真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『雑阿含経』(安般念の修習)

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1.原文

『雑阿含経』 (No.807)

宋天竺三藏 求那跋陀羅 譯

如是我聞。一時佛住一奢能伽羅林中。爾時世尊告諸比丘。我欲二月坐禪。諸比丘勿復往來。唯除送食比丘及布薩時。爾時世尊。作是語已。即二月坐禪。無一比丘敢往來者。唯除送食及布薩時。爾時世尊坐禪二月過已。從禪覺。於比丘僧前坐。告諸比丘。若諸外道出家。來問汝等。沙門瞿曇。於二月中。云何坐禪。汝應答言。如來二月。以安那般那念。坐禪思惟住。所以者何。我於此二月。念安那般那。多住思惟。入息時念入息如實知。出息時念出息。如實知。若長若短。一切身覺入息念。如實知。一切身覺出息念。如實知。身行休息入息念。如實知。乃至滅出息念。如實知。我悉知已。我時作是念。此則麁思惟住。我今於此思惟止息已。當更修餘微細修住而住。爾時我息止麁思惟已。即更入微細思惟。多住而住。時有三天子。極上妙色。過夜來至我所。一天子作是言。沙門瞿曇時到。復有一天子言。此非時到是時向至。第三天子言。非爲時到亦非時向至。此則修住。是阿羅訶寂滅耳。佛告諸比丘。若有正説。聖住天住梵住學住無學住如來住。學人所不得當得。不到當到。不證當證。無學人現法樂住者。謂安那般那念。此則正説。所以者何。安那般那念者。是聖住天住梵住。乃至無學。現6法樂住。佛説此經已。諸比丘聞佛所説。歡喜奉行

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2.訓読文

『雑阿含経』 (No.807)

宋天竺三藏 求那跋陀羅 譯

是の如く我れ聞けり。一時、佛、一奢能伽羅林*1 中に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘に告げたまはく。我れ二月*2 坐禅せんと欲す。諸の比丘、復た往来すること勿れ。唯だ送食の比丘*3 及び布薩*4 時を除く。爾の時、世尊、是の語を作し已て、即ち二月坐禅したまふに、一比丘も敢へて往来する者無し。唯だ送食及び布薩時を除くのみ。爾の時、世尊、坐禅したふこと二月過ぎ已て、禅より覚め、比丘僧の前に於て坐し、諸の比丘に告げたまはく。若し諸の外道出家*5 、来たりて汝らに沙門*6 瞿曇*7 は二月中に於て云何が坐禅せしと問はば、汝まさに答へて言ふべし。如来は二月、安那般那念を以て坐禅思惟して住したまへりと。所以者何、我れ此の二月に於て安那般那を念じ、多く思惟して住せり。入息の時、入息を念じて実の如く知り、出息の時、出息を念じて実の如く知る。若しは長し、若しは短しと。一切身を覚して入息するを念じるを実の如く知り、一切身を覚して出息するを念じるを実の如く知る。身行休息して入息するを念じるを実の如く知り、乃至滅して出息するを念じるを実の如く知る。我れ悉く知り已て、我れ時に是の念を作さく*8 。此れ則ち麁なる思惟に住せるなり。我れ今、此の思惟に於て止息し已て、當に更に餘の微細を修習して而も住することを修すべし。爾の時、我れ麁なる思惟を息止し已て、即ち更に微細の思惟に入り、多く住して而も住せり。時に三天子*9 の極上妙色なる有り。夜を過ぎて我が所に来至せり。一天子、是の言を作さく。沙門瞿曇、時到れり*10 。復た一天子有りて言く。此れ時到るに非ず。是の時の至るに向へるなり、と。第三の天子言く。時到れりと為すに非ず、亦た時の至るに向へるにも非ず。此れ則ち修に住せるなり。是れ阿羅訶*11 の寂滅せるのみ、と。佛、諸の比丘に告げたまはく。若し正說せば、聖住・天住・梵住・学住・無学住・如來住*12 有り。学人*13 の得ざる所は當に得べし。到らざるは當に到るべし。證せざるは當に證すべし。無学人*14 現法楽住*15 とは、謂く安那般那念なり。此れ則ち正說なり。所以者何、安那般那念は、是れ聖住・天住・梵住、乃至無学の現法楽住なればなり。佛、此の経を説き已りたまひしに、諸の比丘、佛の所說を聞きて、歡喜奉行しき。

訓読文:沙門覺應

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3.現代語訳

『雑阿含経』 (No.807)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

このように私は聞いた。ある時、仏陀は一奢能伽羅(イッチャーナンガラ)の林の中に留まっておられた。その時、世尊は告げられた。 「比丘たちよ、私は二ヶ月間坐禅したい。比丘たちは、(私のところに)往来しないように。ただし、(毎日私のもとに)食を届ける比丘と布薩(に比丘が全員集まる)時は除く」と。そして、世尊は、このように語られてから二ヶ月間坐禅されたが、一人の比丘として敢えて往来する者はなかった。ただ食を届けるのと布薩時を除いては。そして、世尊が坐禅されること二ヶ月が過ぎて禅より出て、比丘僧の前に坐されて告げられた。「比丘たちよ、もし諸々の外道の出家が訪ねて来、比丘たちに沙門瞿曇(ゴータマ)は二ヶ月の間、どのように坐禅したのであろうかと問い尋ねたならば、比丘たちはこのように答えるべきである。「如来は二ヶ月、安那般那念をもって坐禅思惟して住された」と。その訳は何かと云えば、私はこの二ヶ月、安那般那を念じ、多く思惟して住していた。入息している時は入息を念じてありのままに知り、出息している時は出息を念じてありのままに知る。――(その入息・出息は)あるいは長いままに、あるいは短いままに。身体全体を覚知しつつ入息していれば、それを念じてありのままに知り、身体全体を覚知しつつ出息していれば、それを念じてありのままに知る。身行が寂静であって入息していれば、それを念じてありのままに知り、…(中略)…滅にあって出息していれば、それを念じてありのままに知る。(そのように)私は悉く知り終わったとき、私にこのような考えが起こった。「これは麁なる思惟に住したものである。私は今、この(麁なる)思惟において止息したならば、更に他の微細(の思惟)を修習して住することを修そう」と。そして、私は麁なる思惟を止息し、さらに微細の思惟に入って多く住し、さらに住した。ちょうどその時、三人の見た目の素晴らしい天神があり、夜を過ぎて私のところにやって来た。一人の天神は、このように語った。「沙門瞿曇には、(寿命が尽き、無余依涅槃に入る)その時が来た」と。また一人の天神が言うには「その時が来たのではない。その時が今まさに来ようとしているのだ」と。第三の天神が言うには「その時が来たのではない。また、その時が今まさに来ようとしているのでもない。修習に住しているのだ。阿羅漢が定に入っているだけである」と。仏陀は語られた。「比丘たちよ、もし正しく説いたならば、聖住・天住・梵住・学住・無学住・如来住がある。学人で、いまだ得ていないものがあるならばまさに得るべきである。到っていないければ至るべきである。証していなければ証するべきである。無学人の現法楽住とは、安那般那念である。これが即ち正説である。その所以は何かと云えば、安那般那念とは、聖住・天住・梵住、乃至無学の現法楽住であるからである」。仏陀がこの経を説き終わられたとき、諸々の比丘は、仏陀の所説を聞いて歓喜した。

現代語訳:沙門覺應

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4.語注

『雑阿含経』第807経SN. M/A,Icchānaṅgalasutta”に対応する。内容的にはほとんど同様であるが、パーリ経典にはない話が本経にある程度に異なる。

  • 一奢能伽羅林…対応するパーリ経典ではIcchānaṅgala。これがどの国に存した場所であるのかこの経からは不明であるが、増支部のいくつかの経典によればKosala国にあった場所のようである。→本文に戻る
  • 二月Icchānaṅgalasuttaでは二ヶ月ではなく三ヶ月としている。そしてその三ヶ月とは、雨安居の期間を指している。→本文に戻る
  • 送食[そうじき]の比丘…托鉢で得た食を分け(仏陀のもとに)運ぶ比丘。→本文に戻る
  • 布薩[ふさつ]…一ヶ月のうち新月と満月の日の二回行われる、波羅提木叉をあるいは唱え、あるいは聞いて僧伽の清浄性を確認・維持するための重要な儀式。サンスクリットupoṣadha(本来はupavasathaであったろうと言われる)の音写語。パーリ語はuposatha。説戒などとも漢訳される。
    その現前僧伽内にあるすべての比丘が参加しなければならず、一人でも不参加のものがあれば、その布薩は不成立・無効となる。一人の上座比丘が波羅提木叉を暗唱するのを、その他比丘が静聴して行われる。
    パーリの対応経典では布薩についての言及がない。それは、パーリ経典では、釈尊は諸比丘とは別の結界にて、一人で雨安居を過ごし、ために諸比丘らと共に布薩する必要が無かったということになる。対して、この『雑阿含経』では、釈尊は諸比丘と同一の結界にあって、しかし諸比丘から離れた閑静な場所にて過ごされていたと伝える。故に釈尊も諸比丘らと共に布薩を行じる必要があったことになる。
    ところで、およそすべての辞書、そして僧職の人や学者までもが、布薩とは仏教の出家修行者の懺悔をする儀式などと説明しているが、それはまったく誤りである。なんとなれば、布薩には、なんらか罪を犯して懺悔(出罪)していない比丘は参加できないためである。罪を犯した比丘は、布薩に参加する前に、それが出罪可能なものであれば懺悔告白を済ましておかなければならない。また、それが出罪不可の波羅夷罪であれば問答無用で還俗、あるいは僧残の重罪であれば、その比丘は一定期間、界外にて別住しなければならず、布薩に参加できないためである。万一、波羅提木叉を聞いている途中で自身が罪を犯していたことに気づいた比丘は、布薩が終了して後に、他の比丘に対して懺悔告白する。
    布薩とは、上にすでに示したが、僧伽の清浄性を保持・確認するための儀式であって、懺悔反省する儀式などではまったくない。また、参加した比丘全員が一斉に波羅提木叉を読誦する儀式などでもない。→本文に戻る
  • 外道出家[げどうしゅっけ]…仏教以外の教義を信奉する出家修行者。外道とはサンスクリットtīrthyaの訳語で、仏教からしてその他の教義・思想見解を指す。パーリ経典の対応箇所で‘aññatitthiyā paribbājakā’(外道の出家修行者)。→本文に戻る
  • 沙門[しゃもん]…出家修行者。サンスクリットśramaṇaの音写語。パーリ語はsamaṇa。「努める人」を意味する。
    仏陀ご在世の当時、インド社会には、それまでのバラモン教の思想にしばられない自由思想家たち、いわば新興の宗教家・哲学者らがあって出家生活をおくっていた。そのような人々を、旧来の婆羅門に対して、沙門と呼んだ。釈尊もその中の一人であった。今はもっぱら仏教の出家修行者を意味する言葉となっている。→本文に戻る
  • 瞿曇[くどん]…釈尊の俗姓。サンスクリットGautamaの音写語。パーリ語はGotama→本文に戻る
  • 我悉く知り已て云々…パーリ経典の対応箇所には、ここから天子が登場するまでの話に対応する一節がない。→本文に戻る
  • 天子[てんし]…天、神、神霊。devaの訳語。仏教では、生命のありかたに、天・人・(修羅)・畜生・餓鬼・地獄の五種あるいは六種を数える。人より勝れて力あり、安楽なる存在とされるも、同じく死すべき者であって万能なる存在などではないとされる。ユダヤ教やキリスト教、イスラム教など一神教の神、世界観とはまったく異なるため。神などと聞いて、それを想像するのはまったく宛が外れる。
    この天子が現れて云々する一節は、パーリの安般相応の諸経典には見られない。→本文に戻る
  • 時到れり…時とは「死の時」「寿命(命根)の尽きるとき」。釈尊が定に入っているところに三人の天子が現れ、それぞれが「死んでいる」「今まさに死ぬところ」「深い定に入っているだけ」とそれぞれの所見をのべている。
    この一節について、『大毘婆沙論』は以下のように注釈している。「又彼經說。時有三天端嚴殊妙過於夜分來至我所。第一天言此已命過。第二天言此當命過。第三天言此非已死亦非當死。然住勝定寂靜如是。問彼是何天寧作異說。答是欲界天根品異故。謂鈍根者作如是念。此大沙門無入出息身不動搖無思作業必已命過。若中根者作如是念。此大沙門猶有煖氣身不爛壞。雖非已死而當命過。若利根者曾見諸佛及聖弟子入如是定。心不動後時還出故作是言。此非已死乃至廣說」(大正27, P136下段)。
    深い定に入っている者をして、周囲の者が「死んでいる」と勘違いした、ということは仏典の所々に説かれている。例えばDN. “Mahāparinibbānasutta”には、釈尊が涅槃される直前、滅尽定に入ったのを阿難尊者は「釈尊は般涅槃された」と勘違いしたことを伝えている。→本文に戻る
  • 阿羅訶[あらか]…阿羅漢。声聞乗における最高の境地にして目標。サンスクリットarhatの音写語。パーリ語はarahan→本文に戻る
  • 聖住・天住・梵住・学住・無学住・如來住…パーリ経典では、‘ariyavihāro’(聖住)・‘brahmavihāro’(梵住)・‘tathāgatavihāro’(如来住)のみが挙げられている。要するに、それらは‘Ānāpānassatisamādhi’(安那般那念三昧)を讃えた、修飾した言葉。
    この一節について、『大毘婆沙論』では「又彼經說佛告苾芻。若有問言。云何聖住。云何天住。云何梵住。云何佛住。云何學住。云何無學住。應正答言。謂持息念。所以者何此持息念能令學者證所未證。能令無學者得現法樂住。此持息念不雜煩惱故名聖住。自性光淨故名天住。自性寂靜故名梵住諸佛多住故名佛住。學所得故名為學住。無學得故名無學住學者由此得勝現觀斷除煩惱故名證所未證無學者由此得不動心解脫故名得現法樂住。有說。此持息念。是聖所有能引聖性故名聖住。廣說乃至。是無學所有能引無學性故名無學住。學者由此能證阿羅漢果故名證所未證。無學者由此住四種樂故名得現法樂住。四種樂者。一出家樂。二遠離樂。三寂靜樂。四三菩提樂。問此持息念是非學非無學。何故名為學無學住。答學無學者身中有故」(大正27, P136下段-P137上段)と非常に長々とこの一節を解釋している。その解釈の内容はともかく、如来住ではなく仏住としている点とその順序が本経の所説と異なっている。『成実論』では「問曰。何故念出入息名為聖行天行梵行學行無學行耶。答曰。風行虛中虛相能速開導壞相。壞相即是空。空即是聖行。故名聖行。為生淨天故名天行。為到寂滅故名梵行。為得學法故名學行。為無學故名無學行」(大正32, P356上段)と、如来住を言わないものの、各語について何故そのように言われるかの解釈を加えている。『大毘婆沙論』ならびに『成実論』が、『雑阿含経』(漢訳の原典と同様のもの)に依拠して安般念を説いている証となるものの一つ。『大毘婆沙論』が如来住ではなく仏住としている点、『成実論』が如来住に言及していない点は、それらの依拠した原典、あるいは参照当時にはその語が異なったり無かったりした為か。→本文に戻る
  • 学人[がくにん]…学ぶ人。いまだ全き悟りに至っていない者。四双八輩のうち阿羅漢果を除く七種の聖者のこと。サンスクリットsaiksaの漢訳語。 パーリ語はsekha。パーリ経典の対応箇所では、‘sekhā appattamānasā’。→本文に戻る
  • 無学人[むがくにん]…もはや(煩悩を滅ぼすために)学び行ずるべき事柄の存しない人。悟りに至った者。阿羅漢あるいは辟支仏、仏陀のこと。→本文に戻る
  • 現法楽住[げんぽうらくじゅう]…伝統的に「この世(現世)における安楽なる境地」を意味するものとされる言葉。サンスクリットdṛṣṭadharmasukhavihāraの漢訳語。パーリ語はdiṭṭhadhammasukhavihāradṛṣṭadharmaという語は、直訳すれば見法であるが、一般に現法・現世と解される。この語は禅定の別名、たとえば禅定七名などといって禅の別称の一つとされる。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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