真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『骨相大意』(4)

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1.原文

且戒性うちに根なつて。四儀語黙ほかに枝葉をひらく。日夜起居の業みな賢聖諸佛とことを同クし。此なか智愚を論ぜず前後を問ハず。法による者は同一和合し。そむく者は呵擯す。此責伏摂受の二徒を以て。かの彼我を斉クして平等大智に帰し。二にあらず。三にあらず。また一といふべからず。定学徳を煉て八風に動ぜざること。かの須彌のごとし。可愛の境に清浄なれば。一切衆生と父とし母とし。不可愛の境に清浄なれば。一切地水わが本体となり。一切火風わが前身となる。諸佛菩薩を自心となし。八万宝蔵自家屋裡にそなはる。

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2.現代語訳

その上、戒性(かいしょう)*1 が心に根付いて、四儀(しぎ)*2 (が整い)、語黙(ごもく)*3 となるなど枝葉(という形となって)となって結実する。日夜の起居など、その行いは、みな過去の賢者や聖者、諸仏のそれと同じである。この(出家者の)中では、人の知的能力について賢いか愚かであるかなどは問題とせず、(いつ出家したかなどの)前後を問わず、法に従う者は同一和合し、法にそむく者は呵擯(かひん)*4 するのである。この責伏摂受(しゃくぶくしょうじゅ)*5 という二つの方法によって、(俗世間でいわれるような)彼我(といった区別、差別)を(無くして)平等大智*6 に赴かせる。(その涅槃とは)二つのものでも三つのものでもなく、また一つのものだとも言うべきものではない。定学(じょうがく)*7 は(それを行う人の)徳を錬磨して、八風に動ぜざる*8 ようになり、それはまるで、かの須彌山(しゅみせん)*9 のよう(に泰然として不動)である。みずからが愛すべきもの、好ましいことと思う物事に対して、清浄(しょうじょう)*10 であるならば、一切衆生(いっさいしゅじょう)*11 は我が父、我が母となる。そして、みずからが忌まわしいもの、好ましくないことと思う物事に対しても清浄であるならば、すべての地・水*12 は我が本体となり、すべての火・風*13 は我が前身*14 となる。諸仏諸菩薩がみずからの心となって、仏の教えは我が血肉となって、この身に備わるのだ。

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3.脚注

*1 戒性(かいしょう)…授戒して戒を守ることを誓うと、心に根付くという戒の働き、効果。一般には「戒体(かいたい)」という。→本文に戻る

*2 四儀(しぎ)…「四威儀(しいぎ)」の略。四威儀とはすなわち「行・住・坐・臥」で、それぞれ「行くこと・留まること・座ること・横になること」。要は「日常の振る舞い」というほどの意。→本文に戻る

*3 語黙(ごもく)不必要な言葉を発しないこと。僧侶は言葉少なく、物静かでなければならない。いや、「なければならない」とは語弊があるか。律を守り、冥想修行が進んでいけば、必然的に静かになって、無駄口をたたかなくなるものである。→本文に戻る

*4 呵擯(かひん)…「呵」は厳しくとがめること。「擯」は一時的に追放すること。→本文に戻る

*5 責伏摂受(しゃくぶくしょうじゅ)…非を咎めることと、咎められた非を素直に受け入れること。→本文に戻る

*6 平等大智(びょうどうだいち)…この世のすべてが、本質的には等しく「無価値なもの」と知る智慧。あるいは、その智慧を得て住する平安なる境地。すなわち涅槃。一般では、「すべては本質的に無価値」などと聞けば、これにたちまち消極的、虚無主義的印象を抱き、あるいは嫌悪感すら覚えるであろう。しかし、仏教からすれば、この世のすべては様々な原因と条件とで一時的に成立し、また必然的に滅び去っていくものと見るのであるから、そこに普遍的な価値などは見いださない。いや、見いだし得ない。よって、この世のあらゆる全てのモノに価値など無い。価値などというものは、あくまで主観者側の心情によって一方的に付加されるものであり、一時的なモノであって、その故に一定しない。しかし、人間というモノは、価値のないモノに価値を見いだしたがる。結果、さらに迷いの世界に没入し、苦しみを深くする。→本文に戻る

*7 定学(じょうがく)…冥想。ただし、冥想と言っても、みずからの日々の暮らしを、在家者であれば「戒」を、出家者であれば「律」を保つことによって正しく整え、その上で初めて成立しうるもの。戒や律を守らずに冥想したところで、仏教の目指す平安の境地は得られはしない。せいぜい一時的な幸福感を得て、、これは妄想にすぎないのであるが、それに自己満足する程度である。また、一口に冥想といっても、仏教には、いわゆる「止観(しかん)」というように、大きく分けて二つの異なる冥想法がある。「止」とは、「集中の冥想」である。英語で言えば「focus」あるいは「concentration」。心の働きを、なにか一つの対象に徹底的に集中させて不動にすること。「観」とは、「観察の冥想」である。自身が今どのような行為を行っているか、徹底的に「観察」すること。この冥想では、集中も思考も価値判断もしてはならず、ただ「見る」だけである。英語で言うならば「observation」。これら二つの冥想法を、どちらにか偏ることなく、共に行わなければ修行は進まない。これを「止観双運(しかんそううん)」という。→本文に戻る

*8 八風(はっぷう)に動ぜざる「八風」とは、「利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽」の、人の心を惑わせる八つの事柄。他者からの毀誉褒貶(きよほうへん)などに対し、如何なる状況にあっても関知せず、動揺しないことの意。『無門関』など、禅書にしばしば引用される仏典の一節。「八風吹不動(八風吹けども動ぜず)」。→本文に戻る

*9 須彌山(しゅみせん)…仏教の世界観において、世界の中心にそびえ立つとされるとてつもなく高い山。我々の世界は、この山の南側にある大陸であるとする。サンスクリット「sumeru(スメール)」の音写語。→本文に戻る

*10 清浄(しょうじょう)…自らが知覚していることに対し、いかなる価値判断も加えず、「そのまま」認識すること。綺麗・汚いなどという話ではない。→本文に戻る

*11 一切衆生(いっさいしゅじょう)…すべての生きとし生けるもの。「衆生」は、意識・生命をもつ者の意。「有情(うじょう)」とも言う。→本文に戻る

*12 地・水…仏教の世界観で、この世の全てを構成しているとする、「地・水・火・風」という四つの要素「四大(しだい」の、初めの二つ。→本文に戻る

*13 火・風…「四大」の後ろ二つ。→本文に戻る

*14 前身(ぜんしん)…前世での自分の体、を指すか。ここでの慈雲尊者の譬えの意は、正確につかみがたい。→本文に戻る

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