真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 慈雲『麁細問答』

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1.原文

誠にこれ不立文字なり。眼元来眼の名なし、耳鼻舌身の名なし。既にその名なければ一切の文字は唯これ構造底の模様なり。目口の字形をみて知るべし。此の心相は見聞覚知にふれて増長す。水を飲んで冷暖自知す。父母もその味を味ふこと能はず、師長もその趣を伝ふること能わず。若し学んで知り慮りて解するは鬼家の活計なり。大道元来思慮の及ぶ処ならず、況んや文字の伝ふべきに非ず。威音王已前より遍界露堂々、釈迦佛や先、我や先、誰と倶にかその昔を語らん。

是において法華経の中に従地涌出の菩薩ありて補処の弥勒も子の歳の父より高きを疑ふ。天台智者大師本迹の二門を分つは、分つ人の分別なり。教外別伝と言はざることを得ず、直指人心と言はざることを得ず。世の教相を判ずる者、文を尋ね句を逐ひ、孜々として浅深権実を論ず。一様の大虚空を尺を以て量り丈を以て量る。千劫萬劫工夫を用ひて計り去る。畢竟これ那裏に落在す。

長所かくの如し、初入に打坐面壁して日を送り夜を明かす。智度論に、魔王跏趺の畫を見るも恐怖すと云ふ、これなり。

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2.現代語訳

「誠に釈尊が説かれた真理は、「不立文字(ふりゅうもんじ)」である。眼には最初から眼という名称があったわけではない。耳・鼻・舌・身の名称があったわけではない。(それらは、その言葉をもって名づけられる前より、それはそれとしてあったのである。)仮にそれらの名称に、その存在を支えるための意味など無いことがわかれば、全ての文字*1 はただ(それが示そうとする)構造上の模様(記号・形)に過ぎないといえるのである。このことは、目や口の字形を見ることによって知られるであろう。この心の有り様は見聞覚知*2 に際してさまざまに展開する。(自ら)水を飲んでこそ、初めて冷暖自知するものである。父母であろうとも、その(水の)味を(子に)味わせることは出来ず、師長であっても(水の)感覚そのものを(弟子に)伝えることは出来ないのである。もし(自ら経験することなく、机上で)学んで知ったつもりになり、(ただ空想にて)思い計って理解したつもりになるのは「鬼家の活計*3 」である。大道*4 は元来、思慮の及ぶところのものではない。ましてや文字が伝え得るものでもないのだ。(それは)威音王(いおんのう)*5 より以前から遍界露堂々。釈迦佛より先の時代、自分自身より先の時代であるならば、いったい誰と共にその遥か昔を語り得るというのであろうか」

「ここにおいては『法華経』の中で従地涌出(じゅうじゆしゅつ)の菩薩*6 が現れたとき、補処(ふしょ)*7 である弥勒菩薩ですらも、子の歳の父より高きを疑った*8 のである。天台智者大師*9 が、(『法華経』または仏教全般を)本迹の二門とに分類したのは、(それを分類した智という)人の分別にすぎないのである。(よって、)「教外別伝」と言えないものはない。「直指人心」と言えないことなどないのである。(=禅宗で主張される「教外別伝」「直指人心」はこの意味に於いて、まさしく真実なのである)。世の中の教相を判ずる者*10 達は、その文章をつぶさに調べ、一語一句を検索し、孜孜(しし)*11 として浅深権実*12 を論じている。まったく同様なる大空を、(小さな)尺でもって量り、丈でもって量る。千劫萬劫*13 あれこれと(無意味な)工夫をこらして量ろうとする。(そのようなことでは)つまるところ、那裏(なり)*14  に堕ちてしまうであろう」

「(禅宗の)長所は以上である。初入に打坐し、面壁して日々を送り、夜を明かす。『大智度論』*15 に、「魔王は跏趺の画を見るも恐怖する*16 」と説かれているが、まさにこれである」

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3.脚注

*1 文字(もんじ)…ここでは表掲文字から発達して、表意文字となった漢字に限定して言われている。→本文に戻る

*2 見聞覚知(けんもんかくち)…眼・耳・鼻・舌・身・意の六識の働き。→本文に戻る

*3 鬼家(きけ)の活計(かっけい)…「鬼窟裏に活計を作せる」『碧巌録』。道元も『正法眼蔵』において引用しているがその意味は異なる。→本文に戻る

*4 大道(たいどう)…真理。モノの無常にして無我なる真実の有り様。→本文に戻る

*5 威音王(いおんのう)…「威音王如来」の略。『法華経』常不軽菩薩品第二十に説かれる、釈尊より遥か過去に現れていたという仏陀。→本文に戻る

*6 従地涌出(じゅうじゆしゅつ)の菩薩…法華経について釈尊が説法している途中、突如として地面から涌いて出たという無数の菩薩。それに驚いた弥勒菩薩はそのわけを釈尊に問うた。『法華経』従地涌出品第十五に説かれる。→本文に戻る

*7 補処(ふしょ)…来世に仏陀となることが確定している菩薩。最も仏陀に近い存在で、一般に弥勒菩薩がこれにあたるとされる。正確には「一生補処(いっしょうふしょ)」。→本文に戻る

*8 子の歳の父より高きを疑った…従地涌出の菩薩は、釈尊が成道されてからずっと教化してきた菩薩達であると聞いた弥勒菩薩は、釈尊が成道されてからまだ四十年であるのにもかかわらず、その菩薩の数と年齢があまりに多い事を不審に思ったという『法華経』の一節。父とは釈尊。子とは従地涌出の菩薩の意。→本文に戻る

*9 卑心(ひしん)…天台宗第三祖「智(ちぎ」の諡号。実質的な天台宗の開祖。→本文に戻る

*10 教相(きょうそう)を判ずる者…大乗・小乗と、さまざまにある仏教の経典の内、いずれの経典が最も優れ、または劣っているかを判別する者。学者。→本文に戻る

*11 孜孜(しし)…倦くことなく熱心に努力すること。→本文に戻る

*12 浅深権実(せんじんごんじつ)…教えの内容の浅い深い、仮か真かなどの優劣。→本文に戻る

*13 千劫萬劫(せんこうまんこう)…「劫」はインドにおける、無限とも思えるほど長大な時間の単位「kalpa(カルパ)」の音写語。ここでは「無駄に長々と時間を費やす、との意味と捉えるのが良いか。→本文に戻る

*14 那裏(なり)…サンスクリット「.naraka(ナラカ)」の音写語。「地獄」の意。音写語には他に「奈落(ならく)」などがある。→本文に戻る

*15 『大智度論(だいちどろん)』…インドの大論師、龍樹(ナーガールジュナ)によって著された『摩訶般若波羅蜜多経』の注釈書。大乗仏教を学ぶ者ならば誰であれ必読の書。尊者がここで引いているのは、『大智度論』の「加趺坐の画を見れば魔王はまた恐怖す(見畫加趺坐魔王亦愁怖)」(『大正新修大蔵経』25,P111中段)。→本文に戻る

*16 魔王は跏趺の画を見るも恐怖する…『大智度論』巻七、「加趺坐の画を見れば魔王はまた恐怖す(見畫加趺坐魔王亦愁怖)」(『大正新修大蔵経』25,P111中段)。→本文に戻る

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