真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ Yuganaddhasutta(増支部『双運経』) ―止観双運の道

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1.パーリ語原文

Yuganaddasutta

Evaṃ me sutaṃ – ekaṃ samayaṃ āyasmā ānando kosambiyaṃ viharati ghositārāme. tatra kho āyasmā ānando bhikkhū āmantesi "āvuso bhikkhave"ti. "āvuso"ti kho te bhikkhū āyasmato ānandassa paccassosuṃ. āyasmā ānando etadavoca

"yo hi koci, āvuso, bhikkhu vā bhikkhunī vā mama santike arahattappattiṃ byākaroti, sabbo so catūhi maggehi, etesaṃ vā aññatarena.

"katamehi catūhi? idha, āvuso, bhikkhu samathapubbaṅgamaṃ vipassanaṃ bhāveti. tassa samathapubbaṅgamaṃ vipassanaṃ bhāvayato maggo sañjāyati. so taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti. tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni pahīyanti, anusayā byantīhonti.

"puna caparaṃ, āvuso, bhikkhu vipassanāpubbaṅgamaṃ samathaṃ bhāveti. tassa vipassanāpubbaṅgamaṃ samathaṃ bhāvayato maggo sañjāyati. so taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti. tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni pahīyanti, anusayā byantīhonti.

"puna caparaṃ, āvuso, bhikkhu samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāveti. tassa samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāvayato maggo sañjāyati. so taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti. tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni pahīyanti, anusayā byantīhonti.

"puna caparaṃ, āvuso, bhikkhuno dhammuddhaccaviggahitaṃ mānasaṃ hoti. hoti so, āvuso, samayo yaṃ taṃ cittaṃ ajjhattameva santiṭṭhati sannisīdati ekodi hoti samādhiyati. tassa maggo sañjāyati. so taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti. tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni pahīyanti, anusayā byantīhonti.

"yo hi koci, āvuso, bhikkhu vā bhikkhunī vā mama santike arahattappattiṃ byākaroti, sabbo so imehi catūhi maggehi, etesaṃ vā aññatarenā"ti.

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2.日本語訳

双運経

このように私は聞いた。――ある時、尊者アーナンダは、コーサンビーゴーシタ精舎に留まっていた。そこで、尊者アーナンダは比丘たちに告げた。「、比丘たちよ!」と。「友よ!」と、彼ら比丘たちは尊者アーナンダに応えた。尊者アーナンダは、かく言われた。

「実に、友よ、それが比丘であれ比丘尼であれ、私の面前において阿羅漢果の獲得を宣言する者は誰であろうとも、そのすべての者は、これあるいはその他の、四つの道に依っているのである」

「四つとは何であろうか?友よ、ここに比丘あって、止を先行として観を修習する。そのように、彼が止を先行として観を修習することによって、道が生じる10 。彼はその道を行じ11 修習し12 習熟する13 。そのように、彼が道を行じ、修習し、習熟することによって、諸々の結は捨て去られ、諸々の随眠は盡くされる14 

「さらにまた、友よ、ここに比丘あって、観を先行として止を修習する15 。そのように、彼が観を先行として止を修習することによって、道が生じる。彼はその道を行じ、修習し、習熟する。そのように、彼が道を行じ、修習し、習熟することによって、諸々の結は捨て去られ、諸々の随眠は盡くされる」

「さらにまた、友よ、ここに比丘あって、止と観とを伴って修習する16 。そのように、彼が止と観とを伴って修習することによって、道が生じる。彼はその道を行じ、修習し、習熟する。そのように、彼が道を行じ、修習し、習熟することによって、諸々の結は捨て去られ、諸々の随眠は盡くされる」

「さらにまた、友よ、比丘に、法に対して掉挙[じょうこ]に捕らわれた意[こころ]がある17 。そこで時に、友よ、彼の意が内において安定し、落ち着き、専心して三摩地に入る18 。そこで彼に、道が生じる。彼はその道を行じ、修習し、習熟する。そのように、彼が道を行じ、修習し、習熟することによって、諸々の結は捨て去られ、諸々の随眠は盡くされる」

「実に、友よ、それが比丘であれ比丘尼であれ、私の面前において阿羅漢果の獲得を宣言する者は誰であろうとも、そのすべての者は、これあるいはその他の、これら四つの道に依っているのである」と。

日本語訳:沙門覺應(慧照)
(Translated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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3.脚注

  • このように私は聞いた‘Evaṃ me sutaṃ’ パーリ経典のほとんど多くの経典は、このように言って始められる。ほとんどの漢訳経典もまた、漢訳者によって文言は若干異なるが、「如是我聞(是の如く我れ聞けり)」と始まる。ここに言う私(我)とは、仏陀滅後三ヶ月後に王舎城にて、五百人の阿羅漢によって行われた第一の法と律との結集において、すべての経を誦出したと伝承されるアーナンダ(阿難)尊者。
    しかし、本経の教主はその尊者アーナンダに他ならない訳であるから、「この場合『このように私は聞いた』ではなく『このように私は言った』となければおかしい、不合理であろう」などと言うのは、まったくの野暮というものである。少しは風流、というものを解さなければいけない。そう、私は風流を解せぬ粗野なる土人であった。
    私見ながら、あるいは本経は、仏滅後の尊者が阿羅漢となって後に説かれたものか。→本文に戻る
  • 尊者アーナンダĀyasmant Ānanda. Āyasmantは尊者などと訳される語。Ānandaは人の名であるが、その意味は「喜び」。漢訳仏典における音写名は阿難、漢訳名は歓喜など。
    アーナンダ尊者は、仏陀の従兄弟で、アヌルッダならびにマハーナーマ(の異母弟?)、ならびにデーヴァダッタの兄弟。仏弟子中多聞第一と、仏陀の言動・その教説をもっとも耳にし、記憶していた人と称えられる。仏陀が成道された翌年、アヌルッダらと共に出家。ほどなく預流果を得たという。仏陀の成道から二十年後、その随行として僧伽から指名されるもこれを最初拒絶。しかしついにこれを受け入れ、以降仏陀の般涅槃までの二十五年間を、あたかも身にその陰が付き従うように、常に行動を共にし、仏陀の身の回りのお世話をされたという。セイロンを淵源とする南方の伝説では、仏陀と同じ日に生まれたのであるといわれる。
    アーナンダ尊者は、出家して四十四年間、仏陀の最期を迎えてもついに阿羅漢果を得ることは出来ず、仏陀の死に際してはその悲しみをこらえることが出来ず涙にくれている。このことは多くの仏教美術の主題となっている。しかし、仏滅後の三ヶ月後に行われる結集の日の朝、なんとか阿羅漢として結集に参加しようと明け方まで瞑想に励むもついに果たせず、疲れた身体を横たえようとしてその頭が枕につくかつかないかというその瞬間、期せずして阿羅漢果を得る。これによって、晴れて阿羅漢として結集に参加し、ウパーリ尊者の律の誦出に続いて、法すなわち経を誦出している。
    以降、尊者は多くの有力な弟子を育てている。そして、尊者の最後は壮絶なものであったと云う。尊者の死が近いことを耳にしたマガダとヴェーサーリーとの近隣国の王とその軍勢とが、尊者の舎利をめぐって今にも争いを起こさんとする構えを見せる中、尊者は、河の中洲にあって火生三昧に入り、自らその身を燃やしてその遺骨を分配したと伝えられる。
    そもそも尊者が、自ら涅槃せん(死ぬ)とする動機となったものとして、興味深い説話を伝えるものに、玄奘三蔵の『大唐西域記』がある。それによれば、大変に老齢となった尊者がマガダ国の林を散歩していたところ、偶然にも沙弥が誤った教法を口にしているのを耳にする。尊者がこれをたしなめた所、この教法は沙弥の優れた師より聞いたものであって、誤っているのは老いさらばえて耄碌した長老(アーナンダ)である、と逆に笑われ責められてしまう。そこで尊者は、「もはや仏滅から時を経、正法も失われかけている。衆生は煩悩にまみれて、これを教誡することは困難であり、これ以上世にとどまっていても利は少ない。もはや般涅槃の時である」と決心したことに依るという(T51, P909c)。
    仏陀の高弟とされた人のほとんど多くはバラモン階級あるいはクシャトリヤ階級出身、しかも軒並み裕福な家の出の人であった。床屋という非常に低く、また貧しい出自のウパーリ尊者はむしろ異例である。これはその階級を受け継ぐ血が優れている、ということではなく、そのような社会階級がそのまま教育の有無・高低・優劣に反映されていたと見ることが出来る。そのようなことは現在もまま見られることであるけれども、当時はなおさらそのような傾向が甚だ強かったであろう。仏陀の教えは、無教養の人に容易く受け入れられ、理解されるものではなかった。それは今もそれほど変わらないことであろうか。
    「衣食足りて礼節を知る」というが、「衣食が足りても幸福にはなれない」こと、衣食の質と量とが幸福の質と量とに関しないことは、ほとんど衣食が足り礼節(すなわち教育)ある人にこそ真に知り得ることであろう。例外的に、現代ではブータンの如き例もあり、彼の国は決して物質的には豊かではないけれども、「幸福」についての教育そして西洋的先進諸国からの情報の抑制によって、自身を幸福であると感じる人が多いといわれる。が、聞き及ぶところに依ると、それも近年外国・西洋との交流が盛んになりつつあって、特に若い世代の感覚・価値観が急速に(悪く)変化しているという。伝聞であるから定かでないけれども、発展途上の国によく見られる伝統的な価値観や世界観の崩壊という現象が、ブータンにも起こっているということであろうか。
    現状、衣食が足りていない者、足りていないと感じる者どもは、ひたすらこれを追い求めることに終始して人生を終える。そう、それもまた人生!
    いずれにせよ、そのような状況が仏陀ご在世のインドにはすでに現出しており、それは今にいたるまでさして変わっていない。いや、それはこの娑婆世界において決して変わることがない、終わりなき「喜劇」である。それは人の悲しき、そして滑稽なる営みである。→本文に戻る
  • コーサンビーKosambī. 古代インドに存したVaṃsa[ヴァンサ]あるいはVatsa[ヴァツサ]という国の首都。漢訳音写語では憍賞弥など。
    ヴァンサ国は、北インドのガンジス川中流域(現インドのウッラルプラデーシュ州北東部)に栄えた古代国Kosala[コーサラ]の南に位置し、また当時の有力国家の一つAvanti[アヴァンティ]と接していた。当時のガンジス川中流域を中心とする北インドには、十六大国といって十六の国々があったと経典に伝承されているが、その中でも最も強大であったという四ヶ国の一。
    都市コーサンビーはヤムナー川に接し、南あるいは西インドからマガダあるいはコーサラなど北インドへの交通の要衝として栄えた。→本文に戻る
  • ゴーシタ精舎Ghositārāma. コーサンビーのGhosita[ゴーシタ]という名の者によって寄進されたārāma(園)であるからこのように言われる。
    余談ながら、漢語・日本語でいう伽藍[がらん]とは、もともと僧伽藍の略であるが、これはsaṃghārāma[サンガーラーマ]の音写語で、「僧園」・「精舎」の意。日本語で俗にいう、中に人も何もないことを言う「がらんどう」とは、この語に由来する。→本文に戻る
  • 比丘[びく]Bhikkhu. 仏教の正式な男性出家者。その原意は「乞う者」。比丘とはその音写語。その昔のインドでは出家遊行者全般がそのように言われていたという。
    比丘についての詳細は、別項“仏教徒とはなにか”の各項を参照のこと。なお、比丘尼とは、正式な女性出家者。比丘と比丘尼との違いについてもまた該当項を参照せよ。→本文に戻る
  • āvuso. 出家者同士で用いられる、同輩か(出家して具足戒を受け、比丘となってからの年数が)年下の者に対しての呼びかけの言葉。āyusmantoに同じ。仏陀など目上の人、年長者に対しては、Bhante(大徳よ)が用いられる。
    呼格であるため本来は「友よ!」と訳すべきであるが、ここでは"Bhikkhave"(「比丘達よ!」)と連続するため「友、比丘たちよ!」とした。→本文に戻る
  • 阿羅漢果Arahatta. (声聞乗・小乗における)修行の最終目的、「Arahant(阿羅漢)に到達した状態」、「阿羅漢であること」を意味する語。阿羅漢とは、あらゆる煩悩を滅してもはや精神的苦を受けることがなく、また再びこの世に生を受けることがない、供養を受けるに相応しい者。そのようなことから、漢訳語に応供[おうぐ]なる語がある。その意味では、仏陀もまた阿羅漢であって、実際「如来の十号」としていわれる仏陀の十の異称の一つは阿羅漢である。
    けれども分別説部を含め小乗・声聞乗(部派仏教)では、そして大乗からも、阿羅漢は仏陀や独覚仏に比して智慧に関して劣った者とされる。そこで異なってくるのが、声聞乗では人は阿羅漢にしかなり得ないとし、大乗では逆になり得るとする点である。大乗は、人はむしろ阿羅漢を目指すのではなく、それが多くの命を教え導く利益の広大であることから、仏陀と成ることを目指すべきことをいう。
    いずれの場合にしろ、そのためには幾劫という長大な時間の中で、生まれ変わり死に変わりしながら修行しなければならない。多くの人が捉え違いしているようであるが、この点、小乗も大乗も変わらない。→本文に戻る
  • 止を先行として観を…止とは、パーリ語samatha(サンスクリットでは śamatha[シャマタ])の訳語で、ここでの場合、心を集中・安定させる修習法(瞑想)を意味する語。これは、「静まる」を意味する√sam(サンスクリットは√śam)に、名詞語基を作る接尾辞 -atha が付され形成されている語。同根の現在動詞samatiśamyati)。漢訳仏典では、奢摩他[しゃまた]との音写語や、止との訳語が用いられる。英訳ではcalm abiding、もしくはtranquillityなどとされている。
    観とは、パーリ語vipassanā(サンスクリットではvipaśyanā[ヴィパシュヤナー])の訳語。現代的に云えば、対象を洞察する直観的修習法。動詞vipaśyati(パーリ語はvipassati)が名詞化したもの。vipaśyatiは、vi (別に・分けて・異なって)+√paś (見る)の現在動詞で、その原意は「それぞれに見る」・「詳細に見る」・「見分ける」。漢訳仏典では、毘鉢舎那[びぱっしゃな]との音写語や、今そうしたように「観」との訳語が用いられる。英訳ではinward visionを原意とするものとされつつ、insightが主に用いられている。
    では、仏教では観の修習によって、人は何を「観る」と言うのであろうか。伝統的な立場からすると、言うは易しでその実難行なのであるけれども、答えは単純なものとなる。法(物事)の真実を観るのである。その真実とは何かと云えば、己が経験する事物の無常たること、苦であること、そして非我(無我)であること。そのように信じこんだり、思い込んだり、考えたりして物を見るというのではなく、それがまさしく疑いようもない真実であることを、みずからが、ありのままに観ること。そのように観が成就したこと、観察が正しく為されたことを特に現観(abhisamaya)という。
    しかし、大抵の場合、近年の流行にのって「ヴィパッサナーこそ」などという者には「そのように思い込んでモノを見ること」「そうであると考えてモノを見ること」、あるいはもっと浅く、観とは程遠い「自分が今なにを行なっているのかを、ただ見る・知ること」をもって、ヴィパッサナーを修めているのだとしてしまっているかの様である。けれども実際、事はそんな簡単な、単純なものでは無い。
    この一節について、『無碍解道』はこのような注釈を加えている。"kathaṃ samathapubbaṅgamaṃ vipassanaṃ bhāveti? nekkhammavasena cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi. tattha jāte dhamme aniccato anupassanaṭṭhena vipassanā, dukkhato anupassanaṭṭhena vipassanā, anattato anupassanaṭṭhena vipassanā. iti paṭhamaṃ samatho, pacchā vipassanā. tena vuccati — “samathapubbaṅgamaṃ vipassanaṃ bhāvetī”ti." (どのように「止を先行として観を修習する」のであろうか?離欲による、心の一境性と不散乱なるが、三摩地である。そこにおいて生起する諸々の法を、無常として随観するという意義によって観であり、苦として随観するという意義によって観であり、非我として随観するという意義によって観である。そのように、先ず止があり、その後に観がある。このようなことから言われたのである。――「止を先行として観を修習する」と。)
    『無碍解道』はここでまず、三摩地とはどのようなものであるか、観とはどのようなものであるかをそれぞれ定義する。そして、三摩地を内容とする止を先とし、無常・苦・非我であるとして(モノを)随観する観を後に修することが、この一文の意味であることを言う。
    随観とはanupassanāの訳である。これはanupassatiの名詞化した語であり、その構造はanu(随って・次いで・順に)+√pas(見る)である。その意は、単に「見る」というのではなくて、「観る」・「観察する」というほどのもの。実際、漢訳経典(『雑阿含経』など)では「観」または「観察」と訳されている。英訳では、contemplating(観察)・consideration(熟考)・realisation(理解)など。一応、この語anupassanā、似たように訳されるvipassanāとの位置づけ・意義の異なりには気を配っておいたが良い。
    なお、ここではanattaを、一般的な「無我」との訳ではなく「非我」と訳している。それは、近年の日本のインド学仏教学界隈でそうするのが一部に流行っているのに乗じてそうしているのではなくて、唐の玄奘三蔵の新訳語を範としてそれに倣ったものである。ただし、玄奘三蔵はanityaanicca)を非常と訳されているが、一般には非常とは「通常とは異なる」という意味で用いられる語となっており、混乱を避けるために、ここでは旧来の無常との訳語を用いる。
    さて、『無碍解道』は、今引いた一節の中で太字にした箇所を、『無碍解道』での注釈文の先後関係が乱れるが、以下の表に示した七十七法(離欲を含める)について同様に説いていく。なお、表では法をその範疇ごとに分別して見出しとしているが、これは『無碍解道』にてそのようにして挙げ連ねられているというのではなく、参照しやすいようここで便宜的に付したものである。
    止・三摩地の修習の方法・対象(七十七法)
    分別 名目(Pāli語
    七法 離欲(nekkhamma)・無瞋恚(abyāpāda)・光明想(ālokasaññā)・不散乱(avikkhepa)・法決定(dhammavavatthāna)・智(ñāṇa)・喜悦(pāmojja
    四禅 初禅(paṭhamajjhāna)・第二禅(dutiyajjhāna)・第三禅(tatiyajjhāna)・第四禅(catutthajjhāna
    四無色定 空無辺処定(ākāsānañcāyatanasamāpatti)・識無辺処定(viññāṇañcāyatanasamāpatti)・無所有処定(ākiñcaññāyatanasamāpatti)・非想非非想処定(nevasaññānāsaññāyatanasamāpatti
    十遍 地遍(pathavīkasiṇa)・水遍(āpokasiṇa)・火遍(tejokasiṇa)・風遍(vāyokasiṇa)・青遍(nīlakasiṇa)・黄遍(pīlakasiṇa)・赤遍(lohitakasiṇa)・白遍(odātakasiṇa)・虚空遍(ākāsakasiṇa)・識遍(viññāṇakasiṇa
    十随念 佛随念(buddhānussati)・法随念(dhammānussati)・僧随念(samghānussati)・戒随念(sīlānussati)・捨随念(cāgānussati)・天随念(devatānussati)・安般念(ānāpānassati)・死随念(marananussati)・身至念(kāyagatāsati)・寂止随念(upasamānussati
    十不浄 膨張相(uddhumatakasaññā)・雑青相(vinīlakasaññā)・漏膿相(vipubbakasaññā)・断壊相(vicchiddakasaññā)・食残相(vikhāyitakasaññā)・散乱相(vikkhittakasaññā)・斬斫離散相(hatavikkhittakasaññā)・血塗相(lohitakasaññā)・蟲聚相(puḷuvakasaññā)・骸骨相(aṭṭhikasaññā
    安般念
    三十二相
    念出息長(dīghaṃ assāsa)・念入息長(dīghaṃ passāsa)・念出息短(rassaṃ assāsa)・念入息短(rassaṃ passāsa)・覚知一切身出息(sabbakāyapaṭisaṃvedī assāsa)・覚知一切身入息(sabbakāyapaṭisaṃvedī passāsa)・覚知一切身行出息(passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ assāsa)・覚知一切身行息入息(passambhayaṃ kāyasaṅkhāraṃ passāsa)・覚知喜出息(pītipaṭisaṃvedī assāsa)・覚知喜入息(pītipaṭisaṃvedī passāsa)・覚知楽出息(sukhapaṭisaṃvedī assāsa)・覚知楽入息(sukhapaṭisaṃvedī passāsa)・覚知心行出息(cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī assāsa)・覚知心行入息(cittasaṅkhārapaṭisaṃvedī passāsa)・覚知心行息出息(passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ assāsa)・覚知心行息入息(passambhayaṃ cittasaṅkhāraṃ passāsa)・覚知心出息(cittapaṭisaṃvedī assāsa)・覚知心入息(cittapaṭisaṃvedī passāsa)・覚知心悦出息(abhippamodayaṃ cittaṃ assāsa)・覚知心悦入息(abhippamodayaṃ cittaṃ passāsa)・覚知心定出息(samādahaṃ cittaṃ assāsa)・覚知心定入息(samādahaṃ cittaṃ passāsa)・覚知心解脱出息(vimocayaṃ cittaṃ assāsa)・覚知心解脱入息(vimocayaṃ cittaṃ passāsa)・観察無常出息(aniccānupassī assāsa)・観察無常入息(aniccānupassī passāsa)・観察無欲出息(virāgānupassī assāsa)・観察無欲入息(virāgānupassī passāsa)・観察滅出息(nirodhānupassī assāsa)・観察滅入息(nirodhānupassī passāsa)・観察捨遣出息(paṭinissaggānupassī assāsa)・観察捨遣入息(paṭinissaggānupassī passāsa
    これら七十七法は、『無碍解道』の全編に通じて頻出する。そのほとんど全てが経説(特に相応部)にて処々に見られる語であるが、『無碍解道』では、このように止の修習の対象(あるいは修習し成就した結果)としてまとめ挙げている。
    特に最初の、ここでは仮に七法とした七つの事柄について、これだけではその意がやや不明瞭であろうか。『無碍解道』はこれらについて、出離は貪欲(kāmacchanda)の、無瞋恚は瞋恚(byāpāda)の、光明想は睡眠(thinamiddha)の、不散乱は掉悔(uddhacca)の、法決定は疑(vicikicchā)の、智は無明(avijjā)の、喜悦は不喜(arati)の退治であると、所々に繰り返し説いている。
    さて、これらは、分別説部がその修道書(無畏山寺派『解脱道論』・大寺派『清浄道論』)において、三十八あるいは四十の業処(kammaṭṭhāna)などとして挙げるものの淵源であろう。ところで、そもそも契経において、業処(kammaṭṭhāna)という語が、「修習の対象」などといった意味で用いられることはない。また『無碍解道』では、kammaṭṭhānaという語自体が全く用いられない。修習の対象としての術後としても、他部派の典籍にも見られない。分別説部が注釈書など、これはセイロン以来と言って良いのであろうが、用いだした術語である。
    なお、現在上座部と自称し他称される分別説部大寺派の説く四十業処について、また十随念に関しては別項“五停心観”を参照のこと。また四禅・四無色界定については、別項“禅について”を参照のこと。安般念については別項“安般念(数息観)”ならびに“十六特勝”を参照のこと。→本文に戻る
  • 修習[しゅじゅう]する"bhāveti". この語自体についての詳細は、別項“瞑想とは何か”において触れているので、そちらを参照のこと。
    『無碍解道』は、この此の語についてこのように注釈する。"bhāvetī ti catasso bhāvanā tattha jātānaṃ dhammānaṃ anativattanaṭṭhena bhāvanā, indriyānaṃ ekarasaṭṭhena bhāvanā, tadupagavīriyavāhanaṭṭhena bhāvanā, āsevanaṭṭhena bhāvanā." (「修習する」とは四つの修習がある。そこに生じる法について超過することがないという意義によって修習である。諸々の根(能力)の一つの味(作用)という意義によって修習である。それに達する努力なる乗り物という意義によって修習である。繰り返すという意義によって修習である。)
    ここで初めに言う、"tattha jātānaṃ dhammānaṃ anativattanaṭṭhena bhāvanā"(そこに生じる法について超過することがないという意義によって修習である)というのは、知覚する諸々のモノゴトについて、その真実(無常・苦・非我)から逸脱(した見方・思考などの諸行為を)しないというほどの意味。→本文に戻る
  • 道が生じる"maggo sañjāyati". ここでのmagga(道)とは何を意味するものであろう。
    『無碍解道』はこのように言う。"maggo sañjāyatī ti kathaṃ maggo sañjāyati? dassanaṭṭhena sammādiṭṭhi maggo sañjāyati, abhiniropanaṭṭhena sammāsaṅkappo maggo sañjāyati, pariggahaṭṭhena sammāvācā maggo sañjāyati, samuṭṭhānaṭṭhena sammākammanto maggo sañjāyati, vodānaṭṭhena sammāājīvo maggo sañjāyati, paggahaṭṭhena sammāvāyāmo maggo sañjāyati, upaṭṭhānaṭṭhena sammāsati maggo sañjāyati, avikkhepaṭṭhena sammāsamādhi maggo sañjāyati evaṃ maggo sañjāyati." (「道が生じる」とは、どのように彼に道が生じるのであろうか?見るという意義によって、正見の道が生じる。心に上せるという意義によって、正思惟の道が生じる。保持(把握)するという意義によって、正語の道が生じる。原因(起因)という意義によって、正業の道が生じる。清浄という意義によって、正命の道が生じる。努力という意義によって、正精進の道が生じる。気をつけるという意義によって、正念の道が生じる。平静(散乱が無い)という意義によって、正定の道が生じる。このように、彼に「道が生じる」のである。)
    要するに、『無碍解道』では、本経で止観の修習によって生じると説かれる道(magga)とは、すなわち八正道(Aṭṭhaṅgika magga)のことであると解している。そして、その道を得て歩む者とは、後述するけれども、預流道から阿羅漢道に至った者のことである。
    さて、先ず経文が説くところを単純に解したならば、以下のようなものとなろう。道を生じさせるのは止観の修習である。けれども、結と随眠を盡くすのは道の修習である、と。
    ではその道とは何か、との当然起こるであろう問いに対して、『無碍解道』が云うように、道とは八正道であるとしたならばどうか。結局止観とは何か別の道(修道法)があって、それを修めるということでは無い、と言うことになろう。止観の正しい修習とその成就が、すなわち道となるのであるから。
    さてここで、初学の者の理解のために、また仏道を志して久しい者であっても案外基本的なことであるために、むしろ忘失していたり、全く軽視したりしてよく知らぬ者らが多くあるようだから、「八正道とは何か」をわかりやすいよう表にして以下に示す。その定義・意味内容も併記するが、これも『無碍解道』での所説によるものである(Mahāvagga. Ñāṇakathā. Sutamayañāṇaniddesa)。
    八正道 (Aṭṭhaṅgika magga
    - 名目 意味
    1 正見
    sammādiṭṭhi
    苦についての知識、苦の根源についての知識、苦の滅尽についての知識、苦の滅尽へと導く道についての知識。すなわち四聖諦について正しく知り、理解すること。
    2 正思惟
    sammāsaṅkappa
    離欲の思惟(俗世間で良しとされる価値観から離れた、離れんとする思い)、無瞋恚の思惟(怒りなき思い)、無害の思惟(害意なき思い)。
    3 正語
    sammāvācā
    妄語(嘘)からの遠離、両舌・離間語(中傷)からの遠離、悪口・麁悪語(誹謗)からの遠離、綺語(無駄口・虚飾した言葉)からの遠離。
    4 正業
    sammākammanta
    殺生からの遠離、偸盗(窃盗)からの遠離、邪淫(不倫や不特定多数の対象との性関係など、不道徳な男女関係)からの遠離。
    5 正命
    sammā-ājīva
    邪な生業を捨て、正しい生業によって生計を立てること。(在家者は正語・正業に従った職業に従事すること。出家者は四依法を原則とし、律や経の説く戒に従って生活すること。)
    6 正精進
    sammāvāyāma
    すでに生じ、あるいは未だ生じていない諸々の不善なる我が身心の有り様・行為を捨てるため、又はすでに生じ、あるいは未だ生じていない諸々の善なる身心の有り様・行為をさらに強め育むため、懸命に努力し、心を引き締めて克服すること。すなわち四正勤。
    7 正念
    sammāsati
    身随観(身体は不浄に満ちていると随観)・受随観(すべての感受は畢竟苦であると随観)・心随観(心は無常であると随観)・法随観(すべてのモノゴトは非我であると随観)に住して、これらを熱心に、明らかに意識し、注意深く、この世における貪りと憂いとを調伏すること。すなわち四念住。
    8 正定
    sammāsamādhi
    欲と不善の法から離れ、尋・伺あって、離生の喜・楽を具える初禅に達し住すること。尋・伺が静まり内に信あり一心にして、尋・伺なく、定生の喜・楽を具える第二禅に達し住すること。喜を離れて捨に住し、念あり正知して、身楽を知る第三禅に達し住すること。苦楽を離れ、先の喜憂を滅し、不苦不楽・捨念清浄なる第四禅に達し住すること。すなわち四禅。
    本邦においては、仏教者・仏教学者であっても、四聖諦や十二縁起、八正道、三十七道品などといった、大乗・小乗の別を問わない通仏教の最も根本的で甚だ重大な事項について、なんらか高邁な思想をのみ云々することを専らとするのを良しとするがために、これらを軽んじているような傾向が多分に見られる。ために、それらが一体どのようなものであるか、然々と言いえる者は少ないようである。
    いま挙げたのは、八正道についての『無碍解道』での定義によるものではあるが、それは通仏教的なものであって、別段特殊な教義・内容を含むものではない。→本文に戻る
  • 行じ"āsevati". ā(こちらへ・より)+√sev(従う・仕う)、その意は「習い親しむ」、あるいは単に「行う」である。
    『無碍解道』はこのように釈す。"āsevatīti kathaṃ āsevati? āvajjanto āsevati, jānanto āsevati, passanto āsevati, paccavekkhanto āsevati, cittaṃ adhiṭṭhahanto āsevati, saddhāya adhimuccanto āsevati, vīriyaṃ paggaṇhanto āsevati, satiṃ upaṭṭhāpento āsevati, cittaṃ samādahanto āsevati, paññāya pajānanto āsevati, abhiññeyyaṃ abhijānanto āsevati, pariññeyyaṃ parijānanto āsevati, pahātabbaṃ pajahanto āsevati, bhāvetabbaṃ bhāvento āsevati, sacchikātabbaṃ sacchikaronto āsevati — evaṃ āsevati." (「彼は行じる」とは、どのように彼は行じるのであろうか?考えつつ、彼は行じる。知りつつ、彼は行じる。見つつ、彼は行じる。省察しつつ、彼は行じる。心を確立しつつ、彼は行じる。信仰を昇華させつつ、彼は行じる。努力策励しつつ、彼は行じる。念を現前させつつ、彼は行じる。心を統一しつつ、彼は行じる。般若(慧)によって明らかに知りつつ、彼は行じる。よく知るべきことをよく知りつつ、彼は行じる。全く知るべきを全く知りつつ、彼は行じる。捨て去るべきを捨てつつ、彼は行じる。開発すべきを開発しつつ、彼は行じる。悟られるべきを悟りつつ、彼は行じる。――このように、「彼は行じる」のである。)
    ここで言われている十五の事柄は、以降の語句にも同じように定型句で用いられる。我ながら、それら語句につけた訳があまり上手いもので無いように感ぜられるため、煩雑となるけれども、以下にその原語と語意を表にまとめて示しておく。諸兄の理解の参考にされたい。
    行・修習・習熟の十五の術
    - 経文
    (拙訳)
    Pres. 3rd. Sg 原意
    1 āvajjanto
    (考えつつ)
    āvajjati 考える
    2 jānanto
    (知りつつ)
    jānāti 知る
    3 passanto
    (見つつ)
    passati 見る
    4 paccavekkhanto
    (省察しつつ)
    paccavekkhati 向かって観る・省察する
    5 cittaṃ adhiṭṭhahanto
    (心を確立しつつ)
    adhiṭṭhahati 確立する・決意する
    6 saddhāya adhimuccanto
    (信仰を昇華させつつ)
    adhimuccati 志向する・(信仰を)勇み持つ
    7 vīriyaṃ paggaṇhanto
    (努力策励しつつ)
    paggaṇhāti 策励する・差し伸べる
    8 satiṃ upaṭṭhāpento
    (念を現前させつつ)
    upaṭṭhāpeti 引き起こす・現させる・留まらせる
    9 cittaṃ samādahanto
    (心を統一しつつ)
    samādahati 統一する・(心を)鎮める
    10 paññāya pajānanto
    (般若によって明らかに知りつつ)
    pajānāti 明らかに知る・理解する
    11 abhiññeyyaṃ abhijānanto
    (よく知るべきことをよく知りつつ)
    abhijānāti よく知る・(経験に依って)知る
    12 pariññeyyaṃ parijānanto
    (全く知るべきを全く知りつつ)
    parijānāti 全く知る・完全に知る
    13 pahātabbaṃ pajahanto
    (捨て去るべきを捨てつつ)
    pajahati 捨て去る・取り除く
    14 bhāvetabbaṃ bhāvento
    (開発すべきを開発しつつ)
    bhāveti 開発する・増大する
    15 sacchikātabbaṃ sacchikaronto
    (悟られるべきを悟りつつ)
    sacchikaroti 悟る・気づく・目の当たりにする
    これらは、『無碍解道』全体で頻出する定型句となっている。けれども、であるからといって、これを等閑視してはいけない。これらはすべて、修習の中で自らがまさしく、おおよそ次第して経験しなければならない、次第して経験するであろう、一々の具体的事柄だからである。ここには思弁的で意味の無い、空虚な文言は認められないのである。→本文に戻る
  • 修習し…『無碍解道』は、ここでの此の語について、前項(脚注:11)にて挙げた āsevati の注釈と全く同様の十五の事柄を、ただāsevatibhāvetiに換えて云うのみである。故にここには省略する。→本文に戻る
  • 習熟する"bahulīkaroti". 直訳すると「多く行う」「しばしば為す」。要するに「繰り返し行う」こと、いわゆる加行[けぎょう]・数習[さくじゅう]のこと。漢訳経典では「多修習」などとも訳される。ここではそのように直訳せず、敢えて意訳し「習熟する」とした。
    『無碍解道』はこれについても、前項(脚注:11)にて挙げた āsevati の注釈と全く同様のことを、ただāsevatibahulīkarotiに換えて云うのみである。故にここには省略する。→本文に戻る
  • 諸々の結は捨て去られ云々…この一文における結と随眠とについて、『無碍解道』は注釈を加える。けれどもそれを紹介する前に、まずここで結ならびに随眠の語について触れて置かなければならない。
    まず、ここで結と訳したsaṃyojanaとは、saṃyuñjati(あい結ぶ・統一する)[saṃ(共に)+√yuj(結ぶ)]の名詞化した語で、縛り付けるもの・足かせなどを意とするものであり、仏教では特に、生命をして苦の生存へと縛り付けるもの、いわゆる煩悩のことを指す。もっとも、厳密に言えばこの煩悩という語自体は、パーリ語でkilesaまたはklesa(サンスクリットはkleśa)といって原語は別である。伝統的に、saṃyojanaは結などと漢訳されており、その訳語の端的で意味をただちに理解しやすいものであることから、ここでもそれに従って用いている。
    次に、随眠[ずいめん]について。これはanusaya(サンスクリット:anuśaya)を訳した語であるが、「悪しき傾向」・「休眠状態にある悪しき性質」の意。伝統的に、この語は随眠と漢訳され用いられており、またその訳語の端的で優れていることから、ここでもそれに従ってそのまま用いた。
    しかし、それでもわかりにくいと云う者は、これを「潜在的煩悩」、あるいはさらに噛み砕いて「心に潜む、苦しみ煩いの元」と解したらいいだろうか。例えば人は、何時でも性衝動に駆られていたり、怒っていたりするわけではなく、なんでもかんでも欲張った思考をしているわけではない。けれどもしかし、誰でもその心の奥底には、それらの感情が潜んでおり、時を得ればただちに思う存分、その本領を発揮するのである。そして多くの場合、人はそれらにむしろ振り回され、支配されていながら、それらの主を気取って「我が思いのまま」との本末転倒の想いを起こすのみとなる。
    さて、『無碍解道』では結と随眠について、具体的にこのような内容であると釈している。"tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saññojanāni pahīyanti anusayā byantīhontīti kathaṃ saññojanāni pahīyanti, anusayā byantīhonti? sotāpattimaggena, sakkāyadiṭṭhi, vicikicchā, sīlabbataparāmāso — imāni tīṇi saññojanāni pahīyanti; diṭṭhānusayo, vicikicchānusayo — ime dve anusayā byantīhonti. sakadāgāmimaggena oḷārikaṃ kāmarāgasaññojanaṃ, paṭighasaññojanaṃ — imāni dve saññojanāni pahīyanti; oḷāriko kāmarāgānusayo, paṭighānusayo — ime dve anusayā byantīhonti. anāgāmimaggena anusahagataṃ kāmarāgasaññojanaṃ, paṭighasaññojanaṃ — imāni dve saññojanāni pahīyanti; anusahagato kāmarāgānusayo, paṭighānusayo — ime dve anusayā byantīhonti. arahattamaggena rūparāgo, arūparāgo, māno, uddhaccaṃ, avijjā — imāni pañca saññojanāni pahīyanti; mānānusayo, bhavarāgānusayo, avijjānusayo — ime tayo anusayā byantīhonti. evaṃ saññojanāni pahīyanti, anusayā byantīhonti." (「そのように、彼が道を行じ、修習し、習熟することによって、諸々の結は捨て去られ、諸々の随眠は盡くされる」とは、どのように諸々の結は消え去り、諸々の随眠は盡くされるのであろうか?預流道によって、有身見・疑・戒禁取――これら三つの結が捨て去れられる。見随眠・疑随眠――これら二つの随眠が盡くされる。一来道によって、麁大な欲貪の結・麁大な瞋恚の結――これら二つの結が捨て去られる。麁大な欲貪随眠・麁大な瞋随眠――これら二つの随眠が盡くされる。不還道によって、微細な欲貪の結・微細な瞋恚の結――これら二つの結が捨て去られる。微細な欲貪随眠・微細な瞋随眠――これら二つの随眠が盡くされる。阿羅漢道によって、色貪・無色貪・慢・掉挙・無明――これら五つの結が捨て去られる。慢随眠・有貪随眠・無明随眠――これら三つの随眠が盡くされる。このように、「諸々の結は捨て去られ、諸々の随眠は盡くされる」のである。)
    ここでは、預流から阿羅漢に至る過程で、どのように煩悩が漸減していくかの、通仏教的な事柄が述べられている。しかし、その対象が大乗であれ小乗であれ、仏教を拾い読みする如くに学ぶばかりで基礎教学をまるで学んでいない者、あるいは学び始めたばかりの初学の人には、ここで述べられていることが一体何のことであるかさっぱりわからないかもしれない。故にここで解釈されるところを、煩雑となるかもしれないが、ここで一応整理し示しておく。
    まず、吾人が欲の世界にて苦しみの生存を受ける原因となる煩悩を、五下分結[ごげぶんけつ]という。これは、仏教の世界観における欲界・色界・無色界という三界のうち、そのもっとも下の世界である欲界に、生命を結びつけて輪廻流転させ続ける五つの煩悩であることからこのように言われる。その五つとは何か。
    五下分結(Pañca orambhāgiyāni saṃyojanāni
    - 名目 意味
    1 有身見
    sakkāyadiṭṭhi
    この我が身の源底、あるいは我が心と身体のそれぞれには、私を私たらせる、永遠不滅の個我、魂の如きものがあって、それは死を超えて永遠に存在するとする思考・見解。
    2
    vicikicchā
    四聖諦・三宝・因縁生起・業・輪廻転生に対する疑惑。
    3 戒禁取
    sīlabbata-
    parāmāsa
    誤った戒・道徳の実践に依って解脱できるという思考・見解。インドでは昔、牛や犬などの真似をした生活することが、人としての汚れた業を断つものと考え、実践する者があった。
    4 欲貪
    kāmarāga
    六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)によって感覚する諸々の対象に執着し、なお求めてやまない心の衝動。特には肉欲。
    5 瞋恚
    paṭigha
    六根によって感覚する不快・不本意な対象への、心の否定的・攻撃的衝動。
    次に、修行が進んでその最後の最後、すなわち阿羅漢果を得る時にこそ断じられる煩悩を五上分結という。それはこれら五つの煩悩が、欲界を離れてもなお色界と無色界の上界に生命を結びつける(転生させる)ものであるから、このように言われる。
    五上分結(Pañca uddhambhāgiyāni saṃyojanāni
    - 名目 意味
    1 色貪
    rūparāga
    色界(天界)での生存に対する執着。あるいは、修習によって達する、四禅という定(境地)に対する執着。
    2 無色貪
    arūparāga
    無色界(天界)での生存に対する執着。あるいは、修習によって達する、無色界での定に対する執着。
    3
    māna
    他に対して己を誇り、他を見下しておごり高ぶる心の働き。
    4 掉挙
    uddhacca
    心をして騒がしく、落ち着かせない心の働き。
    5 無明
    avijjā
    愚痴。真実をわきまえず理解しない心の働き。全ての煩悩の拠り所。
    そして、また別に、煩悩を異なる観点から分類したものがある。それが随眠[ずいめん]である。その意は先に述べた如し。念のため注意しておくけれども、このように別々に分別されているからといって、同名で別体の煩悩が存するわけではない。煩悩の働きを、異なる観点からそれぞれ結と随眠と名付けているものに過ぎない。
    随眠は六随眠が根本であるけれども、経典や論書によってこれを開いて七随眠、さらに十随眠と分別する。今は、この『無碍解道』の解釈に関する七随眠のみを示す。なお、六随眠との異なりは、貪を開いて二種に分別している点である。そして、六随眠の中の見を開いて五種の見に分別したのを十随眠という。
    七随眠(Anusaya
    - 名目 意味
    1 欲貪
    kāmarāga
    欲界における知覚対象への、または欲界で生存すること自体への執着。
    2 有貪
    bhavarāga
    色界・無色界における生存への執着。または四禅・無色界定の定心への執着。
    3
    pratigha
    六根によって感覚する不快・不本意な対象への、心の否定的・攻撃的衝動。
    4
    māna
    他に対して己を誇り、他を見下しておごり高ぶる心の働き。
    5 無明
    avidyā
    愚痴。真実をわきまえず理解しない心の働き。全ての煩悩の拠り所。
    6
    dṛṣṭi
    誤った思想、邪な物事の見方。これを開いて五つとするのが十随眠で、その中に有身見・戒禁取見がある。
    7
    vicikitsā
    四聖諦・三宝・因縁生起・業・輪廻転生に対する疑惑。
    さて、以上のようにそれぞれの語の基本的意味を知っておかなければ、先の『無碍解道』の解釈文が言わんとすることは理解出来ないに違いない。先に述べたように、これは特に声聞乗における基本的な事柄、それはすなわち通仏教的知識となるのであるが、ことさら分別説部における特殊な教学という種類のものでない。
    次に、これらを踏まえた上で、預流道に達して聖者となった行者が、それぞれ如何なる煩悩を断じていくのか表にしたものを以下に示す。
    聖者の各階梯で漸次に断ぜられる十結・七随眠
    - 十結 七随眠
    預流道
    Sotāpatti-
    magga
    有身見・疑・戒禁取 見随眠・疑随眠
    一来道
    Sakadāgāmi-
    magga
    (麁大な)欲貪・瞋恚 (麁大な)欲貪随眠・瞋随眠
    不還道
    Anāgāmi-
    magga
    (微細な)欲貪・瞋恚 (微細な)欲貪随眠・瞋随眠
    阿羅漢道
    Arahatta-
    magga
    色貪・無色貪・慢・掉挙・無明 慢随眠・有貪随眠・無明随眠
    以上、非常に長くなってしまったけれどもこのようにすれば、しかし理解し易いものとなったであろう。→本文に戻る
  • 観を先行として止を修習する…『無碍解道』はこの一節について、このように注釈する。
    "kathaṃ vipassanāpubbaṅgamaṃ samathaṃ bhāveti? aniccato anupassanaṭṭhena vipassanā, dukkhato anupassanaṭṭhena vipassanā, anattato anupassanaṭṭhena vipassanā. tattha jātānaṃ dhammānañca vosaggārammaṇatā cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi. iti paṭhamaṃ vipassanā, pacchā samatho. tena vuccati — “vipassanāpubbaṅgamaṃ samathaṃ bhāvetī”ti."(どのように「観を先行として止を修習する」のであろうか?無常なりと随観するという意義によって観であり、苦なりと随観するという意義によって観であり、非我なりと随観するという意義によって観である。そこにおいて生起する諸々の法について、棄捨を所縁とする性と心の一境性と不散乱なることが、三摩地である。そのように、先ず観があり、その後に止がある。このようなことから言われたのである。――「観を先行として止を修習する」と。)
    この注釈文以下は、先の「行じる」から「諸々の結は捨て去られ」云々まで全く同じように言うにすぎないため、ここではそれら一切を省略する。これは以下も同様である。
    では、一体なにが観の修習の対象であろうか。それを『無碍解道』はこのように続けて云う。"rūpaṃ aniccato anupassanaṭṭhena vipassanā, rūpaṃ dukkhato anupassanaṭṭhena vipassanā, rūpaṃ anattato anupassanaṭṭhena vipassanā. tattha jātānaṃ dhammānañca vosaggārammaṇatā cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi. iti paṭhamaṃ vipassanā, pacchā samatho. tena vuccati — “vipassanāpubbaṅgamaṃ samathaṃ bhāvetī”ti."を無常なりと随観するという意義によって観であり、を苦なりと随観するという意義によって観であり、を非我なりと随観するという意義によって観である。そこにおいて生起する諸々の法について、棄捨を所縁とする性と心の一境性と不散乱なることが、三摩地である。そのように、先ず観があり、その後に止がある。このようなことから言われたのである。――「観を先行として止を修習する」と。)
    このようにして『無碍解道』は、色と初めとして次々と二百一に達する法を挙げ連ねる。いま太字にして強調した箇所に、それぞれ二百一の法が観の修習の対象として挙げられていくのである。ではその二百一の法とは何か。いきおい訳語とパーリ語とを併せて表にしたものを以下に示す。表中、諸法をその範疇ごとに分別して見出しとしているが、これは『無碍解道』でそのようにして挙げ連ねられているというのではなく、参照しやすいようここで仮に便宜的に付したものである。
    観の修習の対象(二百一法)
    - 名目(Pāli語
    五蘊 色(rūpa)・受(vedanā)・想(saññā)・行(saṅkhāra)・識(viññāṇa
    六根
    (六内処)
    眼(cakkhu)・耳(sota)・鼻(ghāna)・舌(jivhā)・身(kāyo)・意(mano
    六境
    (六外処)
    色(rūpa)・声(saddā)・香(gandha)・味(rasa)・触(phoṭṭhabba)・法(dhamma
    六識 眼識(cakkhuviññāṇa)・耳識(sotaviññāṇa)・鼻識(ghānaviññāṇa)・舌識(jivhāviññāṇa)・身識(kāyaviññāṇa)・意識(manoviññāṇa
    六触身 眼触(cakkhusamphassa)・耳触(sotasamphassa)・鼻触(ghānasamphassa)・舌触(jivhāsamphassa)・身触(kāyasamphassa)・意触(manosamphassa
    六受身 眼触所生受(cakkhusamphassaja vedanā)・耳触所生受(sotasamphassaja vedanā)・鼻触所生受(ghānasamphassaja vedanā)・舌触所生受(jivhāsamphassaja vedanā)・身触所生受(kāyasamphassaja vedanā)・意触所生受(manosamphassaja vedanā
    六想身 色想(rūpasaññā)・声想(saddasaññā)・香想(gandhasaññā)・味想(rasasaññā)・触想(phoṭṭhabbasaññā)・法想(dhammasaññā
    六思身 色思(rūpasañcetanā)・声思(saddasañcetanā)・香思(gandhasañcetanā)・味思(rasasañcetanā)・触思(phoṭṭhabbasañcetanā)・法思(dhammasañcetanā
    六愛身 色渇愛(rūpataṇhā)・声渇愛(saddataṇhā)・香渇愛(gandhataṇhā)・味渇愛(rasataṇhā)・触渇愛(phoṭṭhabbataṇhā)・法渇愛(dhammataṇhā
    六尋 色尋(rūpavitakka)・声尋(saddavitakka)・香尋(gandhavitakka)・味尋(rasavitakka)・触尋(phoṭṭhabbavitakka)・法尋(dhammavitakka
    六伺 色伺(rūpavicāra)・声伺(saddavicāra)・香伺(gandhavicāra)・味伺(rasavicāra)・触伺(phoṭṭhabbavicāra)・法伺(dhammavicāra
    六大 地界(pathavīdhātu)・水界(āpodhātu)・火界(tejodhātu)・風界(vāyodhātu)・空界(ākāsadhātu)・識界(viññāṇadhātu
    十遍 地遍(pathavīkasiṇa)・水遍(āpokasiṇa)・火遍(tejokasiṇa)・風遍(vāyokasiṇa)・青遍(nīlakasiṇa)・黄遍(pītakasiṇa)・赤遍(lohitakasiṇa)・白遍(odātakasiṇa)・虚空遍(ākāsakasiṇa)・識遍(viññāṇakasiṇa
    卅二身分 髪(kesa)・毛(loma)・爪(nakha)・歯(danta)・皮(taco)・肉(nhāru)・筋(nhāru)・骨(aṭṭhi)・骨髄(aṭṭhimiñjā)・腎臓(vakka)・心臓(hadaya)・肝臓(yakana)・肋膜(kilomaka)・脾臓(hihaka)・肺臓(papphāsa)・腸(anta)・腸間膜(antaguṇa)・胃の内容物(udariya)・大便(karīsa)・胆汁(pitta)・痰(semha)・膿(pubba)・血(lohita)・汗(seda)・脂(meda)・涙(assu)・血漿(vasā)・唾(kheḷo)・鼻汁(siṅghāṇikā)・(関節)滑液(lasikā)・小便(mutta)・脳髄(matthaluṅga
    十二処 眼処(cakkhāyatana)・色処(rūpāyatana)・耳処(rūpāyatana)・声処(saddāyatana)・鼻処(ghānāyatana)・香処(gandhāyatana)・舌処(jivhāyatana)・味処(rasāyatana)・身処(kāyāyatana)・触処(phoṭṭhabbāyatana)・意処(manāyatana)・法処(dhammāyatana
    十八界 眼界(cakkhudhātu)・色界(rūpadhātu)・眼識界(cakkhuviññāṇadhātu)・耳界(sotadhātu)・声界(saddadhātu)・耳識界(sotaviññāṇadhātu)・鼻界(ghānadhātu)・香界(gandhadhātu)・鼻識界(ghānaviññāṇadhātu)・舌界(jivhādhātu)・味界(rasadhātu)・舌識界(jivhāviññāṇadhātu)・身界(kāyadhātu)・触界(phoṭṭhabbadhātu)・身識界(kāyaviññāṇadhātu)・意界(manodhātu)・法界(dhammadhātu)・意識界(manoviññāṇadhātu
    二十二根 眼根(cakkhundriya)・耳根(sotindriya)・鼻根(ghānindriya)・舌根(jivhindriya)・身根(kāyindriya)・意根(manindriya)・命根(jīvitindriya)・女根(itthindriya)・男根(purisindriya)・楽根(sukhindriya)・苦根(dukkhindriya)・喜根(somanassindriya)・憂根(domanassindriya)・捨根(upekkhindriya)・信根(saddhindriya)・精進根(vīriyindriya)・念根(satindriya)・定根(samādhindriya)・慧根(paññindriya)・未知當知根(anaññātaññassāmītindriya)・已知根(aññindriya)・具知根(aññātāvindriya
    三界 欲界(kāmadhātu)・色界(rūpadhātu)・無色界(arūpadhātu
    三有 欲有(kāmabhava)・色有(rūpabhava)・無色有(arūpabhava
    想有(saññābhava)・非想有(asaññābhava)・非想非非想有(nevasaññānāsaññābhava
    一蘊有(ekavokārabhava)・四蘊有(catuvokārabhava)・五蘊有(pañcavokārabhava
    四禅 初禅(paṭhama jhāna)・第二禅(dutiya jhāna)・第三禅(tatiya jhāna)・第四禅(catuttha jhāna
    四心解脱 慈心解脱(mettācetovimutti)・悲心解脱(karuṇācetovimutti)・喜心解脱(muditācetovimutti)・捨心解脱(upekkhācetovimutti
    四無色定 空無辺処定(ākāsānañcāyatanasamāpatti)・識無辺処定(viññāṇañcāyatanasamāpatti)・無所有処定(ākiñcaññāyatanasamāpatti)・非想非非想処定(nevasaññānāsaññāyatanasamāpatti
    十二縁起 無明(avijjā)・行(saṅkhāra)・識(viññāṇa)・名色(nāmarūpa)・六所(saḷāyatana)・触(phassa)・受(vedanā)・愛(taṇhā)・取(upādāna)・有(bhava)・生(jāti)・老死(jarāmaraṇa
    今、表にして挙げたこれら計二百一の法(dhamma)の一々を、「無常である」・「苦である」・「非我である」と、(そのように考えたり思い込んだりして見るというのでは非ずして)随観することが観(vipassanā)である、というのが『無碍解道』の注釈するところ。
    ここで挙げられている二百一の法は、阿毘達磨で実法(形而上学的実在)として挙げられるモノではなくて、あくまで我々が現に知覚し、あるいは経験し得る形而下的事柄である。その全てである、と言って良い。でなければそもそも見ること(知覚・認識)など出来ないし、ましてそれを無常・苦・非我と現観することなど全く不可能である。そして、もしこれを(分別説部が究極の実在として認める)実法とすると、それはもはや直接認識することの出来ないものとなってしまうのである。そもそも、ここで挙げられている一々は、阿毘達磨所説でなくてすべて経所説の語である。
    (分別説部が認める究極的実在については“仏教における心の分析 ―上座部の心所説”を参照のこと。)
    特に、五蘊から六伺までのそれぞれは、その説かれた順序そのままで、みずから確認しえる、刺激→感覚→知覚、そして執着や思考までの過程、認識論的諸相である。ここで『無碍解道』がまとめ挙げている諸法は、阿毘達磨的であるけれども経説を決して離れておらず、すぐれて実践的である。これらは、決して(時として敷衍あるいは後代の複雑怪奇あるいは固定的にすぎる思想が挿入されている嫌いのある)注釈書的ゴタクだなどと言って看過して良いものではない。行者は、これらを一々確認すべきである。
    ところで、ここでは蛇足となるけれども、これはおそらく、本来ちょうど二百法であった。なんとなれば、パーリ語の経文では三十二身分ではなく、三十一身分が説かれているためである。しかし、注釈書で脳髄(matthaluṅga)が加えられて三十二とされているため、後代その影響を逆に受け、ここでの(順序として奇異に感じる)文末に附加挿入したのであろう。→本文に戻る
  • 止と観とを伴って修習する"samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāveti"。本経の主題である。と言うと、ここでは四つの道が説かれているのであるから、語弊があるけれども。なお、異本(PTS版)ではyuganaddhayuganandhaと綴られる。
    さて、この一文を逐語的に訳せば、samathavipassanaṃ(止と観を) yuganaddhaṃ(二つが結びついた) bhāveti(彼は修習する)で、語順を日本語に沿うように整えると、「二つが結びついている止観を、彼は修習する」となる。しかし、これでは直訳に過ぎていけない。故に「止と観とを伴って修習する」とした。要するに止観の倶行、止観双運をいうものである。もっとも訳文においては、ここに関しては平易な表現をとって、双運などの漢訳語は敢えて用いなかった。
    これについて、『無碍解道』はこのように解釈する。"kathaṃ samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāveti? soḷasahi ākārehi samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāveti. ārammaṇaṭṭhena gocaraṭṭhena pahānaṭṭhena pariccāgaṭṭhena vuṭṭhānaṭṭhena vivaṭṭanaṭṭhena santaṭṭhena paṇītaṭṭhena vimuttaṭṭhena anāsavaṭṭhena taraṇaṭṭhena animittaṭṭhena appaṇihitaṭṭhena suññataṭṭhena ekarasaṭṭhena anativattanaṭṭhena yuganaddhaṭṭhena."(どのように「彼は止と観とを伴って修習する」のであろうか?十六の行相によって、彼は止と観とを伴って修習する。所縁の意義によって、行境の意義によって、捨断の意義によって、遍捨の意義によって、出起の意義によって、還転の意義によって、寂静の意義によって、極妙の意義によって、解脱の意義によって、無漏の意義によって、度脱の意義によって、無相の意義によって、無願の意義によって、空の意義によって、一味の意義によって、不超過の意義によって。)
    これら十六形相が説かれた直後、その一々について、以下の定型句でもって順次解説が加えられていく。
    "kathaṃ ārammaṇaṭṭhena samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāveti? (A)-[uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi nirodhārammaṇo,] (B)-[avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā nirodhārammaṇā.] iti ārammaṇaṭṭhena samathavipassanā ekarasā honti, yuganaddhā honti, aññamaññaṃ nātivattantīti. tena vuccati — “ārammaṇaṭṭhena samathavipassanaṃ yuganaddhaṃ bhāvetī”ti."(どのように「所縁の意義によって、彼は止と観とを伴って修習する」のであろうか?(A)-[掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、寂滅を所縁とする。] (B)-[無明を捨断したならば、随観の意義による観は、寂滅を所縁とする。] このように、所縁の意義によって止と観とが一味となり、伴うものとなり、互いに超過することがない。このようなことから言われたのである――「所縁の意義によって、彼は止と観とを伴って修習する」と。)
    以降、同じようにその他の形相について注釈されていく。以下に十六形相の注釈文を抜き出して一覧とした表を示しておくが、いま太字にした箇所の語、そして便宜的にここで(A)-[](B)-[]と、括弧でくくった内の一節を、それぞれ表中で該当するものに換えて読めば良いだけである。ただし、15と16番目の形相、一味と不超過は、それ以外のすべてに関わって総括するものであるから注釈文はない。
    止観双運(samathavipassanā yuganaddha)の十六形相
    - Ākāra (A) (B)
    1 ārammaṇa
    (所縁)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi nirodhārammaṇo,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、寂滅を所縁とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā nirodhārammaṇā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、寂滅を所縁とする。)
    2 gocara
    (行境)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi nirodhagocaro,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、寂滅を行境とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā nirodhagocarā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、寂滅を行境とする。)
    3 pahāna
    (捨断)
    uddhaccasahagatakilese ca khandhe ca pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi nirodhagocaro,
    (掉挙と共なる諸煩悩と諸蘊とを捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、寂滅を行境とする。)
    avijjāsahagatakilese ca khandhe ca pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā nirodhagocarā.
    (無明と共なる諸煩悩と諸蘊とを捨断したならば、随観の意義による観は、寂滅を行境とする。)
    4 pariccāga
    (遍捨)
    uddhaccasahagatakilese ca khandhe ca pariccajato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi nirodhagocaro,
    (掉挙と共なる諸煩悩と諸蘊とを遍捨したならば、…同上…。)
    avijjāsahagatakilese ca khandhe ca pariccajato anupassanaṭṭhena vipassanā nirodhagocarā.
    (無明と共なる諸煩悩と諸蘊とを遍捨したならば、…同上…。)
    5 vuṭṭhāna
    (出起)
    uddhaccasahagatakilesehi ca khandhehi ca vuṭṭhahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi nirodhagocaro,
    (掉挙と共なる諸煩悩と諸蘊とを出起したならば、…同上…。)
    avijjāsahagatakilesehi ca khandhehi ca vuṭṭhahato anupassanaṭṭhena vipassanā nirodhagocarā.
    (無明と共なる諸煩悩と諸蘊とを出起したならば、…同上…。)
    6 vivaṭṭana
    (還転)
    uddhaccasahagatakilesehi ca khandhehi ca vivaṭṭato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi nirodhagocaro,
    (掉挙と共なる諸煩悩と諸蘊とを還転したならば、…同上…。)
    avijjāsahagatakilesehi ca khandhehi ca vivaṭṭato anupassanaṭṭhena vipassanā nirodhagocarā.
    (無明と共なる諸煩悩と諸蘊とを還したならば、…同上…。)
    7 santa
    (寂静)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi santo honti nirodhagocaro,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、寂静となり、寂滅を行境とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā santā hoti nirodhagocarā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、寂静となり、寂滅を行境とする。)
    8 paṇīta
    (極妙)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi paṇīto hoti nirodhagocaro,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、極妙となり、寂滅を行境とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā paṇītā hoti nirodhagocarā.
    rodhagocarā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、極妙となり、寂滅を行境とする。)
    9 vimutta
    (解脱)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi kāmāsavā vimutto hoti nirodhagocaro,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、欲漏から解脱し、寂滅を所縁とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā avijjāsavā vimuttā hoti nirodhagocarā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、無明漏から解脱し、寂滅を行境とする。)
    10 anāsava
    (無漏)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi kāmāsavena anāsavo hoti nirodhagocaro,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、欲漏より自由(無漏)となり、寂滅を行境とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā avijjāsavena anāsavā hoti nirodhagocarā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、無明漏より自由(無漏)となり、寂滅を行境とする。)
    11 taraṇa
    (度脱)
    uddhaccasahagatakilese ca khandhe ca tarato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi nirodhagocaro,
    (掉挙と共なる諸煩悩と諸蘊とを度脱したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、寂滅を行境とする。)
    avijjāsahagatakilese ca khandhe ca tarato anupassanaṭṭhena vipassanā nirodhagocarā.
    (無明と共なる諸煩悩と諸蘊とを度脱したならば、随観の意義による観は、寂滅を行境とする。)
    12 animitta
    (無相)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi sabbanimittehi animitto hoti nirodhagocaro,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、あらゆる相より自由(無相)となり、寂滅を行境とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā sabbanimittehi animittā hoti nirodhagocarā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、あらゆる相より自由(無相)となり、寂滅を行境とする。)
    13 appaṇihita
    (無願)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi sabbapaṇidhīhi appaṇihito hoti nirodhagocaro,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、あらゆる願いより自由(無願)となり、寂滅を行境とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā sabbapaṇidhīhi appaṇihitā hoti nirodhagocarā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、あらゆる願いより自由(無願)となり、寂滅を行境とする。)
    14 suññata
    (空)
    uddhaccaṃ pajahato cittassa ekaggatā avikkhepo samādhi sabbābhinivesehi suñño hoti nirodhagocaro,
    (掉挙を捨断したならば、心一境性と不散乱なる三摩地は、あらゆる執着の空無となり、寂滅を行境とする。)
    avijjaṃ pajahato anupassanaṭṭhena vipassanā sabbābhinivesehi suññā hoti nirodhagocarā.
    (無明を捨断したならば、随観の意義による観は、あらゆる執着の空無となり、寂滅を行境とする。)
    15 ekarasa
    (一味)
    ...[1-14]...samathavipassanā ekarasā honti, yuganaddhā honti, aññamaññaṃ nātivattanti.
    (…止と観とが一味となり、伴うものとなり、互いに超過することがない。)
    16 anativattana
    (不超過)
    この(A)に該当する箇所が止、(B)の該当する箇所が観について云うもので、(A)止は掉挙を、(B)観は無明を滅するものとされている。先に解説しておいたように、掉挙と無明とは五上分結のうちの二つで、阿羅漢道においてこそ滅し得るものであることに注意。その止と観とが、一味(同じ対象に対して同じ作用)であり、不超過(互いに優劣・先後がないこと)であるのが、双運(伴うこと)であるというのが、ここでの趣意である。
    余談ながら、止観について、止と観とをまったく分けて考えるようになったのは、むしろ仏滅後、かなり時を隔ててからのことで、それが現代の特に戦後から顕著に、また甚だ極端になったように思われる。大乗小乗問わず経典そして論蔵・律蔵においても、そのような説き方などされていないのにも関わらず。たとえば、現在分別説部で止の業処として規定されている安般念など、これを止の修習として固定的に見てよい内容のものでは決してない。止観の双方がからみ合って説かれている(安般念については別項“安般念(数息観)”を参照のこと)。
    また、特に分別説部では、その経論からではなく修道書から「観だけの修習による道の獲得」なる、これは他に類を見ない分別説部の独自説を主張するに至っている。これは経説を離れてしまっている説であるように見える。しかし、それは「観だけの修習が優れている」と殊更に強調して言っているものではなく、やはり伝統的な止観双方の修習、特に止から観という方法が詳細にされ、むしろ重視されている。
    しかし近年、戦後のビルマ発祥のヴィパッサナー・ムーブメントとでも呼ぶべき世界での流行の影響か、日本の俗間においても、観すなわちヴィパッサナーだけをもって「ブッダの瞑想法」「ヴィパッサナーこそ純粋な仏教の修習法で、サトリを得るのにサマタなど全く不要」「サマタはむしろ邪道に陥りやすい危険な瞑想である」などと声も高らかに宣伝し、盛んに書物の中でもそれがさも伝統的で正統の事のように書き立て、言い立てている一類の輩共がある。けれどもそれは、浄土教の「南無阿弥陀仏」とだけ唱えるのが良い、日蓮教のただ『法華経』をこそ信じて「南無妙法蓮華経」と唱えればそれで良いとするが如き、あるいは道元が本覚思想にのめり込んで主張した「只管打坐」の如き、一向的態度・狂信的態度に導くものとさして変わりがない。「ヴィパッサナーこそ」などと言いながら、その語の真意とは真反対にミスリードしているようにしか見えない。よくよく聞いてみると、彼らの言っているのはVipassanā[ヴィパッサナー]ではなくて、それ以前(?)の「単なる」Anuppasanā[アヌッパサナー](随観)である、いや、Manasikarā[マナシカーラ](作意)であるというのが正確であろう。
    また、彼らのsati[サティ](念)などの語に対する理解・解釈、そしてその用い方も異常である。巷間では、これらの事柄について、拡大解釈や敷衍などというよりも、ごちゃまぜにして、なんとなく用いているかのようである。
    いや、それが人々をして善く、幸せに生きるに利するものであれば、その観点からすれば、用いる言葉の云々ということは瑣末なことで、どうということでもないのである。
    けれども、日本での場合、それを「仏陀の云々」・「純粋な云々」などといった言葉でもって、人を自らの新興宗教団体に入門させんと誘うのは、まったくの欺瞞というものに他ならない。もっとも、今更その言を撤回し修正することなど、彼らの自己同一性を保てなくなるために、もはや困難であろうか。停滞あるいは退廃している日本の既存仏教宗団に対する、いわばルサンチマンがあったのであろうし、その気持ちは私自身も十分理解できる。が、新興宗教団体立ち上げに際し、その独自性を強調するあまりに焦って先走り、先鋭化してしまったのは全く誤りであったろう。
    人は間違えるものであるけれども、またそれを正すことも出来る。間違いは間違いであった、行き過ぎは行き過ぎであったと認めて修正すれば良いであろう。かく言う不肖の私も、誤るどころか人の道自体を多く踏み外して来、嗚呼、そしてまた今でもよく間違えているのである。→本文に戻る
  • 法に対して掉挙[じょうこ]に捕らわれた意がある"dhammuddhaccaviggahitaṃ mānasaṃ hoti." 単純で短いけれども、直ちにその意を測り難い一文。
    そこで『無碍解道』に依ると、このようにある。"kathaṃ dhammuddhaccaviggahitaṃ mānasaṃ hoti? aniccato manasikaroto obhāso uppajjati, obhāso dhammoti obhāsaṃ āvajjati, tato vikkhepo uddhaccaṃ. tena uddhaccena viggahitamānaso aniccato upaṭṭhānaṃ yathābhūtaṃ nappajānāti, dukkhato upaṭṭhānaṃ yathābhūtaṃ nappajānāti, anattato upaṭṭhānaṃ yathābhūtaṃ nappajānāti. tena vuccati — “dhammuddhaccaviggahitamānaso hoti so samayo, yaṃ taṃ cittaṃ ajjhattameva santiṭṭhati sannisīdati ekodi hoti samādhiyati." (どのように、「法に対して掉挙に捕らわれた意がある」のであろうか?彼が無常であると作意するとき、彼に光明が生起する。そこで「光明は法である」と、彼は光明について考える。その結果としての(意の)散乱が掉挙である。このようなことから、掉挙に捕らわれた意は、現起するものが「無常である」と、ありのままに、明らかに知ることが無い。現起するものが「苦である」と、ありのままに、明らかに知ることが無い。現起するものが「非我である」と、ありのままに、明らかに知ることが無い。このようなことから言われたのである、――「法に対して掉挙に捕らわれた意がある時、その彼の意が内において安定し、落ち着き、専心となって三摩地に入る」と。)
    "aniccato manasikaroto ñāṇaṃ uppajjati, pīti uppajjati, passaddhi uppajjati, sukhaṃ uppajjati, adhimokkho uppajjati, paggaho uppajjati, upaṭṭhānaṃ uppajjati, upekkhā uppajjati, nikanti uppajjati, ‘nikanti dhammo’ti nikantiṃ āvajjati. tato vikkhepo uddhaccaṃ. tena uddhaccena viggahitamānaso aniccato upaṭṭhānaṃ yathābhūtaṃ nappajānāti, dukkhato upaṭṭhānaṃ yathābhūtaṃ nappajānāti, anattato upaṭṭhānaṃ yathābhūtaṃ nappajānāti. tena vuccati — “dhammuddhaccaviggahitamānaso hoti so samayo, yaṃ taṃ cittaṃ ajjhattameva santiṭṭhati sannisīdati ekodi hoti samādhiyati."(彼が無常であると作意するとき、智が生起する。…、喜が生起する。…、軽安が生起する。…、楽が生起する。…、勝解が生起する。…、策励が生起する。…、現前が生起する。…、捨が生起する。…、欣求が生起する。そこで「欣求は法である」と、彼は欣求について考える。その結果としての(意の)散乱が掉挙である。掉挙に捕らわれた意は、現起するものが「無常である」と、ありのままに、明らかに知ることが無い。現起するものが「苦である」と、ありのままに、明らかに知ることが無い。現起するものが「非我である」と、ありのままに、明らかに知ることが無い。このようなことから言われたのである、――「法に対して掉挙に捕らわれた意がある時、その彼の意が内において安定し、落ち着き、専心となって三摩地に入る」と。)
    『無碍解道』は、これら十の事柄について、上に引いた一節で太字にした箇所を、順に「dukkhato(苦である)」・「anattato(非我である)」と換え、同様に繰り返す。これら、『無碍解道』が挙げる法掉挙が生じる原因(となり得る対象)を、わかりやすいようあらためて示せば以下の如し。
    法掉挙(dhammuddhacca)の十因
    - 名目 意味 解釈
    1 光明
    obhāsa
    光・輝き 観を修習中、行者の身体から発せられる光
    2
    ñāṇa
    モノの真実を明らかに知見する働き 観によって生じる智
    3
    pīti
    精神的に安楽・快いと感じる感覚 観によって生じる心の喜び。喜心所
    4 軽安
    passaddhi
    安心。心身をして軽快・爽快とする心の働き 観によって生じる身心の軽快さ。軽安心所
    5
    sukha
    身体的に安楽・快いと感じる感覚 観によって生じる身の安楽。受心所
    6 勝解
    adhimokkha
    知覚する対象を、それが何である、と確定する心の働き 観によって生じる確信。信心所
    7 策励
    paggaha
    努め励まんとする意欲。精進 観によって生じる努力。精進心所
    8 現前
    upaṭṭhāna
    前に現れること。そこに留まること。 瑜伽行者の心が停留して乱れないこと。念心所
    9
    upekkhā
    精神的に特に苦楽を感じず、故に心が平静で動揺がないこと 観によって生じる心の不動性。中捨心所
    10 欣求
    nikanti
    願い求めること。欲求 観に対する微細な欲求。
    ここで注意しなければならないことは、『無碍解道』は、行者が無常・苦・非我であると随観するとき(anupassato)でなく、すなわちこれは観ずるとき(vipassato)ではなく、作意するとき(manasikaroto)とあることである。
    さて、ではしかし、修行者は何を「無常である」などと作意するときに、光明を始めとする十の事柄が生起し、法掉挙に捕われるというのであろうか。これについては、"rūpaṃ aniccato manasikaroto aniccato manasikaroto obhāso uppajjati..."(彼が、色は無常であると作意するとき、彼に光明が生起する…)と、先に示した二百一法(脚注.15)の一々について、要するに我々が認識しうる全てについて、「無常である」などと作意するときに法掉挙に捕われるのであると云う。
    これら法掉挙をもたらす十の事項について、『清浄道論』ならびに『摂阿毘達磨義論』は、vipassanupakkilesa(観染汚)であるとし、上に挙げた表の右端に示したように解釈する。
    これらは、修習中に生じる以上の心所や現象を、「法(真理・菩提・悟り)の発現である」と誤解して執することによる、心の動揺を言うものである。要するに、観の修習によって経験した事柄によって心を動揺させたり、「おお、私は悟ったのだ!」などと勘違いしたりすることである。禅宗がいう「魔境」に類するものいって良いであろうか。→本文に戻る
  • 三摩地[さんまじ]に入る"samādhiyati." samādhahati(統一する)の受動態。「三昧に入る」・「定に入る」と言い換えることも可能。心がすぐれて統一された状態となること。観を修めんとする行者が、瞑想中に様々に生じる現象について、心を動揺させたけれども、それを乗り越えて平静としていくこと、そうしなければならないことを言っている。
    ここでは禅に達することが意図されていると解して良いと、私的見解ながら思う。なんとなれば、心解脱しなければ道は生じないためである。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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