真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 明恵上人の手紙(1)

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1.原文

上人の御消息に云はく、遣はされける処、未だ之を勘へ出さず。或るは云ふ、湯浅権守の許へと云々如来*1 の在世に生れ遇はざる程に口惜しき事は候はざる也。我も人も、在世若しは諸聖の弟子、迦葉*2 舎利弗*3 目連*4 等のいませし世に生れたらましかば、随分に生死の苦種を枯らし、仏道の妙因を植ゑて、人界に生れたる思出でとし候べきに、如来入滅の後、諸聖の弟子も皆失せ給へる世の中に生れて、仏法の中において一の位を得たる事も無くて、徒らに生じ徒らに死する程悲しき事は候はず。昔仏法の盛んに流布して候ひし世には、在家の人と申すも皆、或るは四菩提*5 の位を得て、近く聖果を期するもあり、或るは見道*6 と云ひ、無漏の智慧を起して三界*7 の迷理の煩悩を断ち尽して、預流果*8 と云ふ位を得るもあり、或るは進みて欲界の六品の修惑を尽して、一来果*9 と云ふ位を得るもあり。是までは在家の人も得る位也。此の位に至りぬれば、欲界の煩悩を断ち尽して、不還果*10 と云ふ位を得て、其の次に色界・無色界の煩悩を断ち尽して、阿羅漢果*11 を得るなり。或るは随分に修行して菩薩の諸位*12 に進むもあり。人間界に生れたらば、此の如き所作を成したらばこそいみじからめ、煩悩悪業にからめ纏れて徒らに老死にするは、何事にも合はずしてのどかに老死にに死ぬとても、思出あるにも候はざる也。皆前の世に業力*13 の催し置きたるに随ひて、今生安くして死ぬる様なれども、さりとても、やがて進みて生死を出でて仏に成らんずるにてもなし。只静かに飯打ち食ひて、きる物多くきて、年よりて死ぬる事は、犬・烏の中にもさる物は多く候也。

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2.現代語訳

明恵上人のお手紙にこのように書かれている。宛先はいまだどこか不明である。一説には、湯浅権守藤原宗重にあてられたものという。

「如来がご健在の世に生まれ遇わなかったこと程に残念な事はありません。私も人も、釈尊がご健在もしくは諸々の偉大な仏陀の直弟子達、摩訶迦葉や舎利弗・目連などのおられた世に生まれていれば、それぞれの分に応じて生死輪廻の原因たる煩悩を枯らし、仏道を成就する優れた種を植えて、人として生を受けた甲斐もあったことでしょうに。如来ご入滅の後、諸々の聖者たる弟子等も皆亡くなってしまった世の中に生まれて、(仏法に巡り逢えたにもかかわらず)仏法の中において一つとして悟りへの階梯の位を得る事も無く、空しく生まれて虚しく死ぬことほど悲しいことはありません。昔仏法が盛んに行われていた時代では、在家の人であるといっても皆、あるいは四菩提の位を得て、近い将来に聖者の位に到達する者もあり、あるいは見道といって、煩悩を離れた智恵を起こして三界に迷い続けて地獄・餓鬼・畜生に生まれ変わる因たる煩悩を断ち尽くし、預流果[よるか]という位を得る者もあり。あるいはさらに進んで欲界の六品[ろくぼん]の煩悩を尽くして、一来果[いちらいか]という位を得る者もあり。これまでは在家の人も得られる位です。この位にまで至ったならば、欲界の残りの煩悩をも断ち尽くして、不還果[ふげんか]という位を得て、その次に色界・無色界の煩悩を断ち尽くして、阿羅漢果[あらかんか]を得るのです。あるいは可能な限り修行して菩薩の諸位に進む者もありました。人としてこの世に生まれたならば、このような行いをなしてこそ甲斐があるというもの。煩悩・悪業にからめとられて徒に老い死んでいくのは、何か特別苦しいこと・つらいことがあったわけでもなくのどかに老いて死んでいけたとしても、人の生を受けた甲斐にはならないのです。皆前世になした業の力によって、今世の一生を安らかに送って死ねるとは言え、であるからといって、やがて漸漸として生死輪廻の苦海を解脱して仏になろうわけでもなし。ただ静かに飯をあれこれと喰らい、着る物も多く着て、年を取ってやがて死ぬことは、犬や烏の中にも斯様なのは多くあるのですから。」

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3.脚注

  • 如来[にょらい]…サンスクリットあるいはパーリ語のTathāgata[タターガタ]の漢訳語。いわゆる仏陀のことで、「仏十号」といわれる仏陀の十ある異称のうちの一つ。 
    ただ漢訳では、tathā[タター]を「如(そのように)」、gata[ガタ]を「去った」者として解釈し、初期は如去[にょこ]なる訳語を当てた。が、やがて、これはその仏陀という存在の解釈にも関わったが、Thathāgataは、tathā[タター](そのように)とāgata[アーガタ](来た)からなる語であると捉えられ、「そのように来た者」「かくの如く来た者」として、如来という訳がなされ、これがやがて定着した。南伝のパーリ語の伝統では、この語に八種の解釈を与えているが、結局、いずれも原語解釈で確定的なものはない。
    日本では現在、これに「人格完成者」などといった訳をあてる学者があるが、ただ語感が軽薄になっただけで、依然として意味不明のため、むしろ既に定着して久しい伝統的な如来との訳語に従った方が可のように思われる。英訳でも、その訳語に混乱が見られ、結局現代はこれをどう訳して良いか未だわからないようである。
    一般に、小乗では、如来つまり仏陀は釈尊以前に六人存在した(あるいは釈尊を含めて五人)といい、しかし現在において如来という場合は釈尊ただ一人を指す。これら七人の仏陀を、過去七仏[かこしちぶつ]という。そして、釈尊の次の仏陀は、現在天界の一つ、都卒天[とそつてん]にて修行中の弥勒菩薩であるという。対して大乗では、過去七仏ならびに未来仏としての弥勒を含めた他にも、如来は多数あるという。例えば西方の宇宙には阿弥陀如来の世界があり、東方には阿閦如来(薬師如来)があり、南方には宝生如来があるなどである。また、釈尊が悟った法そのものを、大日如来あるいは毘盧遮那仏と言い、時空を越えた悟りの根本と見なす。
    もっとも、明恵上人がここでいっている如来とは、釈尊のこと。→本文に戻る
  • 迦葉[かしょう]…サンスクリットMahākāśyapa[マハーカーシャパ]あるいはパーリ語Mahākassapa[マハーカッサパ]の音写名、摩訶迦葉の略。偉大な仏弟子として尊崇される。バラモン階級出身。
    釈尊成道後、三年ほどで弟子となっている。きわめて厳格にして清貧なる修行生活を貫いたことから、頭陀第一と称えられている。また、釈尊滅後に教団を取りまとめ、釈尊の残された教えと戒律とを五百人の比丘と共に確認・編集した、いわゆる結集[けつじゅう]の中心人物。特に漢語仏教圏においては釈尊十大弟子の一人に数えられる。禅宗では、独自の伝承にもとづき、釈尊から以心伝心して教えを継いだ、釈尊の後継者と見なしている。同名の僧が他にも多数あったことから、特に「偉大な」を意味するmahā[マハー]を名前に冠して呼称される。
    南方の伝承によれば、カーシャパ尊者は大変な長寿を全うしたという。仏滅後の結集の時、その齢120歳であったなどと伝えられる(この120という数は、実年齢をいうものでなくて大変な長寿であったという意)。そしてまた、その生涯を閉じるまで尊者は横になって寝ることがなかった、と言われる。それは十二頭陀あるいは十三頭陀行の一つである。
    北方の伝承の一説によれば、カーシャパ尊者は滅度していないという。いまだKukkutagiri[クックタギリ]という山(漢訳では鶏足山)に、三昧に入ったまま包まれてあり、釈尊の次の仏陀である弥勒仏の下生を待っている、と言われる。→本文に戻る
  • 舎利弗[しゃりほつ]…サンスクリットŚāriputra[シャーリプトラ]あるいはパーリ語Sāriputta[サーリプッタ]の音写名。あるいは、Upatissa[ウパティッサ]との名も伝わる。釈尊の弟子の中、もっとも偉大であった仏弟子の一人。漢語仏教圏で十大弟子の一人。釈尊成道後、まもなく弟子となった初期の弟子の一人。特に智恵が優れて高く、仏弟子中智恵第一と尊崇される。バラモン階級出身。はじめ釈尊当時に多く存在した沙門の一人、仏教で言う六師外道のうちの一人である懐疑論者Sañjaya[サンジャヤ]に師事し、その高弟であった。しかし、初転法輪にて悟りを得た五群比丘の一人、Aśvajitt[アシュヴァジット](Assaji[アッサジ]・馬勝[めしょう])尊者が静かに托鉢する姿を見て心打たれ、その師とその教えを訪ねる。そして、彼からいまだ初心で詳細に法は説けないがと、ただいわゆる法身偈[ほっしんげ]「諸法従縁生 如来説是因 是法従縁滅 是大沙門説(諸々のモノは縁に従って生じる。如来はその因を説かれた。これらのモノはまた縁に従って滅するものであると。これが大沙門の説である。)」を聞いた。しかし、シャーリープトラは、これだけの文句でたちまちその意とするところを悟り、釈尊に帰依することを決意。親友であったMaudgalyāyana[マウドガルヤーヤナ]尊者と共に、仏門に入って比丘となった。仏弟子となって以来、その智恵の高さから、しばしば釈尊にかわって説法することもあったという。釈尊の実子Rāhula[ラーフラ]尊者が出家したときはその和上となり、受具足戒以降もその指導にあたった。
    自身の寿命が尽きようとしていることを悟ったシャーリープトラ尊者は、釈尊にいとまごいをした後、実母のいる生地に返って説法し、静かにその生涯を閉じた。一説には、釈尊の死に先立つこと数ヶ月であったという。→本文に戻る
  • 目連[もくれん]…サンスクリットMahāmaudgalyāyana[マハーマウドガルヤーヤナ]あるいはパーリ語Mahāmoggallāna[マハーモッガッラーナ]の漢語音写名、大目犍連[だいもっけんれん]の略。あるいはパーリ語でKolita[コーリタ]との名も伝わる。舎利弗とならび称される、仏陀の直弟子中もっとも優れていた一人。漢語仏教圏では十大弟子のうちの一人に数えられる。バラモン階級出身。
    舎利弗と同じく懐疑論者サンジャヤの高弟であったが、舎利弗尊者と共にその元を去って仏門に入った。釈尊の教えによって速やかに悟りを得、特に神通力に秀でていた為に、神通第一と称される。これによって、特に「偉大な」を意味するmahā[マハー]を名前に冠して呼称されている。しかし、その最期は、ジャイナ教徒らの企みによって無残にも撲殺されるによって迎えられる。目蓮尊者は、神通力によって事前にこれを知って初めその難を逃れるが、これがいくら避けても避けられ得ない業果であることを知り、次にはあえて逃げることが無かったという。南方の伝承にしたがえば、その避けがたい業果とは、尊者は前世において悪妻と共に企み、老いて盲い、邪魔になった両親をあざむいて林に誘い出し、撲殺したことによるものと註解される。釈尊の死に先立つこと数ヶ月であったといい、舎利弗尊者とほぼ同時期にその生涯を終えている。北方の伝承では、少しく異なる話を伝える。
    避けがたい業果について、これに似た話が「仏の顔も三度まで」などという諺によって日本でも説かれていたが、いつの間にかその内容が完全に忘れ去られて、意味も変容し、現在は「いくら仏陀でも同じ過ちを三度繰り返せば終には怒る」などといった、まったく異なる意味で用いられている。→本文に戻る
  • 四菩提[しぼだい]…何を指したものか不明。単純に三菩提の誤写かとも思われるが内容からすると全く適当でない。これを四善根の誤写とすると意味が通じる。四善根とは何かについては、“仏教の瞑想”の“五停心観”を参照のこと。→本文に戻る
  • 見道[けんどう]…説一切有部の教学で、仏道修行の階梯である三道の初め。無漏の智恵によって四聖諦を観察するに至った位。五停心観をこの階梯に至ったものが聖者と呼ばれる(以下、それぞれの語注は、原則として、説一切有部の教学に随う)。→本文に戻る
  • 三界[さんがい]…仏教の世界観を示す言葉で、全世界あるいは全宇宙の意。仏教の世界観に依れば、この世界(宇宙)は、欲界・色界・無色界の三つからなっており、すべての生き物は、解脱しない限り、この三界のうちいずれかに輪廻し続ける。もっとも、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天のうち、天以外のすべては欲界に属す。天もその下級の一部が欲界に属すと言う。この世界観は、大乗小乗共に共通する。三界の上方に行けば行くほど、そこで享受しうる楽は大きくそして寿命も長くなると言うが、しかしついにその寿命が尽きるときには、享受した楽が大きかった分、恐るべき苦しみを味わう事になる、と言われる。よって、三界のいずこに生まれようとも、それが譬え天界であっても、苦しみから逃れられはしない、と仏教は説く。
    現在、小乗と古来言われた部派のうち、その典籍がほぼ完全な形で伝わっているのは上座部と説一切有部のみであるが、それぞれ異なる阿毘達磨の典籍を伝えている。しかし、これらの阿毘達磨では、やはりほぼ全く同様の世界が説かれている。これら部派では、仏教の目標である涅槃とはまさに「実在する世界」・「普遍的究極の存在」であり、それは三界の外にある、とされる。対して大乗では、それは「実在する世界」などではなく、有無などという相対の基準で表現する事など出来ないという。→本文に戻る
  • 預流果[よるか]…預流とは、いわゆる部派仏教における修道階梯、四向四果[しこうしか]あるいは四双八輩の最初の位。ある境地に向かって修行中の段階を「向」といい、修行によって到達した境地を「果」と言う。ここでは預流果であるから、預流の境地に到達した者のこと。邪見がなくなり、因果と輪廻について疑いがなく、正しく理解してこれに乗っ取った行いをする者、と定義される。(現存する唯一の部派上座部の教学では、例えば、人が預流向の段階に到達したとして、一秒にも満たない次の瞬間には預流果を得る、とされている為、実質上そこにあるのは果だけである。)
    輪廻や業報思想などを否定する邪見を断ち、地獄・餓鬼・畜生の三悪趣に生まれ変わる因となる煩悩から離れて、これに執着しなくなることによって至る境地。人がこの境地にいたれば、死後最大でも7度生まれ変わるうちに、阿羅漢果を得ることが約束されるという。見道の最初。聖者の流れに入った最初の位であることから、預流といわれる。サンスクリットではsrotāpanna[スローターパンナ]あるいはsrotāpatti[スローターパッティ]、パーリ語ではsotāpanna[ソーターパンナ]あるいはsotāpatti[ソーターパッティ]と言う。これを預流と漢語に訳さず、ただ音写した言葉に、須陀洹[しゅだおん]がある。また、入流との訳語もある。
    仏典には、釈尊ご在世の当時、その教えに触れて仏門に入り、たちまち預流果はもとより、さらにその上の境地に至ったという者が、出家在家を問わず五万といたことが説かれている。が、上記本文のごとく明恵上人当時もそうであったらしいように、現代においては事情がまったく異なる。たとえば、南方の上座部が信仰されている国々、いわば上座部の本場では、四双八輩がまさしく到達されるべき理想の境地に違いない。だがしかし、このいずれかの境地に至ることなど、ほとんど夢のような話になっている。世間で預流果を得た人がいる、などと噂が立つだけでも、大変なことである。実際、タイにおいて半世紀ほど前、近年まれに見る高僧といわれた持戒清浄にして森林住の大徳があって、世間の篤い尊崇を集めていたが、その大徳ですら預流果に至っていたに違いないという程度であった。もっとも、教義上からすれば、「なるのは不可能」などと考えているわけではまったくなく、誰もが真摯に修行すれば到達可能である、とはしている。しかし、現実には、人々にとって阿羅漢など夢の又夢、預流というのすらまた遠い遠い憧れのものとなっている。もっとも、ビルマには、ここ一世紀から四半世紀ほど前にかけて、阿羅漢に違いないと「世間で噂される」僧侶が十人といた。彼らの多くが冥想の指導者として、広く在家出家を問わず指導していたため、その信奉者達・追従者達は皆、「私が師事した長老は阿羅漢に違いない」と決め込んでいた。実際、今も彼らの遺骨や遺骸は阿羅漢の舎利として、特別に奉られている。もっとも、現在は阿羅漢に違いない噂される僧などいないという。スリランカは、大勢として見た場合、戒律の実践において上座部仏教国中最低という位置にあり、また冥想の実習度も極めて低いが、経典の読解やパーリ語・サンスクリットなど学問については力を入れているため未だ高水準を持っている。よって勢い、彼の地においては、ただ学徳ひときわ優れた者が聖者扱いされる場合がある。
    さて、しかし、それら阿羅漢である、預流であるなどと近年噂された長老達で、自分が阿羅漢である、あるいは預流果に至ったなどと宣言し公言した者など、現実には一人としていない。もしいたとしたら、それはその者が阿羅漢でも預流でもなかった証となる。なんとなれば、そのような事を世間に宣言することは明らかな、そして重大な律違反であり、また無益なことであるから言わないものである。よって彼の地で、出家在家問わず、「私は預流果(あるいは阿羅漢果)に到達しました」などと言おう者なら、まず哀れな気違い扱いか、仏教について右も左も判らない者の妄言、あるいは増上慢、もしくは売名行為だと取られるに違いない。実際、真摯に修行に励む大徳、これは大乗も小乗も答えが全く同様であったが、自分が具体的にいかなる境地にあるかなど「どうでもいい」「興味がない」、のだという。→本文に戻る
  • 一来果[いちらいか]…四向四果のうち、二段階目となる境地。九種に分類される欲界の煩悩、いわゆる九品煩悩・九品惑のうち、下から六種の煩悩を断じて到達する。人がこの境地に至って死を迎えると、次は天界に生まれ変わって安楽な生活を送りつつ修行を完成にむかわせ、その後また一度だけ人として生まれ変わってついに阿羅漢果を得る、ということから一来という。サンスクリットsakrdāgāmin[サクルダーガーミン]あるいはパーリ語でsakadāgāmi[サカダーガーミ]。→本文に戻る
  • 不還果[ふげんか]…四向四果のうち、三段階目となる境地。一来果を得てもいまだ断じ切れていない欲界の三種の煩悩を断じることによって到達する。ここに到達した者は、その死後もはや人間に転生することはなく、天界で最後に残った微細な煩悩を断じて阿羅漢になるという。サンスクリットならびにパーリ語でanāgāmi[アナーガーミ]。→本文に戻る
  • 阿羅漢果[あらかんか]…四向四果のうち、最終第四段階目の境地。サンスクリットarhan[アルハン]あるいはarhat[アルハト]、またはパーリ語arahatta[アラハッタ]の音写語。「尊敬・供養を受けるに値する者」の意とされる。応供[おうぐ]との漢訳語がある。
    経説に従えば、この境地を得たとき、修行者は五神通あるいは六神通と言われる神通力すべてを備え、自身が解脱したことを明らかに知り、また自他の過去世・未来世のあり方が見通せるようになるという。
    部派の教義では、阿羅漢が人の得られる最高の境地であり、ここに達したとき、人は輪廻から完全に解脱する、とされる。しかし、大乗の見地からすると、小乗における最高の境地としての阿羅漢は、生死輪廻から解脱しはしたものの、慈悲に欠け、あるいは慈悲が弱くて方便も果たさず、いまだ完全な智慧を得るに至っていない、と言われる。煩悩障は断っているが、所知障は断ち得ていないと。ゆえに、大乗からすれば、これを小乗つまり不完全な教えの聖者とする。
    また阿羅漢は如来の十号といって、仏陀には十の異なる敬称があるが、その内の一つでもある。→本文に戻る
  • 菩薩の諸位…菩薩とは、サンスクリットbodhisattva[ボーディサットヴァ]あるいはパーリ語bodhisatta[ボーディサッタ]の音写語、菩提薩埵の略称。「悟りを求めて修行する者」の意。部派では悟りを開く以前の釈尊をのみ呼ぶときに用いる呼称であるが、大乗ではさらに大乗の悟りを求めて修行する者をも含めて、菩薩と呼ぶ。
    具体的には、修行者が、波羅蜜[はらみつ]あるいは波羅蜜多[はらみた]といって、完全な悟りを得る為の様々な善行、功徳を積んでいる段階。波羅蜜あるいは波羅蜜多とは、サンスクリットもしくはパーリ語のpāramitā[パーラミター]あるいはpāramī[パーラミー]の音写語。原意は「完全なる修得」・「完成」。しかし、伝統では、漢語で「到彼岸(彼岸に到達すること)」の意味と解釈される。これは漢語仏教圏に限らず、チベット語仏教圏にても同様。これに部派仏教つまり小乗のうち上座部では十波羅蜜を数え、大乗では六波羅蜜あるいは十波羅蜜と言って、六から十の行が設定されている。しかし、小乗と大乗では、その数が同じでも内容が少しく異なる。この波羅蜜多を、三阿僧祇劫という、およそ永遠とも言えるほどの長大な時間をかけ全うしたことによって、釈尊は仏陀となり得たと、小乗・大乗とが共に説く。ただし、小乗では、人は仏陀にはなり得ず、阿羅漢が限度である説く。
    たとえば部派のうち上座部の教学では、悟りには五つの浅深があるとしている。すなわち、正等覚(sammā sambodhi)・独覚(pacceka-bodhi)・無上声聞覚(aggasāvaka-bodhi)・大声聞覚(mahāsāvaka-bodhi)・初因声聞覚(pakatisāvaka-bodhi)である(原語は全てパーリ語による)。それぞれの悟りの浅深は、波羅蜜を修行した期間が異なることによって生じるものだと言われる。例えば正等覚を得た仏陀になるためには、四から十六大劫のあいだ輪廻する中で、菩薩として十波羅蜜を満足しなければならないという。阿羅漢とは、無上声聞覚以下の悟りを得た者をさすが、今人が獲得し得るのはただ初因声聞覚のみであるという。これが現在の上座部の理想的境地、最終目的となる。なんとなれば、仏陀在世中の仏陀周辺に生まれることが出来なければ、無上声聞ならびに大声聞、つまり偉大な仏陀の直弟子になどなり得ないからで、その為にはやはり長大な時間の中での波羅蜜修行が必要とされる。それら五つの悟りの浅深のうち最も浅い初因声聞覚でも、それぞれ人の機根・善根功徳の差によって、これを獲得するための期間は無制限に異なるという。
    これに対し、大乗では、同じく無上正等覚(anuttarā Samyaksaṃbodhi)いわゆる仏陀の悟りを最高のものとして、しかしその教えには三種類の異なりがあるとする。すなわち菩薩乗(bodhisattva-yāna)・独覚乗(pratyekabuddha-yāna )・声聞乗(śrāvaka-yāna)の三乗(原語は全てサンスクリットによる)。これらがそのままそれぞれ得られる悟りの浅深を意味し、菩薩乗こそが仏陀と同じ無上正等覚を得る為の教え、大乗であるとされる。独覚乗ならびに声聞乗は、輪廻から解脱する事は出来るものの、しかし不完全な教え、つまり小乗とされる(一説に、小乗のそれら果報は、輪廻から解脱したとの増上慢が生じるのみで、真に解脱したとは見なさない)。人は仏陀になり得るが、その為にはやはり釈尊と同じく長大な時間をかけての菩薩行が必要、と説く。この点に、まず小乗と大乗との大きな教義の異なりが見られる。他に、三乗の他に天乗と人乗が加えられた五乗が説かれる場合もある。さらに、一乗(eka-yāna)と言って、それらそれぞれ異なる教えが説かれ獲得される悟りに浅深があると言っても、最終的にはそれら全ての教えは、いずれ全き仏陀の悟りに通じる道である、とも説かれる。大乗の実際の流れでは、主流となる見解。
    菩薩の諸位つまり階梯には、狭くは十地といって十の段階があり、これには先の四向四果が一部含まれる。広くは五十三地といって、五十三の段階が設けられる。江戸日本橋から京都三条大橋に至るまでに設けられた五十三の宿駅、東海道五十三次は、この(『華厳経』十地品あるいは入法界品の)菩薩の諸位に由来すると言われる。→本文に戻る
  • 業力[ごうりき]…業とは、サンスクリットKarma[カルマ]あるいはパーリ語Kamma[カンマ]の漢訳語で、原意は「行為」。あるいは、仏教ではこれにさらに、「現在なした行為が、その内容によって、未来に結果をもたらす働き」という意味を持たせる。業力とはまさにこれを意味する言葉。
    仏教において、行為は、身体・発言・意識の、三種類いずれかによるものと分類される。これを、身口意の三業という。また行為の内容は、善・悪・無記(善悪どちらでもない)の三種類に分類される。善なる行為は、安楽なる結果を、悪しき行為は苦しみの結果を、無記はどちらでも無い結果をもたらす。これを善因楽果、悪因苦果などという。また、行為には個人のものと社会など全体のものとがあり、これをそれぞれ不共業[ふぐうごう]と共業[ぐうごう]と言う。個人としてなされた行為が、ただ自身にのみ結果するのと、社会全体としてなされた行為が、将来同一の社会に結果すること。このように、業に関して、仏教はサンガ分裂後、各部派によって様々に分析がなされ、その仕組みが体系的に理解されるようになった。
    業の思想と、さらに輪廻転生は、仏教の大前提であって不可分のもの。人は業によって輪廻する。そしてその業は、悟りによる以外に、その元から尽くすことは出来ない。ゆえに悟らなければ、人は、生命は、未来永劫輪廻転生し続ける。
    仏陀自身は、業についてかく言われている。「凡夫がこれについて深く考えれば、ついに発狂するであろう」なと。業のその働きは時として不可思議であり、実に複雑であって、仏陀以外にこれを完全に理解することは不可能であるという。もっと、これは肝心なことであるが、この因果の道理は仏陀が神の如く創り出したものではない。仏陀は、その道理を明らかに見て知り、その中で悟りを得るに必要なことだけを、我々に開示したのである。明恵上人もこの手紙の中で、この事に触れている。「惣じて諸法の中に道理と云ふ者あり。甚深微細にして輙[たやす]く知り難し。此の道理をば仏も作り出し給はず、又天・人・修羅等も作らず。仏は此の道理の善悪の因果となる様を覚りて、実の如く衆生の為に説き給ふ智者也」と。
    ところで、「仏教の信は盲信ではないのだ、仏陀の所説はすべて科学的に証明し得、あるいは合理的に説明され得るものである。それに対する確信が仏教の信なのだ」などと、ともすると高踏的に、あるいは傲慢に言う者がある。しかし、この因果の道理ならびに生命の輪廻転生することは、ただ信じる以外に道はない。因果の道理ならば世間を観察しただけでも了解できる、という者もあるが、これは嘘である。現実世界において、悪業を積み重ねる者が、そのあまりに深い悪業にもかかわらず、その苦果などまったく受けずに五欲を享受して飽きることなく、また世に蔓延ってこれを牛耳り、善業を行う者が虐げられて不幸のただ中にある、などという実例を挙げようと思えばキリなど無い。よって、因果について、ただ世間を眺めた初めから、確信に至りえる者など存在しない。輪廻を前提とするからこそ、因果の道理は意味をもつ。修行が相当に進めば、自らこれを漸漸として知る事になるというが、それでもそれは個人的了解に過ぎないものであって、客観的証明などは不可能である。仏教では、いきなり信じよ、などと言うことはない。自分で聞いたことをよくよく考え、そこで自分が納得すれば実行すればよい。納得できずとも、輪廻も業報も信じず、あるいは半信半疑で仏教を学ぶのも良い。しかし結局は、客観的事実に基づかずに信じること、科学的根拠無く信じることを盲信というのであれば、やはり盲信する以外に他ない。そして、信仰に段階があることは、キリスト教など他宗教においても同じことが言える。盲信する事を、あるいは盲信する者を、ただいたずらに非難するのは、愚かな行為である。
    世間一般では、何とか仏教が説くままの輪廻を否定しようと、これを原子の循環説であるとか、業とは自然科学の証明し得る作用反作用あるいは慣性の法則であるとか、反応機構であるなどと把握しようとする者が非常に多い。このような者を伝統的に、世智弁聡[せちべんそう]と言う。これは、仏教を受け入れるのが困難な八つの条件、いわゆる八難の一つであり、邪見であると断じられる。つまり斯様な人々は、昔から大勢いたのである。→本文に戻る

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