真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『雑阿含経』(安般念の修習)

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1.原文

『雑阿含経』 (No.801)

宋天竺三藏 求那跋陀羅 譯

如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。有五法。多所饒益。修安那般那念。何等爲五。住於淨戒波羅提木叉。律儀威儀。行處具足。於微細罪。能生怖畏。受持學戒。是名第一。多所饒益。修習安那般那念。復次比丘。少欲少事少務。是名二法。多所饒益。修習安那般那念。復次比丘。飮食知量。多少得中。不爲飮食起求欲想。精勤思惟。是名三法。多所饒益。修安那般那念。復次比丘。初夜後夜。不著睡眠。精勤思惟。是名四法。多所饒益。修安那般那念。復次比丘。空閑林中。離諸憒閙。是名五法。多種饒益。修習安那般那念。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

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2.訓読文

『雑阿含経』 (No.801)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

是の如く我れ聞けり*1 一時*2 *3 舍衛国*4 祇樹給孤獨園*5 に住せり。爾の時、世尊、諸の比丘*6 に告げたまはく。五法*7 有り。饒益する所多ければ、安那般那念*8 を修すべし。何等をか五と為す。浄戒・波羅提木叉律儀*9 に住し、威儀・行處具足して、微細の罪*10 に於て能く怖畏を生じ、学戒を受持する。是れを第一と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、少欲・少事・少務なる。是れを二法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、飲食について量を知り、多少の中を得*11 。飲食を為して求欲の想を起こさずして、精勤思惟する。是れを三法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、初夜・後夜に睡眠に著せず*12 して、精勤・思惟すべし。是れを四法と名づく。饒益する所多ければ、安那般那念を修すべし。復た次に比丘、空閑林*13 中にて、諸の憒閙を離る。是れを五法と名づく。饒益多種なれば、安那般那念を修習すべし、と。佛、此の経を説き已りたまひし。諸の比丘、佛の所説を聞きて、歡喜奉行しき。

訓読文:沙門覺應

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3.現代語訳

『雑阿含経』 (No.801)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

このように私は聞いた。ある時、仏陀は舎衛国(サーヴァッティー)は祇園精舎に住しておられた。その時、世尊は告げられた。「比丘たちよ、五法がある。多くの利益をもたらす安那般那念(アーナーパーナサティ)を修習すべきである。何をもって五とするであろうか。浄戒・波羅提木叉律儀に則り、威儀・行処具足して、微細なる罪にも畏れを生じ、学戒を受持することが第一である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、少欲・小事・少務であること、これが第二である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、飲食について量を知り、多すぎず少なすぎずの適量を摂ること。飲食するに際して欲望を起こさず、精勤して修禅する。これが第三である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、初夜・後夜にも睡眠を貪らず、精勤して瞑想すべきである。これが第四である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである。また次に比丘たちよ、静かな林の中にあって、諸々の喧噪を離れること。これが第五である。多くの利益をもたらす安那般那念を修習すべきである」と。仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜した。

現代語訳:沙門覺應

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4.語注

『雑阿含経』第801経Saṃyutta Nikāya. Mahāvagga, Ānāpānasaṃyutta(相応部大品安般相応。以下、SN. M/Aと略記)には対応する経典がない。

  • 是の如く我れ聞けり…ほとんどの経典では、このように(漢訳者によって文言は若干異なるが)「是の如く我れ聞けり」と始まる。パーリ語経典では‘Evaṃ me sutaṃ’(「このように私は聞いた」)と始まる。ここに言う我とは、仏陀滅後三ヶ月後に王舎城にて、五百人の阿羅漢によって行われた第一の法と律との結集において、すべての経を誦出したと伝承される阿難尊者。→本文に戻る
  • 一時…「是の如く我れ聞けり」と始まるに続き「一時(ある時)」という、(それが何月何日であったなどとは言われなくとも、一応は)時を示す言葉が続く。パーリ経典では‘ekaṃ samayaṃ’(「ある時」)。→本文に戻る
  • …釈迦牟尼仏。釈尊。今の世に伝わる経説は、その直接間接を問わず、インドは釈迦族出身の聖者たる釈迦牟尼仏によるもの。
    大乗における、無量寿如来をもっぱら信じる浄土の教えであったとしても、その経説は釈迦牟尼仏によって示されたもの。このようなことから、本師(根本の師)を冠して本師釈迦牟尼仏と呼び、また大恩教主本師釈迦牟尼仏と称することもある。釈尊ご自身は、「自分が悟ろうが悟らなかろうが法(真理)は不変」、「自分は古道の発見者に過ぎない」などというような事を言われてもいるが、実際としては釈尊あられてこその仏教であった。→本文に戻る
  • 舎衛国[しゃえいこく]…北インドのガンジス川中流域(現インドのウッラルプラデーシュ州北東部)に栄えた古代国Kosala(憍薩羅[きょうさら])の、いわば首都Sāvatthī。故に現代的感覚からすると、舎衛「国」とするこの漢訳語は適切ではないように思われようが、仏陀ご在世の当時、現代的な国と首都という概念とは異なっていたようであるから、差し支えない。ただし、他に舎衛城とする漢訳語があってこれも一般に用いられる。コーサラ国とは、当時のガンジス川中流域を中心とする北インドには、十六大国といって十六の国々があったと経典に伝承されているが、その中でも最も強大であったという内の一国。
    釈尊在世当時のコーサラ国王Pasenadi(波斯匿[はしのく])は、釈尊の最大の外護者の一人であったとされる。しかし、仏陀ご在世中、この王が死んで王位を継承したその子Vidūdabha(毘瑠璃)王によって、仏陀の一族たる釈迦族はほとんど皆殺しにされ、仏陀の故国は滅びる。そしてそれからまもなく、そのコーサラ国自体も同じく北インドで覇権を競っていたMagadha(摩掲陀)国によって滅ぼされる。
    この釈迦族が滅ぼされる経緯について生まれたのが、「仏の顔も三度まで」という格言。巷間、この格言の意味はまるで異なったものとして誤用されている。正しい意味、本来の意味は“明恵上人の手紙(6)”のを参照のこと。→本文に戻る
  • 祇樹給孤獨園[ぎじゅきっこどくおん]…舎衛国にあった仏教の僧院の名で、サンスクリットでJetavane anāthapiṇḍadasya ārāma(ジェータの林にある孤独な者に施す者の園)の漢訳語。パーリ語ではJetavane anāthapiṇḍikassa ārāma。「孤独な者に施す者」とは、その名をSudatta(須達)と言った。マガダ国にて偶然仏陀に出遇ってその教導に浴してその場で帰依。故国コーサラに還ってから、修行者たちのための僧園とするべく、コーサラ国王の王子の一人Jetaが所有していた林を譲り受け、仏教教団に寄進したためにこの名がある。日本人であるならばほとんどの者が耳にしたことのあるであろう『平家物語』冒頭の「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」の祇園精舎の「祇園」は、この語頭と語尾の文字をとってつけた略称。精舎は僧院・僧園の意。
    ジェータ王子は最初、スダッタから林の買取の申し出に難色を示して無理難題を言ったが、結局スダッタの仏陀への信仰と熱意に負け、その林を譲った。その後のジェータ王子について、伝承では、腹違いの王子ヴィドゥーダバが王位を継承したとき、釈迦族を屠ることへの協力を拒んだために殺されてしまったという。
    仏教の僧院が建てられた最初期のもので、仏陀はここにしばしば留まって多くの説法をなされたことが諸経典から知られる。7世紀、唐代の支那より遙か求法留学の長旅の末にインドへ来ていた玄奘三蔵もここを訪れているが、その時にはもうすでに荒廃していたことが三蔵の記録より知られる。現インドのウッタルプラデーシュ州サヘートマヘートに遺跡があり、今も仏教徒らの巡礼地となって昼間は香煙の断つことがない。→本文に戻る
  • 比丘[びく]…仏教の正式な男性出家修行者のこと。詳しくは“仏教徒とは何か”の“比丘”の項を参照のこと。→本文に戻る
  • 五法[ごほう]…安那般那念を修習するにあたり、五つ事柄について整えること。五つの前方便。その五つとは何か要約すれば、①戒、②事物、③飲食、④睡眠、⑤場所。パーリ経典の相応部安般相応にはこの経に対応するものは無い。
    後代、本経で説かれている五法のごとき瞑想をするための諸条件が、それぞれ小乗部派や大乗において詳細に言われている。たとえば説一切有部では安住尸羅清浄ならびに身器清浄を説き、分別説部では優波底沙『解脱道論』やブッダゴーサ『清浄道論』の中であここれと説かれ、天台大師智顗は『修習止観坐禅法要』の中で廿五方便として説いている。それらはほとんど似通った内容のものである。南方のそれはともかく、説一切有部から大乗においてのそれは、このような佛所説をもととしている。
    なお、『中阿含経』巻十 相應品「彌醯経」では、瑜伽を修習するための諸条件として(というよりも比丘の義務として)、これとやや異なる五法を挙げる。「世尊告曰。彌醯。心解脫未熟。欲令熟者有五習法。云何為五。彌醯。比丘者。自善知識與善知識俱。善知識共和合。彌醯。心解脫未熟。欲令熟者。是謂第一習法。復次。彌醯。比丘者。修習禁戒。守護從解脫。又復善攝威儀禮節。見纖芥罪。常懷畏怖。受持學戒。彌醯。心解脫未熟。欲令熟者。是謂第二習法。復次。彌醯。比丘者。謂所可說聖有義。令心柔軟。使心無蓋。謂說戒說定說慧說解脫說解脫知見說漸損說不樂聚會說少欲說知足說斷說無欲說滅說燕坐說緣起。得如是比沙門所說。具得。易不難得。彌醯。心解脫未熟。欲令熟者。是謂第三習法。復次。彌醯。比丘者。常行精進。斷惡不善。修諸善法。恒自起意。專一堅固。為諸善本。不捨方便。彌醯。心解脫未熟。欲令熟者。是謂第四習法。復次。彌醯。比丘者。修行智慧。觀興衰法。得如是智。聖慧明達。分別曉了。以正盡苦。彌醯。心解脫未熟。欲令熟者。是謂第五習法」(大正2, P491中段-上段)。すなわち①親近善知識、②持戒、③修学・少欲知足、④精進、⑤分別智。この経では、これを説いて後、不浄観・慈観・安般念・無常観を修すべきことが説かれる。→本文に戻る
  • 安那般那念[あんなぱんなねん]…普段は自ら無意識になしているところの呼吸、入る息・出る息に意識を向かわせ、自らがいかなる呼吸をなしているかを淡々と念じて、身心を止息させていく瞑想法。安那般那はサンスクリットānāpānaの音写語で、念はsmṛtiの漢訳語。パーリ語ではānāpāna satiという。持息念との漢訳語がある。
    詳しくは“仏教の瞑想”の“安般念(数息観)”ならびに“十六特勝”の項を参照のこと。→本文に戻る
  • 波羅提木叉律儀[はらだいもくしゃりつぎ]…比丘が比丘として存在しえる根拠となる、律の重要な条項をまとめたもの。律蔵によって異なるがその禁則事項の数はおよそ250で、このことから二百五十戒などとも言われる。支那・日本で一般に依行された『四分律』ではちょうど250項目。南方で専ら行われる「パーリ律」では227項目。詳しくは“戒律講説”の“律について”各項を参照のこと。→本文に戻る
  • 微細[みさい]の罪…律蔵の規定からいうと、突吉羅(悪作)や悪説(詳しくは“戒律講説”の“律の構成”を参照のこと)。しかし、仏教でいわれる(出家者の)罪とは何も波羅提木叉の規定に外れたことだけを言うのではなく、たとえば中国・日本では、比丘には二百五十戒を含めた八万四千威儀があると言われる。「パーリ律」による分別説部の教学では、比丘の威儀には91,805,036,000(九百十八億五百三万六千威儀)あると言われる。少々、桁が異なっており、それに比べれば八万四千など可愛いものである。
    なお、この罪という言葉をキリスト教的な原罪、Sinなどのような概念をもって捉えるのは全く誤りである。出家者の場合、出家者として為すべきでない行為はすべて罪といわれるが、それがたちまち「地獄に導く」云々、「人という罪深き」云々といわれるような種類のものとはならない。
    微細の罪を恐れるとは、波羅提木叉で禁じられているのが明瞭な行為を為さないのはもちろんのこと、たとえば比丘がある行為をなすのに、「もしやすると、これは罪(非法・不浄)となるかもしれない」と疑問に思ったならば、それをひとまず為さないこと。何か新しいことをするにつけ、律蔵の規定に反しないかを一一確認してからでなければ一切しないこと。しかし、場合によっては、これを文字通りなすことは非常に困難でほとんど不可能とすらいえる時がある。いや、不可能ではないけれどもこれを「文字通り」実行せんとする者は、経済的に在家の信者ら他者に完全に依存しつつ、しかしその者とは決して近しく親しくならず、極力外部の者とは接触せず、遠方になども移動せず、社会に積極的に働きかけることなど全くしないし必要ないなどということになってしまいかねない。
    これはあくまで個人的体験に基づく個人的感想であるが、これを文字通りやっている、いや、やろうとしている人々を現実に知っているが、彼らを知ったことによって教条主義とは一体いかなるものであるかを初めて知った。私は教条主義という言葉を知ってはいたけれども、教条主義というものを現実には知らなかった。戒律を厳しく守らんとしている者を、一様に教条主義者などと断じるのはまったく誤りと思うけれども、このような経説・態度を如何に現実のものとするかという一点においては、非常に難しい問題が存している。世間がしばしばいうような、「そこは常識を踏まえて適宜にやれば良い」「バランスの問題だ」というのはなるほどそうであろう。けれども、なんでも口で言うのは簡単であって、現実に直面したときには誰もがその口を閉ざすことになるのである。
    ある意味、社会福祉や社会的云々に一切関しないというのは、本来的比丘のあり方。大乗であっても場合によっては全く同じ。なんとなれば、社会福祉をしたければプロとして社会福祉の仕事をしたらよく、社会に積極的物理的に助けとなりたければ政治家にでもなるか、努力し金持ちにでもなって慈善活動するもよし、NGOなど設立してその活動に打ち込めば良い。僧侶には僧侶の分、あるべきようわがあり、それを全く踏まえた上で社会的云々としなければ、本末転倒のサカサマゴト。
    しかし、そのようにあるべきようわに則り、戒律を厳しく保ちつつ、しかし菩提心や文殊信仰を動機としたことによって、積極的に社会に働きかけ、人々の助けとなるということは、日本においては鎌倉時代の興正菩薩叡尊や忍性菩薩らによってなされている。叡尊律師ならびに忍性律師の生涯を知れば、菩薩と勅号されるに至ったその訳を知ることとなるであろう。当時、日蓮の輩や浄土の徒が新興していたとはいえ、社会の人々からむしろ大きな支持を得て、叡尊教団は日本最大のものとなっているから、まったく不可能なことなどではない。そこで重要となるのはその動機であろう。→本文に戻る
  • 多少の中を得…基本的に仏教の出家修行者は一日一食のみで、食は原則として托鉢によって得たもののみであり、正午までにこれを採り終わらなければならない。その一食を採るとき、どれほどが適量であるかを修行者は知らなければならない。もし不足であれば、その者は夜、空腹に悩まさえることとなり、それが続けば栄養失調となる。もし過度であれば、食後身体が重くダルくなって眠気が襲って心が明瞭でなくなり、それが続けば(たとえ一食であっても)だらし無く太りだす。
    朝食など栄養を何も取らずに托鉢に出ると、人によっては低血糖などを起こすことがあるが、それを予防するために氷砂糖(飴など)を托鉢に出る前に口にしておくことは律にも違反しない。例えばタイ北部のとある瞑想僧院では、早朝托鉢に出る前に(粥ではなく)重湯を飲む。とは言え、少なくとも近年は、多くの出家修行者が一日一食などでは到底なく、公式には朝・昼の二食(しかし非公式には朝昼夜など三食以上)とるのが一般的となっている。
    もっとも、仏教の修行は「飢餓感我慢大会」「我慢できた子一等賞ゲーム」でも戦時下など極限状態を想定した模擬生活でもないので、午前中であるならば一日二食食べたければ食べても良いであろう。しかし、これを習慣とすると「それなしではいられない」と、心ではなく身体が反応するようになってくる。また、朝食を抜くなど考えられない、それでは身体が持たないに違いないという思い込みが、むしろ身体に影響を与えるということもある。一日一食など、一、二週間続けてみれば身体が積極的に空腹を強く訴えてくるということも無くなる。また三ヶ月、半年、一年も続ければ、それがどのようなものであるかの具合も分かってくる。
    比丘であるならば、一日一食を常としつつ、そしてあくまで厳しく身体の欲求には常に対しつつも、そこは適宜にしたら良いかとも、私見では思う。ただ、人が誰でも備える「もっと、もっと」という飽くなき欲求が、自らのうちにも当然あることを知っておかなければならない。
    経験的に、修行者の中でも、常に食事に対する不満を抱いている者は、たとえ多く食を採っていても(例えば律を無視して一日三回)痩せて不健康である場合が多いのに対して、一日一度であっても、そしてそれが味の決して良いものではなかったとしても、粗食のせいで病にならずに生きていられればそれで良いと満足している修行者などは、案外それほど痩せ細らずにツヤツヤと健康である場合が多いのは、大変面白く感じられる事実である。とは言え、これも経験的に言えることであるが、確かに食事(栄養)の質があまりに低い状態が続くと栄養失調となって実に様々な身体的障害が現れるので、多少の中を得るには、ある程度経験が必要となる。行者の身体が頑丈であれば、限界を知るために一度栄養失調になってみるのも良いかも知れない。特に、今の日本人はあれこれ食べ過ぎのように思われる。
    また、栄養云々ではなく、食の味についての不満の類は、食に頓着しない者にとってはまるで下らないことに過ぎないが、人によっては極めて深刻な問題の一つのようで、「解脱を求めて瞑想したい」などと気概あり気に訪れてきた者が、そのくせ身体が異なる食文化の食に順応する前に、精神的な食事への不満からさっさと、あまりにあっさりとやめていくことがある。人とは面白いものである。
    物事は心が先であるけれども、心が変わったとして、身体をそれまでとは異なる諸環境に順応させることにはある程度時間がかかり、そのように順応した身体に、また心も制され方向づけられ付いて行くということもあるというのに。自分自身もまた、食云々のことなど一向意に介さないから良いとしても、別の点においては面白すぎてむしろ全然つまらないのであるけれども。本当に、人とは、自分とはおかしなものである。→本文に戻る
  • 初夜・後夜に睡眠[すいめん]に著せず…仏陀は、惰眠を貪ってはならないことを、多くの経典の中で教戒されている。南方では、仏陀は一日一刻ほども眠らなかったと伝承している。また『仏遺教経』では「汝等比丘。昼則勤心修習善法無令失時。初夜後夜亦勿有廢。中夜誦經以自消息。無以睡眠因縁令一生空過無所得也」(比丘達よ、昼は勤めて善法を修習し時間を無駄にしてはならない。初夜にも後夜にもまた、善法を修習することを止めてはならない。中夜に誦経して自らを救済せよ。睡眠を貪ることによって一生を空しくすごして得るものが何も無いようであってはならない)と仏陀は教誡される。
    現代ならば科学的見地から、寝過ぎは逆に不健康であるが、8時間程の睡眠をとることがもっとも人には良いなどと巷間言われている。しかし、仏教の見地からすると、病時・体調不良時を除いて修行者が8時間も寝るというのは、堕落以外の何ものでもない。しかしそのように言うとたちまち、ではどれほど寝るのは惰眠とされないのか、ということになってくる。「じゃあナンジ、ナンプン、ナンジュウビョー?」などと小学生じみたことを言い出す輩もあろう。睡眠は生理的に不可欠なものであり、ずっと寝ない、なとどいうことはありえないし、無理に寝ないでいることを続けると、身心にむしろ悪影響が現れ出すこともある。しかし、最初は無理をしなければならない。この辺の塩梅は、実際に僧院生活に自ら身を置く以外知ることは出来ないであろう。
    睡眠時間と睡眠の質とは、瑜伽の修習がどの程度進んでいるか、意識がどれほど明瞭となり、心がどれだけ清浄となっているかの一つの目安となる。一般に、瑜伽の修習を「善く」積み重ねていけばいくほど、その者の寝付きと寝起きが非常に良く、またその睡眠時間もようやく短くなっていく。これは修習によって、懈怠[けだい]や惛沈[こんじん]、煩悩としての睡眠[すいめん]とが弱まり、心所としての精進や不放逸、念などが強まって、心に適度の緊張感が生まれることの具体的成果。仏陀の法に従って修習すれば、その術と過程が正しければ、その成果は必ず現れるのである。→本文に戻る
  • 空閑林[くうげんりん]…人里から遠すぎず近すぎぬ閑静な森林や山などの場所。修行するのに最も適した場所。サンスクリットaraṇyaの漢訳語で、阿蘭若との音写語がある。瞑想・瑜伽の修習に励む比丘たちは、街中や村落を好まず、その中には住まず、そのような森林の中で過ごし修行に励んだ。人の往来が激しく、生活音の多く起こる場所はまったく修行に適さない。遠すぎず、というのは遠すぎると托鉢するのが困難となるためであり、近すぎずというのは近すぎると人の往来が多く音や面倒事が多くなるため。当時の仏教の修行者が、奥深い山や人里から遠く離れた森林において仙人のように暮らしていたというのでは無い。
    阿蘭若について、『大毘婆沙論』では「去村五百弓。名阿練若處。從此已去名邊遠處。則五百弓成摩揭陀國一俱盧舍」(大正27, P702上段)とし、“Visuddhimagga”(『清浄道論』)では‘Tattha araññagatoti "araññanti nikkhamitvā bahi indakhīlā sabbametaṃ arañña"nti ca, "āraññakaṃ nāma senāsanaṃ pañcadhanusatikaṃ pacchima"nti ca evaṃ vuttalakkhaṇesu araññesu yaṃkiñci pavivekasukhaṃ araññaṃ gato.’という。一弓(dhanu)とは四肘(hasta)で、一肘とは約45cmであるから、およそ180cm。故に五百弓はおよそ900mであり、それはまた一俱盧舍(krośa)と言われる。
    そもそもガンジス川中流域にそのような、日本人や欧州の人々が想像するような奥深い山や森などという場所はない。もっとも、これは例外的に、王舎城(現:ビハール州ラージギル)には、それほど高くはないがその地を取り囲みこれを天然の要害としている山々と、それに囲まれた森がある。今でもその森には稀ではあるが虎が出るという。
    しかしそれでも、釈尊ご在世の当時から、比丘には山・林・樹下・洞窟などに住む者と、市街村落に住する者とがあったであろうことが、経律の所説によって知られる。森林住の修行者と都市住の修行者という、それはどちらが正しいという種類のものではないが、ある意味対立する出家者の構造が、時に大きく相反する経説・教義を産み、後代の仏教にずっと引き継がれてきたように思う。 →本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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