真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『雑阿含経』(安般念の修習)

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1.原文

『雑阿含経』 (No.804)

宋天竺三藏 求那跋陀羅 譯

如是我聞。一時佛住舍衞國祇樹給孤獨園。爾時世尊告諸比丘。當修安那般那念。安那般那念。修習多修習者。斷諸覺想。云何安那般那念。修習多修習。斷諸覺想。若比丘依止聚落城邑住。如上廣説。乃至於出息滅善學。是名安那般那念。修習多修習。斷諸覺想。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

如斷覺想。如是不動搖得大果大福利。如是得甘露究竟甘露。得二果四果七果。一一經。亦如上説

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2.訓読文

『雑阿含経』 (No.804)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

是の如く我れ聞けり。一時、佛、舍衛國祇樹給孤獨園に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。當に安那般那念を修習すべし。 安那般那念を修習するに多く修習せば、諸の覚想を断ず。云何が安那般那念を修習するに多く修習せば諸の覚想を断ずるや。若し比丘、聚楽・城邑に依止して住し、上に廣說せるが如く、乃至出息の滅に於て善く学す。是れを安那般那念を修習するに多く修習せば、諸の覚想を断ずと名づく。佛、此の経を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所説を聞きて、歓喜奉行しき。

覚想を断ずるが如く、是の如く動揺せざれば大果大福利を得*1 。是の如く甘露*2 を得、甘露を究竟し、二果*3 四果*4 七果*5 を得。一一の経も亦た上の如く説けり*6 

訓読文:沙門覺應

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3.現代語訳

『雑阿含経』 (No.804)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

このように私は聞いた。ある時、仏陀は舎衛国は祇園精舎に留まっておられた。その時、世尊は告げられた。「比丘たちよ、まさに安那般那念を修習するべきである。安那般那念を修習して習熟すれば、諸々の覚想を断じるであろう。どのように安那般那念を修習して習熟すれば、諸々の覚想を断ずると云うのであろうか。もし比丘が、村や町に住み、…(先に広く説いたところに同じであり中略)…出息の滅において善く行じる。これを安那般那念を修習して習熟すれば、諸々の覚想を断じると云う」と。仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜した。

覚想を断じ、このように動揺することがなければ大きな果報と大きな利益を得る。そして甘露を得、甘露を究竟し、二果・四果・七果を得る。一一の経もまた、上のように説かれる。

現代語訳:沙門覺應

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4.語注

『雑阿含経』第804経SN. M/A,Paṭhamaphalasutta”に対応する。内容的には全体として同じ。

  • 覚想を断ずる云々…パーリ経典の相応部大品は安般相応の第一経Ekadhammasuttaから第三経Suddhikasuttaまでの末尾には、‘Evaṃ bhāvitā kho, bhikkhave, ānāpānassati evaṃ bahulīkatā mahapphalā hoti mahānisaṃsā’(「実に比丘たちよ、このようにアーナーパーナサティを修習し、このように習熟したならば、大きな果報と大きな利益がある」)との一文がある。また第四経ではこれに加え、‘Evaṃ bhāvitāya kho, bhikkhave, ānāpānassatiyā evaṃ bahulīkatāya dvinnaṃ phalānaṃ aññataraṃ phalaṃ pāṭikaṅkhaṃ – diṭṭheva dhamme aññā, sati vā upādisese anāgāmitā’(「実に比丘たちよ、このようにアーナーパーナサティを修習し、このように習熟したならば、二つの果報のうちの一方が期待される。――目の当たりに見た真理(法)についての完全なる智慧(阿羅漢果)か、もしわずかに(煩悩の)余依があるならば阿那含(不還果)どちらかかの」)との一文がある。ところで、この一節の中にあるdiṭṭheva dhamme aññāという語は、上では一応そうしたように「目の当たりに見た真理についての完全なる智慧」、もしくはむしろこれが伝統的な読みであるが「現世における完全なる智慧」と二様に解し得る。別段、互いに矛盾して齟齬をきたすような理解ともならないため、その両者を意味するものとして捉えて良いと思う。
    漢訳経文中にある「覚想を断じる」に対応する言葉はパーリ経典中に見られない。けれども、覚想を断じるとは安那般那念に習熟することに他ならないから、本経と対応するパーリ経典とは、内容的にはほとんど一致する。なお、覚とはvitarka(尋)の訳語であって、これを断じるとはすなわち禅を得ること、第二禅以上を得ることを意味する。安般念は、禅を得ることを前提としたものである。→本文に戻る
  • 甘露[かんろ]…不死の境涯。パーリ語はamata、サンスクリットはamṛta。すでに上にこの経と対応するパーリの経文を挙げたが、そこには甘露に該当する言葉はない。しかし、「甘露を得」を不還果、「甘露を究竟」を阿羅漢果と捉えることは一応可能。→本文に戻る
  • ニ果…明と解脱。→本文に戻る
  • 四果…身念処・受念処・心念処・法念処の四念処。→本文に戻る
  • 七果…念覚分・択法覚分・精進覚分・喜覚分・軽覚分・定覚分・捨覚分の、いわゆる七覚支。→本文に戻る
  • 一一の経も云々…その他の経典でもこの一節が最後に付されるが略していることを、ここで断って言っている。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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