真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 『骨相大意』(8)

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1.原文

一々の境界断常二見有無倶非の相を超越して実相智印を現ず。上来は禅経に詳なり。たとひここにいたらざるも佛世の規則をしるべし。多貪者これを見て愛欲よりどころなし。多瞋者これを観じて恚怒来処なし。多愚痴妄想者これに達して人法二我善悪邪正是非得失もとより蹤跡をしらず。行すでに正し。私を容るに地なし。こと葉たかきをもとめず。またかざることなし。非をしりて改ムるに吝ならず。願ふて事々古を師とし。物々のりをたがへずば。その過すくなからん而巳

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2.現代語訳

一つ一つの境界(きょうがい)*1 が、断滅(だんめつ)*2 常住(じょうじゅう)*3 など相対立する二つの見解、あるいは有無倶非(うむくひ)*4 などの形而上的見解を超越して、実相*5 智印*6 を現す。以上、述べてきたことは禅経*7 に詳細に説かれているものである。たとえ、このような境地に達することが出来なくとも、(せめて)仏陀が御在世であった頃のありよう、行われようは知らなければならない。貪りの心の強い者、性欲旺盛なる者は、骨相を観ずれば愛欲が起こらなくなる。怒りやすい者、常に何かに対して怒りを感じている者は、骨相を観れば怒りが起こることもなくなる。ものごとの真なるあり方を知らない愚かな人、「無常・苦・無我・空」なるこの世界に何事か確実性を求め、またそれを見出そうとする者は、骨相観を修めて熟達するようになれば、人法二我*8 ・善悪・邪正・是非・得失などの相対立する概念など、妄想にすぎないことを知る。(悟りを求めるものが修するべき)「行」は、すでに正しく(経典・律点に)説き示されている。そこに私的見解、感情をもちこむ余地などないのだ。思想が崇高であることは求めず、またそれを虚飾することもない。(自らの)非を知ったならば、それを改めるのにやぶさかでない。(悟りを得ることを)願って、あらゆる事柄について昔(のありさま)を師とし、諸々の物についても、(それらが無常であり、故に苦であり、無我であるという)真実なる有り様から目をそらすことが無ければ、自らがこうむる苦しみ、不幸は、きっと少ないものとなるだろう。

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3.脚注

*1 境界(きょうがい)…見られるモノ、知られるモノ、の意。具体的には、「眼・耳・鼻・舌・身・意」といった六つの感覚器、いわゆる「六根(ろっこん)」の認識対象である、「色(物質)・声(音)・香(におい)・味・触(感触)・法(概念)」の六つ、いわゆる「六境(ろっきょう)」ならびにそれらを認識した事によってそれぞれ生じる「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」の「六識(ろくしき)」を指す。これらをひとまとめに「十二処十八界」などと言う場合もある。→本文に戻る

*2 段滅(だんめつ)…唯物論。世界のすべては、ただこの世限りのもので、滅んでしまえば何も残らないとする思想。→本文に戻る

*3 常住(じょうじゅう)世界の物事そのもの、あるいはその根本、その背景には、決して変わることのない不変絶対の実在があるとする思想。→本文に戻る

*4 有無倶非(うむくひ)…世界の諸現象、またはその根底には絶対不変の何かが「ある」・「ない」・「あるでもなくないでもない」などとする、諸々の形而上学的見解。→本文に戻る

*5 実相(じっそう)…物事の真実なる有り様。「実相」というと、日本ではしばしば肯定的ものとして説明される場合が多い。が、しかし、それは決して肯定され称賛されるでも、否定され嫌悪されるべきものでもない。「良い」とか「悪い」などという価値判断から離れたものなのである。なんとなれば、それはいかなる価値判断も廃されたモノの真なる姿であるから、「良い」も「悪い」もないのである。→本文に戻る

*6 智印(ちいん)…悟り。智慧の象徴、しるし。→本文に戻る

*7 禅経(ぜんきょう)…冥想の方法を説き示す経典の総称。→本文に戻る

*8 人法二我(にんぽうにが)…「人」と「法(=もの・構成要素)」のそれぞれ奥底に存する、不変絶対のモノ。あるいは、そのようなモノを見出そうとする思想的立場→本文に戻る

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