真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『雑阿含経』(安般念の修習)

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1.原文

『雑阿含経』 (No.809)

宋天竺三藏 求那跋陀羅 譯

如是我聞。一時佛住金剛聚落。跋求摩河側。薩羅梨林中。爾時世尊爲諸比丘。説不淨觀。讃歎不淨觀言。諸比丘修不淨觀。多修習者。得大果大福利。時諸比丘。修不淨觀已。極厭患身。或以刀自殺。或服毒藥。或繩自絞。投巖自殺。或令餘比丘殺。有異比丘。極生厭患。惡露不淨至鹿林梵志子所。語鹿林梵志子言。賢首。汝能殺我者。衣鉢屬汝。時鹿林梵志子。即殺彼比丘。持刀至跋求摩河邊洗刀時。有魔天住於空中。讃鹿林梵志子言。善哉善哉。賢首。汝得無量功徳。能令諸沙門釋子持戒有徳。未度者度。未脱者脱。未穌息者令得穌息。未涅槃者。令得涅槃。諸長利衣鉢雜物。悉皆屬汝時鹿林梵志子。聞讃歎已。増惡邪見。作是念。我今眞實。大作福徳。令沙門釋子持戒功徳者。未度者度。未脱者脱。未穌息者。令得*穌息。未涅槃者。令得涅槃。衣鉢雜物。悉皆屬我於是手執利刀循諸房舍諸經行處。別房禪房。見諸比丘。作如是言。何等沙門。持戒有徳。未度者我能令度。未脱者令脱。未穌息者令得穌息。未涅槃令得涅槃。時有諸比丘。厭患身者。皆出房舍。語鹿林梵志子言。我未得度。汝當度我。我未得脱。汝當脱我。我未得穌息。汝當令我得穌息。我未得涅槃。汝當令我得涅槃。時鹿林梵志子。即以利刀。殺彼比丘。次第乃至殺六十人。爾時世尊。至十五日説戒時。於衆僧前坐。告尊者阿難。何因何縁。諸比丘。轉少轉減轉盡。阿難白佛言。世尊。爲諸比丘。説修不淨觀。讃歎不淨觀。諸比丘。修不淨觀已。極厭患身。廣説乃至。殺六十比丘。世尊。以是因縁故。令諸比丘。轉少轉減轉盡。唯願世尊。更説餘法。令諸比丘。聞已勤修智慧。樂受正法。樂住正法。佛告阿難。是故我今次第説。住微細住。隨順開覺。已起未起惡不善法。速令休息。如天大雨。起未起塵能令休息。如是比丘。修微細住。諸起未起惡不善法。能令休息。阿難。何等爲微細住多修習。隨順開覺。已起未起惡不善法。能令休息。謂安那般那念住。阿難白佛。云何修習安那般那念住。隨順開覺。1已起未起惡不善法。能令休息。佛告阿難。若比丘。依止聚落。如前廣説。乃至如滅出息念而學。佛説此經已。尊者阿難聞佛所説。歡喜奉行

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2.訓読文

『雑阿含経』 (No.809)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

是の如く我れ聞けり。一時、佛、金剛聚落*1 跋求摩河*2 の側なる、薩羅梨林中に住しき。爾の時、世尊、諸の比丘の為に不浄観*3 を説き、不浄観を讃歎して曰く。諸の比丘、不浄観を修するに多く修習せば、大果大福利を得。時に諸の比丘、不浄観を修し已て、極めて身を厭患し、或は刀を以て自殺し、或は毒薬を服し、或は縄にて自ら絞り、巌より投じて自殺し、或は餘比丘をして殺さしむ*4 異比丘*5 の極めて厭患を生じ、不浄を露はすを悪む有り。鹿林梵志子*6 の所に至て、鹿林梵志子に語て言く。賢首、汝、能く我を殺さば、衣鉢は汝に属せん。時に鹿林梵志子、即ち彼の比丘を殺し、刀を持ちて跋求摩河の辺に至りて刀を洗う。時に魔天有り。空中に於て住し、鹿林梵志子を讃じて言く。善哉*7 、善哉。賢首、汝無量の功徳を得たり。能く諸の沙門釋子の持戒の有徳をして、未だ度せざる者は度し、未だ脱せざる者は脱し、未だ蘇息せざる者に蘇息することを得せしめ、未だ涅槃せざる者に涅槃を得せしめたり。諸の長利・衣鉢・雑物悉く皆、汝に属せり、と。時に鹿林梵志子、讃歎を聞き已て悪邪見を増し、是の念を作く。我れ今、真実に大なる福徳を作せり。沙門釋子の持戒の有徳をして、未だ度せざる者は度し、未だ脱せざる者は脱し、未だ蘇息せざる者に蘇息することを得せしめ、未だ涅槃せざる者に涅槃を得せしめたり。衣鉢・雑物悉く皆、我に属せり、と。是に於て手に利刀を執り、諸の房舎・諸の経行処・別坊・禅坊を循り、諸の比丘を見ては、是の如く言を作せり。何等の沙門をか持戒有徳なる。未だ度せざる者を我れ能く度せしめん。未だ脱せざる者は脱せしめん。未だ蘇息せざる者は蘇息せしめん。未だ涅槃せざる者は涅槃を得せしめん。時に諸の比丘に身を厭患せる者有って、皆房舎を出で、鹿林梵志子に語て言く。我れ未だ度すること得ず。汝、當に我を度すべし。我れ未だ脱すること得ず。汝、當に我を脱すべし。我れ未だ蘇息すること得ず。汝、當に我をして蘇息することを得せしむべし。我れ未だ涅槃を得ず。汝、當に我をして涅槃を得せしむべし、と。時に鹿林梵志子、即ち利刀を以て彼の比丘を殺し、次第して乃至六十人を殺せり*8 。爾の時、世尊、十五日の説戒の時*9 に至て、衆僧の前に坐し、尊者阿難*10 に告げたまはく。何に因、何の縁もて諸の比丘、転た少く転た減じ盡くるや、と。阿難、佛に白して言さく。世尊、諸の比丘の為に不浄観の修するを説き、不浄観を讃歎したまふ。諸の比丘、不浄観を修し已て、極めて身を厭患す。廣說して乃至、六十の比丘を殺せり。世尊、是の因縁を以ての故に、諸の比丘、転た少く転た減じ転た盡きしむなり。唯だ願はくは世尊、更に餘の法を説いて、諸の比丘の聞き已て、智慧を勤修し、正法を楽受し、正法に楽住せしめたまへ、と。佛、阿難に告げたまはく。是の故に我れ今次第して説かん。微細住に住し、随順して開覚せば、已起・未起の悪不善の法を速やかに休息せしむ。天の大雨の、起・未起の塵を能く休息せしむが如し。是の如く比丘、微細住を修さば、諸の起・未起の悪不善の法を、能く休息せしむ。阿難、何等をか微細住を多く修習し、随順して開覚せば、已起・未起の悪不善の法を能く休息せしむと為すや。謂く安那般那念に住するなり、と。阿難、佛に白さく。云何が安那般那念住を修習し、随順して開覚せば、已起・未起の悪不善の法を能く休息せしむるや、と。佛、阿難に告げたまはく。若し比丘、聚落に依止すること、前に廣說せるが如し。乃至、滅において出息するが如く念じ、而も学するなり、と。佛、此の経を説き已りたまひしに、尊者阿難、佛の所説を聞きて、歓喜奉行しき。

訓読文:沙門覺應

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3.現代語訳

『雑阿含経』 (No.809)

宋天竺三蔵 求那跋陀羅 訳

このように私は聞いた。ある時、仏陀は金剛聚楽(ヴァッジ)の跋求摩河の辺りにある、薩羅梨林の中で留まっておられた。その時、世尊は諸々の比丘の為に不浄観を説かれ、不浄観を讃嘆してかく語られた。「比丘たちよ、不浄観を修するのに、多く修習すれば、大果報・大利益を得る」と。そこで諸々の比丘は、不浄観を修したところ、極めて(自身らの)身体を厭い煩わしく思うようになり、あるいは刀をもって自殺し、あるいは毒薬を服用し、あるいは縄でもって首を吊り、崖から身を投じて自殺し、あるいは他の比丘に依頼して(自分を)殺させた。異比丘で、極めて(身体に)嫌悪感を生じ、不浄を見るのを悪む者があった。(彼は)鹿林梵志子のところに行き、鹿林梵志子にこう告げた。「賢者よ、汝が私を殺したならば、(私の)袈裟衣と鉄鉢は汝のものとなるだろう」と。そこで鹿林梵志子はその比丘を殺し、(殺すのに用いた)刀をもって跋求摩河の辺りに行って刀を洗った。その時、魔天があった。空中にあって、鹿林梵志子を賞賛して言った。「善い哉、善い哉。賢者よ、汝は無量の功徳を得た。諸々の沙門釈子で持戒の有徳を、いまだ度されていない者を度し、いまだ脱していない者を脱し、未だ蘇息していない者には蘇息することを得させ、未だ涅槃していない者には涅槃を得さしめたのである。(その比丘の所有していた)諸々の余剰品・袈裟と鉄鉢・生活用品のすべては、汝の物となった」と。鹿林梵志子は、(魔天が)讃嘆するのを聞きおわって悪邪見を増長させ、このような考えをなした。「私は今、真実に大きな福徳を作ったのだ。沙門釈子で持戒の有徳をして、いまだ度されていない者を度し、いまだ脱していない者を脱し、未だ蘇息していない者には蘇息することを得させ、未だ涅槃していない者には涅槃を得さしめたのである。(その比丘の所有していた)諸々の袈裟と鉄鉢・生活用品のすべては、私の物となった」と。そこで手に鋭い刀をとり、(比丘たちが住む)諸々の房舎・経行処・別坊・禅坊を巡り訪ね、諸々の比丘を見ては、このような言葉をなした。「どの沙門が持戒して有徳であろうか。いまだ度されていない者を私が度してやろう。いまだ脱していない者は脱してやろう。未だ蘇息していない者には蘇息してやろう。未だ涅槃していない者には涅槃を得さしてやろう」と。すると比丘たちの中には身体を厭い煩わしく思っていた者があり、彼らは皆な房舎を出てきて鹿林梵志子に言った。「私はいまだ度し得ていない。汝よ、私を度せよ。私はいまだ脱し得ていない。汝よ、私を脱せよ。私はいまだ蘇息し得ていない。汝よ、私を蘇息せよ。私はいまだ涅槃を得ていない。汝よ、私に涅槃を得させよ」と。そこで鹿林梵志子は、鋭い刀でもってその比丘らを次々と殺し、ついには六十人を殺すにいたった。さて、世尊が十五日の布薩説戒の時となって、衆僧の前に坐され、尊者阿難に語りかけられた。「いかなる原因、いかなる条件によって、比丘たちがひどく少なく、減ったのであろうか」と。阿難は、仏陀に申し上げた。「世尊は、比丘たちの為に不浄観の修習を説かれ、不浄観を讃嘆されました。比丘たちは、不浄観を修したところ、極めて身体を厭い患わしく思うようになりました。…(すでに広く説いたのに同様であり中略)…六十人の比丘を殺しました。世尊よ、このような因縁によって、比丘たちはひどく少なく減ったのであります。願わくば世尊よ、どうかさらに別の法をお説きになり、比丘たちはこれを聞いて、智慧を勤修し、正法を楽受し、正法に楽住するようにして下さい」と。仏陀は、阿難に語られた。「それでは、私は今ここに次第して説こう。微細住に住し、随順して開覚すれば、已に生じ、または未だ生じていない悪・不善の法をすみやかに制止させるであろう。天から大雨が降ったとき、已に舞い上がり、または未だ舞い上がっていない塵芥を止めさせるように。そのように、比丘が微細住を修習すれば、諸々の已に生じ、または未だ生じていない悪・不善の法を、よく制止させる。阿難よ、なにを微細住を多く修習し、随順して開覚すれば、已に生じ、または未だ生じていない悪・不善の法を、よく制止させるというのであろうか。それは、安那般那念に住することである」と。阿難は、仏陀に申し上げた。「どのようなことが、安那般那念住を修習し、随順して開覚すれば、已に生じ、または未だ生じていない悪・不善の法を、よく制止させるというのでしょうか」と。仏陀は阿難に語られた。「もし比丘が、村落に留まり…(先に広く説いたところに同様であり中略)…滅において出息するをありのままに念じ、さらにまた行ずるのである」と。仏陀がこの経を説き終わられたとき、尊者阿難は、仏陀の所説を聞いて歓喜した。

現代語訳:沙門覺應

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4.語注

『雑阿含経』第809経SN. M/A,Vesālīsutta”に対応し、内容はほとんど同じ。しかし、細かいことではあるが、本経が「一時。佛住金剛聚落跋求摩河側薩羅梨林中」としているのに対し、“Vesālīsutta”では‘ekaṃ samayaṃ bhagavā vesāliyaṃ viharati mahāvane kūṭāgārasālāyaṃ’(ある時、世尊はヴェーサリーの大林重閣講堂に留まっておられた)とある。ヴェーサリーは大城郭都市でLicchavi(離車族)によって自治制が敷かれた、むしろ一つの国であったようだが、ヴァッジ国の都ともされている。両者同一の場所を言っているのであろうが、その表現が一致していない。説一切有部の律蔵『十誦律』の四波羅夷の殺罪の項では「佛在跋耆國跋求摩河上」とあって、この『雑阿含経』の所説と整合する。分別説部の律蔵「パーリ律」では、‘Tena samayena buddho bhagavā vesāliyaṃ viharati mahāvane kūṭāgārasālāyaṃ.’とあり、パーリ聖典同士でも整合性がある。
ついでに他の律蔵を見れば、大衆部の『摩訶僧祇律』では、まず不治の病を苦として病比丘が看病比丘に安楽死(要するに殺害)を依頼して実行させたり、看病比丘が他者に病比丘を安楽死させることを依頼して実行した話を載せる。その後「復次佛住毘舍離。廣說如上。時鹿杖外道殺比丘已…」と、やや唐突な形で鹿杖外道云々の話となる。それは世尊が先に説かれた不浄観に因むものであったと時間を遡って不浄観の話となり、そして安那般那念が説かれる。いずれにせよその場所は毘舎離とされている。化地部の『五分律』では単に「佛在毘舍離」とし、法蔵部の『四分律』では「爾時世尊。遊毘舍離獼猴江邊講堂中」とやや詳しく言う。根本説一切有部の『根本説一切有部毘奈耶』では、あれこれと殺人についての因縁譚が説かれた後に、不浄観を契機とした話があり、そこではやはり「佛在廣嚴城勝慧河側娑羅雉林」としている。訳語は異なっているものの、まったく『雑阿含経』と『十誦律』とに同じ(これ以上、あれこれこれについて言及するのはここでの目的を大きく外れるため、今は一応、伝承によって説処の表現が異なっていることを指摘するのに留める)。
また、パーリ経典では、釈尊は不浄観を比丘たちに説いた後、半月間、独り瞑想に専心したいとして、半月間比丘たちから隔絶して住されたとする一節があるが、漢訳にはない。

  • 金剛聚落[こんごうじゅらく]…十六大国といわれた国々のうちの一国。Vṛji(パーリ語はVajjī)国。→本文に戻る
  • 跋求摩河[ばっぐまがわ]…ヴァッジ国を流れていた河。Valgumudā(?)の音写語。パーリ語はVaggumudā→本文に戻る
  • 不浄観[ふじょうかん]…我々の身体が諸々の不浄によって構成され、つねに不浄を垂れ流し、また死後には腐り、朽ち果て、白骨となるものであることを観想、あるいは実際に墓場などで死体を観察し、自他の身体への執着など愛欲を制し滅することを目的とした瞑想の一種。→本文に戻る
  • 餘比丘をして殺さしむ…比丘が不浄観を修習したことによって極度に厭世的となり、次々と自殺し、あるいは他の比丘や他者をして自らを殺してもらうなどしたことが、比丘として致命的最重罪の一つとしての波羅夷罪が制定されるきっかけとなり、また安那般那念が説かれるきっかけとなっている。この話はすべての律蔵に伝承されている。→本文に戻る
  • 異比丘…おかしな比丘。砕けて言えば、少し「足りない」が故におかしな事をしてしまう比丘。「パーリ律」の対応箇所ではただ‘bhikkhū’(比丘たちは)と言って、否定的な修飾語は付されていない。『十誦律』の対応箇所でもただ「比丘」としてある。→本文に戻る
  • 鹿林梵志子[かりんぼんしし]…梵志とは婆羅門のこと。他の仏典では鹿杖梵志とも。
    対応するパーリ経典では鹿林梵志についての言及が無いが、「パーリ律」の不浄観を契機として多くの比丘が自殺してしまったために安那般那念が説かれるという下りにおいては言及されている。ただし、「パーリ律」ではmigalaṇḍika samaṇakuttakaと、婆羅門ではなく(似非)沙門であったという。→本文に戻る
  • 善哉[ぜんざい]…善事がなされたときに発する喜び称える言葉。サンスクリット・パーリ語でsādhuという。分別説部が篤く信仰されている南方諸国では、仏事においてはこの語を日常的に用いている。経典を読誦し終えたとき、あるいは説法が終わったときになど一斉に唱えるのである。日本でも、たとえば真言宗で『理趣経』を唱え終わったときには、善哉(「せんざい」と漢音で読む)を繰り返していう。→本文に戻る
  • 六十人を殺せり…先に述べたように対応するパーリ経典では、比丘が鹿林梵志に依頼して自らを殺してもらうという話がないが、ある日は十人、ある日は二十人、ある日は三十人と都合六十人が刀でもって自殺したとしている。鹿林梵志の話を載せる「パーリ律」でも、終いには六十人の比丘が殺されたとの記述がある。本経では、上にあるように、自殺した比丘の数についての言及は無い。
    六十人というのは正確な数ではなくて、例えば百二十歳とか八万四千法門だとかいう種類の、李白の「白髪三千丈」的な、漠然と「多くの数」を表現したもの。仏典において、百二十歳と言われている場合はその者が実際に百二十歳であったわけではなく、ただ大変に長寿であったことを示し、八万四千と言われる場合は「そりゃもう、すごい数」という意味であって、正確に八万四千あるわけではない。→本文に戻る
  • 十五日の説戒の時…説戒とは布薩に同じ。布薩は月齢十五日すなわち満月の日と、月齢三十日すなわち新月の日の月二回行われる。仏教では新月から満月までを白月[びゃくがつ]十五日、満月から新月までを黒月[こくがつ]十五日などと数える。
    在家人には他に、六斎日といって、白・黒月の十四日ならびに上弦・下弦の月の日を加えて、月に六日の布薩日がある。在家信者の場合の布薩は、出家者とは異なって波羅提木叉を云々ということはなく、八斎戒をまもり、あるいは僧侶から法を聴聞し、あるいは瞑想するなどする精神修養の日とする。→本文に戻る
  • 阿難[あなん]…仏陀の直弟子のうち、最も重要な人の一人。阿難はĀnandaの音写名で、その意は「よろこび」。漢訳名に慶喜などがある。仏陀と同じく釈迦族の王族出身であり、仏陀の従兄弟であったといい、仏陀にもっとも長く側近く使えた人。パーリ仏典の伝承によれば、仏陀が成道されサンガが成立した翌年に出家し、仏陀が成道されて二十年後にその随行となったという。
    出家して時を経ずしてPūrṇa(パーリ名Punna)の説法により預流果を得るも、仏陀が涅槃するまでのおよそ二十五年間の長きにわたって仏陀に側仕えていながら、阿羅漢となることが出来なかった。仏滅後三ヶ月の第一結集の直前、その日の明け方、なんとか悟らんと修禅に励むも果たせず、疲れた身体を休ませようと身を横たえ、その頭が枕に付くか付かないかの瞬間、期せずして阿羅漢となったという。晴れて阿羅漢となった阿難尊者は、第一結集に集った五百人の阿羅漢の一人として、経典編纂の頭となる。故にほとんどすべての経典の冒頭にいわれる「このように私は聞いた」の私とは阿難尊者のこととされる。
    以降、どうやら第一結集の主導者であった摩訶迦葉尊者とは確執があったようではあるが、阿難尊者は仏陀亡き後の仏教教団の主導的立場にある一人となり、西方にその弟子を多く持った。仏滅後四十数年の長きを過ごし、その最後は、尊者の滅後の舎利をめぐって争いを起さんとしている者どもに、自ら火生三昧に入ってその身を焼き、舎利を公平に分配するようにした、などと伝承される。第二結集に集った阿羅漢たる長老のほとんどは阿難尊者の直弟子であった。→本文に戻る

脚注:沙門覺應(慧照)
(Annotated by Bhikkhu Ñāṇajoti)

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