真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 慈雲『麁細問答』

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1.原文

禅宗の中其の弊いかに。

答ふ、教行別伝の趣に迷うて、此の支流釈迦如来一代の説相に異んじて別に佛法ありと謂へり。甚しきに至つては、祖門の徒は戒の受持に拘るべからず、終に僧儀を失つて五戒八戒の俗士より劣れり。長坐工夫唯この話則に従事して、心地は唯これK漫々地なり。些々の解了もなく、唯口拍子の法門を学び得て、上堂陞座一様の軌轍佛法なるのみ。有志の者自ら省察し看よ。

問ふ、その長所は如何。

答ふ、禅者の機発は千佛未出世の先に立て千佛未成の道を成ず。爰に至つて釈迦多寶も我が同朋侶なり。小根劣機の者這等の言を聞きて、空腹空心に我慢邪慢増長慢を起す。憐むべき衆生ぞ。千佛未出世のとき、いかなる法有つて心を寄するの大標となる、一切衆生この色身、この心を寄するの大標なり。この心相、これ思を託するの大標なり。この色身生あり滅あり、目前に明歴々たり、無しと謂ふべからず。生何れより来る、滅いづくにか去る。この心相起あり滅あり、無しと謂ふべからず。起いずれより来る、滅していづくにか去る。

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2.現代語訳

(座元が質問した)
「禅宗の中でその弊害(へいがい)となるのは、どのような点でしょうか?」

(慈雲尊者)答えて曰く、
「教外別伝の真意を理解できずに、禅宗には釈迦如来がそのご生涯にお説きになった教えとは異なった、別な仏の教えがあると言う者がある。はなはだしくひどいものとなると、禅宗の祖師を信奉する者は、戒を受け保つことにこだわってはいけない、とすら主張している。よって結果的に、(禅宗の僧侶は)僧侶としてのあるべきようを見失って、五戒や八斎戒(はっさいかい)を守っている在家信者より劣ったことになる。長時間坐禅し公案を工夫するも、それはただ通り一遍、形式上だけのことであって、心地(しんち)*1 は闇に迷って漫々としたものである。わずかばかりですら(仏法において)得たものもなく、ただ口先だけの仏教を学んで、上堂昇座の作法に関するお定まりの規則をなぞるだけの(エセ)仏教でしかない。志を仏法に立てるものは、みずから省察して顧みなさい」

(座元が重ねて)質問した。
「禅宗の長所はどの様な点にあるのでしょうか?」

(慈雲尊者)答えて曰く、
「禅者の機発(きほつ)*2 は、千仏*3 が、この世に御出現なされる前にあって、千仏がいまだ成されなかった道を成す。このような観点からすれば、釈迦如来や多宝如来ですら我が同朋侶(どうぼうりょ)*4 といえるのだ。仏道に於いてその能力が秀でておらず、素質も劣った輩の言葉を聞いて(それに惑わされて信じ)、(自らの)中身は空っぽで何も無いにも関わらず、我慢(がまん)*5 邪慢(じゃまん)*6 増長慢(ぞうじょうまん)*7 の心を起こすのは、憐れむべき衆生(しゅじょう)*8 である。千仏が未だこの世界に現れられない時、どのような教えがあって、(善を求める)心の寄る辺とする大いなる標となるだろうか。すべての衆生にとって自分自身、己の身こそが、自らの心の寄る辺となる大標となるのだ。この心の姿は、自分自身の心の働きをあらわす大標となる。この生身の身体(をふくめた全ての形あるモノ)には誕生と死滅とがあることは、目に明らかであって疑いようのないことである。「生滅は無い」などと主張してはならない。生は何処からか来たって、滅して何処にか去っていく*9 。この心の姿(をふくめた全ての形なきもの)にも、起こる事と滅する事とがあるのである。(心には生と滅とが)無いなどと主張してはならない。起はいずれよりか来て、滅して何処にか去っていくのだ」

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3.脚注

*1 心地(しんち)…心の本性。境地。→本文に戻る

*2 機発(きほつ)…心機発明の略。心のありさまをすっかり明らかにして悟ること。→本文に戻る

*3 千仏(せんぶつ)…大乗においては、過去・現在・未来の宇宙には、各々千の仏陀が現れるという信仰がある。その昔、日本では年末に「仏名会(ぶつみょうえ)」・「礼仏会(らいぶつえ)」と言われる法要を開き、合計三千仏の名を唱えつつ五体投地の礼拝をなして、一年間の懺悔をすることがあった。しかし、今は行う者は稀である。もっとも、三千仏の名を唱えながらペタペタ礼拝したところで、それでどうなるということでもない。→本文に戻る

*4 同朋侶(どうぼうりょ)…立場、身分を同じくする同朋。→本文に戻る

*5 我慢(がまん)…自らを讃えて他をそしること。自分に執着すること。→本文に戻る

*6 邪慢(じゃまん)…自らに徳が無いのに有ると自惚れること。→本文に戻る

*7 増上慢(ぞうじょうまん)…未熟で未達であるにも関わらず、佛法に於いて得たものがあると誇ること。「増上慢」と書くのが一般的。→本文に戻る

*8 衆生(しゅじょう)…生きとし生けるもの。意識あるもの。もっとも、ここでは「人」の意で用いている。→本文に戻る

*9 生は何処からか来たって、滅して何処にか去っていく…ありとあらゆる形あるモノは、生ずれば必ず滅する、無常なものである、との意。→本文に戻る

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