真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『慈雲尊者短編法語集』

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1.唯だ仏在世を本とすべし

宗旨がたまりは地獄に堕するの種子。祖師びいきは慧眼を瞎するの毒薬。今時の僧徒多クは我慢*1 偏執*2 ありて。我祖は佛菩薩の化身なりと云ひ。天地の変陰陽の化*3 をとりて。我祖師は不思議の神力なりと説き。愚痴の男女を誑す。佛説によるに。末法*4 には魔力を興盛にして多くかくのごとき事ありと示し給ふ。若し真正の道人ありて真正の佛法を求メんと欲ハば。唯だ佛在世を本とすべし。佛世には今の様なる宗旨はなかりき

(自分が信じている特定の)宗旨宗派に、(これこそが最高、唯一無二のものであって、その他の宗旨宗派は劣っっている、などと)固執することは、地獄に堕ちる原因。その祖師をひいきすることは、(真実を見通す)智慧の眼を害する毒薬である。 いまどきの僧侶のほとんどには、我慢[がまん]や偏執[へんしゅう]があって「我が宗祖は仏菩薩の化身である」と言い、「天地の変、陰陽の化が(人の姿をして現れた)我が祖師は、不思議で偉大な力(の権化)である」と説いて、愚かで無知な(在家の)男女を惑わせている。仏陀の教えによれば、末法には魔力が盛んになって、たくさんの上記のようなことがあると説き示されている。もし、本当に正しい道の人があって、本当に正しい仏の教えを求めようと思うならば、ただ仏陀がご健在だった頃の時代(のあり方)を手本とするべきである。仏陀ご在世の当時には、今言われるような宗旨宗派は無かったのだから。

語注

*1 我慢[がまん]…この世には永遠に変わることのない「何か」があると考えること。また、それに基づいて、自分を特別な存在であると考え、他者を侮ること。→本文に戻る

*2 偏執[へんしゅう]…かたよった見解。またはそれに執着すること。→本文に戻る

*3 天地の変陰陽の化…『易学』に説かれる自然の営みの姿。ここでは「真理」として用いているか。→本文に戻る

*4 末法[まっぽう]…仏教が世間に伝えられてはいても、それを行う者も悟りを得る者もいない、修行したとしても無駄、とされる時代。一説には、仏陀が入滅して千五百年を経た後の一万年間とされる。通仏教的な時代観ではないが、日本においてこの末法思想は平安末期より大流行し、仏教から、浄土教や法華宗などの、いわゆる鎌倉新仏教が誕生していく。
もっとも、慈雲尊者は末法という言葉は使用しているが、修行しても無駄などとは考えず、仏の教えは正しく行えば必ず実を結ぶとしているから、末法思想を受容してはいなかった。→本文に戻る

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2.正法は唯修して到るべし

佛を礼すれば佛魔*1 頂上より入る。経を誦ずれば法魔*2 口門より現ず。一法を見ざるは木頭頑石。萬象の主となるは転変*3 妄識*4 。正法は唯修して到るべし。知解のつくすべきにあらず

仏を礼拝すれば、仏魔が頭頂から入る。経典を読誦すれば、法魔が口より現れる。ただ一つでも法の(真実なる)ありようを見ることがなければ、(人間であるといっても)木偶人形の頭や路傍の石ころと、何ら変わることはない。(現前に展開している)森羅万象を作り出しているのは、転変[てんぺん]する妄識である。仏の教えは、ただそれを行ってのみ理解し、体得するべきである。(実行することなく、)ただ知識として理解し尽くされるようなものではない。

語注

*1 仏魔[ぶつま]…信仰することによってこそ生じる、迷いや高慢の意か。または、仏を、まるで一神教における神のごときものとする誤解の意と捉えるべきか。→本文に戻る

*2 法魔[ほうま]…仏の教えに対する誤った理解、またはそれに基づく言葉の意か。→本文に戻る

*3 一法[いっぽう]…法とは、サンスクリットDharma[ダルマ]、またはパーリ語Dhamma[ダンマ]の漢訳語。達磨はその音写語。「教え」・「宗教」・「真理」・「道徳」・「存在」・「慣習」・「もの」など、多くの意味を持つ言葉。ここでは「モノ」。一つのモノでも、その核心を見つめることがなければ、の意。→本文に戻る

*4 転変[てんぺん]…移り変わること。変化すること。その場、その時でどうにでも変わってしまうこと。→本文に戻る

*5 妄識[もうしき]…大乗における二大学派の一つ、唯識[ゆいしき]で説かれる深層意識。唯識では、我々が一般に言うところの意識は、心[しん]・意[い]・識[しき]の三階層からなっていると説く。心とは、いわゆる五感と意識とを指し、意とはその奥にある、潜在的自我意識で、これを第七末那識[まなしき]という。識とは、さらに下に展開する、普通ほとんど意識できない深層にある意識で、この意識が私が見ている世界を作り出しているという。これを、第八阿羅耶識[あらやしき]という。
唯識学派によれば、自分の深層意識が作り出した幻想の世界を、五感と意識を通して自我意識が認識。そこに自分という実体、物事という実体があると錯覚しているに過ぎないというのである。もっとも、ここでは、「その場その時でどうにでもコロコロかわってしまう自分の誤った心」という程度の理解でよいか。→本文に戻る

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3.多聞は労して功なし

多聞*1 は労して功なし。解了は妄想を長ず。若シ見に所見なく知に所知を絶せば*2 。一微塵の中より大千の経巻を出す

多聞[たもん]の労力は甚だ大であるけれども、結果として得られるものなどない。(知識としてだけ、理論の上だけで)理解したことは、(むしろ、その者の)妄想を大きくするだけである。もし、(ものを)見ても見ず、知っても知るところが無ければ、どれだけ小さなもの一つからでも、そこから膨大な数の経巻(に説かれている真理に匹敵するもの)を引き出すことができるのだ。

語注

*1 多聞[たもん]…仏陀の教えを多く聞いていること。仏教の知識を多く蓄えること。仏陀の直弟子の中、最も長い間、釈尊の側で直接教えを聞き記憶していたことから、阿難[あなん]尊者には、「多聞第一」の称号がある。ところが、阿難尊者は、およそ25年間もの長きにわたって釈尊の側にあって、最もその教えに親しんでいた人であったのに、釈尊が亡くなるに到っても悟ることが出来ないでいた。これは、慈雲尊者が言うように、様々な仏の教えを多く知っていたとしても、それが悟りの直接の原因にはならないことの、最大の証である。もっとも、阿難尊者は仏滅後しばらくして、周囲の阿羅漢達から諭され、奮起してついに悟った。この逸話については、律蔵の第一結集[だいいちけつじゅう]を伝える章に詳しい。阿難尊者はその後、仏教を全インド、さらには世界に広め、定着させる最大の功労者の一人となった大阿羅漢となっている。→本文に戻る

*2 見に所見なく知に所知を絶せば…漫然と呆ける、という意味ではない。ものを見るとき、知るときは、そのありのままを見、知るということ。知覚していることに対して、何らかの感情も、いかなる価値判断を加えず、ただ知覚しているに留めること。→本文に戻る

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4.少欲知足

涅槃経に云フが如し。未得の財において小欲あり。已得の財に於て知足あり。行住坐臥*1 飲食衣服等。みな準じてこれを守ル。この心ざし断絶せずして。三界*2 に独歩し十方に遊歴すべし。

『涅槃経』に説かれているように、いまだ得ていない財について、必要なだけを欲っし、すでに得ている財について、足ることを知ってそれ以上を望まない。行住坐臥や飲食、衣服などについても、みな準じて小欲知足[しょうよくちそく]を守る。この心ざしを絶やさずに、三界にただ独り歩み、あらゆるところに巡り行くがよい。

語注

*1 行住坐臥[ぎょうじゅうざが]…歩くこと、とどまること、座ること、寝ることの、四つの日常の基本的動作。「四威儀[しいぎ]」とも言う。→本文に戻る

*2 三界[さんがい]…仏教の世界観。世界を階層的に欲界[よくかい]・色界[しきかい]・無色界[むしきかい]との三つに分けている。ここでは「全世界」の意。ときとして、冥想における境地を指していうことも。→本文に戻る

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5.飢来喫飯困来眠著

心はあるものと知るは沈淪の凡夫*1 。なきものとしるは邪見*2 外道*3 。有にあらず無にあらずと説クは戯論*4 の妄説。亦は有亦は無といふは二佛の中間*5 一切皆具する*6 我慢*7 の高山。一切皆離るゝは空見*8 の深坑。唯修して至るべし。測りてしるべからず。飢来喫飯困来眠著*9 。さとりて何の益かある

「心はある」と考えるのは、いつまでも迷いの淵から逃れられず、苦しみの輪廻転生を繰り返す凡夫(ぼんぷ]であり、「心などない」と考えるのは、邪見の外道である。「有るでもなく、無いでもない」と説くのは、戯論[けろん]のでたらめな話にすぎない。「または有り、または無い」と言うのは二仏の中間(に生じた邪見)である。「(心は)ありとあらゆるすべての徳を生来的に皆具えている」などと言うのは、我慢という高い山にあるようなものであり、「(心は)あらゆるすべての事柄から、離れたものである」という思考は、空見[くうげん]の深い坑である。(仏の教えは)ただ行ってこそ知るべきである。(頭の中、本の中、机の上、理論の上だけで)あれこれ考え、知ろうとしてはならない。「飢来喫飯困来眠著」。悟って何の利益になるというのか。

語注

*1 凡夫[ぼんぷ]…愚か者。真理に暗い者。→本文に戻る

*2 邪見[じゃけん]…誤った見解。因果応報を認めないこと。世界には絶対普遍の何者かがあるとしたり、逆に世界には全く何もなく、因果もなく、ただ虚無でしかないなどとする見解。→本文に戻る

*3 外道[げどう]…仏教以外の思想、宗教のこと。→本文に戻る

*4 戯論[けろん]…無意味かつ無益な言葉。または真理に関わりない主張。→本文に戻る

*5 二仏の中間[ちゅうげん]釈尊が亡くなられてから、弥勒菩薩がこの世に生まれて弥勒仏となる将来までの、仏陀が生存していない期間。釈尊が亡くなってからの五十六億七千万年間がこれにあたるとされる。→本文に戻る

*6 一切皆具する…人の心には、持って生まれた完全無欠の特性があって、それは永遠不変であり、原因と条件とで形成されるものではない、などという主張。今、その完全無欠の特性を自身の内に見いだせないとしても、それは本人が自覚出来ないでいるだけか、一時的に様々な原因と条件とで隠れているに過ぎない、とされる。いわゆる本覚[ほんがく]思想の一。
真言宗には、これの極端を主張していた人がある。江戸前期、真言律をとなえて戒律復興運動の一端を担い、また新安祥寺流[しんあんじょうじりゅう]という密教の優れた流派を立てた、霊雲寺[りょううんじ]の浄厳[じょうごん]である。彼は、以上の如き見解のさらに極端を主張。釈尊の説いた縁起の法は、低次元な妄想だとすら主張している。彼は、むしろそうすることによって、真言宗の教義の独自性ならびに優位性を説いたのである。しかし、同じく真言宗で智積院[ちしゃくいん]の大学僧であった運敞[うんしょう]僧正は、これを外道の妄説であると激しく論難。双方、論陣を張った。
現在残されている浄厳や運敞僧正の著作から判ずるに、確かに浄厳の思想は外道そのものといって過言でなく、運敞僧正の論難ならびに主張は至極まっとうなものであったと言える。もっとも、平安末期から江戸初期までの天台宗は、宗派として浄厳と同じような、いや、比較にならないほど極端な本覚思想を説いていた。いわゆる「中古天台」である。生まれた時から完全無欠の徳があるならば、修行など無用の沙汰、欲まみれのこの身こそ仏に他ならないのだ、などと釈尊も驚愕して言を失うに違いない愚かな、そして堕落した教学を展開。見事なまでの脱仏教ぶりを見せ、実際として堕落の限りを尽くしていたのである。
もっとも、総じて日本人は古来、「自然」という概念を肯定的に捉えており、西洋のように自然を不完全なもの、征服すべきものと捉えることはなかった。むしろ、自然は完成されたもの、従うべきものと見て、その流れに身を任せ、「はからいをすてる」などと作為を捨てること、主体性を放棄することを良しとしてきた面がある。日本特異といえる極端な本覚思想も、あるいはまた浄土教も、結局は日本人のそのような思想的傾向の上に、「ごく自然に」展開したものといえる。だが、仏教本来の立場からすれば、このような思想は真っ向から否定されるべきものであり、また儒学からみても否定される思想であろう。「ごく自然に…云々」などというのは禽獣の思想に異ならない。しかしながら、日本人は今なお、「ごく自然に」、獣じみた生活に安住している。→本文に戻る

*7 我慢[がまん]…この世には永遠に変わることのない「何か」があると考えること。また、それに基づいて、自分を特別な存在であると考え、他者を侮ること。→本文に戻る

*8 空見[くうげん]…我々が目にし知覚している世界、ものごとは、実体の無い夢幻・陽炎のようなもので、さまざまな原因と条件によって一時的に、仮にその場に現れているに過ぎないものだという、仏教の「空」という思想を、誤って理解してそれに執着し、虚無主義的になったり、自身に付いても無責任な傍観者となったりすること。初めてこの「空」という教えに触れ、中途半端に理解した者はしばしばこのような状態に陥る。「空病[くうびょう]」などとも言われる。現代には、この「空」を観念的浪漫的に捉えて、頭を呆けさせ、「仏教が好き」「仏教は良い」などと言うものが非常に多い。これを名付けて「観念のお遊戯 浪漫仏教」という。→本文に戻る

*9 飢来喫飯困来眠著…「飢えたら食べ、眠くなったら寝る」。『景徳伝燈録[けいとくでんとうろく]』や『臨済録[りんざいろく]』など、支那の禅書にしばしばみられる大珠慧海禅師の言葉。これをこの言葉通りに行ったら、ただの獣である。慈雲尊者がここで引用しているのは、いたずらに高邁、高尚な思想にのみ走って、それを口だけ称賛するも行わず、また無暗に他者と観念論的事項について論争するも、しかし、その思想の内容たる高次な境地の一つも得られない者達に対して、逆説的に用いている。→本文に戻る

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6.世尊拈華

世尊拈華*1 
文字を執し性相*2 に着する者は。是れ教意を解せざるものなり。経を嫌い論を避け。闇然として自得し。喝を下し*3 を行ひ。顛倒不羈にして口舌を以て証悟となす者は。祖意を了せざるものなり。若し有志漢ありて世人の毀誉を顧みず。名聞利養恭敬を求めず。乃至身命を惜まずしてこの正法を求め。若し道眼円明の人に逢へば。則ち佛菩薩の想を生じて唯命惟れ従ひ。若し明眼の人を見ざれば。則ち聖教を以て亀鑑*4 となし自らの心地を照顧せよ

世尊拈華
表面的な文字面にとらわれ、性相[しょうそう]にむやみににこだわる者は、その教えの本意を理解していないものである。経典を嫌い、論書を避け、より高い境地も得ること無しに少しばかりのもので満足して自惚れ、「喝!」(などと大声)を上げて棒を振るい、真実に違えて勝手気ままであり、口先三寸(の所謂「トンチ」の様な言葉遊び)をもって「悟りだ」などと言う者は、(禅宗の)祖師の本意を(まったく)理解していないのである。もし志ある人があって、世間の人々の毀謗や称賛をも意にかけず、名誉・財産・尊敬を求めず、あるいはこの身、この命さえ惜しむことなく正法を求め、もし、仏教に対する正しい理解と知識を備え、実際にそれを実行している人に出逢うことが出来たならば、すぐに(その人は)「仏菩薩に等しい人である」との思いを起こして、その導きに従えば良い。(しかし)もし、智慧ある人にまみえることが出来ないのであれば、その時は聖教[しょうぎょう]を亀鑑[きかん]として、自分の心の状態を反省するがいい。

語注

*1 世尊拈華[せそんねんげ]…禅宗にのみ伝わる伝承。世尊つまり釈尊が、マガダ国は霊鷲山[りょうじゅせん]頂にて大勢の弟子を前に説法されていたとき、おもむろにただ黙って華をつまみ上げて示した。弟子達は、何を意味しての行為なのか理解できなかったが、ただ摩訶迦葉[まかかしょう]尊者だけがその意味を理解して微笑したという。これをもって、釈尊の悟りは摩訶迦葉尊者に継がれたものと、禅宗ではする。これが禅宗の言う以心伝心、教外別伝の主たる根拠となっている。一般にはこれを「拈華微笑[ねんげみしょう]」という。
もっとも、慈雲尊者はこれを、後代の者による偽経にもとづく「作り話」であるとすでに見抜いていた。まったく仏説などではないと知っていたが、しかし、この伝承が禅宗の伝える法のいかなるものかを表現するのには良いものであろうとしている。
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*2 性相[しょうそう]…阿毘達磨[あびだるま]と唯識、または中観派と唯識派のこと。日本の南都六宗に当てはめて言うならば、倶舎宗[くしゃしゅう]と法相宗[ほっそうしゅう]あるいは三論宗[さんろんしゅう]と法相宗[ほっそうしゅう]となる。いずれにせよ、大乗を学ぶ上で不可欠の学問を言う。もっとも、ここでは単に「経論の些末な解釈」というほどの意と捉えて良いか。→本文に戻る

*3 棒[ぼう]…警策[けいさく]のこと。坐禅中に気のゆるみや眠気をおこした者を叩いて気を張らせたり、姿勢を正すため用いられる木の板。尊者がここで挙げた「喝」と「棒」とは、禅宗で修行者を指導する方法が厳しいことの譬えとしてしばしば言われる、『景徳伝灯録[けいとくでんとうろく]』にある「臨済[りんざい]の喝、徳山[とくさん]の棒」という言葉を指す。
「臨済の喝」とは、臨済義玄[りんざいぎげん]禅師が、修行僧と問答している際、相手が答えに詰まるとすかさず大声をだしたという故事から言われる言葉。「徳山の棒」とは、徳山宣鑒[とくさんせんかん]禅師は、道を求めてやって来た者を、棒を使って問答無用で容赦なく殴りつけたという故事からの言葉。いずれも唐代の人。 →本文に戻る

*4 亀鑑[きかん]…古代支那において、占いで亀の甲を焼き、その結果によって次の行動を決めていたことから生まれた言葉。判断基準、手本の意。→本文に戻る

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7.十善これ菩薩の道場

十善これ菩薩の道場*1 と云ヘり。慈悲*2 一切衆生*3 身にひとしく。*4 をあたへまことをつくす

「十善これ菩薩の道場」と(経典に)説かれている。慈悲は、ありとあらゆる全ての衆生[しゅじょう](の形の大小・姿の好醜・有益無益・有害無害を問題とせず)に、ひとしく福徳を与えて、まことを尽くすものなのである。

語注

*1 十善これ菩薩の道場…十善とは、不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語・不綺語・不悪口・不両舌・不慳貪・不瞋恚・不邪見の十の徳目。自ら保つだけで良いというのではなく、他にも犯させないように努めるもの。出家者・在家者、共に持たれるれるべき戒めとしても説かれる。『大智度論[だいちどろん]』では、諸々の戒と律との根本としている。
慈雲尊者は「十善これ菩薩の道場」としているが、正しくは「十善これ菩薩の淨土」(『大正新修大蔵経』14,P538中段)であり、鳩摩羅什訳の『維摩詰所説経』いわゆる『維摩経[ゆいまぎょう]』の一節。
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*2 慈悲[じひ]…慈は、他者に楽を与えようとする心。いつくしみ。悲は、他者の苦しみを除去または軽減しようとする心。思いやり。→本文に戻る

*3 衆生[しゅじょう]…生命ある者。意識をもつ者。有情[うじょう]とも言う。ところで、仏教では、植物はこの範疇に入れていない。植物は生育はしても意識は持っていない、と見るためであろう。とは言っても、植物は神々や動物の住まいである、として大切にする。→本文に戻る

*4 福[ふく]…優れた性質のこと。金銭・財産を言う言葉ではない。→本文に戻る

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