真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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1.沙弥尼

見習い女性出家修行者

沙弥尼とは、サンスクリットŚrāmaṇera[シュラーマネーラ]の音写語「沙弥」と漢字「尼」との複合語で、勤策女[ごんざくにょ]などと漢訳される、原則として13歳から18歳未満の、年少女性出家修行者です。

サンスクリットではまたŚrāmaṇerikā[シュラーマネーリカー]ともいい、パーリ語はSāmaṇerī[サーマネーリー]と言います。

沙弥尼になるためには、十戒を受けることなど沙弥に同じです。しかし、女性ですので比丘尼の管理下におかれ、比丘尼僧伽のなかで生活します。

(十戒については、”戒について -十戒-”を参照のこと。)

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2.宙に浮いた存在としての尼僧

ビルマの尼僧 ―ティーラシン (サヤーレー)

現在、上座部に関して言えば、スリランカの一部を除いて、世界のどこにも比丘尼僧伽はありませんので、女性は、上座部の正式な沙弥尼にすらなることも出来ません。

しかしながら、ビルマではThīla shin[ティーラシン](「戒を保つ者」の意)、一般的にはSayāle;[サヤーレー](尼僧)と呼称される、沙弥尼のような立場の出家者が存在し、おおよそ沙弥尼に準じた出家生活を送っています(右写真)。

あるいは彼女たちを、Me thīla[メ・ティーラ](「戒の女性」の意)あるいはMe thīla shin[メ・ティーラシン](「戒を保つ女性」の意)とも在家の人々は言います。しかし、彼女たちには「メティーラ」と言われることを嫌う者があります。

メ・ティーラとの語には全く相手を貶め、卑しめる語意は全くありません。語頭に付すMeは「〇〇ちゃん」という語感をもつ一種の親しみを込めた敬称なのですが、しかしそのような親しみを込めた表現が、逆に不敬と受け取られてしまうようです。

さて、セヤーレーたちは例外なく、仏教の出家者としてやはり頭をそり上げています。もっとも、ティーラシンという存在は19世紀から存在したと言われていますが、その立場が「出家者」として社会的に認知されるようになったのは1980年からであるといい、それ以前は社会的には在家人扱いだったといいます(未確認・調査中)。

ただし、彼女たちは社会的に見れば出家者ではあっても、仏教の範疇からすると比丘尼でもなくまた沙弥尼でもありませんので、ほとんどの場合十戒ではなく八斎戒のみを受け、これに従った生活を送っています。この点、日本の中世から近世にかけて律院に起居していた、齋戒衆[さいかいしゅ]の女性版のようなものと言えます。ただし、齋戒衆はあくまで在家分の立場であったのに対し、セヤーレーは出家者としてみなされます。

故にサヤーレーは、律蔵の規定に従う必要が無く、実際、故にそのほとんどはビルマ語でKo youn[コー ヨウン](身体を覆うもの)という、律蔵の規定からすればあり得ない、薄桃色の衣を着て生活しています。

また、これはごく近年始まったことで、きわめて少数ですが、焦げ茶色の衣装を着る者もあります。これは特に冥想を専らとする比丘について出家した者、あるいは、早い話が「ピンク色が嫌だ」というワガママな外国人女性に比較的見られるものです。焦げ茶色の衣装をまとう尼らは、尼僧寺院ではなく、現代的な瞑想センター(あるいは個人的に庵を構える)などでしか生活したことがないために、セヤーレーとしての立ち居振る舞いや教育など、基本的素養を全く欠いている者がかなり多く、故に例外的なものです。

いずれにせよ、彼女たちは比丘尼や沙弥尼のように袈裟をまとえる立場にないので、その代わりにビルマ語でPa khoun tin[パ カウン ティン](「肩に載せるもの」の意)という、香色の一枚布を折りたたんで肩に掛けるのが正装です。いわゆる条帛[じょうはく]です。それは菩薩像や明王像などで肩にまとっている(在家信者を象徴する)布です。

もっとも、北ビルマ(マンダレーやサガイン)では、上図のセヤーレーのようにPa khoun tinを肩から胴に一回りに廻して着けず、ただ左肩に掛けるだけと、若干着用法が異なっています。また、彼女が托鉢に回る際は、(暑さを避けるために)これをたたんで頭に載せることも一般的となっています。なお、出家して相当年数を経た年長のセヤーレー(年長者はセヤージーと呼称)は、Pa khoun tinを比丘達が着るのと同じように、これを広げて体にまといます。

ちなみに、ビルマにおいては、スリランカやオーストラリアにおける上座部の比丘尼復興問題について、あまり知られて(興味が持たれて)いません。

そもそも、サヤーレーのほとんど皆が、比丘尼僧伽は遠い過去に滅んで久しいもの、復興など不可能という認識に立っています。故に彼女たちは、比丘尼僧伽を復興して比丘尼になる、などということが全く頭にないのです。

実際、彼女たちに聞いてみても、「仮に比丘尼僧伽の復活が可能だとしても、しかし、比丘尼として311の非常に厳しい律を守るよりは、同じ出家でも八戒だけを守って暮らしたほうが良い」と思っている場合が多いようです。そしてまた、八敬法を無視して比丘尼などあり得ない、という(正しい)認識は、皆等しく持っています。

ちなみに、ビルマ社会においては、インドと支那に挟まれた環境にありながら、非合理な男女差別というものがほとんど無く、社会的な男女同権が確立していると言えます。仏教寺院の一部区画などには、女人禁制の場所がまれに存在していますが、これを非合理だとか差別だ、などと考えるビルマ女性は非常に少なく、当然のことと考え、受け入れているので、いわゆる差別とは言えません。

さて、ビルマ社会において出家者としての身分を確立したサヤーレー達もまた、在家信者達から、一応出家者として敬意を表され、処遇されています。しかし、在家信者達もまた、比丘尼僧伽は遠い昔に滅んだとの認識にあり、出家は出家であろうけれども仏教の「正式な出家」としては認めていません。

また、彼女たちの多くが貧困層出身の者や孤児、地方の少数民族出身であることなど、ビルマにおける複雑な社会背景も手伝って、それら敬意は表面上のものに留まっている、と言える一面も存しています。

写真:ビルマの一時出家式に臨む幼いティーラシン

実際、ティーラシンの僧院の多くは、人々からの布施が多く集まることはまず無く、相当に貧しい暮らしを余儀なくされています。

(尼僧が貧しいのは仏陀在世時代も同様で、それは律蔵の数々の記述から知ることが出来ます。)

近年、女性も男性同様に、ごく若い時に一時出家することがある程度一般化してきています。しかし、もし女性がセヤーレーとして本格的に出家することを希望した場合は、その両親など家族が大反対することが多いようです。実際、若い女性であっても、薄桃色のセヤーレーの衣を着、出家として八齋戒を受持して生活することを希望する者がままあるのですが、家族からの反対のために叶わぬ夢となっている場合があります。

また、失恋してヒステリーをおこし(本人に言わせると「無常を知った」と)衝動的に出家する、と云う者、ただセヤーレーの格好をしたいだけという、くだらない動機の者もあります。が、その様な者は、大体において出家生活に耐えられず、短期間で還俗とあいなります。

それでも、なんとか出家を果たした彼女たちの多くは、そのような幾多の逆境にめげずに、みずから出家者として特に勉学に励み、しばしば勉学に勝れた者を輩出しています。2010年現在、ビルマには概数にして5万人のティーラシンが存在しています。

スリランカの尼僧 ―ダサシルマーター

写真:スリランカのダサ・シル・マータ

また、スリランカには、Dasa sil mātā[ダサシルマーター](「十戒の母」の意)という、十戒を受持する、女性出家修行者らがあります。

これは、十九世紀末から二十世紀初頭の大英帝国の植民地であったスリランカにおいて、ほとんど失っていたその民族的誇りと伝統とを回復すべく、仏教復権運動を展開した在家居士Anāgārika Dharmapāla[アナガーリカ・ダルマパーラ]により、まず「キリスト教の尼僧に倣ったもの」として始められた立場です。

もっとも、ダルマパーラが「女性出家」させたというのは、スリランカ人ではなく、当時アメリカ在住であったMiranda de Souza Canavarro[ミランダ・デ・サウザ・カンナバーロ]というポルトガル人貴族で神智学協会員であった人です。

ただし、ダルマパーラから十戒を受け「出家」したとされているとはいえ、頭髪を剃るでもなく、白いブラウスの上にサフラン色の一枚布を袈裟のようにまとう姿をするのみであって、到底仏教の出家者とは言い難いものでした。その法名は、Asoka王の実妹でありセイロンの分別説部(現在の上座部)に初めて比丘尼僧伽をもたらした人の名であるSaṅghamittā[サンガミッター]でした。

しかしながら彼女は、当時の神智学協会員らしいというべきか、その「出家」を長く続けることもありませんでした。とはいえ、これは余談となりますが、当時のスリランカやインドにおける仏教復興に、神智学協会たとえば同協会の創始者の一人でありアメリカ陸軍大佐であったHenry Steel Olcott[ヘンリー・スティール・オルコット]の果たした役割は大きいものでした。批判も大いにあるものの、神智学協会は日本にも少なからぬ影響を与えています。

スリランカにおける女性出家ダサシルマーターの「現実的」創設の嚆矢は、Catherine De Alwis[キャサリン・デ・アルウィス]というシンハラ人の裕福な上流階級出身の女性です。彼女は当時のスリランカの上流階級がほとんどそうであったように、もと聖公会教徒でした。しかし、何が彼女を回心させたかは不明ながら仏教に改宗。そして、ただそれだけでなく、女性として出家することまで希望しています。ところが、スリランカでは11から12世紀の間に比丘尼僧伽が滅んでおり、女性仏教者として正式な出家をすることは不可能で、それを許す比丘もありませんでした。

そこでアルウィスは、たまたま古都キャンディの仏歯寺に巡礼に来ていたビルマの前王妃に随行していたティーラシンらを目にし、ビルマならば女性出家することを知ります。そこで意を決して前王妃らの帰国に随伴してビルマに渡航し、三年の間、ビルマ語をはじめパーリ語そして阿毘達磨など仏教を懸命に学び、ついにみずからティーラシンとして出家しています。その法名はSudhammacārī[スダンマチャーリー]。その上さらに七、八年間修行を重ね、ティーラシンとしてそのまま帰国しています。

帰国したスダンマチャーリーは、比丘尼や沙弥尼など仏教者として正規の出家ではなくとも、ビルマのティーラシンのような女性出家をスリランカにも定着させようと、特にキャンディを中心に活動しました。スダンマチャーリーがもともと上流階級出身であってその人脈があり、また彼女が高い教育を受けていたことにより、これを後援する者がシンハラ人だけでなくイギリス人の有力者の中からも出ています。しかし、スダンマチャーリーが女性出家させ教導したのは、ほとんど貧困や病苦にあえぐ孤独な高齢女性で占められており、また社会からそれが「出家」として認知されるにはまだいたりませんでした。

そのように、セイロンでの女性出家の道がようやく開かれていた最中の1929年、ビルマから一人のティーラシンが来島しています。Vicārī (Ma Wichari)[スダンマチャーリー]です。彼女こそ、まだ暗中模索で社会的にそれほど認知されていたなかったダサシルマーターなるスリランカの女性出家を定着させる決定的な影響力を与えた人でした。

彼女はもともとスリランカの女性出家運動を後押ししに来た訳ではありません。しかし、コロンボのビルマ寺の比丘からの勧めと、縁あってHerbert Sri Nissanka[ハーバート・スリ・ニッサンカ]と知己を得たことにより、彼女はスリランカにおける女性らもまたビルマのティーラシンのように出家生活を送る術のあること、そして在家信者であっても戒を守り、定(特にヴィパッサナー)を修めることを強く世人に勧めたのでした。ヴィチャーリーの宣教により、ダサシルマーターとなる道は若く教養ある女性たちにも開かれ、それによってその女性出家者たる立場は、社会に浸透・定着するようになっています。

なお、ニッサンカは若い頃、ビルマに渡って一時、比丘出家した経験をもつ上流階級に属したシンハラ人(後に弁護士。そして地方議員を経てセイロン独立後には国会議員)です。彼もまた、植民地となって失われたシンハラ人の誇りと伝統を、仏教への信仰を取り戻すことによって復活させんとした人です。

それらはやはり、その先鞭をつけていたダルマパーラの影響があったに違いありません。そしてその運動を展開した人々が、ビルマ人尼僧であるヴィチャーリーは例外として、その皆が高い教育を受けた上流社会出身であったことは偶然ではありません。ただスダンマチャーリーやニッサンカ、またヴィチャーリーらは、ダルマパーラとは異なって、あくまで上座部の伝統においてこれを成し遂げています。いずれにせよそれらは、ビルマ仏教の影響を色濃くうけてこそ果たされたものでした。

さて、ダサシルマーターの装束は当初、ミランダやスダンマチャーリーの時には白いブラウスの上にサフラン色の一枚布をまとうものでしたが、やがては(在家を象徴する色である)白色の衣を着ることはなくなり、全身サフラン色の衣をまとうようになって現在に至ります。頭髪に関しては、スダンマチャーリー以来、これは出家の標示でもあるため、その皆が当然のこととして剃髪しています。ただ彼女たちの衣は、正規の出家ではないがために袈裟(糞掃衣・割截衣)ではなく一枚布(縵衣)であって、沙弥尼や比丘尼のまとうべきそれとは異なります。

スリランカでは現在、上座部の比丘尼僧伽復興運動が展開されて、ダサシルマーター以外に沙弥尼と比丘尼をその立場とする女性出家者があります。その区別は、いずれもその多くがサフラン色の衣を着用しているため、そのまとっている衣が割截衣か縵衣かでしか見分けることは出来ません。

(ダサシルマーターやティーラシン、そしてその流れから上座部の比丘尼復興運動が展開していった経緯とその問題点については、現在日本の龍谷大学にあってその研究に従事するティーラシン、Saccānandī[サッチャーナンディー]氏の研究が非常に詳しい。)

タイの尼僧 ―メー チー

写真;タイのメーチー

ティラシンと同じ様な立場のものが、タイやラオス、カンボジアにもあります。

これを、タイでは、Mae jis[メー チー]と言い、頭髪だけでなく、男性僧と同様、眉毛も剃っています。ラオスにもメーチーが存在しているのですが、タイのそれとは異なって、八齋戒を受けて一時的に出家生活を送る、有髪の女性がそう呼ばれます。これに対し、一時的ではない、剃髪して八齋戒を受持している出家女性は、Me khao[メカーオ]と言われます。

カンボジアでは、そのような出家女性をDon chees[ドンチー]と呼んでいます。

しかし、それらの国では、ビルマほど組織化されておらず、その数も比較にならないほど少数です。尼僧達は剃髪してはいるものの、当然のことながら袈裟をまとうことなどなく、上図のように白の衣(一枚布)をまとっています。

ちなみに、墨染め(ねずみ色)の衣をまとうことが多かった支那においては、その色から僧侶を「玄人」と呼称しました。そしてインドと同様に、在家信者は白色の服を着ることが多かったため、在家信者を素人などと漢語仏教圏において言いました。仏教において、白は在家信者の象徴となる色であって、決して出家を標示する色ではありません。

面白いのは、これは中国撰述の偽経であるでしょうけれども、ある大乗の経典には「末法となると僧侶が白色の袈裟を着るようになる」と記されています。出家者であるはずが白色を着用するようになったならば、もはやその者らが信奉する仏教は偽物であって、真の仏教は滅んで無くなっているというわけです。

七衆の範疇では優婆夷(在家)、その実際は沙弥尼(出家)

いずれにせよ、彼女たちを出家者として尊敬し、これを支える在家の人々もありますが、しかし、彼女たちは仏教としてのその存在が根拠あって認められるものではなく、これは前述した通り国によって相当異なるのですけれども、それが故にサンガ(仏教における正式な男性出家者組織)あるいは社会からほとんど在家人として扱われる場合すらあります。

それが社会に出家として認知されているか否かとは別問題として、彼女達の立場は、その生活からすれば出家であるとは言えるものの、しかし七衆のいずれにも正式には該当しない、仏教徒の範疇において宙に浮いた存在です。

彼女たちの多くは、黙々とそして熱心に比丘僧伽に仕え、これがフェミニストの目から見ると、女性が奴隷のように扱われる男女不平等のケシカランありかたと映ることがあるようですが、たとえそうであったとしても懸命に道を求め、真摯に修行に励んでいます。

非人沙門覺應

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