真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 慧警 『無畏三蔵禅要』

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1.原文

次應修三摩地。所言三摩地者。更無別法。直是一切衆生自性清淨心。名爲大圓鏡智。上自諸佛下至蠢動。悉皆同等無有増減。但爲無明妄想客塵所覆。是故流轉生死不得作佛。行者應當安心靜住。莫縁一切諸境。假想一圓明猶如淨月。去身四尺。當前對面不高不下。量同一肘圓滿具足。其色明朗内外光潔。世無方比。初雖不見久久精研尋當徹見已。即更觀察漸引令廣。或四尺。如是倍増。乃至滿三千大千世界極令分明。將欲出觀。 如是漸略還同本相。初觀之時如似於月。遍周之後無復方圓。作是觀已。即便證得解脱一切蓋障三昧。得此三昧者。名爲地前三賢。依此漸進遍周法界者。如經所説名爲初地。所以名初地者。爲以證此法昔所未得。而今始得生大喜悦。是故初地名曰歡喜。亦莫作解了。即此自性清淨心。以三義故。猶如於月。一者自性清淨義。離貪欲垢故。二者清涼義。離瞋熱惱故。三者光明義。離愚癡闇故。又月是四大所成究竟壞去。是以月世人共見。取以爲喩令其悟入。行者久久作此觀。觀習成就不須延促。唯見明朗更無一物。亦不見身之與心。萬法不可得。猶如虚空。亦莫作空解。以無念等故説如虚空非謂空想。久久能熟。行住坐臥。一切時處。作意與不作意。任運相應無所罣礙。一切妄想。貪瞋癡等一切煩惱。不假斷除。自然不起。性常清淨。依此修習。乃至成佛。唯是一道更無別理。此是諸佛菩薩内證之道。非諸二乘外道境界。作是觀已。一切佛法恒沙功徳。不由他悟。以一貫之。自然通達。能開一字演説無量法。刹那悟入於諸法中。自在無礙。無去來起滅。一切平等。行此漸至昇進之相久自證知。非今預説所能究竟。

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2.訓読文

次に応に三摩地1を修すべし。言ふ所の三摩地といっぱ、更に別法無し。直に是れ一切衆生の自性清淨心2なり。名づけて大円鏡智と為す。上は諸佛より下は蠢動に至るまで、悉く皆な同等にして増減あること無し。但だ無明妄想の客塵3の為に覆る所なり。是の故に生死流転して作佛4することを得ず。行者は応當に安心して静住すべし。一切の諸境を縁ずること莫れ。

仮に一円明の猶ほし浄月の如くなるを想へ。身を去ること四尺、當前に対面して高からず下からず。量は一肘5に同じて円満具足す。其の色明朗、内外光潔にして、世に方比する無し。初めは見ずと雖も久久に精研せば尋で當に徹見し已るべし。即ち更に観察して漸く引て広からしむべし。或は四尺、是の如く倍増して、乃至三千大千世界を満たし、極めて分明ならしむべし。将に出観せんと欲せば、是の如く漸く略して還て本相に同ぜよ。

初観の時は月に如似く、遍周の後ちは復た方円無し。是の観を作し已て、即便ち解脱一切蓋障三昧を証得す。此の三昧を得る者を、名けて地前6三賢7と為す。此に依て漸進して法界に遍周する者は、経に説く所の如く名づけて初地8と為す。初地と名すくる所以は、此の法を証して昔に未だ得ざる所を、今初めて得て大喜悦を生ずるを以てなり。是の故に初地を名づけて歓喜9と曰ふ。

亦た解了を作すこと莫れ。即ち此の自性清淨心は、三義を以ての故に、猶し月の如し。一には自性清淨の義、貪欲の垢を離るるが故に。二には清涼の義、瞋の熱悩を離るるが故に。三には光明の義、愚癡の闇を離るるが故に。又た月は是れ四大所成10にして、究竟して壊去すと雖も、是れ月は世人共に見るを以て、取りて以て喻へと為し、其れに悟入せしむ。行者久久に此の観を作して、観習成就せば延促を須ず、唯だ明朗を見て更に一物無し。亦た身と心とを見ず。萬法不可得にして、猶ほ虚空の如し。

亦た空解11を作すこと莫れ。無念等を以ての故に虚空の如しと説くといえども、空想12を謂ふには非ず。久久に能く熟せば、行住坐臥、一切時処に、作意と不作意と、任運に相応して罣礙する所無けん。一切妄想、貪瞋癡等、一切煩悩は、断除を仮ずして、自然に起せず。性常に清淨なり。

此の修習に依て、乃し成佛に至るべし。唯だ是れ一道にして更に別の理無し。此は是れ諸佛菩薩の内証の道にして、諸の二乗外道の境界に非ず。是の観を作し已らば、一切佛法恒沙13の功德、他に由らずして悟らる。一を以て之を貫かば、自然に通達す。能く一字を開きて無量の法を演説し、刹那14に諸法の中に悟入して、自在無礙なり。去来起滅無く、一切平等なり。此を行じて漸く至らば昇進の相、久ふして自ら証知すべし。今預め説ひて能く究竟する所には非ず15

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3.現代語訳

次に、まさに三摩地samādhi. 三昧・定・集中力を修めよ。ここでいうところの三摩地とは、これ以外に(求めるべき)別の法など無いものであって、これこそ一切衆生の自性清淨心〈無自性空・本不生なる心の本質〉である。これを名付けて大円鏡智という。上は諸々の仏陀より、下はごく小さな虫などに至るまで、(本性としては)それらは悉く全て平等であって優劣など無い。ただし(諸仏以外のものは)無明や妄想という客塵煩悩によって覆われている。その為に生死流転して作仏〈無上菩提を得ること。解脱すること〉出来ないのである。行者はまさに心を安んじて、定にとどまれ。(色・声・香・味・触・法という)すべての認識対象に心を奪われることなかれ。

仮に、満月のように明るい円を観想せよ。(その位置は)身体から四尺〈約120cm〉ばかり前方に高からず低からず、その大きさは一肘約45cmほどの円形である。その色は明朗であって内外ともに一点のくもり無く、世に比較できるものが無いほどである。初めはうまく観想出来なくとも、継続して日々研鑽したならば、徐々にありありと現前するかのようになるであろう。(そのように出来たならば)更に観想し続け、次第にその大きさを広げよ。あるいは四尺ほどまで次第に広げ続け、ついには三千大千世界に遍く広げていくのを、極めて明瞭に観想しなければならない。観想を終える際には、(拡張したときと)同じように徐々に収斂させていき、最終的には最初の一肘ほどまでにせよ。

最初は満月のようなものを観想するが、遍く広げていった時には方形・円形などの形を意識する必要はない。この観想を成就したならば、それが解脱一切蓋障三昧の証得である。この三昧を得た者を地前の三賢〈十住・十行・十廻向〉という。これからまた漸進して法界にまで遍からしめた者を、経説のとおり初地〈十地の最初の位〉というのである。初地といわれる所以は、この法を証して未だかつて得たことの無い境地を、今初めて得たことによって大なる喜悦を生じるためである。このようなことから初地を名づけて歓喜地と言う。しかし、(もし三昧を成就し初地に至ったとしても)「私は悉地を得た。全く理解した」などと思ってはならない。

この自性清浄心には三つの意義があることから、あたかも月のようなものである。一つは自性清浄の義。貪欲という垢から離れているためである。二つには清涼の義。瞋恚という熱悩から離れているためである。三つには光明の義。愚痴という闇から離れているためである。また、月とは(地大・水大・火大・風大の)四大からなるもので遂には壊れゆくものであるけれども、月は世の人々皆が見るものであるから、これを以て喩えとし、それ〈自性清浄心〉に悟入させようとするのだ。

行者が久しくこの観法を行じて観習成就したならば、(時間の)長短もおぼえず、ただありありと(心が満月輪のように輝くのを)見ることだけがあって、他に何も(意識に)生じることはない。また(自らの)身体と心とをすら認識することもなくなるであろう。万法〈あらゆる事象・事物〉は不可得〈無自性空・中道・仮名〉であって、さながら虚空のようである。ただしここで空解〈無自性空を虚無主義的理解すること〉をおこしてはならない。(そのような境地においては)なんら認識することすら出来ない等となるために、虚空のようであると云いはするけれども、空想〈虚無主義〉を説いているわけではない。永くよく(この観法に)習熟したならば、行住坐臥のすべての時と場所において、意識的・無意識的にただ行なうままに行いながら、しかし障碍となるものも無いであろう。すべての妄想、貪・瞋・癡などすべての煩悩は、強いて制し断ずる必要が無くなり、自然に起こることもない。(行者の)心性は常に清淨となる。

この修習によって、ついには成仏に至るであろう。(成仏に至るには)ただこの一道のみあって、さらに別の理など無い。これは諸仏諸菩薩の内証の道であって、諸々の二乗や外道らの境界ではない。この観法を修し終わったならば、すべての仏法の無量の功徳を、他に依ることなく悟るであろう。ただ専心にこれを貫徹したならば、自ずから通達するであろう。(梵字)一字が有する意義を敷衍して無量の法を説き示し、たちまちに諸法の中に悟入して、自在無礙である。(諸法は)去ることも・来ること・起こること・滅することも無い、すべて(畢竟して無自性空であるという点において)平等である。これを行じて漸く(悉地へと)至る際には、(自身の境地が)昇進したその徴を、久しく時を経て自ずから証知するであろう。それは今このように説いたからといって、それで完結するものではない。(自らが実際に精進して修め、自ら実際に体験しなければならないことである。)

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4.脚註

脚註:沙門覺應

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