真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『骨相大意』(6)

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1.原文

山河大地草木叢林みな法身常住なり。しかあるに一切衆生われにある宝蔵みづからしらず。無量劫来苦海に沈淪するを知見し給ひ。大悲方便をもて救抜済度あるなかに。一切衆生こころつねに邪曲なれば。三昧の筒を設ケて直途直行を教たまふ。これに二甘露門あり。謂ユる数息不浄なり。なかに就て骨相尤親し。はじめに無常を見る。つぎに空を見る。大論ニ云ク。無常は空の初門。空は大乗の初門なりと。また自身を観じて一々我々所なきをしる。はじめて平等衆和合の名義にかなふ。

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2.現代語訳

山河、大地、草木、叢林(などこの世の)すべてに法身(ほっしん)*1 は常にそのありさまを示している。そうであるのに、一切衆生は自分自身(の中)にある宝蔵(ほうぞう)*2 に自ら気づいていない。(仏陀は、人々が)無量劫(むりょうこう)*3 にわたって苦海*4 沈淪(ちんりん)*5 しているのをはっきりと見られ、大悲にもとづき(様々な)方法によって、救い導きの手段を講じられるが、一切衆生の心はいつもよこしまでひねくれている為に、三昧(さんまい)*6 という筒を用意して、まっすぐな道をまっすぐに行くことをお教えになる。これには、二つの甘露門*7 がある。いわゆる数息観(すそくかん)*8 不浄観(ふじょうかん)*9 である。なかでも骨相観がもっとも親しみやすいものである。はじめに無常*10 を見る。次に空(くう)*12 を見る。『大智度論(だいちどろん)』*13 ではこのように説かれている。「無常は空の初門。空は大乗の初門なり*14 」と。(そうして)また自分自身を観察して、(その心と体についての)一つ一つに我(が)*15 我所(がしょ)*16 といえるものがないことを知る。(このようにして)初めて(サンガの本来の意味である)、「平等」「衆和合」の名目にかなうことが出来よう。

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3.脚注

*1 法身(ほっしん)P2*2に既出。真理そのもの。→本文に戻る

*2 宝蔵(ほうぞう)…悟りの可能性。真理は隠れているわけでも、隠されているわけでもなく、つねに我々の前に顕現しているのに、我々自身の眼が曇っているために、それに気付かないことを譬えている。これはあくまで「可能性」であって、自分の中に「不変の貴い何かがある」、などという意味ではない。→本文に戻る

*3 無量劫(むりょうこう)…「劫」は、サンスクリット「kalpa(カルパ)」の音写語「劫波(こうは)」の略。インドにおける時間の単位としては最も長いもの。永遠とも思える程の長い時間。それが「無量」であるから、永遠の意だと捉えても良い。→本文に戻る

*4 苦海(くかい)…前出の「生死海」に同じ。輪廻転生を指す。仏教では、生きていることを無条件に讃美することなど決してない。いわゆる「四苦八苦」などといった言葉に代表されるように、生きることは苦しみである、と知ることから仏教は始まるのだ。なぜ、苦しいのか。それは全てが様々な原因と条件によって一時的に成立した虚ろなモノであるからであり、故にそれはたちまちに変化する、移ろいゆく無常なるものであるから。すべてが無常であるから苦しむ。このいかんともし難い苦しみを感じると言うことは、我が身・我が心と自身が思っているモノですら、実は「自分」ではない。それらが「自分」であり「我がモノ」であるならば、すべてを思うがままに出来るはずである。→本文に戻る

*5 沈淪(ちんりん)…苦しみの生存を永遠に繰り返す、輪廻の世界に沈み込んで逃れられないこと。輪廻し続けること。→本文に戻る

*6 三昧(さんまい)…意識を何事かに集中した結果得られる、きわめて安定し、安楽なる精神状態。サンスクリット「samādhi(サマーディ)」の音写語で、他に「三摩地(さんまぢ)」などとも音写される。漢訳語には「定(じょう)」・「等持(とうじ)」などがある。ただし、ここでは単に「冥想」という程の意味で用いられているであろう。→本文に戻る

*7 甘露門(かんろもん)…甘露は「仏の教え、真理」の譬え。ただし、ここで意味しているのは、『摩訶般若波羅蜜多経』ならびに『大智度論』にある「二爲甘露門。一者不淨門。二者安那般那門。是九相除人七種染著」(『大正新修大蔵経』25,P218上段)との説を指す。冥想、なかでも「集中の冥想」には、全てが不浄であることを観る冥想「不浄観」と、呼吸を数えることによって三昧を得る冥想「数息観」とがあり、それによって人の七種の執着を取り除くという。→本文に戻る

*8 数息観(すそくかん)…呼吸に集中してその数を数え、精神を安定させる「集中の冥想法」の一種。数息観は、サンスクリットで「ānāpāna(アーナーパーナ)」の訳語であるが、これを音写した「安那般那念(あんなぱんなねん)」とも、さらに略して「安般(あんぱん)」とも言われることがある。→本文に戻る

*9 不浄観(ふじょうかん)…冒頭にて説明。→本文に戻る

*10 無常(むじょう)…全てが絶えず生滅変化するものであって、不変で確実なものなど、何一つとしてないこと。→本文に戻る

*11 空(くう)…全てのものごとは、様々な原因と条件によって成立したものであり、それら原因や条件が消えてしまえばたちまちに無くなってしまう、実体を欠いたものであること。「無我(むが)」と同義であるが、大乗では「空(くう)」をより高い見解と位置づけることもある。→本文に戻る

*12 『大智度論(だいちどろん)』…紀元1世紀頃活躍したとされるインドの大論師、ナーガールジュナ菩薩によって著された『摩訶般若波羅蜜多経(まかはんにゃはらみたきょう)』の注釈書。支那日本においては、これを読まずに大乗を語るなど論外も論外、と言えるほどの必読書。しかし、今や日本の仏教徒、大乗の信奉者でこれを読む人はほとんどいない。→本文に戻る

*13 無常は空の初門。空は大乗の初門なり…無常(を知ること)は空を知ることの初段階であり、空(を知ること)は大乗の初段階となる、との意。もっとも、この言葉は、一連のものとしては『大智度論』にない。「無常則是空之初門」(『大正新修大蔵経』25,P290下段)と「菩薩法忍是大乘初門」(同.P555上段)との説が合わせられている。『阿含経』から『般若経』など大乗の経典にいたるまで、「無常」・「苦」・「無我」・「空」は、一連のものとして説かれることがほとんどである。「無常であるが故に苦であり、苦であるが故に無我であり、無我なるが故に空である」と。→本文に戻る

*14 我(が)…ものごとの奥底にひそむ、「不変の何か」とされるもの。→本文に戻る

*15 我所(がしょ)…「不変の何か」に附随する、自分が意のままに出来るもの 。→本文に戻る

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