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文化元年甲子臘月二十二日中夜。正法律興復大和上尊者滅度于京師阿彌陀寺。
法臘六十有七。世壽八十又七。遺命不許俗士従事葬瘞。諸弟子涕涙悲泣。相興舁霊龕。遠就高貴寺。以二十五日中夜。瘞全身于奥院高祖大師祠堂右。樹五輪石塔婆于其上。
後二十年。文政癸未。以得法弟子多已喪亡。而未有為尊者伝記者。小比丘諦濡。大懼高行丕勣泯滅。不著于世也。不量已之謭劣。稽首和南。恭詮次其梗槩。以諗来裔。
文化元年朧月二十二日中夜。正法律興復大和上尊者、京師阿弥陀寺に滅度す。
法臘[ほうろう]1六十有七。世壽2八十又七。遺命して俗士の葬瘞[そうえい]に従事することを許さず。諸弟子涕涙悲泣し、相い興[とも]に霊龕を舁[か]き、遠く高貴寺に就て、二十五日中夜を以て、全身を奥院高祖祠堂の右に瘞[うず]み、五輪塔を其の上に樹つ。
後二十年。文政癸未。得法の弟子多く已に喪亡して、未だ尊者の伝記を為る者有らざるを、小比丘3諦濡[たいじゅ]、大に高行丕勣4の泯滅5 して、世に著れざらんことを懼れ、己が謭劣を量らず、稽首和南して、恭しく其の梗槩6を詮次して、以て来裔に諗[いさめ]く。
文化元年〈1804〉十二月廿ニ日夜半、正法律をかかげて釈尊の教えを興復した大和上慈雲尊者は、京都阿弥陀寺において滅度された。
具足戒を受けてからは六十七歳。世壽は八十七歳。尊者は遺命して、在家信徒達が尊者の葬儀に関わることを許さなかった。出家の弟子達は悲しみの涙を目に浮かべつつ、皆で棺をかついで、遠く河内の高貴寺にまで至った。二十五日の夜半、尊者の遺骸を高貴寺奥之院大師堂の右側に埋葬し、五輪塔をその上に安置して祀ったのだった。
尊者が亡くなって二十年を経た文政癸未〈1823〉。尊者から直接教えを受けた弟子達の多くはすでに亡くなっているが、未だ尊者の伝記を著す者もあらわれていない。それゆえ、わたくし小比丘諦濡は、尊者の気高き行いと偉大な功績が滅び忘れ去られることを、大いに危惧している。そこで自分の浅劣なることを顧みず、稽首和南し、恭しく尊者の生涯のあらましを述べることによって、将来の人々のいさめとしたい。
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