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‡ 栄西『出家大綱』第一 二衣法

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1.解題

『出家大綱』

『出家大綱』は、日本に初めて臨済禅を伝えた明菴栄西によって著された著作で、いわば「出家者のあるべきよう」が衣・食・行・儀の四章にわけ論じられている小著です。

今伝わる『出家大綱』は、栄西が二度目となる入宋中の文治五年1189に初めて著わし、これを帰朝して六年後の建久六年1195に加筆するなど改め、さらにその五年後の正治二年1200に再治してなったものです。十一年にわたって手を入れ続けられたものであったことは、栄西が『出家大綱』に対して少なからぬ思い入れをもっていたことを示すものと見て間違いないものといえます。

実際、栄西は本書の結びにて、その目的を以下のように述べています。

予昔在唐之時粗書此略儀今再治以貽同門之初學

私が昔、唐〈宋〉に滞在していた時、この略儀〈『出家大綱』〉の原案を著した。今、これをさらに再治し、同門の初学者のために書きのこす。

栄西『出家大綱』結
[現代語訳:沙門覺應]

この記述によって『出家大綱』とは、栄西がその同門、そして臨済宗の後学・初学者らが読むべきものとして位置づけた重要なものであったことが知られるでしょう。

なお、先に述べたように『出家大綱』は衣・食・行・儀の四章について論じられた小著ではありますが、ここで紹介するのはその第一の衣についてのみです。そこで一応、『出家大綱』の内容がどのようなものであるかの構成を、ごく簡略に表にし以下に示します。

『出家大綱』の構成
第一 二衣法 俗衣 衣について
法衣
第二 二食法 請食 出家者の食について
乞食
第三 二戒法 比丘戒 大小乗の戒について
菩薩戒
第四 二律法 俗律 道俗の律について
道律

『出家大綱』は臨済宗徒に限らず、真言・天台・禅・浄土・律など日本の仏教徒らにとっても、特に初学者あるいは戒律についての一片の見識をも有せぬ者らには、現代においてもなお必読の書であるといえるものです。

栄西はこのうち「第一 二衣法」および「第二 二食法」に力を入れて記述しており、特に「第二 二食法」では日本仏教における食事作法[じきじさほう]の原型とも謂うべきものを伝えています。それ以外の「第三 二戒法」・「第四 二律法」は、栄西の戒律観が端的に現れたものとなっており、最初期の日本臨済宗におけるそれを知る重要な手がかりともなるでしょう。

ところで、栄西は日本臨済宗の祖とされる人ではありますが、実は今の臨済宗は栄西が志向した在り方とは全くといっていいほど異なったものとなっています。

(祖師の意向や遺志など全く無視して奔放に振る舞いつつ、しかし「お祖師様」「祖師のみ教え」などと舌先三寸のみ崇め奉る欺瞞的態度は、何も臨済宗に限ったことではなく、日本仏教ほぼ全ての宗派に通じて見られることですけれども。)

これは栄西没後に続々やってきた宋代の禅一辺倒の僧ら、たとえば蘭渓道隆や無学祖元の影響が次第に強くなったことと、五山十刹制などその後の臨済宗の組織としての在り方の変化があり、さらには江戸期に臨済宗を中興したと言われる白隠慧鶴の思想に強く依るものであったと考えられます。

しかし、少なくとも栄西は新来の禅を称揚・宣布しつつも、「戒ならびに律の厳持を根本とした」天台・真言(そして時に浄土)を総合的に行う、いわば四宗兼学を指針としていました。これは栄西が比叡山出身であって最澄を敬愛していたことから、(あくまで「栄西による最澄観」に基づくものであって必ずしも正しく最澄の思想と行業を捉えたものではなかったのですが、)その円・密・戒・禅の継承と復興を目指したものでもあったのでしょう。

実際、栄西自身、比叡山などで天台教学を修学しつつ、天台密教を受けてその一流〈葉上流〉を建てるまでとなり、またさらに真言密教の法統も受けています。

また、退耕行勇や釈圓栄朝などの最初期の弟子や円爾など門流らも、臨済禅の広宣につとめつつも、やはり禅一辺倒などではなく、戒律の護持を前提とした真言・天台など諸宗兼学で法を説いています。

この傾向はさらに、鎌倉後期から室町期に活躍した『元号釈書』や『聚分韻略』を著したことで知られる虎関師錬にも見られるもので、世間にはよく知られたことでないようですが、彼も真言密教を受法しこれをしばしば行じていています。といっても彼の場合、密教も非常に優れたものであるけれども禅宗には及ばないものと理解し、戒律を軽視している点で同時代の無住一円と立場を大きく異にしています。

さて、かえって現今の人々は、これは全く本末転倒というべきものですが、まず「我が宗派ありき」であって、それぞれ信奉する宗旨宗派という色眼鏡をもって仏教を眺めようとする傾向があるようです。浄土にしろ禅にしろ法華にしろ一向というありかた、選択[せんちゃく]という思想こそあたりまえだと見る向きが非常に強いように思われるのです。

よって、禅をもたらし広めたはずの栄西が真言を語り、あるいは天台を説き、また戒律を重視していたということがまるで理解できない、あるいは不純である、発展途上であるなどという所感を持つ人が往々にして現れます。

しかしながら、むしろ諸宗兼学こそ、いわば印度以来の大乗僧のありかたと言ってよいものです。けれども、平安中期以降の日本ではそれを行ってきたのは少数でした。

特に鎌倉期に法然や親鸞、日蓮、そして道元など「新仏教」の祖師といわれる者らが続々出て「これだけで良い」「むしろこれのみ行うのが本道」というが如き態度をとって一宗を立てています。そして、それが時代の潮流などもあり、次第に公家や武家、そして大衆に支持されるようになっています。

そのようなことから、今もなお諸宗兼学ということを理解できない者があることも無理もない事かもしれません。

いずれにせよ、諸宗兼学はほとんど持律持戒を旨とした僧によって行われてきたことでした。

僧正栄西と明恵上人

栄西禅師は、同時代に突出して優れていたといえる華厳僧、明恵上人との深い親交があったと伝えられています。

栄西の当時、それは平安末期から鎌倉期初頭にかけてのことですが、世間には戒律を持することの重要を説きつつ、当時流行しはじめていた法然の浄土教や日蓮の法華宗などのような一つの宗義に捕らわれて一向にこれを行うというのではなく、それとは全く対極的な四宗兼学・八宗兼学のいわば顕密双修を旨とする僧侶の出現が見られるようになっていました。

その僧侶とは、たとえば平安末期の南都において中川実範上人が出るに続いて笠置には解脱上人貞慶があり、そして主に北京にて名を馳せることとなる栂尾明恵上人ならびに本願僧正栄西です。また、栄西よりやや後に宋に渡り、梵網戒・南山律宗・天台・禅を学んで帰朝し、当初は栄西に非常に重用された我禅法師俊芿[しゅんじょう]もそのうちの一人です。

そうして、それに続く流れとして、律宗を再興していった興正菩薩叡尊や大悲菩薩忍性、そして東大寺の円照律師や凝念大徳などがあります。

その皆が一様に戒律の最重要性を説いて実践するとともに、密教や修禅などいわゆる瞑想を実際に修め、世に示そうとしています。

さて、その中の一人たる明恵上人には、その伝記として最も有名な『栂尾明恵上人伝』がありますが、そこには栄西禅師と明恵上人との逸話について伝えている箇所が数カ所あります。

建仁寺の長老より茶を進ぜられけるを、医者に是を問ひ給ふに、茶は困を遣り食気を消して快からしむる徳あり。然れども本朝に普からざる由申しければ、其の実を尋ねて、両三本植ゑ初められけり。誠に眠をさまし気をはらす徳あれば、衆僧にも服せしめられき。或人語り伝へて云はく、建仁寺の僧正御房、大唐国より持ちて渡り給ひける茶の子を進められけるを、植ゑそだてられけると云々。〔中略〕
建仁寺の開山千光法師、大唐国より帰朝して達磨宗を悟り究めて、此の国に弘め給ふべき由聞えけり。或時、上人対面の為に彼の寺におはしける時、折節此の僧正参内して帰られけるに、道にて行き合ひ給ひぬ。彼の僧正は新車の心も及ばぬに乗りて、誠に美々しき体なり。上人はやつれたる墨染に草履さしはき給へり。されば此の姿なるものをばよも目も見かけられじ、無益なりと思ひ帰り給ひけるを、僧正見知り給ひて、車より下りて人を進めて呼び帰し奉りて、対面あり。数刻問答して帰り給ひける。其の後は常に対面ありて法談あり。さる間、僧正此の上人を印可し奉りて云はく、此の宗を受けつぎて興隆すべき人、大切なり。上人其の器に当り給へり。枉て我が門下にましまして、共に興行し給へと申されけれども、さる仔細ありとて深く辞し給ひけり。然れども入滅近付きて御法衣をば奉らる。是れ先師東林の懐敞和尚の法衣なりと云々。〔中略〕
建仁寺開山の弟子に円空上座と云ふ僧、随分志深くして道行を修する聞えあり。禅定を修すべき様を彼の長老に問ひ申したりければ、栂尾の上人禅定を修すること功積り、已に成就し給へり。其に行きて問ひ奉りて、其の如くに修すべしと仰ありけり。然る間、上座、上人に相ひ奉り、禅定修すべきやうを尋ね申しければ、上人答へて云はく、禅定を修するに三つの大毒あり。是を除かざれば、只身心を労して年を経るとも成就し難しと仰ありけり。其の大毒は何れぞやと尋ね申されければ、一には睡眠、ニには雑念、三には坐相不正なりと云々。是を除きて一切求むる心を捨てて、只無所得の心ばかりを提げて、私に兎角あてがふことなく、徒者に成りかへりて、生々世々に終へんと云ふ永き志を立て給ふべし。私の望み心、穴賢持ち給ふべからず。只此の法師が申すこと、様こそあらめと思ひ給ふべし。是は高辨が私に申すにあらず。先年紀州苅磨の島にありし時、空中に文殊大士現じて予に示し給ひしままに申すなり。今の世には此の如くあてがふ人なきにや。末世末法の辺土の恨み、此の事にありと云々。

 (明恵上人は)建仁寺の長老〈栄西〉より茶を進呈され、医者に茶について尋ねられた。(すると医者は)「茶は疲れを取り、食気〈食欲〉を消して爽快とする効能があります。しかし、我が国には普及しておりません」と言うので、その種を求めて得、(高山寺の一角に)二、三本の茶の苗を植えられたのであった。(茶には)誠に眠気をさまし、気を晴らす効能があったことから、衆僧も飲むようにせられたのである。ある人が語り伝えるのには、「建仁寺の僧正御房が、大唐国〈宋〉より持ち帰られた茶の種を贈ってくれたのを、(明恵上人が)植え育てたのである」ということである。〔中略〕
 建仁寺の開山である千光法師〈栄西〉が、大唐国より帰朝して達磨宗〈禅宗〉を悟り究め、この国に弘めようとしているということを伝え聞いた。そこである時、上人は(千光法師と)対面するために彼の寺〈建仁寺〉へと赴かれていた時、ちょうど僧正は参内から帰ってくるところで、道にて行き合われた。かの僧正は新車〈牛車〉で想像もつかないほど豪華なのに乗っており、まこと美々しい姿であった。(それに対して)上人はやつれた墨染の衣に草履を履かれただけであった。(上人は)「このような姿の者など、(僧正が)とうてい関心を示すこともなかろう。(会いに行くのは)無駄なことか」と思われて帰ろうとされたのを僧正は気づき、車より降りて従者を走らせて呼び戻され、ついに対面することとなった。そして数刻も問答され、帰られたのであった。それから後には常々対面され、法談されるようになったのである。
 あるとき、僧正はこの上人を印可〈(禅の)悟りに達したと師が弟子を認めること〉され、「この宗〈臨済禅〉を受け継いで興隆させていく人(を選ぶこと)が、差し迫った問題なのです。上人はその器を具えられている。無理を承知で頼みますが、どうか我が門下に入られて、共に(禅を)興行していただけないでしょうか」と申されたけれども、「私にもある仔細がありますので」と深く謝して辞退されたのであった。しかしながら(僧正が自身の死期を悟り)、入滅近くなられた時にはその御法衣を(上人に)贈られた。それは先師たる虚庵懐敞和尚〈栄西が支那天台山にて師事して禅を学んだ臨済宗黄龍派の禅僧〉の法衣であるということであった〈*禅僧がその伝える袈裟衣を与えて遺すということは、嗣法の弟子と認めるということ〉。〔中略〕
 建仁寺開山〈栄西〉の弟子に円空上座という僧があり、ずいぶん志の深いもので、道を熱心に修行していると評判であった。(円空は)禅定をどのように修すべきかを、かの長老にお尋ねしたところ、「栂尾の明恵上人は禅定を修することに功積り、すでに成就されている。上人のところに行ってお尋ねし、その言されるとおりに修すのがよかろう」との仰せであった。そこで上座は上人にお会いし、禅定の修すべきようをお尋ねしたところ、上人は「禅定を修するのに三つの大毒があります。それらを除かねばただ身心を疲れさせるのみであって、何年も修したところで成就することは無いでしょう」との仰せであった。そこで「その大毒とは何でしょうか」とお尋ねすると、「一つには睡眠〈不活発で沈んだ意識・眠気〉、二つには雑念〈念ずべき、集中すべき対象を失ってあれこれ妄想すること〉、三つには坐相不正〈座法・姿勢が正しくないこと〉です。これらを除き、すべて求める心を捨てて、ただ無所得の心ばかりをひっさげて、私的にあれやこれやとすることなく、徒者〈いたずらもの。明恵上人がしばしば逆説的に説いた仏教者としての取るべき態度〉になりきって生々世々〈生死流転すること〉するばかりとなろうとの永い志を立てられたらよいでしょう。自分勝手な望みなど、ゆめゆめ持たれることのないように。ただ、この法師が今申したことを「なるほどそうか」と思われるように。これは高辨〈上人の実名。明恵は房号あるいは仮名が自分勝手に申していることではないのです。先年、紀州の苅磨島にいた時、空中に文殊菩薩が現れて、私に説き示されたままに申しているのです。今の世にはそのように修行する人は無いようです。末世末法の辺土〈インドから程遠い辺境の地たる日本〉における残念なことは、このことにあります」ということであった。

『栂尾明恵上人伝記』巻下
[現代語訳:沙門覺應]

栄西禅師と明恵上人とは実に三十五歳ほども年が離れていました。しかし先に述べたように、伝えによれば禅師は上人を非常に認められており、互いに尊敬しあう存在であったと言われています。

この『栂尾明恵上人伝記』にある逸話によれば、栄西禅師はただ明恵上人をして、ただ他宗の学徳・行徳優れた若き存在としてだけではなく、自分が伝え広めんとした禅をすら託そうとした人物と見做していたとされています。

ただし、『栂尾明恵上人伝記』については、全体としてその伝えていることの全てが事実であったとはいい難いことが知られています。

後代、上人存命の当時名の知られた僧(たとえば西行)や権力者が明恵上人との縁があったこととし、さらになんらか美談仕立てとして上人の徳を賞賛しようとする創作が一部なされていることが明らかとなっているのです。

その故に、ここで伝えられている栄西禅師との逸話すべてが事実であったとみることは必ずしも出来ません。

しかしながら、『栂尾明恵上人伝記』が鎌倉期から近世に至るまで非常に世に親しまれ、読み継がれてきたことは事実で、互いに遁世僧であった禅師と上人とを繋げて見てきた当時の人々の意志や仏教観を垣間見ることは、少なくとも出来るものです。

無住一圓『沙石集』にみる僧正栄西

栄西禅師についての逸話あるいは人物評を伝えるものに『沙石集』があります。

『沙石集』とは、鎌倉中後期の遁世僧、無住一円(無住道暁)によって著された、非常に優れた仏教説話集です。鎌倉期における僧侶らがいかなる有り様を呈していたかをかなり批判的に、そして時にそれを滑稽に伝えており、また様々な仏教にまつわる逸話、そして編者無住自身の仏教に対する鋭い認識が書き綴られています。

それは、従来一般的であった漢文によってではなく、鎌倉期より次第に増えていた仮名文字まじりの、貴族らだけにではなく庶民などに対して説かれたより平易なもので、その語り口も文学性高いものです。

編者の無住が三論宗や真言宗、そして禅など諸宗を広くそして深く学んでいた兼学の人であったろうことは、その著書の内容から伺い知ることが出来ます。三十過ぎて身体を壊すまでは、かなり厳しく律を守り修禅に励む日々をおくっていたこともその述懐から知られます。しかし、自身がどの宗派(本寺)に所属していたかはよくわかっていません。あるいは臨済宗の僧であったと見る人もあるようですが、実際の所不明です。

『沙石集』が仮名で著されたものであるとはいえ、現代人からするとやや読解に難を伴うものとなっている感は否めないものです。しかし、それでも現代においてもなお大きな価値ある仏教説話集として広く読まれるべき書の一つです。

さて、その『沙石集』の後半にて特に五人の僧侶についてそれぞれ章を設けられている中に、栄西の事があります。

建仁寺の本願僧正の事
故建仁寺の本願僧正、戒律を學し威儀を守り、天台眞言禪門いずれも學し行じ給ひ、念佛をも人にすすめられけり。遁世の身ながら、僧正になり給ひける事は、遁世の人をば非人とて、いふかひなく名僧の思合ひたる故に、佛法のためと思給ひて、名聞にはあらず。遁世の光をけたじとなり。おほかたは三衣一鉢を持し、乞食頭陀を行ずるこそ、佛弟子の本にて侍れ。釋尊すでに其跡を殘す。釋子として本師の風に背かんや。さるまゝに、名僧の振舞、かへて在家の行儀をたとくす。大に佛弟子の儀にそむけり。然れども末代の人の心、乞食法師とていふかひなく思ひ、佛法を輕しむる事をかなしみて、僧正になり、出仕ありければ、世もてかるくせず。菩薩の行、時に隨ふ。さだまれる方なし。これすなはち格にかかはらぬ振舞也。いまだ葉上房の阿闍梨と申しける時、宋朝に渡りて、如法の衣鉢を受け佛法を傳ふ。歸朝の後、寺を建立の志御坐しけるに、天下に大風吹いて損亡の事ありけり。世間の人の申しけるは、此風は異國の様とて、大袈裟大衣きたる僧共、世間に見え候。彼衣の袖のひろく、袈裟の大きなるが、風はふかする也。此如くの異躰の仁、都の中をはらはるべきなりと申しけるにつきて、はては公卿僉議に及びて、京中を罷出づべき由宣旨ありければ、弟子の僧共淺猿く思ひける處に、今日は吉日也。吾願成就すべしとて、堀川にて材木買ふ可き事なんど下知して、宣旨の御請申されたる詞の中に云はく、風は是天の氣也。人のなす所に非ず。榮西風神に非ず。何ぞ風をふかしめん。若し風神に非ずして、風をふかしむる德あらば、明王何ぞ捨て給はむと云云。是によりて此僧は子細ある者なりけり。申す旨あらば聞食し入らるべき由、重ねて宣下ありければ、寺建立の志を申されけるによりて、建仁寺を立てられけり。鎌倉に壽福寺、鎮西に聖福寺なんど、草創禪院の始也。然れども國の風儀に背かずして、教門をひかへて、戒律天台眞言なんど相兼ねて、一向の唐様を行ぜられず。時を待つ故にや。又西天も昔は經論相兼ねたり。漢土も上代は三學へだてなかりければ、深き心あるべし。殊に眞言を面として、禪門は内行なりけり。長の無下にひきくおはしければ、出仕に憚りありとて、遥かに年たけて後行ひて、長四寸高くなりておはしけり。我滅後五十年に、禪法興すべき由記しおき給へり。興禪護國論といふ文を作り給へり。其中に有り。はたして相州禪門建長寺を立て、大覺禪師叢林の規則、宋朝をうつしおこなひはじめらる。滅後五十年にあたる。建仁建長文字相似たり。年號を以て寺號とする風情も昔にたがはず。相州禪門をば、彼僧正の後身のごとく申しあへりき。佛法の興廢時により異なれば、時節の因縁をまたれけるにや。上宮太子は觀音の垂跡ながら戒律は猶興したまはで、鑑眞和尚始めて戒壇を立つ。如法受戒の作法、我朝にはじまる。是も時機をかがみ給ひけるにや。さて彼僧正、鎌倉の大臣殿に暇申して、京に上りて、臨終仕らんと申し給ひければ、御年たけて、御上洛わづらはしく侍り。いづくにても御臨終あれかしと仰せられけれども、遁世聖を世間にいやしく思合ひて候時に往生して、京童部に見せ候はんとて上洛して、年號は覺悟し侍らず、六月晦日説戒に、最後の説戒の由ありけり。七月四日、明日終るべき由披露し、説法めでたくし給ひけり。人々最後の遺戒と、哀れに思へり。次日、勅使たちたりけるに、今日入滅すべき由申さる。門徒の僧共は、よしなき披露かなと、あやぶみ思ひける程に、其日の日中、倚座に坐して、安然として化し給ひけり。勅使道にて、紫雲の立つを見けり。委細の事これあれども、略して記す。ありがたくめでたかりけり。

建仁寺の本願僧正〈栄西〉について
 故建仁寺の本願僧正は、戒律を持して(僧としての)威儀を守り、天台・真言・禅門のいずれも学び行じられて、さらに念仏をも人にお薦めになられていた。 遁世僧の身でありながら(僧綱職に就いて)僧正になられたことは、遁世僧らを「非人」であると卑しむなど、名僧ら〈法相宗や真言宗、天台宗における一部の貴族化した僧。世間的地位の高い僧達〉が見なしていたため、 むしろ仏法のためを思われてのことであって、自らの世間の名誉を求めてのことではなかった。遁世の光をけたじ〈気高し?消さじ?〉とされてのことであったのだ。
 そもそも、三衣一鉢を持して乞食頭陀を行ずることこそ、仏弟子の本来であろう。釈尊はすでに(弟子たちが辿り行くべき)跡を残されているのである。釈子として本師の風儀にどうして背くことがあるだろうか。であるにも関わらず、名僧らの振る舞いは、むしろ在家の行儀を尊び倣っているかのようであって、おおいに仏弟子の威儀に背いている。
 しかしながら、末代の人々は(遁世僧を)「乞食法師」などと称して卑しいと蔑み、むしろ仏法を軽んじていることは悲しむべきことである。(遁世僧といえども)僧正となって(宮中に)出仕するようになったならば、世間も軽蔑することは無いであろう。菩薩の(利他・他化の)行はその時代時代に沿ったもので、これといって定まったものではない。それは結局、型破りの(しかし菩薩としての)振る舞いであったにすぎない。
 いまだ(栄西が)葉上房[ようじょうぼう]の阿闍梨と申されている頃、 宋代の支那に渡られて、如法の衣鉢を受けて仏法を伝えられた。 日本に帰られて後、寺を建立しようとされていたときに、京都に暴風が吹いて大きな被害が出たことがあった。世間の人々は、口々に「この風は異国のものの様である。そういえば大袈裟・大衣を着た僧などが、近頃世間に見え始めた。彼らの衣の袖は広く、袈裟は大きいが、それがあの暴風を吹かせたのだ。あのような変わった外見の者らなど、都から追い出されるべきである」などと騒ぎ立てた。それがついには公卿が詮議することとになり、京都から追放させるとの宣旨が出るまでのこととなった。
 (栄西の)弟子の僧たちが(その京都追放の宣旨に対して)「なんと呆れたことであろう」と思っていたところ、(栄西は)「今日は吉日である。(寺を建立するという)我が願いはきっと成就するであろう」と言って、堀川に行って材木を買うべきことを指示されたのだった。そして、その宣旨に対して御請を申される文の中にこう書かれたのであった。「風とは天の気であって、人の所行ではありません。栄西は風神ではないのに、一体どうやって風を吹かせることが出来ましょう。もし風神などではないのに、(私栄西に)風を吹かせるという力があるというならば、明王〈天皇〉は一体どうして(そんな徳ある)私をお捨てになるというのでしょうか」と。すると、この書によって「この(栄西という)僧は子細ある者〈骨のある者〉である。(栄西が)なにか他に申すことがあるならば、それを聞き入れよ」との内容の宣下が重ねてあったため、(栄西は)寺を建立するという志を申され、ついに建仁寺〈源頼家開基〉が建てられたのである。また鎌倉の壽福寺〈北条政子開基〉、鎮西〈太宰府〉の聖福寺〈栄西創建〉なども、(栄西によって建てられた)草創期の禅院の始めである。
 しかしながら、(それら草創期の禅院では、従来の)日本国の風儀に背くことなく、(臨済禅という)宗門を立てることは控えて、戒律・天台・真言などを兼ねて行じ、(専ら禅のみを行う)一向の支那風を行われなかった。それは「時を待つ故のこと」であったのだろうか。また、西インドにおいても昔は経典も論書も兼ねて学ぶものであり、漢土にても古きは三学〈戒学・定学・慧学〉を分け隔てすることなど無かったのだから、(栄西には何か)深いお考えがあってそうされたことに違いない。特に、(栄西は)真言を面〈表〉として行ぜられ、禅門は内行とされていた。
 (栄西は)身長が非常に低く、(朝廷に)出仕するのも憚っておられたが、ずいぶんお歳を取られてから後も(真言の修習を)行われ、身長が四寸〈12cm〉高くなられた。
 (栄西は)「私の滅後五十年に、禅法は興隆するであろう」との趣旨の言葉を書き残されているが、『興禅護国論』という書を著され、その中にある。はたして後代、相州〈相模国。現:神奈川県周辺〉に禅門建長寺〈北条時頼開基〉が建てられ、大覚禅師〈蘭渓道隆。宋から来日した禅僧〉は叢林の行儀規則として、支那の宗朝を倣いとして行い始められた。それは(栄西の)滅後五十年にあたることであった〈栄西の没年は建保三年(1215)で建長寺の落慶は建長五年(1253)だが、無住は建長寺で支那風の寺院規則が始められたのが五十年後、すなわち文永二年(1265)としている〉
 建仁と建長とは文字もよく似たものであるが、(創建された時の)年号をもって寺号とすることは昔に違わぬもので、そのような相州における禅門の有り様も、かの僧正の後身〈忘れ形見・生まれ変わりのように語り合っている。仏法の興廃とは時代によって異なるものであるが、時節の因縁〈様々な原因・条件〉を待たれたのであろうか。
 上宮太子〈聖徳太子〉は観音菩薩の垂迹〈化身。仮の姿〉であったが戒律を興されることはついになく、鑑真和上が初めて戒壇を建立されて、如法受戒の作法が我が国でも始まったのである。これも時機というものを反映されてのことであったろうか。
 さて、かの僧正は、鎌倉の大臣殿〈源頼家〉に暇を申し出、(鎌倉から)京に上って臨終しようと申されたけれども、お歳もご高齢であったことから、ご上洛するのがわずらわしくなられた。そこで「どこでもかまわず臨終を迎えることとしよう」と仰せられたが、遁世聖が世間では卑しいものと考えられている時代であるから(むしろ自分は京都において)往生し、それを京都の若者らに示さんとして上洛され、年号は覚悟されなかった〈?〉
 六月晦日〈三十日〉の説戒〈布薩。毎月の新月と満月の日、戒律の条文を読誦して犯戒の有無を確認する、僧にとって最も重要な行事の一つ〉において、これが(栄西にとって)最後の説戒となることをお話になられた。
 七月四日、明日死ぬであろうことを仰られ、見事な説法をなさられたのであった。人々は、これが(僧正の)最後の遺戒となるのかと悲しみに沈んだ。そして次の日、(朝廷から)勅使がこられたが、今日入滅することをお伝えになった。門徒の僧らは(栄西が壮健な様子でもうすぐ死ぬなどとはとても思われなかったため)、「そんな筈はないだろう」と怪しんでいたが、はたしてその日の日中、倚座[いざ]に坐されたまま、安然として遷化されたのだった。勅使は道すがら、 紫雲が立ち登るのを見られたという。他にも細かい話は色々とあるが省略して記した。ありがたく、めでたいことであった。

無住『沙石集』巻第十下
[現代語訳:沙門覺應]

なお、栄西についての伝記には他に、同じく鎌倉期の臨済僧、虎関師錬(1278-1346)によって編ぜられた『元亨釈書』に載せられたものがあり、その全てが史実に則ったものであるかどうかは別として、それはまさに伝記であって栄西の出自から幼年時代、没年までの詳細が記されています。

出家者の「正しい」形相

さて、ここではそんな栄西によって著された『出家大綱』のうち、冒頭にも述べましたが、ただ衣について論じられた一章をのみ紹介するものです。

これは「仏教僧」とはそもそも何か、その「あるべきようわ」を示す一資料としてであり、またそれぞれの人が信奉する、それは往々にして偏執というべきものとなりかねないものですが、宗派の在り方つまりは自身らの在り方を見直すための恰好の書であろうと考えてのことであります。

今、禅を信奉する者は他宗を知らず、例えば自己流の行儀・思想を戒律としつつも、しかしそれも一向守らず、阿毘達磨も真言も知らず、ために禅のその真価を見いだせていません。それは真言を奉ずる者についてもまったく同じで、戒律もまるで持せず、阿毘達磨も中観も禅についてもほとんど知らず学ばないがためにまるきり外道、下賤な拝み屋に他ならない状況となっています。

戒と律とを修道の根幹に置くのは仏教通じて当然のことであります。が、それが当然のことではまったく無くなってしまった現今の日本仏教諸宗の僧職者らは、その認識を持つことからまず始めなければならないでしょう。その一環としてその装束、すなわち出家者の袈裟衣を正しいものとすることはやはり必須のことです。

是正するというのであれば、まず何が「正しい」のかの基準を明確とし、それをよく知らなければなりません。

仏教において、その「正しい」の基準となるのはまず第一に律蔵であり、そして諸経論の所説がそれに続くものです。また律蔵や経論の所説ではその詳細が解し難い場合、歴代の渡天した僧たちの記録や、往古の支那の史書などが、その有益な参考書として活用され得ます。

そこで支那以来、日本仏教史上においても、やはりその「正しい」について様々に論じられて、議論が積み重ねられてきました。そして、『出家大綱』は、栄西によって鎌倉期に著された小著であるとはいえそのうちの一書に間違いなく数えられるべきものです。

(なお、その議論は近世江戸後期の慈雲尊者によって一応の決着が着けられています。もっとも、衣について根本的に解決しなければならない点は依然としていくつかのこされています。)

現代の日本仏教界においては、いずれの宗派であろうとも、もはやそのようなことを考える者などほとんど絶無となっているでしょう。けれども、しかしもし、仏陀の教えを苦海を脱する唯一の術と奉じ、けれどもその日本での在り方に疑惑を持っている人がいまだあるならば、本書はその疑惑を晴らす小さくも一つの手がかりとなるに違いありません。

貧衲覺應 拝記
(horakuji@gmail.com)

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2.凡例

本文

本サイトで紹介している明治九年、京都鳩居堂より刊行された『校正 佛制比丘六物図』を底本とし、『大正新脩大蔵経』(『大正蔵経』)所収のものを適宜参照した。

原文は漢文であるため、原文・訓読文・現代語訳を併記し、対訳とした。訓読文は基本的に底本の返り点に随って読み下したものである。もっとも、それぞれいずれかをのみ通読したい者の為に、対訳とは別に、原文・訓読文・現代語訳のみの項を最後に設けている。

原文・訓読文は、原則として底本のまま旧漢字を用いているが、現代語訳では適宜現行の漢字に変更した。

原文には、所々に割注がなされているが、WEB上では再現不可能な為、それらを「下付き文字」(例;下付き文字)にすることによって、割注であることを示した。これは訓読文においても同様である。

訓読文・現代語訳では、読解しやすいよう適宜段落を設けているが、もとよりこれは私的に一応なしたものであって原文にしたがったものではない。

現代語訳は、逐語的に訳すことを心がけた。もっとも、現代語訳を逐語的に行ったと言っても、読解を容易にするため、原文にない語句を挿入した場合がある。この場合、それら語句は( )に閉じ、挿入語句であることを示している。しかし、挿入した語句に訳者個人の意図が過剰に働き、読者が原意を外れて読む可能性がある。注意されたい。

また、脚註を一々参照せずにある程度読み得るよう、 難解あるいは特殊な語句にはその直後に簡便な説明を〈 〉に挿入した。これも同じく下付き文字としたが、割り注とただちに区別がつくよう、朱色・赤文字とした(例;〈語句解説〉)。

難読・特殊と思われる漢字あるいは単語につけたルビは[ ]に閉じた(例;意楽[いぎょう])。

脚註

語注は、とくに説明が必要であると考えられる仏教用語などに適宜付した。ただし、これは原文にではなく、訓読文に付している。

本文に経論からの引用がされている箇所は、判明した範囲でその典拠を示した。それが『大正蔵経』による場合、例えば引用箇所が『大正蔵経』2巻177項上段であった場合、(T2. P177a)と表示している。なお中段はb、下段はcである。

一部、引用されている典籍の中には、『大正蔵経』に未収録のものがあるが、その場合は法楽寺蔵の該当書によった。その場合、巻数のみで丁数には言及していない。

原意を外れた錯誤、知識不足の為の誤解を含む点など多々あると思われる。願わくは識者の指摘を請う。

小苾蒭覺應
(horakuji@gmail.com)

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