真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 元照『仏制比丘六物図』

解題 ・凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10
11 |  12 |  13 |  14 |  15 |  16 |  17 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ トップページに戻る

1.解題

大智律師元照

『仏制比丘六物図』とは、支那は北宋時代の僧、元照[がんじょう]〈1048-1116によって元豊三年1080に編纂された書です。

著者の元照は余杭銭塘〈現在の浙江省北部〉の人で、字は湛然[たんねん]、諱は大智律師。

元照は初め東蔵慧鑑律師について律を学んだ後、神悟處謙法師について天台を学び、仏法は律を根本であることを旨として、すでに廃れていた南山律宗を復興すべく尽力。杭州の霊芝崇福寺に入ってから没するまでの三十年、精力的に南山大師道宣の著作の注釈書など主として律関係の著作を多く残しています。その中、特に『四分律行事鈔資事記』が有名で、本稿にて紹介している『仏制比丘六物図』もまた重要です。

ただし、今の『仏制比丘六物図』は元照によって初めて著されたものというのではなく、その師であった東蔵の同題の書で誤りや不足など問題のあった箇所を修正・補填し改めたものを、元照の名のもとに呈したものです。その東蔵による最初の書は現存しておらず、ためにどの程度元照が訂正したのかは不明です。

しかし、元照と同時代の妙生という人によって著された、それへの批判の書『仏制六物図辨訛』一巻が現存しており、その記述によって東蔵版の『仏制比丘六物図』の存在が明らかとなっています。

元照は、南山律宗の復興に力を注ぐ一方で、而立を過ぎた頃に重病を得たことにより浄土教にも傾倒。天台教学を背景とした律と浄土との双修を行っています。

元照のその思想は、正治元年1199宋に渡って天台・浄土・禅および律を学び、建暦元年1211に帰朝した月輪大師俊芿[しゅんじょう]が、その著作の多くを請来したことによって日本にもたらされています。

俊芿は帰朝後、京師の仙遊寺(泉涌寺)に入ってこれを復興し、天皇や貴族らの信仰とその後援を得て、律を根本とする四宗兼学の道場として興隆。その結果、鎌倉期以降の律宗および浄土教に多大な影響を与えるに到っています。

また、俊芿による興律の動きは、嘉禎二年1236の南都においてなされた叡尊や覚盛らの自誓受戒による戒律復興に先駆けた、また別の流れのものであったことから、南都におけるそれに対して北京律[ほっきょうりつ]などともいわれます。もっとも、別の流れではあっても、南都の律僧らは俊芿請来の宋代の支那の律院や禅寺における法式や袈裟衣について積極的に学び、その大部分をそのまま取り入れています。

その中、特に正式な仏教僧たる比丘に必須の持物についての著である『仏制比丘六物図』は、律宗や浄土教だけではなく禅宗にも袈裟など六物について大きな影響を及ぼし、鎌倉初期から大正時代にいたるまでそれらの宗派に通じて広く読まれています。いわば六物についての標準、その代表的解説書の如きものとして重用されるようになったのです。

しかし、『仏制比丘六物図』は元照が再訂したものであるとはいえ、これは現在の水準からしてと言うだけではなく、その内容には依然として様々な誤りや誤解を含んだものでもあります。よってその説はそのまま全面的に首肯し得るものでなく、まして今更追従すべきものでもありません。

日本の江戸期になされた第二期戒律復興がなされるや、その流れにおいて律僧らに本書は再び注目され、種々の注釈書類が書かれるようになっています。それは必然的でもあったのでしょうけれども、そこで本書の内容が批判的に再検討されて、しばしば義浄三蔵の所論に基づいて道宣および元照の説は批判されるようになります。そのような衣についてを含んだ義浄による南山律宗への批判全般を是認することの出来ない律宗の人々はこれを擁護せんとし、いわば「義浄派 対 道宣・元照派」の構図で論争が繰り広げられています。

とはいえ、日本の新旧の律宗では鎌倉初期以来「元照を介した道宣の説」は、文字通りそのままほとんど受け入れられており、特に律宗および真言律宗、そして禅宗の僧らの袈裟衣の根拠となって、その特殊な衣帯の形相が形成されて現在に到っています。

なお特殊な衣帯とは、南山袈裟などと称される、袈裟を留めるための環[かん]が着いているのがそれで、着用すると左半身が露わとなり、左腕上にて畳み重ねて安じなければならない形状のものです。これは今も律宗および真言律宗、および曹洞宗や臨済宗において用いられています。

江戸後期に出られた慈雲尊者は、齢三十二の頃『法服図儀』を著して、この元照以来(日本では鎌倉最初期の栄西以来)、当然のように用いられてきた南山袈裟の着法・形状等を誤ったものとして「改正」しています。が、当時はこれが非常な問題とされ、結果的に尊者は本寺として籍を置いていた天下の三僧坊の一つ野中寺(青龍一派)から破門・除籍すらされています。

しかしながら、尊者の『法服図儀』によって正された袈裟についての理解はその後、天台宗寺門派の敬光[きょうこう]や曹洞宗の黙室[もくしつ]など他宗の僧侶、および狩野一信など仏画師にも絶大な影響を及ぼし、彼らの著作・作品にそれが明瞭に現れています。

なんとなれば、尊者の著述には、いわゆる南山衣が「誤ったものである」と人に首肯させるだけに足る明瞭な、しかも数多くの典拠・根拠が種々に示されていたためです。

そこで江戸後期から明治期にはその改正された衣が「如法衣」などとも称されるようなっています。あるいは、慈雲尊者がそれに際して根本説一切有部律を参照されてもいることから、尊者が改正された袈裟をして「有部袈裟」などと称する者もあります(しかし、この呼称は妥当なものではありません)。

そのようなことから現在の真言宗、さらには天台宗や浄土宗にても「如法衣」がごく当たり前のものとして用いられるようになっています。

もっとも、その普及の影には、明治期に吹き荒れた廃仏毀釈の危機に対し、ほとんど孤軍奮闘して立ち向かった釈雲照律師による、慈雲尊者のそれに倣った千衣裁製運動もありました。

余談ながら、江戸後期に慈雲尊者が改正され、明治の照律師がこれをさらに普及しようとして主に現代の真言宗徒らに用いられるようになったこの「如法衣」について、唐招提寺第八十二世長老 遠藤證圓氏は、照律師を犬呼ばわりするほど甚だ苦々しく思っていたようで、以下のような言葉を残しています。

袈裟
 坊主にくければ袈裟までもといわれ、時日袈裟がなくては僧侶になる資格を欠くので一番大切なものとされ、これが慈悲忍辱の看板である以上、虫をころして造った絹製はダメだというのが正統派の主張である。
 明治の有名な真言僧に雲照律師があり、学行ともに第一人者であったが、この人はたまたま幕末に新説としてとなえられた有部律の心酔者で、その主張は絹布の袈裟をよしとし、かけ方も違うのであるが、これを学ぶことが弘法大師の本意であると主張する。空海滅後九百年間、だれもこのような説をなした人もないし、空海自身をはじめ、ことごとく南山律を奉じてきたのに、幕末に議論百出して、その結論がでぬまま維新となり、「肉食妻帯勝手」の太政官布告で坊主社会はてんやわんやの大さわぎとなり、戒律問題などは雲散霧消した。このぐらついている状態のなかで、有部派の雲照が真言宗の実力者となって、明治・大正の間に空海以来有部律を用い、有部袈裟を掛けていたような錯覚に導きこんでしまった。さながら一犬嘘に吼えて万犬これに和すというのが、いいえて妙である。
 この寺の奉ずる四分南山も新興の有部も、ひとしく仏弟子の生活方法・徳目など詳細に指示されたものを編集したもので、戒条など根本的には違いはないが、教学的には有部は純小乗で四分は大乗に通ずるものときめられ、四分を中心とした南山律は大乗仏徒の所依として、中国・日本に用いきた厳然たる歴史がある。道宣律師が「南山律行事鈔」を完成したのは唐の貞観四年(六三〇)で、インドの風俗のまじえた律を苦心して中国の国土と水にあうように努力されたもので、これは高く評価されている。これから七十年ばかりたった義浄は南山律を学んのち、新しく釈尊の国インドに留学し、南海の国々をめぐって見聞を広めて中国に帰ってきた。そうして当時インド・南海に行なわれていた有部律とその注釈書を一生懸命に翻訳したのであった。それは南山大師が中国より知らず、インドよりの帰化僧と文献によるものには、多分に参考とするべきものが多かったにちがいない。それでも南山大師の律に対する信仰と依用はいささかも動かなかったとみえ、一部には義浄の有部律によるものがあったが、大勢はやはり南山律であり、いつしか有部律の授受はほろんでしまった。
 これからまた百年ほどののち、日本で南山律を学んだ空海、弘法大師が入唐して、真言密教を受学したさい、かの地でたくさんの義浄訳の有部律をみて、これは律行の参考になると考えられたのであろうか。帰朝ののち「三学録」という著述に末徒の参考書としてその名をのせ紹介した。もちろん四分南山を捨てて有部律になれとは書かれていない。
 道宣律師は玄奘三蔵の翻訳に関係し、梵僧と密接な関係があったから、出来るだけの研究をしたにちがいないが、不幸に中国以外の国を知らず、身をインド的風物のなかに置いたことがないから、それだけに「行事鈔」の述作には骨身を削られた。
 律師は非常に神異奇瑞の多かった人で、常にその徳行に感じて、四天王が侍衛していたといわれ、みずからそのことを書いておられる。律の難問にであって解決がつかなかった時は、天人がこれを示したと伝えられている。これに対して南海ジャワ、スマトラなどインド的風物の仏教国を巡歴修行された人の見聞と研究にもとづく有部律には、たしかにおおいに参考になるところが多かろう。けれども、それは伝持の道統を改める理由にはならないのである。
 今日南山律宗と一番関係の深かった真言各派が重視されていないにせよ、有部律依用を当然として有部律の袈裟をかけているのは形式だけにせよ、その無神経さに驚くほかはない。

平凡社 唐招提寺編『唐招提寺』 P156

遠藤氏は、現代の律宗では最後の最後のマトモで教養ある僧職者であったとされている人です。しかし、氏による以上の語の中には、理解不足や知識不足に基づく事実誤認がそこかしこに含まれています。けれども、何はさておき、彼による「如法衣」と雲律師、さらにはそれを着する現今の真言宗徒らへの強い憤りは、充分に理解される文章であることには違いありません。

現在の律宗や真言律宗では、先に述べたようにいわゆる南山袈裟(時に四分袈裟とも)をこそ正当な袈裟として着用しています。が、それは南山大師が着していた隨・唐代の衣と比すると相当に改変されたまるで別物であって、当然奈良期の鑑真和上所著のものとも異なったものです。

それは、鎌倉期初頭に栄西が初めて日本に持ち帰って着ていたのと同じ形態のものであり、それ以降に続々と入宋し、あるいは渡来した禅・律僧らがやはり着けていたことから、律宗の門徒らもそれに倣って用い、ついに定着したものです。

なお、栄西が初めて日本に持ち帰って着していた衣であることは、虎関師錬の『元亨釈書』にある以下の記述によって知ることが出来ます。

元久二年春三月、畿甸大風。都人謠言、比來西師新唱禪要。其徒衣服異製。伽梨博幅、直綴大袖。行道之時多含飆風。今巽二作災。恐基於西乎。

元久二年1205春三月、畿甸〈都〉が暴風に見舞われた。都の人々は口々に噂して、「この頃、栄西師が新たに唱導している禅宗の徒弟等の衣服は(今までのものとは)異なった作りで、僧伽梨〈大衣〉は幅広であり、直綴〈偏衫と裙との上下を繋げた簡略な非法の服〉の袖は大きく長い。彼らが行道することで、(その大衣と大袖とが)風を起こし、今京都を襲っている災害となったのだ。その原因は栄西にあるのに違いない」とまことしやかに噂した。

虎関師錬『元亨釈書』巻二
[現代語訳:沙門覺應]

当時の京の人々が迷信深いことこの上なく、上記の如き蒙昧なる噂を信じ、それはついに朝廷の帝の耳にも届いて「栄西を京都から追放せよ」などという勅を出すまでに至るという、嘘のような本当の話にまで至っています。さすがに帝は下民らと異なって道理が分かり、使いに栄西を尋問させてその経緯を聞いたことに依って、ただちにその沙汰を取り消しむしろ帰依するに至った、とされています。

もちろん、ここで注目すべきはそのようなことではなく、京の人々が「其徒衣服異製。伽梨博幅、直綴大袖」と言っている点です。

栄西以前に宋に渡った僧は非常に稀で、あったとしても栄西ほど当時注目され、また後代に影響を残した者はありませんでした。そのような栄西の装束が、京都の人々からみて明らかに「異製」であって、大風が吹いたその原因とするに足るほどであったとするこの記述は見逃してなりません。

事実、栄西以前(あるいは俊芿以前)の高僧図には、いわゆる南山衣を着用した者を見ることが出来ません。当時一般的日常的に用いられていたのは、現在「威儀五条」だとか言われることがある、律の規定からすれば袈裟などとは決して言えない、平安初期にもなかったものです。それがどういった袈裟であるかは平安中後期から鎌倉初期の絵巻や高僧都、たとえば解脱上人貞慶や明恵上人の肖像を見ることによって知られるでしょう。

いずれにせよ、先にも述べたように、南山衣なるものは栄西を初めとしてそれ以降に続々と入宋しあるいは渡来した禅・律僧らが、初期の彼らは戒律を根本とすることで全く共通していたのですが、やはり着けていたものであったことから定着したものと考えて間違いありません。

さて、閑話休題。ところがしかし、現代においても「如法衣」は着用されているとはいえ、それはただその形状が尊者の改正されたままでは一応あるというだけで、肝心要のその寸法や色、そして着用法とが再び全く誤ったものとなってしまっています。

俗に「時代は繰り返す」などと言われるものの、懸命に正法律の復興を目指してなされた尊者の折角の努力が、むしろ現代の僧職らの怠惰と無知とによって曖昧となり、まったく虚しいものとなってしまっているのは非常に残念なことです。

(慈雲尊者の戒律復興運動、いわゆる正法律については別項“根本僧制 ―正法律とは何か”を参照のこと。)

いずれにせよ、そのようなことから支那及び日本の僧の袈裟や衣など装束について知らんとするのであれば、各律蔵の衣犍度は言うまでもないこととして、まずこの『佛制比丘六物図』を理解していなければ話になりません。さらに、その根拠・種本となった道宣の『四分律行事鈔』二衣総別篇ならびに『釈門章服儀』等もまた当然のこととして目を通し、解しておく必要もあるでしょう。

比丘六物

そもそも比丘六物とは何か。

それは、正規の仏教僧たる比丘が必ず所有して使用しなければならない六種の物品のことで、具体的には安陀会(五条・下衣・作務衣)と鬱多羅僧(七条・中衣)、そして僧伽梨(大衣・重衣)の総じて三衣と呼ばれる袈裟と、座る時の敷物である坐具(尼師壇那)、托鉢および食事のときに使用する鉄鉢(応量器)、そして水漉しの漉水嚢です。

それぞれがいかなるものかの詳細は、本書の元照師の述べるところによって、ひとまず理解することが出来るでしょう。

(ただし、六物については律蔵によって諸説あり、漉水嚢の代わりに他の物が充てられるなどしています。しかし、漉水嚢が六物の中に入っていないからと言って、それが「比丘は必ず所有し、使用しなければならないもの」であることには変わりありません。)

さて仏教では元来、人が比丘となるためには必ず、およそ二百五十からなる諸規定を、これは支那および日本で一般に具足戒と言われるものですが、受けなければなりません。これを受けることを受具、受大戒とも言います。その受戒に際して、まず受者は「遮難」といわれる比丘となるための欠格条件に該当するか、あるいは必須の諸条件を満たしているかを問われるのですが、その必要条件の中に「自らの衣鉢を具しているか」があります。

すなわち、人は六物の中でも特に三衣と鉄鉢、すなわち三衣一鉢を必ず所有していなければ決して比丘となることが出来ません。

このような喩えを用いることは軽薄に過ぎて憚られるものではありますが、三衣一鉢とは「比丘のスターターキット」というべきものです。もっとも、それはただスターターキットなどというのではなく、己が受具してから死去するまで常に見に携えておかなければならぬ物ですけれども。

しばしば俗間には、「仏教僧というものは本来、三衣一鉢だけを所有することが許されているのである」などという甚だしい誤解をしている者があります。が、それは「だけ」なのではなくて「最低限持っていなければ僧になれない」ということであって、比丘は誰しも三衣一鉢のみで生活すべきとされていたなどという極端なことは、仏ご在世の昔からありません。

元照は、そのような仏教僧にとって必須にして根本的・象徴的物品について、宋代の僧らがまったく無理解で野放図となって乱れに乱れていることを憂い、その(彼が信ずるところの)正しき六物の「あるべきよう」を啓蒙せんとして、この『仏制比丘六物図』を種々の律蔵や論書そして道宣の諸著作を引きつつ著したことが、その本文の端々から知られます。

そのような元照律師が憂いた宋代の支那の僧らの姿形は、現代の支那および日本においても同様であると言え、いや、むしろその数十倍もひどい有り様となっていると断じて間違いありません。

日本仏教における僧宝の不在

しばしば巷間、国や地域・時代によってその詳細は異なりはしますが、現代においてもなお人の身だしなみや姿格好は、その内実・威厳・立場などを示すものとして正しくあるべきであると、洋の東西を問わず普遍的にいわれます。

ましてや仏教者であれば、その姿形および振る舞いは仏陀によって既に明瞭に定められているもので、それはその奉ずる教えや大乗小乗の異なり、あるいは国や地域を異としても等しく同じものとしてあるべきものとされたものです。気候や文化面から素肌を見せることが憚れることがあって、実際その対策を取るなどの違いは許容されるものとしても。

これを全く無視していながら、しばしば「仏に仕える者として」であるとか「仏の道が」云々といい、平然と「私も仏教僧の端くれであります」などと言いつつ、まるで仏の教えどこ吹く風の振る舞い・姿をして一向省みることが無い現今の日本仏教各宗派の大多数は、その点まったく厚顔無恥の極みに到っていると言うべきものでありましょう。

まして現在のように国境の敷居が極めて低くなり、およそ過去には考えられないほどに海外との交通が容易くそして盛んとなって、国際交流もごくごく当たり前のものとなった今となってもなお、日本仏教各宗派の現今の思想はもとより、そこに属する僧職の人々の有り様や姿があまりに違いすぎること、すなわち異常であることに対する疑問や反省を僅かでも呈する人はいまだほとんど現れないようです。

逆にこれを「文化だ」のただ一言で片付けようとする人は比較的多くあり、あるいはその宗派ごとの独自性、日本仏教における特殊性をむしろ高く評価して強弁する人々もままあります。が、少なくとも「仏教」から見た時、それは評価し得るものなどでは到底ありません。

実際、彼らが(それがたとい舌先三寸のことであろうとも)公には絶対視し祖師として崇拝している往古の僧で、そのような彼らの有り様を容認する者など、ほとんどまったくありはしないでしょう。

そのような批判、反省は唐代から宋代の支那における律宗や禅宗の僧侶らによっても種々様々に繰り返しなされてきたことで、本邦においても平安末期以降の多くの遁世僧らによってなされ、近くは江戸後期の慈雲尊者によってもなされています。

たとえば本書において元照律師は、当時の僧徒が宗派の別をその外形においても強ちに異ならせていた者が存在することに触れ、それを批判しています。

歴觀經論。遍覽僧史。乃知聖賢踵跡。華竺同風。今則偏競學宗。強分彼此。且削髮既無殊態。染衣何苦分宗。負識高流。一爲詳鑑。況大小乘教。竝廣明袈裟功徳。願信教佛子。依而奉行

 様々な経論を歴観し、種々の僧史を遍覧してみれば知られるのである、(古の)聖者・賢者らは(先達の行業をこそ)倣って行われて、中華も天竺もその風儀を同じくしていたことが。 しかるに今の者は、偏向して自宗をこそ学び競うのみであって、意図的に(仏制に乖いて衣の色・形・大きさを)彼れ此れと異ならせている。一応、頭髪を剃るということについては依然として皆同様にしてはいるのであれば、一体どうして衣を染めることについて、わざわざ宗派によって(その色を)分け隔てる必要などあるだろうか。
 負識の高流〈有智の高徳〉よ、いま一度(比丘六物について)詳しく諸仏典を参照して依行せよ。言うまでもなく、大乗・小乗の教えにおいては同じく、そして広く袈裟の功徳を明かしている。願くは教えを信ずる仏子らよ、(仏制・聖典にこそ)依って行いたまえ。

元照『佛制比丘六物図』
[現代語訳:沙門覺應]

そしてまた、江戸後期の慈雲尊者は、宋代のそれと同じように当時の僧らが宗旨宗派の異なりを強調するために(何らの根拠なく)その装束をも敢えて変える者があるのが当たり前となっており、独善的に彼此差別していたのを以下のように批判しています。

とかく佛在世を手本とすべき事也。総じて大乗小乗宗旨宗旨にて戒律も袈裟もちがふと云フは。ひがごとなり。今たとへば戒律は公儀の掟なり。貴賤ともに守らねばならぬこと。大乗小乗は多く心地のさだめなり。たとへば人の智愚の如し。智者も眼はよこ鼻はたてなり。同じ横の眼にちがふことあるなり。大乗小乗の戒もその通りなり。同く殺生せぬ内に差別あり。同じく婬戒を持つ内に差別あるなり。比丘沙弥の袈裟に割截縵衣等の差別あるは。此は貴賤衣服の如し。たとへば諸人は大紋など。官人は衣冠などのたぐひの如し

 (仏者たる者、)何はさておき仏在世を手本とすべきことである。総じて大乗・小乗、そして宗旨宗派によって戒律も袈裟も異なるなどということはひがごと〈道理に合わない、あやまったこと〉である。今譬えるならば、戒律というのものは公儀〈朝廷や幕府〉の掟のようなものであって、貴賤ともに守らねばならないことである。
 大乗・小乗(の違い)は、一般に(その者の)心地〈志や思想など〉によるものである。それは譬えば人の智慧の(それぞれに高低・広狭の違いがある)ようなものである。智者であっても眼は水平に、鼻は垂直についている。そして皆同じように水平に眼がついていても、それぞれやはり異なっている。大乗・小乗の戒(の異なり)も、そのようなもので(その条項は等しく同じであるけれども、それを行う心地や智慧が異なっているので)ある。(大乗・小乗いずれも行いとしては)同じく殺生せぬようするのであるけれども、その精神には違いがある。同じく婬戒をたもつけれども、その精神には異なりがあるのだ。
 比丘と沙弥の袈裟には、割截衣と縵衣などといった違いがあるが、これについては俗世間の貴・賤によって着る衣服が違っているようなものである。例えば庶民は大紋などを着るけれども、官人は衣冠などを着るといったように。

慈雲尊者『諸宗之意得』
[現代語訳:沙門覺應]

今、日本の仏教各宗派では、主にはその昔の宮中に参内などしたり国家鎮護の祈祷や公家の諸行事に関わったりする官僧らがしていた、非法ながらも華美で優美な装束をこそ至高のものとして倣い用いています。

同時に、これは実に皮肉な話だと思えることですが、そのような官僧らの格好を真似しながらも、しかし彼らが穢れるとして決して従事しなかった葬送儀礼を主な商材にして生活の糧としてる者がほとんどとなっています。

(全くの余談ですが、現在も東大寺の僧は葬儀に従事しません。経済的にする必要が全くない、というのもその理由の一つですが、主たるその理由は「帝や国家の祈祷などに関わる官僧は葬儀に伴う穢れに触れてはならない」という習慣にいまだ従っているためです。なお、鎌倉期および室町期当時、官僧らが忌み嫌った葬送儀礼に積極的に関わっていたのは、持戒持律の律僧や禅僧らでした。)

現在、上掲の律師や尊者のなしたような批判の声を挙げる人などもはや絶無となっていることは、そのまま日本仏教の現状を示すものとしてよい。

すなわち、今の日本仏教には正しく僧宝と言い得るものは残念ながら、無い。

しかし、自らは座視するのみでただ彼ら自身による改善を期待することは全くの無駄であることは、ほぼ歴史が証明してもいることです。それは、「面白いことに」と言うのは憚られましょうが、『佛制比丘六物図』の処々にて元照がその嘆きを述べていることによってまさに知られることです。

先に述べたように、本書『仏制比丘六物図』の述する内容全てが正確なものではなく、これを読み理解するだけで良しなどと出来るものでは到底ありません。しかし、ここに著された思想とその典拠の一々などを知ることに由って、支那および日本の僧徒らが遠く離れた印度以来の仏教僧のあるべき姿をいかに目指し、試行錯誤しながら形にしていったかの形跡を辿ることが出来るに違いありません。

この現代においてなお、いや、このような国際間の距離が非常に接近した現代であるからこそ、真に道を求める者であるならば、その外相に関する宗旨宗派の杜撰な違いなどを拂い去り、仏教僧としての装束のあるべきようをさらに求め、あらためてこれまでの法服関連の資料を踏まえつつ改正する必要があるでしょう。

ここに紹介する本書が、その手がかりの一つとなれば幸甚の至り。

貧衲覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

2.凡例

本文

本サイトで紹介している明治九年、京都鳩居堂より刊行された『校正 佛制比丘六物図』を底本とし、『大正新脩大蔵経』(『大正蔵経』)所収のものを適宜参照した。

原文は漢文であるため、原文・訓読文・現代語訳を併記し、対訳とした。訓読文は基本的に底本の返り点に随って読み下したものである。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・訓読文・現代語訳のみの項を最後に設けている。

原文・訓読文は、原則として底本のまま旧漢字を用いているが、現代語訳では適宜現行の漢字に変更した。

原文には、所々に割注がなされているが、WEB上では再現不可能な為、それらを「下付き文字」(例;下付き文字)にすることによって、割注であることを示した。これは訓読文においても同様である。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。また、脚註を一々参照せずにある程度読み得るよう、 難解あるいは特殊な語句にはその直後に簡便な説明を〈 〉に挿入した。これも同じく下付き文字としたが、割り注とただちに区別がつくよう、朱色・赤文字とした(例;〈語句解説〉)。

難読・特殊と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた(例;意楽[いぎょう])。

脚註

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。ただし、これは原文にではなく、訓読文に付している。

本文に経論からの引用がされている箇所は、判明した範囲でその典拠を示した。それが『大正蔵経』による場合、例えば引用箇所が『大正蔵経』2巻177項上段であった場合、(T2. P177a)と表示している。なお中段はb、下段はcである。

一部、引用されている典籍の中には、『大正蔵経』に未収録のものがあるが、その場合は法楽寺蔵の該当書によった。その場合、巻数のみで丁数には言及していない。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭覺應
(horakuji@gmail.com)

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

解題 ・凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10
11 |  12 |  13 |  14 |  15 |  16 |  17 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。