真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 慈雲『三昧耶戒和釋』

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1.原文

此の戒法を地盤として三密の行法1を修行するなり。三密の行は此れ2なり。此の行を修して。無初以來の惡業を消滅し。妄念を斷除すれば。自然に心明かになりて。本來不生不滅の理を悟り得る。此れを3と云なり。慧は定にあらざれば得がたく。定は戒にあらざれば。その定眞實ならず4外道も定を修すれども。戒法なきによつて。邪定となつて。惡見を起し。還て輪廻の基となるなり5

此の故に先ずかたく禁戒を持て後三密の行を修すべし。たとへば戒法は盗賊を捕るが如し。三密の行は盗賊を縛るが如し。其の上に本不生の悟をひらくは盗賊をころすが如くなり。

是を以て菩提心論6の中にも。勝義行願三摩地を戒とし。成佛に至るまで。しばらくも忘るゝ事なしと説き給へり。三摩地と云は則ち平等の義なり。

大疏五云7。眞言行人不曉如此淨戒。則雖口誦眞言。身持密印。心住本尊三昧。具修次第儀軌供養諸尊。猶名造作諸法。未離我人之網。云何得名菩提薩埵。

又云。當持此戒方便。普入一切眞言行中。苟戒有虧而得成菩薩行。無有此處 

よくゝ此等の文をみるべし。

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2.現代語訳

この戒法を地盤として三密の行法を修行するのである。三密の行とは定〈三摩地〉である。この行を修して、無初以来の悪業を消滅し、妄念を断除すれば、自然に心(に迷いの闇なく)明らかとなって、本来不生不滅の理を悟り得る。これを慧という。慧は定に依らなければ得がたく、定は戒に依らなければ(たとい定を得たとしても)その定は真実なるものではない。外道も定を修するけれども、戒法が無いことから邪定となって悪見を起こし、むしろ(そのような邪定を修めることが)輪廻の基となるのだ。

その故に、先ずは固く禁戒を持ちて後に三密の行を修さなければならない。たとえば戒法は盗賊を捕らえるようなものであり、三密の行は盗賊を縛るようなものである。そうしてから本不生の悟りを開くのは、盗賊を殺すようなものである。

そのようなことから『菩提心論』の中には、「勝義・行願・三摩地を戒とし、成仏に至るまで一時たりとも忘れることは無い」と説かれている。三摩地というのは、すなわち平等の義である。

『大日経疏』巻五にはこうある、「真言〈密教〉の行人は、このように淨戒を持していなければ、たとい口に真言を誦し、身に密印を結び、心に本尊の三昧に住して詳細に次第儀軌を修し諸尊を供養したとしても、なお『諸法を造作する者』〈解脱できずに生死輪廻し続ける〉といわれる。いまだ我人の網〈恒常的存在、我があるとの邪見〉を離れられていないのである。(そのような者を)どうして菩提薩埵などと言うことが出来ようか」と。

またこうもある、「まさにこの戒という方便を持って、あまねくすべての真言行の中に入るべきである。万が一にも、戒を守っていなくとも菩薩の行を成就出来る、などということはあり得ないことである」と。

よくよくこれらの経文を読み理解すべきである。

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3.脚注

  • 三密の行法…密教の修習法。手(身)に印契を結び、口に真言を唱え、意は三昧に住してそれぞれに対応する法を観ること。これを身口意の三密の行法という。それら三密のうち口密すなわち真言が核となる。まず真言それ自体の意味を理解し、また真言の音が示す空性などの意味を解しなければ、三密は成り立たない。→本文に戻る
  • 定[じょう]samādhi の漢訳語。その音写語が三摩地あるいは三昧。集中した心の状態を言う言葉。あるいはそれを目的とする修習法、いわゆる瞑想をも定という場合もある。定の同義語に等持・等引・心一境性などがあるが、禅那・禅は定の中でも一等高度な、心のさまざまな働きが止んで静まった特定の状態をいい、概して禅定などと言われることがある。→本文に戻る
  • 慧[え]prajñā. ここで尊者は先ず戒を受持することを示され、次に定、そうした上で慧があることを説かれている。いわゆる戒・定・慧の三学である。ここで慧とは、「本来不生不滅の理を悟り得る」ものであって世間的知ではなく、空性を如実に識るための出世間のものである。→本文に戻る
  • 定は戒にあらざれば。その定眞實ならず云々…仏教が目的とする「正しい定」とはあくまで日々に戒を受持する者にこそ得られるものである。定は上述したように、「集中した心の状態」に過ぎない。そして誰であれ、意識有るものはその程度の差こそあれ、必ず定を得ることが出来る。人であって脳や心に重大な欠陥でも無い限り、「集中できない者」「集中力のない者」などいないのである。よって定を得ること自体が何か崇高な、得難いものなどではない。
     仏教はそのような理解の上で、しかし定を深め、「正しい定」を得ることを解脱のための不可欠の要件とする。その定とは、日々の生活において戒を受持して務め励む者にこそ得られるものである。
     これをより詳しく言うならば、「定とは集中した心の状態である」とは幾度も繰り返した言であるが、その心を制し方向づけるのは一日に数十分、あるいは数時間座ることでは決して達せられない。心は一日二十四時間働いて休むことはない。一瞬一瞬に五根を通じての刺激に対し動き、跳ね回る我が心の衝動を身体と言葉に転化させず、これを制すのは日々の戒に依る以外にはない。そして戒によって制した我が身体と言葉の行為は、また逆に心を陶冶する。そのように戒によって陶冶された心を修め、定を深めていったならば、それは邪とはならない。
     例えば日本ではオーム真理教が恐るべきテロ、許されざる犯罪の多くをなしたけれども、彼らの一番の問題は無戒であったことである。いや、彼ら自身の独善的戒はあったのかもしれぬが、それはいわゆる戒禁取見であって仏教のいう戒でなかったことは、彼らの為した犯罪の数々を見れば明らかである。よって、「戒がまず第一に重要」などといっても、その戒がはたして仏所説の正統なるものであるのか、また著しく世法に離反するものでないかも重要である。→本文に戻る
  • 外道も定を修すれども。戒法なきによつて云々…外道においても定は修される。たとえば仏教に多大なる影響を受けて成立したインド教の一派、ヨーガ学派およびサーンキャ学派などにおいてもやはり定は必須である。しかし、彼らは仏教に影響を受けて成立したと言っても、まず根本的な思想が異なり、さらにその思想に基づく戒も当然異なっているため、仏教からすればいくら彼らが深い定を得たとしても、そこに慧はありえない。
     繰り返しとなるが、前述のオーム真理教がまさにこの一説の悪しき例であろう。彼らが独善と盲信、狂気へと走ったのは、様々な原因が上げられるであろうけれども、間違いなくその大きな要因が「正統なる戒法」がなかったためである。それでいくら定を深めたとて、それはどこまでも邪定であって、むしろそれが為に更に悪見を強め、あのような惨劇を起こしたのであろう。
     三学ということ、戒・定・慧の階梯を踏む、踏まなければならない等と伝統説で言われているけれども、それが何故か、いったいどうしてそのように言われるかも自ら確認し、その確かなことを知らなければならない。この基本的なこと一つについても、オウム返しに伝統説をただ言っておけば良い、というわけでは決して無い。→本文に戻る
  • 菩提心論…『金剛頂瑜伽中発阿耨多羅三藐三菩提心論』の略称。真言宗における伝統説によれば龍猛菩薩によって著されたとされ、密教の修道法について様々な教示を載す書。ここで慈雲尊者が引かれているのは、「既發如是心已。須知菩提心之行相。其行相者。三門分別。諸佛菩薩。昔在因地。發是心已。勝義。行願。三摩地爲戒。乃至成佛。無時暫忘。」(T32. P572c)という一節。『菩提心論』の冒頭の一部である。
     真言教学において『菩提心論』を知らない、その所説を学んでいないなどありえないほど重要な位置を占める書。実際、空海は徒弟らに必読の書の一つとして指定していた。もっとも、伝統説ではそのように言われるけれども、この書が龍猛菩薩によって著されたとするのは無理にすぎ、往古からそのような指摘があるように、不空三蔵が著されたものであると見るべきものと思える。→本文に戻る
  • 大疏五云…善無畏三蔵による『大日経』の注釈書『大日経疏』第五にある一節。「若眞言行人。不曉如是淨戒。則雖口誦眞言身持密印心住本尊三昧。具修次第儀式供養諸尊。猶名造作諸法。未離我人之網。云何得名菩提薩埵耶。〈中略〉當持此戒方便。普入一切眞言行中。苟戒有虧而得成菩薩行。無有是處也。」(T39. P629c
     要するに、真言法の修行者がいくら三密の行法を次第や儀軌の通りに行ったとしても、戒を受持していなければまったく意味など無いこと、それぞれ戒を守った上でなければ大乗の修行を成し遂げることなど出来ない、ということが説かれている一節である。→本文に戻る

現代語訳・脚注: 非人沙門覺應

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