真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 歴代住職紹介

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1.法楽寺歴代住職

信長公の戦火より復興

法楽寺の開基は、寺伝によれば正一位小松院平重盛公により、治承二年(1178)になされたものであると伝えられています。

しかしながら、法楽寺が摂津の南、旧熊野街道に位置する地勢のこともあってか、時を隔てた正親町帝元亀二年(1571)九月、織田信長公の摂津攻めの折の兵火に巻き込まれ、その堂塔伽藍全てが灰燼に帰しています。

よって、平重盛公によって創建されてからの寺伝・文書等のほとんどが消失しており、堂塔の再建と中興以前の住持などについて、その詳細はほとんど全くわかりません。

天正十三年(1585)、法楽寺の堂塔が形ばかり再建され、さらに寺院として中興されることとなるのは、江戸期の日本三大律院とうたわれた河内野中寺より、洪善普摂和上が晋山されてからのこととなります。

法楽寺中興第一世となる洪善普摂和上は、慶長年間になされた槇尾山西明寺の明忍律師ら四人による戒律復興の流れに連なる方で、野中寺の慈忍慧猛律師の直弟子であってそこから晋山された、持戒厳重なる方であったといわれます。

そこで、ここでは法楽寺歴代住職といっても、天正年間に中興されて以降の、現第十四世住職にいたるまでの法楽寺住職とその晋山された年、およびその歿年をご紹介いたします。

法楽寺中興以降の歴代住職一覧
- 住職名 晋山年 歿年
中興
第一世
洪善普摂大和上 正徳元年
(1711)
享保九甲辰年四月十八日(1724)
中興
第二世
忍綱貞紀大和上   寛延三庚午年十二月七日(1750)
中興
第三世
慈雲飲光尊者大和上 元文四年
(1739)
文化元甲子年十二月廿二日(1804)
中興
第四世
松林閑節大和上 寛保元年
(1741)
天明元辛丑年七月廿三日(1781)
第五世 恵門浄海大和上   寛政七乙卯年十月一日(1795)
第六世 智燈恵明和尚   寛政八丙巳年四月廿八日(1796)
第七世 慈海善住和尚   文政四辛巳年十月廿六日(1821)
第八世 宗説洪忍禅師   安政六己未年九月廿七日(1859)
第九世 道應禅慧大和上   明治廿丁亥年八月廿二日(1887)
第十世 道叡明尊大和上   大正六丁巳年十月廿六日(1917)
第十一世 恵燈真明律師   明治四十三庚戌年十月卅一日(1910)
第十二世 洪賢普明大和上   昭和十七壬午年一月十九日(1942)
第十三世 不蓄道圓無方大和上   平成九丁丑年十月廿一日(1997)
第十四世 小松庸祐   -
第十五世 小松光昭 平成丗年
(2019)
-

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2.和上と和尚

和上・和尚とは

ここで、歴代住職の名の最後にある「和尚」と「和上」との相違は、法楽寺に祀られている位牌の記載に従ってのものですが、意味的違いは全くありません。また、読みに関しても、これを「わじょう」または「おしょう」、「かしょう」と読む場合もあります。しかしそれは、ただそれぞれの宗派の慣習によるものです。

真言宗においてはこれを「わじょう」と読むのが一般的ですが、弘法大師の密教の師であった唐の青龍寺恵果[けいか]和上を言う場合にのみ、漢音で「かしょう」と読みます。

これは、平安時代の日本では漢字を漢音で読むのが一般的だったようで、その名残をあえて留めている為と推測されています。

ところで、和上また和尚まとは、サンスクリットupādhyāya、あるいはその俗訛した語khoshaなどの音写と推測されていますが、いまだ定説をみていません。

いずれにせよその意味は、具足戒<僧侶として保つべき完全な律>を受けた比丘となってから十年以上経過しており、また教律に精通した僧侶であって、仏教僧団〈僧伽・サンガ〉が出家して僧侶になることを希望する者に戒律を授けるとき、その者の責任者すなわち師匠となる徳ある僧侶のことを指します。

よって、和上とは、不特定の人からいわれる呼称ではなくて、あくまでその人が授戒したときにおける特定の師のことです。平たく言えば、「私の師僧」というのが和上の本来の意味です。そのことから、誰かにとってある僧が和上であっても、その僧の弟子ではない他の僧からすれば、その人は和上ではありません。

鑑真大和上

しかしながら、天平勝宝六年の聖武天皇の御代の昔、鑑真師が来朝されて唐から日本に初めて正しく具足戒を伝えられ、淳仁天皇の御代となると鑑真師は「大和上」の称が与えられています。師が日本における具足戒の嚆矢となった功績を鑑みれば、大和上との尊称が付されたのは尤もなことでありましょう。

そして鑑真の没後、『唐大和上東征伝』が著されて、その讃えられるべき功績が後世に伝えられることとなります。

当初、鑑真師に対して「大和上」あるいは「和上」の称を使用していた人々は、実際に鑑真師の弟子であって、意識的無意識的にもまさに本来の意味で用いられたのでありしょう。

けれども後代となって、鑑真師との直接のつながりがない人々であっても、師を慣用的に大和上と称し続けることとなり、やがてそれは誰か高徳の僧の尊称として用いられるようになったようです。

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