真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 慈雲『根本僧制』

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1.原文

第二。若欲依律而行事。律文或闕或不了。須依経及論蔵諸説

第二に、若律に依て行事1せんと欲するに、律文或は闕け或は不了ならば、須く経及び論蔵の諸説に依るべし。

律文不了とは、三浄肉2を開する等なり。或闕とは、三聚3通受4羯磨5自誓受の式6なき等也。末世の伝持、この式もなかるべからざるなり。涅槃経、梵網経等に依るに肉食を制する7こと四重8にひとし。大聖弥勒尊の別願、五重の制ある。今よりして顕了也と云べし。

十善の如きは、佛世よりして今日に至る。その系統を失せず。五衆の戒9は、我国両度伝承を缺く10瑜伽通受の式11によりて、我等今日の篇聚12を全うする。此第二条の式なり

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2.現代語訳

第二に、もし律の規定に従って僧侶として行うべき事をしようと思っても、律蔵に記載されていなかったり、記載されていても理解や解釈が困難であったりしたならば、(該当箇所を補完するものとして)経典や論書に所説に従わうこと。

「律文に了せず」とは、(律蔵では)三種浄肉を許していることなどについてである。「或いは闕け」とは、(律蔵には)三聚浄戒を通受するための儀式規定や、自誓受戒の法式が説かれていないことなどを意味している。

(しかし、仏法を)末世の世にて伝えるには、三聚浄戒を通受する羯磨や、自誓受戒の式が欠くことの出来ないものである。

(肉食についていうならば、律蔵において条件付きで許しているとはいうものの、)『涅槃経』や『梵網経』などの説く所によれば、肉食を禁じることは(律における)四重禁に等しい。大聖弥勒菩薩の別願には、五重の禁則事項がある。(よって大乗の徒が、肉食を制すべきことは)今や明白であると言うべきである。

十善戒については、釈尊御在世の時代から今に至るまで、その系統を失わずに連綿と伝えられてきた。

(しかしながら、出家者の五種類の別である)五衆の戒は、日本国では二度もその伝統が滅んでしまったのである。

(三聚浄戒の羯磨や通受自誓受の法式が律蔵に全く説かれていないとは言っても、)『瑜伽師地論』の所説に基づいて考案された通受自誓受戒の式によって、今日の篇聚をまっとうすることが出来る。

以上が第二の条文である。

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3.脚注

  • 行事[ぎょうじ]…事を行ずること。事とは、受戒や布薩など、僧伽における諸行事。または日常の僧伽における行儀作法。→本文に戻る
  • 三浄肉[さんじょうにく]…三種浄肉の略。律蔵にて布施として受けて良いことが許されている、「三つの条件」を満たした肉。
     三つの条件とは、直接自分に布施することを目的として動物が殺され、肉とされたものではないことを、①見ていない・②聞いていない・③疑いがないの三。以上の肉であれば、布施されてこれを受け、また食して良いと律蔵では規定されている。
     たとえばその根拠の一つは、『四分律』巻四十二 薬揵度「有三種淨肉應食。若不故見不故聞不故疑應食。若不見爲我故殺。不聞爲我故殺。若不見家中有頭脚皮毛血。又彼人非是殺者。乃至持十善。彼終不爲我故斷衆生命。如是三種淨肉應食」(T22. P872b
     もっとも、肉を自ら好んで食べようとすること、たとえば「肉が食べたいから布施してほしい」などと比丘が信者に依頼することは禁じられている。→本文に戻る
  • 三聚[さんじゅ]…三聚浄戒の略。まず『華厳経』に説かれ、それが特に『瑜伽師地論』(及びその部分訳の『菩薩地持経』)にて詳細に説かれる戒。
     三聚とは、摂律儀戒[しょうりつぎかい]・摂善法戒[しょうぜんぽうかい]・摂衆生戒[しょうしゅじょうかい]という、いわば三種の戒の分類。その三つそれぞれに、律や菩薩戒などが割り当てられるが、経論によって諸説あってその内容は必ずしも一定しない。
     本来的には『瑜伽師事論』の所説に従うべきであろうものであり、実際印度にて直接その教えを受けた玄奘三蔵らの存在もあって、支那でその説に従う者は実際にあった。
     しかしながら、支那撰述の偽経の疑い濃厚である『菩薩瓔珞本業経』は、三聚浄戒(三受門)の摂律儀戒の内容として十重禁戒(十波羅夷)を挙げているため、これに影響を受けた支那の律宗の人に、『梵網経』の十重四十八軽戒と『瓔珞本業経』の諸説を合して理解する者が現れ、そのような解釈が日本に伝えられた。それを伝えた人、それが鑑真大和上である。あるいはそのような解釈は、鑑真大和上の個人的理解によったものであったかもしれぬ可能性すらある。
     この三聚浄戒の内容についての問題は後代、しばしば問題にされることがあった。例えば凝念大徳などはその著『律宗綱要』において、三聚浄戒の内容について諸経論によって説が不同であることについて詳細に論じられている。→本文に戻る
  • 通受[つうじゅ]…三聚浄戒を受けることによって、大乗僧として菩薩戒も律も総じて受けてしまおうという、鎌倉初期の日本において発案され実行された受戒方法。慈雲尊者もここで述べられているように、律蔵の規定にのみ従ったならば「あり得ない」受戒法。
     平安末期から鎌倉最初期、律の伝統が途絶えてしまって正規の受戒が作され得ないことが理解され、それを前提とした上で、しかし戒律復興を望んだの解脱上人の門に集った人の中に、後に叡尊律師らとともに戒律復興を果たして唐招提寺を中興した覚盛律師があった。律師は、その根拠を大乗の諸典籍に求め探し、ついにこれを律の伝統が絶えたなかでのいわば緊急避難的受戒法として考案された。
     そしてついに嘉禎二年〈1236〉、覚盛は叡尊や有厳、円晴らと共に、通受そして自誠受によって、具足戒および菩薩戒を受けて戒律復興を成し遂げている。→本文に戻る
  • 羯磨[こんま]…サンスクリットKarma[カルマ]またはパーリ語Kamma[カンマ]の音写語。「行為」を意味し、一般には「業」と漢訳される言葉。ただし、律蔵では「僧伽(仏教の出家者組織)における諸儀式・諸会議にて使用される、ある議題について用いられる特定の言葉」が意味される。
     ここでは、律蔵には「通受」という受戒方法を成立させる羯磨(すなわちその方法)など説かれていない、との意。→本文に戻る
  • 自誓受の式…現前の師を立てず、誰にも依らずして、「自ら戒を受けることを誓う」ことによる受戒法。一般にこれが可能なのは五戒に限られる。が、大乗経において、といってもそれはただ『占察善悪業報経』(占察経)に限られるのであるけれども、以下のように自誓受によって「正しく受戒」出来ることが述べられている。
     「復次未來之世。若在家若出家諸衆生等。欲求受清淨妙戒。而先已作増上重罪不得受者。亦當如上修懺悔法。令其至心得身口意善相已。即應可受。若彼衆生欲習摩訶衍道。求受菩薩根本重戒。及願總受在家出家一切禁戒。所謂攝律儀戒。攝善法戒。攝化衆生戒。而不能得善好戒師廣解菩薩法藏先修行者。應當至心於道場内恭敬供養。仰告十方諸佛菩薩請爲師證。一心立願稱辯戒相。 先説十根本重戒。次當總擧三種戒聚自誓而受。此亦得戒。復次未來世諸衆生等。欲求出家及已出家。若不能得善好戒師及清淨僧衆。其心疑惑不得如法受於禁戒者。但能學發無上道心。亦令身口意得清淨已。其未出家者。應當剃髮被服法衣如上立願。自誓而受菩薩律儀三種戒聚。則名具獲波羅提木叉。出家之戒名爲比丘比丘尼。即應推求聲聞律藏。及菩薩所習摩徳勒伽藏。受持讀誦觀察修行」(T17. P904c)。しかし実は、この経典もやはり支那撰述の偽経である疑い濃厚なものである。
     (律蔵以外で支那以来本邦でも重要とされてきた戒に関する経典には、あまりにも偽経と疑われるものが多いのであるが、そのような捏造が特に戒律に関して頻繁に作されたのにはやはり、中華思想がその背景にあったのかもしれない。いずれにせよ日本はその影響をまともに受けてきたのであった。現代において、日本仏教を歴史上の夢物語かのように眺めるだけの人の場合はさておき、あくまで慈雲尊者の如き態度でもって伝統の継承をせんとする人にとっては、このような支那撰述の偽経問題についていかように理解し、どのような態度を取るべきかという問題は相当重いものであり、判断に最も慎重を要するものとなる。)
     そしてまた、『占察経』は鎌倉期よりずっと以前の天平の昔にて、日本仏教界に大問題を生じさせていたものでもあった。その問題とは、鑑真大和上によって正規の具足戒がもたらされた際、従来の僧正など官位についていた僧らが、大和上による伝戒とその受戒をいわば拒否したことである。彼らはすでに正統な仏教僧であって、いまさら再度具足戒など受ける必要はない、と難色を示したのであった。その根拠としたのが前掲の『占察経』であった。彼らが反抗したのには政治的・経済的理由もあったであろう。なんとなれば、彼ら自身の「(占察経による)受戒」を否定してしまうことは則ち、彼らの既存の立場・既得権の消失を意味するのであるから。
     けれども結局、これには聖武天皇の強い意向があり、また彼らの立場が安堵されたこともあって、反抗の構えを見せていたそれ以前のいわば相似僧らは鑑真大和上に対して弟子の礼をとって授戒を受けたのであった。要するに、『占察経』による自誓受戒(による比丘としての受戒の正統性)は、いわば天平の昔に否定されていたのである。
     しかしながら、ここで慈雲尊者が「末世の伝持、この式もなかるべからざるなり」と言われるまでもなく、実際にそうでもしなければ鎌倉期における戒律復興など不可能であった。いわんや江戸は慶長の世における復興も、到底作され得なかったのであった。そのため、自誓受という方法は、いわば緊急避難的なものとして認めざるを得ないものであったろう。
     ただ不思議でならないのは、鎌倉期に自誓受によって比丘となった者らが十人以上となり、あるいはその後十年経って別受することがが可能となって以降もも、ほとんど自誓受によってのみ受具を続けたのは解せない。興正菩薩らが受具後九年で、それが違犯であると知りながらも大悲菩薩のたっての願いで別受を断行したのにもかかわらず、である。それは江戸期にてなされた戒律復興の後も同様であった。
     実際、明忍律師自身、それがどうしても「正統ではない」との意識が当時もあったのであろう。明忍上人は自誓受戒によって戒律復興を果たされた後もなお、正統の受戒たる別受を求めて明代の支那に渡らんとされて対馬に渡られている。しかしそれはついに果たされず、惜しむべきかな、齢三十五にして対馬の地にて早逝された。大陸に渡ることが叶わなかった明忍律師は、本拠とした槇尾山平等心王院にて同志らが別受を行うことを希望する手紙を対馬から送られていた。
     (明忍上人についての詳細は、別項“元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』”および“慈雲『律法中興縁由記』”を参照のこと。)→本文に戻る
  • 涅槃経、梵網経等に云云…。→本文に戻る
  • 四重[しじゅう]…比丘が決して為してはならない四つの大罪。その四つとは、婬(男女・獣・神々など相手を問わず、あらゆる種類の性交渉)・盗(世間で死刑とされるほどの盗み)・殺(殺人)・妄(悟りを得た、禅を得たなどと虚言を吐くこと)。
     比丘が、これらいずれかを犯してそれが発覚すれば、たちまち僧団から追放され、二度と出家することはできない。これを波羅夷[はらい]罪、あるいは四重禁、断頭罪ともいう。→本文に戻る
  • 五衆[ごしゅ]の戒…五衆とは、仏教における五種の出家者の別をいった語。その五種とはすなわち、比丘・比丘尼・正学女[しょうがくにょ]・沙弥・沙弥尼。五衆の戒とは、すなわち仏教における出家者の戒律。
     この五衆にはそれぞれ異なる律あるいは戒が説かれており、そのいずれかの立場はそのそれぞれの戒あるいは律を正しく受け、また遵守することによってのみ保証される。詳細は別項“仏教徒とは何か”を参照のこと。→本文に戻る
  • 我国両度伝承を缺く…江戸期にいたるまで、日本では戒律の伝統が二度にわたって滅んだこと。
     一度目は鑑真大和尚渡来後、その約百年余りの平安中期、皇族や貴族らで出家するものが続出。その受け皿となったのが主に真言宗・天台宗、そして法相宗および華厳宗であった。しかし貴族らは出家などと言いつつ、俗世における出自や官位をそのまま僧界に持ち込むなどし、また僧界もそれを受け入れてしまったことなどによって、僧侶の官僚化・貴族化によって律など厳密に守り得る状況でなくなくなって自浄作用を喪失。また、時代としても摂関政治および荘園制が盛んとなったことにより律令制は有名無実化し、国家もこれを管理しえなくなって、戒律の伝統は潰えた。
     二度目は、まず中川実範によって戒律復興の狼煙が上げられ、それをいわば継承する流れに笠置の解脱上人貞慶および栂尾の明恵上人などが現れる。そしてついに戒律復興は、興正菩薩叡尊[えいそん]や大悲菩薩覚盛[かくじょう]らによって現実のものとなる。特に、世間では鎌倉期は浄土教や禅宗あるいは日蓮の教団が世の大勢を占めていたと誤解している者が多いが、実は叡尊律師の教団(西大寺を拠点とする律宗)が鎌倉初・中期を通して最大の教団であった。しかし、これも戒律の宗派化と戦国時代突入などによる世情の混乱により、律僧は存在し得なくなって滅んだ。
     慈雲尊者の言われる「我国両度伝承を缺く」とは、以上のような経緯を示したものである。
     因みに私見ながら、律僧(本来の僧侶)はあくまで律に基いた生活を送ろうとするため、天下泰平すなわち世間に戦乱無く、また経済的に安定した世でなければ存在し難い。なんとなればそのようなまっとうな僧を支える人々が安定的に存在し得ないのであるから。俗世間から出て出家生活の中で修行する比丘らは、これは逆説的な話となろうが、俗世間が安定していなければほとんど存在出来ないのである。出家社会は、その経済においてほとんど全面的に俗世間と依存するため、決して隔絶したものではない。
     現代には「日本人の性情に合わないから」の一言でこれを片付けようとする者がある。が、そんな単純なものではない。時代時代の律院・律僧たちの経済的側面からこれを眺めたならば、また性情が云云などという単純な物言いも出来なくなると思う。
     閑話休題。さて近世、興律運動の立役者となったのが、神護寺晋海の弟子、槙尾山明忍[みょうにん]律師であった(この経緯については別項“元政『槙尾平等心王院興律始祖明忍律師行業記』”および“慈雲『律法中興縁由記』”を参照のこと)。
     近世に行われたこの戒律復興運動の波は、真言宗や律宗だけでなく、天台宗や現在鎌倉新仏教といわれるの諸宗派にも強い影響が及んだ。しかしながら、戒律復興当時の厳しさも時を経て弛緩し、また「戒律の宗派化」という奇妙な現象が起こって本末転倒を来していった。
     ただこの「戒律の宗派化」ということに関して、例えば天台の安楽律の流れにあった人々などは、最初から戒律というものを「流儀の一つ」ほどにしか理解していなかった者があったようで、その初めから宗派意識・派閥意識を持ち込んで律を受け学んでいた節がある。そのような事態からすると、戒律が宗派化したのではなくて、最初から宗我を山盛りもった人々があるいみ流行で戒律を学んだ結果、必然的にそうなったなどとも言えるかもしれない。
     慈雲尊者はそのような流れを糺し、あくまで釈尊の昔を目指しつつ、インド以来本邦に至るまでの伝統をある程度尊重されながら、しかし明らかな悪弊・誤解があれはこれを廃して「正法」を再び明らかにしようとされたのであった。尊者のそのような「我が宗独り尊し」といったような宗我根性、宗旨固まりを批判的に見る目は、おそらく野中寺における諸長老らの薫陶によって育まれたと思われる。→本文に戻る
  • 瑜伽通受の式…前述の覚盛律師によって案出された通受という受戒法に、西大寺を拠点として活動された叡尊律師は『瑜伽師地論』所説の戒を加味するなどし、さらに独自の通受の受戒法を考案されている。それがいかなるものかを具体的に伝える書、それが『受菩薩戒作法』である。
     これはずっと後の慶長の世において、それがまさに慈雲尊者につながっていくのであるが、また極めて重要な役割を果すこととなる。先にも触れた槙尾明忍上人が戒律を求めて春日大社に参籠されていた際、期せずして出会った志を同じくする西大寺住僧友尊。明忍上人が彼によって知ったのが、叡尊律師らによって果たされた自誓受による戒律復興の昔話であり、それが具体的に示されて伝わっていたのが「瑜伽通受の式」すなわち『受菩薩戒作法』であった。慈雲尊者およびその一門は、遠くは鑑真大和上、そして特に叡尊律師の伝統を継承する者であるとの意識が強くあったことが、その諸著作・諸文献から知られる。
     この明忍と友尊らとの出会いは、例えば本居宣長の「松坂の一夜」など問題にならぬほど、文字通り劇的な邂逅というべきものであったろう。→本文に戻る
  • 篇聚[ひんじゅ]…律蔵の禁止条項を、その罪の軽重の差によって分類した呼称。戒律違反の罪を大きく五種に分類した場合と、六つもしくは七つに小分類した場合との総称で、これを五篇六聚[ごひんろくじゅ]または五篇七聚[ごひんしちじゅ]という。
     もっとも、ここで慈雲尊者はただ「律蔵の規定」あるいは、「仏教とそれぞれに説かれた戒律」というほどの意味で用いているであろう。→本文に戻る

現代語訳・脚注: 非人沙門覺應

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