念4を懼れ、進求を罷息て、専ら無念5を守りて、以て究竟と為せば、即ち増長を覓めるといえども不可得也。夫れ6に二種有り。一には不善念、二には善念なり。不善妄念は、一向に須らく除くべし。善法正念は、復た滅せしめざれ。真正の修行者は、要ず先ず正念増修し、後ち方に究竟清淨に至るべし。人の射を学ぶに、久しく習ふて純熟するが如し。更に心想を無くして行住、恒に7と俱なるべし。起心を怕ず畏れざれ。進学を虧くを患ひと為せ。

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3.現代語訳

次に、まさに弘誓願を発せ。
「私は、幾久しく生死流転してきた中で、あるいは過去世において菩薩行を行じ、数えきれないほど多くの有情を利楽し、あるいは禅定を修し、勤行精進して、(身口意の)三業によって計り知れない功徳および仏果を護持してきました。ただ願くは諸仏菩薩よ、慈しみの願力を起こして加威護念し、私をしてその功徳に乗ぜしめ、速かに一切三昧門と相応せしめ、速かに一切陀羅尼門と相応せしめ、速かに一切自性清淨を得せしめたまえ」
このように広く誓願を発し、退失することがなければ速かに成就を得るであろう。

次に、まさに調気〈prāṇāyāma. 呼吸・気を整えること〉を修めよ。調気するには、先ず「出・入の息が自らの身体中の一つ一つの手脚、筋や脈へとすべて流れ注ぎ、そうして後に口より徐徐に出ていく」と観想せよ。そして、「この気の色は白く雪のようであって、その潤沢である様はまるで乳のようである」と観想せよ。そのようにして、すべからく気が至る所の遠近を知らなければならない。還して復た徐徐に鼻より入り、還て身中に遍からしめ、乃至、筋脈悉く周遍ならせる。そのように(気を)出・入することそれぞれ三度までなす。この調気を行って、身体の患いを取り除き、冷熱の風等を全て快適としてから、定を行ぜよ。

そこで輸波迦羅三蔵はこのように言われた。
「汝ら初学の者は、しばしば心が乱れ、念〈smṛti / sati. 注意力・気をつけること〉の動じることを恐れて、さらに(定を)深めようとせず、むしろ無念〈ここでは「なんら心が働いていない状態」のこと〉であろうと努めて、そのような状態を究竟だと考えたならば、さらに増長〈心をさらに開発・陶冶すること〉しようとしてもそれを得ることなど出来はしない。そもそも、念には二種ある。一つは不善念、二つには善念である。不善妄念とは、ひたすらに必ず除かなければならない。けれども善法正念は滅してはならない。真正の修行者は、かならず先ず正念を修めて強くし、そうしてこそ後に究竟清淨に至るであろう。それは人が弓を射ることを学ぶ時、久しく習って次第に習熟していくようなものである。さらに心想を無くし、歩く時も留まる時も、つねに定と共にあれ。心が乱れることを嫌がらず恐れる事なかれ。定を深めんとする意志を欠くことを患いとせよ」

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4.脚註

  • 一切陀羅尼門[いっさいだらにもん]…全ての音・文字に象徴される真理。
     『大般若経』等々の顕教経典、または『大日経』等の密教経典では、あらゆる全ての音・文字が実は真理を開示したものであると説かれる。そこではあらゆる全ての音・文字とはそれ自体が陀羅尼であるとされる。→本文に戻る
  • 一切自性清淨[いっさいじしょうしょうじょう]…あらゆる事物・事象が、恒常不変の実体を欠いた無自性空なるものであること。自性清浄という場合の清浄とは、清潔・不潔という意味での清浄ではなく、無自性空であることを意味するもの。→本文に戻る
  • 調気[ちょうき]prāṇāyāma. 呼吸・気を整えること。ここでは三昧を修める以前に、「身体を健やかに整える方法」として調気が述べられている。
     仏教の修習において、呼吸を操作するなどいわゆる呼吸法を「主」とするものなど無い。例えば数息観は呼吸を操作するのではなく、ただ自然に自らがなしている呼吸を数えて心を落ち着かせる前行であり、またその本行となる安般念は自らがなしている呼吸の状態を認知して次第に事物の真理を観察していくものであるように、仏教の修習において、基本的に呼吸は意識的に操作するものではない。チベット仏教において、呼吸を相当な修行により高度に制御していく修習が行われているが、しかしそれもそれだけで悉地が得られるなどとされるものではない。→本文に戻る
  • 起心動念[きしんどうねん]…意識が落ち着かず、種々の思考が生じること。→本文に戻る
  • 無念[むねん]…ここでは「なんら心が働いていない状態」のこと。→本文に戻る
  • [ねん]smṛti / sati. 注意力・気をつけること。→本文に戻る
  • [じょう]samādhi. 三昧・三摩地。心が集中し安定した状態。定の極めて深い状態を禅那といい、それに四種あって四禅という。→本文に戻る

脚註:沙門覺應

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