真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 慧警 『無畏三蔵禅要』

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1.現代語訳

中印度は摩伽陀国〈Magadha〉、王舍城〈Rājagṛha〉・那爛陀〈Nālandā〉・竹林寺〈Venuvana-vihāra〉出身の三蔵沙門、諱は輸波迦羅〈Śubhakara(-siṃha)〉、唐では善無畏と言う。剎利〈kṣatriya. クシャトリア. 王族・武士階級〉の豪貴族である。嵩岳会善寺の大徳である禅師敬賢和上と仏法を対論するに、略して大乗の要旨を述べられ、たちまち衆生の心地を開いて速やかな悟りへと導かれた。また菩薩戒を授けるに際し、羯磨〈karma / kamma. 受戒や布薩等の僧伽の重要な儀式、または僧伽の運営についての決議等を行うための定められた一連の言葉〉の儀軌をもってされた。それがどのようなものであったかは、以下の通りである。

そもそも大乗の法〈教え〉に入門しようと思うならば、先ずすべからく無上菩提心を発して大菩薩戒を受け、身器清淨となって後に法を受けなければならない。その術を略したならば十一門〈十一の段階〉に分かつ。

第一発心門 
第二供養門 
第三懺悔門 
第四帰依門 
第五発菩提心門 
第六問遮難門 
第七請師門 
第八羯磨門 
第九結界門 
第十修四攝門 
第十一十重戒門

第一発心門

「弟子某甲[むこう / それがし]〈わたくしらは、十方の一切諸仏・諸大菩薩に帰命し、大菩提心を大導師といたします。よく我々をして(地獄・餓鬼・畜生という)諸々の悪趣から離れさせ、よく人々と神々に大涅槃への路を示したまえ。この故に私は今、至心に頂礼いたします」

第二供養門 次に教授して運心させ、遍に十方の諸仏及び無辺世界微塵刹海の恒沙の諸仏菩薩を想い、自身は一一の仏前において頂礼讃歎して供養していると観想させよ

「弟子某甲は、十方世界にある全ての最も勝れた妙なる香・華・旛蓋、種々の勝れた事物をもって、諸仏及び諸菩薩の大菩提心に供養いたします。私は今、発心より未来際を尽くすまで、至誠に供養し、至心に頂礼いたします」

第三懺悔門

「弟子某甲は、無始の過去よりこのかた今日に至るまで、貪・瞋・癡等の全ての煩悩、及び忿・恨等の諸々の隨煩悩によって身心を悩乱し、あらゆる諸々の罪咎を造ってきました。身業の不善は殺生・偸盗・邪婬、口業の不善は妄言・綺語・悪口・両舌、意業の不善は慳貪・瞋恚・邪見であります。全ての煩悩が無始以来相続し、我が心にまとわり染み付いて、身体・口・心による罪過を造ること数え切れないほどです」

「あるいは父母を殺し、阿羅漢を殺し、仏陀の身体より血を出し、和合僧を破り、三宝を毀謗し、生き物を縛り傷つけ、斎を破り、戒を破り、酒を飲み、肉を喰らってきました。そのような(私が犯してきたところの数々の)罪は無量・無辺であって、記憶し意識することすら出来ないものです。今日、誠心から発露〈deśana. 自らの罪過を告白すること〉・懺悔〈kṣama. 自らの罪業を悔いて許しを乞うこと〉いたします。一たび懺悔して以降、永く相続を断じ、ふたたび敢えて作りません。ただ願はくは、十方一切の諸仏・諸大菩薩よ、加持〈adhiṣṭhāna. 加護〉・護念してよく我らの罪障を消滅して下さりますように。至心に頂礼いたします」

第四帰依門

「弟子某甲は、今この人生より、ついに(まさに仏陀となるべく)菩提道場に坐すに至るまで、如来の無上の三身、方広大乗の教えに帰依いたします。一切の不退の菩薩僧に帰依いたします。ただ願くは、十方一切の諸仏・諸大菩薩よ、我等を証知して下さりますように。至心に頂礼いたします」

第五発菩提心門

「弟子某甲は、今この人生より、ついに(まさに仏陀となるべく)菩提道場に坐すに至るまで、誓願して無上の大菩提心を発します。

衆生は無辺なりといえどもを誓願して悟りに導く。
福徳・智慧は無辺なりといえども誓願して積集する。
法門は無辺なりといえども誓願して学ぶ。
如来は無辺なりといえども誓願して仕える。
無上なる仏道を誓願して成就する。

今、私の発したところの菩提心〈bodhicitta. 無上菩提を求める心〉は、まさに我〈ātman. 実体。ここでは特に「人」の意〉と法〈dharma. 事物・事象〉とに対する二相〈「人には霊魂の如き恒常不変の実体があると考えること」と「事物・事象の背後や根源には恒常不変の実体があると考えること」〉を遠離し、本覚の真如を顕明するものです。平等の正智を現前して、善巧智を得、普賢の心〈大悲心〉を具足して円満するものです。ただ願くは、十方のすべての諸仏・諸大菩薩よ、我らを証知して下さりますように。至心に懺悔いたします」

第六問遮難門

まず問う。もし七逆罪を犯した者があったならば、師は(その者に)決して戒を授けてはならない。(もし授けるのであれば、師はその者に)教誡して懺悔させなければならない。(懺悔させること)すべからく七日あるいは二七日〈14日間〉、ないし七七日間〈49日間〉、または一年間に及ぶまでせよ。心底より懺悔して、必ず好相が現われるまでなされなければならない。もし好相〈夢あるいは現に見る、仏・菩薩が現れて自身の頭を撫でる等々の、何らか吉祥なる現象〉を見ることがなければ、戒を(儀礼上)受けたとしても、それは戒を受けて得たことにはならない。

「諸仏子よ、汝らは生まれてから今に至るまで、①父を殺していないか軽犯の者があったならば、まさに須く首罪〈首懺の意であろう。一人以上の比丘等に対して懺悔すること〉せよ。決して隠匿してはならない。(隠匿したならば)大罪報を得るであろう。乃至、彼等犯者も亦た同様である。無犯ならば「無し」と答えよ。②汝らは母を殺していないか。③仏陀の身体より血を流させたことがないか。④阿羅漢を殺したことがないか。⑤和尚〈upādhyāya. 師僧〉を殺したことがないか。⑥阿闍梨耶〈ācārya. 教師〉を殺したことがないか。⑦和合僧〈saṃgha. 僧伽。比丘・比丘尼の教団〉を乱したことがないか。汝らが、もしそのような七逆罪を犯したことがあるならば、まさに必ず僧伽に対して発露・懺悔しなければならない。隠し立てしてはならない。(もし隠し立てしたならば)必ず無間地獄に堕ち、無量の苦しみを受けるであろう。もし仏陀の教えに従って発露・懴悔したならば、必ずそれがたとい重罪であっても(その罪過を)消滅することが出来、清淨の身となって仏陀の智慧を得、すみやかに無上正等菩提を証すであろう。もし犯したことがないのであれば、ただ自ら「無し」と答えよ」

「 諸仏子よ、汝らは今日より遂には菩提道場に坐すに至るまで、よく務め励み、すべての諸仏・諸大菩薩の最勝・最上の大律儀戒を受持するや否や。これをいわゆる三聚浄戒〈trividhāni śīlāni. 菩薩戒の総体にして戒波羅蜜の具体〉という。攝律儀戒・攝善法戒・饒益有情戒である。汝らは、今身より遂には成仏に至るまで、その中間において誓って犯さず、能く受持することで出来るかか否か「能くす」と答えよ。その中間において、三聚浄戒と四弘誓願とを捨離することなく、能く受持することで出来るかか否か「能くす」と答えよ

「(弟子某甲は)すでに菩提心を発し、菩薩戒を受けました。ただ願わくは、十方のすべての諸仏・大菩薩よ、我らを証明し、我らを加持し、我らをして永く(菩提心を)退転せぬようして下さりますように。至心に頂礼いたします」

第七請師門

「弟子某甲は、十方一切の諸仏および諸菩薩、観世音菩薩、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩、普賢菩薩、執金剛菩薩、文殊師利菩薩、金剛蔵菩薩、除蓋障菩薩、および他のすべての大菩薩衆を(この戒道場へ)請い奉る。昔起こされた本願により、この道場に来臨して、我らを証明したまえ。至心に頂礼いたします」

「弟子某甲は、釈迦牟尼仏を請い奉って和上とし、文殊師利を請い奉って羯磨阿闍梨とし、十方の諸仏を請い奉って証戒師とし、一切の菩薩摩訶薩を請い奉って同学法侶といたします。ただ願わくは、諸仏・諸大菩薩よ、慈悲をもって我が請いを哀受して下さりますように。至心に頂礼いたします」

第八羯磨門

「諸仏子よ、あきらかに聴け。今、汝らの為に羯磨して授戒しよう。正しく今こそ得戒の時である。至心に羯磨文をあきらかに聴け」

「十方三世一切の諸仏・諸大菩薩よ、慈悲し憶念したまえ。この場にある諸仏子よ、今日より始めて、ついには菩提道場に坐すに至るまで、過去・現在・未来の一切の諸仏・菩薩の浄戒を受学せよ。いわゆる攝律儀戒・攝善法戒・饒益有情戒である。この三浄戒を具足して受持せよ。至心に頂礼いたします」

第九結戒門

「諸仏子らよ、始め今日よりついには無上菩提を証するに至るまで、まさに諸仏菩薩の浄戒を具足して受学せよ。今、(汝らは)浄戒を受け竟ったのである。この事、この如くにたもつべし。至心に頂礼したてまつる」

第十修四摂門

「諸仏子らよ、上の如く已に菩提心を発し、菩薩戒を具備し終わった。そこで、まさに四摂法および十重戒を修すべきである。まさに犯してはならない。その四摂とは、いわゆる布施〈dāna. 与えること。分かち合うこと〉・愛語〈priya-vacana. 優しく思いやりのある言葉をかけること〉・利行〈artha-kriyā. 他の為に行うこと〉・同事〈samānârthatā. 他と共に行うこと〉である。無始以来のの慳貪を調伏し、および衆生を饒益しようと欲するために、まさに布施を行ぜよ。瞋恚・驕慢の煩悩を調伏し、および衆生を利益しようと欲するために、まさに愛語を行ぜよ。衆生を饒益し、および本願を満たそうと欲するために、まさに利行を行ぜよ。大善知識〈mahā-kalyāṇa-mitra. 偉大な良き友。自らを善へと導く人〉に親近し、および善心が途切れることがないようにと欲するために、まさに同事を行ぜよ」

第十一十重戒門

「諸仏子よ、菩薩戒を受持せよ。いわゆる十重戒とは、今まさに宣説すものである。至心にあきらかに聴け」

「 一つには、まさに菩提心を退失してはならない、成仏を妨げることとなるためである。二つには、まさに三宝を捨てて外道に帰依しててはならない、それは邪法であるためである。三つには、まさに三宝および三乗の教典を誹謗中傷してはならない、仏性に背く行為であるためである。四つには、甚深の大乗経典の(自身が)理解できない点について、疑惑を生じてはならない、それは凡夫の境涯でないためである。五つには、もし衆生の中ですでに菩提心を発している者には、まさに如是の法を説いて菩提心を退させ、二乗に趣向させてはならない、三宝の種を断ずることとなるためである。六つには、いまだ菩提心を発していない者に、また如是の法を説き、彼をして二乗を志向する心を発させてはならない、本願に違うこととなるためである。七つには、小乗の人および邪見の人に対し、たやすく深妙の大乗を説いてはならない。恐らく彼は(大乗を)謗ることとなり、それによって彼に大災難が訪れるであろうためである。八つには、まさに(常見・断見など)諸々の邪見を発してはならない、善根を断ずることとなるためである。九つには、外道の人に対し、自ら「私は無上菩提の妙戒を具えている」などと説いてはならない。彼は怒り・恨みの心を動機として如是の物を求めるも、ついに得られなければ、彼の菩提心を退かせ、両様に損となるためである。十には、ただ一切の衆生にとって損害となり、あるいは利益となるものでないならば、何であれそのような行為を行ってはならない。および他者に教唆して行わせ、他者が行っているのを見て喜んではならない。利他の法および慈悲心に相違するためである」

「以上、これで菩薩戒を授け終わる。汝らは、まさに以上のごとく清浄に受持せよ。犯させることも無いように」

以上、三聚淨戒の授受を終える。

次に、受観智密要禅定の法門、大乗の妙旨を授ける。そもそも法を受けんと欲するならば、この法は深奧にして信ずる者は甚だ稀である。(無制限に誰彼構わず)大衆を対象とせず、それぞれ個人の機〈能力。機根とも〉を量って秘密裏に授けなければならない。よって、すべからく、先ずは(密教を求める者の)為に、様々な方便〈upāya. 手段・方策〉でもって聖教を会通〈会釈。矛盾・相反する教えを矛盾なきよう合理的に会釈すること〉し、堅信を生ぜさせて疑いの網を除き、それから(密教を)開陳しなければならない。

輸波迦羅〈善無畏〉三蔵は言われたものである、
「衆生の機根はみな同様ではない。大聖〈釈迦牟尼〉が教え説かれたこともまた、一様では無いのである。一つの教えに偏執し、互いに(それぞれが授けられ、学んだ教えをこそ至高として)争ってはならない。そのようでは、来世に人間や天として生まれ変わることなど出来ない、ましてや無上菩提に至ることなどありはしない。あるいは単に布施を行って成仏に至り得る者があり、あるいはただ戒を修めて仏果を得る者もある。忍辱・精進・禅定・智慧および八万四千の幾多の法門のうち、どの門より入るにせよ(遂にはそれら六波羅蜜を満足して)皆悉く仏陀となり得るのである。今ここでは一応、『金剛頂経』に依って一つの方便を設けているに過ぎない。この修行を為したならばついには成仏に至る。もしこの教えを聞いたならば、まさに自らの意識を浄め、寂然として安住せよ」

このように説かれた三蔵は、大衆の集った説法の場にあって坐を起たれず、寂然不動として深い禅那〈dhyāna. 禅定。極めて集中した心の状態〉に入られたようであった。しばらく時が経ってのち、ようやく定より出られ、遍く(説法の会座に集っていた出家・在家の)四衆〈比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷の集まり〉を見渡された。そこで四衆は合掌して頭を地につけて礼拝し、(三蔵の徳を)珍重すること再三であった。

三蔵は、またしばらくして言葉を発せられた。
「すでに菩薩の浄戒を受けていたとしても、また今すべからく重ねて諸仏の内証たる、無漏の清淨法戒〈三昧耶戒。真法戒・無漏真法戒。先述の菩薩戒とは異なる〉を受けよ。まさしく今、禅門に入れ。禅門に入ったならば、必ずすべからくこの陀羅尼〈dhāraṇī. 専ら誦することによって集中した心の状態、三昧を獲得させるもの〉を誦せよ。陀羅尼とは、究竟至極のものであって諸仏に同じく、法によって一切智海に悟入するものである。これを真法戒と名づける。この法は秘密であって、たやすく(他者に)聞かせてはならない。もし、(この法を)聞こうと願う者は、先ず一陀羅尼を受けなければならない」

唵 三昧耶薩怛鑁
(oṃ samayastvaṃ)

この陀羅尼を誦させること三遍、そして戒および他の秘法を聞かしめよ。また、よく一切菩薩の清淨律儀を具足する。諸々の大功徳を詳しく説いてはならない。

次に発菩提心のため、また一陀羅尼を授ける。

唵 冐地喞多母怛波二合娜野弭
(oṃ bodhicittaṃ utpādayāmi)

この陀羅尼をまた誦すこと三遍、すなわち菩提心を発し、ついに成仏に至るまで堅固にして不退である。

次に証入の為に、また一陀羅尼を受けよ。

唵 喞多鉢羅二合丁以切尾禮切引迦嚕轉舌
(oṃ cittaprativedhaṃ karomi)

この陀羅尼をまた誦すこと三遍、すなわち一切甚深戒蔵を得る。および一切種智を具し、速やかに無上菩提を証して、一切諸仏は声を同じくして共に説くであろう。

次に菩薩行位に入るため、また一陀羅尼を授ける。

唵 嚩日羅滿吒藍鉢囉二合避捨迷
(oṃ vajramaṇḍalaṃ praviśāmi)

この陀羅尼をもし三遍誦したならば、すなわち一切灌頂曼荼羅位を証す。諸々の秘密ほ法を聴くことに障礙は無い。既に菩薩灌頂の位に入ったならば、禅門を受けるのに堪えるものとなる。以上、無漏真法戒を授け終わる。

次に、先ず行者を擁護するために一陀羅尼を授ける。

唵 戍馱戍馱
(oṃ śuddha śuddha)

先ず(この陀羅尼を)十万遍誦し、一切障を除くのである。三業清淨にして罪垢消滅し、魔邪に煩わされることはない。浄らかな白色はその他の色によって染められ易いように、行人もまた同様となる。罪障が滅せられたならば、速かに三昧〈samādhi. 三昧・三摩地。心が集中し安定した状態〉を証すであろう。

次に、行者のために一陀羅尼を授ける。

唵 薩婆尾提娑嚩二合
(oṃ sarvavide svāhā)

(以上、二つの陀羅尼を)持誦する法は、あるいは前後二つの陀羅尼どちらかを、意に隨て一つのみ誦せ。併せて行ってはならない。(併せて行うことにより、)恐くは心が騒ぎ落ち着かず、専らにすることができないであろう。

そもそも三昧に入らんと欲する者は、初学の時には、事に諸境〈様々な対象・事物に心を奪われる事〉を絶ち、諸々の義務・日常の営為を止めよ。独り閑静なる処に半跏坐し、すべからく先ず手に印〈mudrā. 密印〉を結んで護持せよ。檀・慧の指を並べ合わせ立て、戒・忍・方・願の指は、右で左を押し、正しく交差して二背の上に付け、その進・力を合せて立てて、頭を相支えて曲げ、心中を開くこと少しばかり。その禅・智を並べ合せ立てることによって(密印を)成すのである。この印を結んでから、先ず頂上を印し、次に額上を印して、すなわち下って右肩を印し、次に左肩を印せよ。そして後に心を印し、次に下って右膝を印して、次に左膝を印す。一つ一つの印処に於いて、それぞれ前の陀羅尼を誦すこと七遍。乃し七処すべて行ったならば、後に頂上にて印を散ずる。そして、数珠をとってこの陀羅尼を念誦せよ。もしよく多く誦すことが出来るのであれば、二百遍、三百遍、乃至三千遍、五千遍と誦せ。坐す毎に誦して一洛叉〈lakṣa. 十万回〉に至ったならば、最も成就し易い。

すでに身を加持したならば、姿勢を正しく保ち、前の如く半跏坐せよ。右足を以て左足を押し、結跏趺坐を結んではならない。結跏趺坐したならば則ち痛みが多くなる。もし心に痛みを感覚したならば、定〈三昧の漢訳〉が得難くなる。もっとも、以前より結跏趺坐に慣れている者は最妙の座法である。そして、頭を直くして、平らかに顔を向けよ。眼は全開にしてはならず、また完全に閉じてはならない。眼を大きく開いていれば心は散じてしまい、完全に閉じてしまったならば沈み込んでしまう。外境の感覚に惑わされてはならない。

安坐したならば、運心して(諸仏を)供養し、懺悔せよ。先ず心を鎮めて、十方一切の諸仏が、人と天とが集う会座にて、四衆の為に説法していると観相〈眼根によって現実の色(物質)を知覚するのではなく、意根において何らかの影像を想起すること〉。そうして後、自らが、一人一人の諸仏の前にて、三業〈身体・言葉・意識〉を以ってつつしみ恭しく礼拝、讚嘆すると観想せよ。行者がこの観想を為す時は、はっきりとあきらかに、あたかも目前にあるかのようにしなければならない。極めて明らかに観相して見てから、運心して十方世界の一切の天上・人間世界の上妙なる香華・幡蓋・飲食・珍宝と様々な供養具を以て虚空を満たし法界に遍じて、一切諸仏・諸大菩薩・法身・報身・化身と、(仏陀の)教・理・行・果、および大会座の大衆に供養せよ。行者は、そのように供養を為して後、運心して一人一人の諸仏・菩薩の前にて、殷重至誠の心を起して發露し、懺悔せよ。

行者は、そのように供養を為して後、運心して一人一人の諸仏・菩薩の前にて、殷重至誠の心を起して發露し、懺悔せよ。

「私達は、無始よりこのかた今日に至るまで煩悩に心を覆われ、永きにわたって生死流転してきました。その(為してきた)身業・口業・意業については具に述べ難いほどである。私は今、ただ(自身の為してきた悪業が計り知れないことを)知って、ここに全て懺悔いたします。ここに一度懺悔して以降、永く悪業の相続を断って、更に行いません。ただ願くは、諸仏・菩薩よ、大慈悲力をもって加持護念して私の懺悔を摂受し、私が罪障を速かに消滅することを得させて下さりますように」これを内心祕密懺悔といい、最も微妙なるものである。

次に、まさに弘く誓願を発せ。
「私は、幾久しく生死流転してきた中で、あるいは過去世において菩薩行を行じ、数えきれないほど多くの有情を利楽し、あるいは禅定を修し、勤行精進して、(身口意の)三業によって計り知れない功徳および仏果を護持してきました。ただ願くは諸仏菩薩よ、慈しみの願力を起こして加威護念し、私をしてその功徳に乗ぜしめ、速かに一切三昧門と相応せしめ、速かに一切陀羅尼門と相応せしめ、速かに一切自性清淨を得せしめたまえ」
このように広く誓願を発し、退失することがなければ速かに成就を得るであろう。

次に、まさに調気〈prāṇāyāma. 呼吸・気を整えること〉を修めよ。調気するには、先ず「出・入の息が自らの身体中の一つ一つの手脚、筋や脈へとすべて流れ注ぎ、そうして後に口より徐徐に出ていく」と観想せよ。そして、「この気の色は白く雪のようであって、その潤沢である様はまるで乳のようである」と観想せよ。そのようにして、すべからく気が至る所の遠近を知らなければならない。還して復た徐徐に鼻より入り、還て身中に遍からしめ、乃至、筋脈悉く周遍ならせる。そのように(気を)出・入することそれぞれ三度までなす。この調気を行って、身体の患いを取り除き、冷熱の風等を全て快適としてから、定を行ぜよ。

そこで輸波迦羅三蔵はこのように言われた。
「汝ら初学の者は、しばしば心が乱れ、念〈smṛti / sati. 注意力・気をつけること〉の動じることを恐れて、さらに(定を)深めようとせず、むしろ無念〈ここでは「なんら心が働いていない状態」のこと〉であろうと努めて、そのような状態を究竟だと考えたならば、さらに増長〈心をさらに開発・陶冶すること〉しようとしてもそれを得ることなど出来はしない。そもそも、念には二種ある。一つは不善念、二つには善念である。不善妄念とは、ひたすらに必ず除かなければならない。けれども善法正念は滅してはならない。真正の修行者は、かならず先ず正念を修めて強くし、そうしてこそ後に究竟清淨に至るであろう。それは人が弓を射ることを学ぶ時、久しく習って次第に習熟していくようなものである。さらに心想を無くし、歩く時も留まる時も、つねに定と共にあれ。心が乱れることを嫌がらず恐れる事なかれ。定を深めんとする意志を欠くことを患いとせよ」

次に、まさに三摩地samādhi. 三昧・定・集中力を修めよ。ここでいうところの三摩地とは、これ以外に(求めるべき)別の法など無いものであって、これこそ一切衆生の自性清淨心〈無自性空・本不生なる心の本質〉である。これを名付けて大円鏡智という。上は諸々の仏陀より、下はごく小さな虫などに至るまで、(本性としては)それらは悉く全て平等であって優劣など無い。ただし(諸仏以外のものは)無明や妄想という客塵煩悩によって覆われている。その為に生死流転して作仏〈無上菩提を得ること。解脱すること〉出来ないのである。行者はまさに心を安んじて、定にとどまれ。(色・声・香・味・触・法という)すべての認識対象に心を奪われることなかれ。

仮に、満月のように明るい円を観想せよ。(その位置は)身体から四尺〈約120cm〉ばかり前方に高からず低からず、その大きさは一肘約45cmほどの円形である。その色は明朗であって内外ともに一点のくもり無く、世に比較できるものが無いほどである。初めはうまく観想出来なくとも、継続して日々研鑽したならば、徐々にありありと現前するかのようになるであろう。(そのように出来たならば)更に観想し続け、次第にその大きさを広げよ。あるいは四尺ほどまで次第に広げ続け、ついには三千大千世界に遍く広げていくのを、極めて明瞭に観想しなければならない。観想を終える際には、(拡張したときと)同じように徐々に収斂させていき、最終的には最初の一肘ほどまでにせよ。

最初は満月のようなものを観想するが、遍く広げていった時には方形・円形などの形を意識する必要はない。この観想を成就したならば、それが解脱一切蓋障三昧の証得である。この三昧を得た者を地前の三賢〈十住・十行・十廻向〉という。これからまた漸進して法界にまで遍からしめた者を、経説のとおり初地〈十地の最初の位〉というのである。初地といわれる所以は、この法を証して未だかつて得たことの無い境地を、今初めて得たことによって大なる喜悦を生じるためである。このようなことから初地を名づけて歓喜地と言う。しかし、(もし三昧を成就し初地に至ったとしても)「私は悉地を得た。全く理解した」などと思ってはならない。

この自性清浄心には三つの意義があることから、あたかも月のようなものである。一つは自性清浄の義。貪欲という垢から離れているためである。二つには清涼の義。瞋恚という熱悩から離れているためである。三つには光明の義。愚痴という闇から離れているためである。また、月とは(地大・水大・火大・風大の)四大からなるもので遂には壊れゆくものであるけれども、月は世の人々皆が見るものであるから、これを以て喩えとし、それ〈自性清浄心〉に悟入させようとするのだ。

行者が久しくこの観法を行じて観習成就したならば、(時間の)長短もおぼえず、ただありありと(心が満月輪のように輝くのを)見ることだけがあって、他に何も(意識に)生じることはない。また(自らの)身体と心とをすら認識することもなくなるであろう。万法〈あらゆる事象・事物〉は不可得〈無自性空・中道・仮名〉であって、さながら虚空のようである。ただしここで空解〈無自性空を虚無主義的理解すること〉をおこしてはならない。(そのような境地においては)なんら認識することすら出来ない等となるために、虚空のようであると云いはするけれども、空想〈虚無主義〉を説いているわけではない。永くよく(この観法に)習熟したならば、行住坐臥のすべての時と場所において、意識的・無意識的にただ行なうままに行いながら、しかし障碍となるものも無いであろう。すべての妄想、貪・瞋・癡などすべての煩悩は、強いて制し断ずる必要が無くなり、自然に起こることもない。(行者の)心性は常に清淨となる。

この修習によって、ついには成仏に至るであろう。(成仏に至るには)ただこの一道のみあって、さらに別の理など無い。これは諸仏諸菩薩の内証の道であって、諸々の二乗や外道らの境界ではない。この観法を修し終わったならば、すべての仏法の無量の功徳を、他に依ることなく悟るであろう。ただ専心にこれを貫徹したならば、自ずから通達するであろう。(梵字)一字が有する意義を敷衍して無量の法を説き示し、たちまちに諸法の中に悟入して、自在無礙である。(諸法は)去ることも・来ること・起こること・滅することも無い、すべて(畢竟して無自性空であるという点において)平等である。これを行じて漸く(悉地へと)至る際には、(自身の境地が)昇進したその徴を、久しく時を経て自ずから証知するであろう。それは今このように説いたからといって、それで完結するものではない。(自らが実際に精進して修め、自ら実際に体験しなければならないことである。)

そこで輸波迦羅三蔵はこう言われた。
「すでによく修習して、一つ(の対象)を観じて成就する。汝らよ、今この心というものには、五種の心義があることを、行者はまさに知らなければならない。一つには刹那心、すなわち初心ながらも見道し、一瞬(法に)相応したとしても、たちまち忘失してしまう。それは譬えば、夜の電光のようなもので、一時現れたかと思った途端に滅してしまうものであることから、刹那という。二つには流注心、すでに見道し終わって一瞬一瞬と功を加えて相続する。その絶え間ないことが、あたかも水が威勢よく流れ続けるようなものであることから、流注という。三つには甜美心、すなわち功を積むこと絶え間なければ、虚然朗徹として身と心とが軽く安泰となって道を翫味する。その故に甜美という。四つには摧散心、突如として精懃を起こし、あるいは休廃したならば、その二つともが道に違背する。その故に摧散という。五には明鏡心、既に散乱の心を離れ、鑑達円明にして全ての事柄・事象に頓着しない。その故に明鏡という。もしこれら五心に了達したならば、そこに自ずから効験がある。三乗の凡夫と聖位と自ら分別されるであろう。汝ら行人が初めて修定を学ぶならば、まさに過去における諸仏の秘密方便加持修定の法を行ぜよ。それは一切の総持門と一体であって、それに相応するものである」

この故に、まさにすべからくこの四陀羅尼を受けなければならない。その陀羅尼とは以下の通り。

唵 速乞叉摩二合嚩日囉二合
(oṃ sūkṣmavajra)

この陀羅尼は、よく観ずるところを成就させる。

唵 底瑟吒二合嚩日羅二合
(oṃ tiṣṭha vajra)

この陀羅尼は、よく観ずるところを失わせることが無い。

唵 娑頗囉二合嚩日囉二合
(oṃ sphara vajra)

この陀羅尼は、よく観ずるところを漸く拡張させていく。

唵 僧賀囉嚩日囉二合
(oṃ saṃhāra vajra)

この陀羅尼は、よく観ずるところを拡張させ、また漸く収縮させて元のようにさせる。

これらの四陀羅尼は、世尊の自内証法における甚深なる方便である。諸々の学人を啓発し、すみやかに証入させるであろう。もし、速やかにこの三摩地を得たいと欲する者は、(行住坐臥の)四威儀において、常にこの陀羅尼を誦せ。雑念を払い、努力してしばらくたりとも止めることがなければ、速やかに験が現れないということはない。

汝ら、定を修習する者は、またすべからく経行[きょうぎょう]〈歩みながら行う修定〉の法則を知らなければならない。閑静なるな地における清潔な地面を平らかにし、幅二十五肘〈11.3m〉の両端に目印(の棒など)を立てて、その両方の先に紐を結びつけ、胸の高さほどにする。そして、竹筒をその紐にかけよ。その(竹筒の)長さは掌で握れるほどである。その筒を握りつつ、日に従って右回りに平らかに(その二十五肘ばかりの距離を)往来せよ。融心普周〈極めて注意深く、また心を専らとすること〉して自身の前方、六尺(の地面)を視よ。(自心を)三昧にあって覚醒した状態とさせて本心を任持し、諦了分明にして念を失ってはならない。一足を下すたびに一真言を誦せ。

これら四真言を初めから後へと順番に誦していき、(第四の真言を)誦し終わったならばまた(第一の真言から)始めよ。(真言を)誦念するのに立ち止まってはならない。(そのように経行しているうち、)やや疲労を覚えたならば、適当な場所にて安坐せよ。

行者は、まさに入道の方便を知って深く助進せよ。(菩提を求めて)その心を修めることを、あたかも金剛〈vajra. ダイヤモンド〉のようにして、退転させず心変わりせぬように。大精進〈mahā-vīrya. 大いなる努力〉という甲冑を被り、猛利〈情熱〉の心を起こし、誓願して「必ず菩提を得る」ことを期したならば、終に退転の心が起こることはないであろう。雑学によって心を惑わし、一生をして空しく過ごすことのないように。しかも法〈dharma. 真理〉には二相など無く、心言両忘したものである。もし方便して開示することがなければ、悟入するための縁など無いものである。

実に、梵語と漢語とは全く異なる言語であって、翻訳によらなければ意味が通じることはない。(善無畏三蔵より)いささか指陳を蒙たのを、その記憶にしたがって鈔録し、以て未だ悟りに至っていない者らに伝える。これには京の西明寺の慧警禅師が先に撰集したものがあって、それを今再び詳補したのである。これによって完全なものとなったと言えよう。

南無稽首十方佛 真如海蔵甘露門 三賢十聖応真僧 願賜威神加念力
希有総持禅祕要 能発円明広大心 我今隨分略稱揚 廻施法界諸含識

無畏三蔵受戒懺悔文及禅門要法一卷

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