真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 明恵上人の手紙(10)

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1.原文

如来は是我が父母也、衆生は子也。六道*1 四生*2 に輪転するとも、如来と衆生とは親子の中かはる事なし。世間の親子は生を替ふるに随ひて替りもて行く。六道の衆生は皆三種の性徳の仏性*3 有るが故に、皆仏の子也。故に如来自ら、我は父也、汝は子也と契り給へり。我等大聖慈父の御貌をも見奉らずして末代悪世に生るゝ事は、先の世に仏の境界に於いてこのもしく願はしき心も無かりし故也。一向に渇仰をなさば、必ず諸仏に親近し奉りて、不退の益を得べき也。生死の果報を得るも、生死の境界を願ふ心の深ければこそ生死界にも輪転する様に、仏の境界を願ふ心深ければ、亦仏の智恵を得る也。只生死界をば悪き大願を以て造り、涅槃界をばよき大願を以て造る也。去れば華厳経に云はく、応に清浄の欲を起して無上道を志求しべし*4 と云へり。清浄の欲と云ふは仏道を願ふ心也。仏道に於いて欲心深き者、必ず仏道を得る也。されば能々此の大欲*5 を起して、是を便として生々世々値遇し奉りて、仏の本意を覚り明らめて、一切衆生を導くべき也。此の理を知り終りなば何事かはわびしかるべき。欲に清浄の名を付くる事は、世間の欲の名利に耽りて何までも心に持ちひつさぐる欲の如くにはなし。仏の境界を深くこのもしく思ふ大欲無ければ、仏法に遇う事無し。仏法に遇はざれば、生死を出づる事なし。かゝる故に、暫く此の大欲にすがりて仏法を聞き明らむれば、自ら秘蔵しつる仏法も、大切なりつる大欲も、共に跡を払ひてうする也。加様に跡も無き事をば清浄と云ふ也。仍りて清浄の欲と名づけたる也。急がしければ、筆に随ひ口に任せて申す也。恐惶謹言。建仁二年十月十八日 高弁。」時に紀州在田郡糸野の山中也

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2.現代語訳

「如来は我々の父母、生ける物はその子です。六道の中を四生いずれかの生ける物として輪廻流転してはいても、如来と生ける物との親子の仲が変わる事はありません。世間の親子関係は生まれ変わるに従って変わっても行くでしょう。六道の生ける物はみな三種の生来の仏性を備えていることから、皆が仏の子なのです。故に如来ご自身から、「私は父であり、汝は子である」とお約束されたのです。我々は大聖慈父のお顔をすら拝見することも出来ずに末代の悪世に生まれた事は、過去世において仏の教えを請い願うような思いなど無かったため。ひたすらに(仏の教えを)仰ぎ慕いこそすれば、必ず諸仏の世に生まれて親しみ近づくことが出来、不退転の利益を得る事でしょう。生死輪廻の世界をいたずらに流転するのは、そのように願う思いが深いからこそ我々は生死の苦海に輪廻流転するように、仏の境地を願う心が深ければ、また仏の智慧を獲得し得るのです。ただ自らが生死輪廻する境涯は自身の悪しき大願によって作られ、涅槃は善なる大願によって造られるのです。故に『華厳経』ではこのように説かれています。「応に清浄の欲を起こして無上道を志求すべし」と。清浄の欲というのは仏道を願う心のこと。仏道において欲心が強い者は、必ず仏道を成就するでしょう。それゆえによくよくこの大欲を起こして、是に依って生々世々に仏の教えに触れ、仏の本意を悟り明めて、生きとし生ける物を導かなければなりません。この理[ことわり]をすでに知ったならば何を戸惑うことがあるでしょう。欲に「清浄」の名を付ける事は、世間のいわゆる欲心によって名聞利養に耽って際限なく心を閉じ塞ぐような欲とは同じではありません。仏の境地を深く惹かれてこれを望む大欲が無ければ、(生死輪廻の苦海に流転する中で)仏法に出遭うことはないでしょう。仏法に出遭う事が出来なければ、生死輪廻を脱する事はありません。このようなことから、しばらくこの大欲を頼りとして仏法を聞きその意を明らかにしていけば、自らが秘蔵しているその仏法と、大切な大欲とが、お互いを除きあって終いには跡形もなくなるでしょう。このように(悪しき業果はもとよりそれ自体の)跡をすら残さないことを清浄と言います。これによって「清浄の欲」と名づけるのです。多忙であるため、筆に従い口に任せてこの手紙をしたためました。恐惶謹言。」

建仁二年(1202) 十月十八日 高弁

この時がしたためられた時上人は紀州在田郡糸野の山中にあったという。

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3.脚注

  • 六道[りくどう]…地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六つの生存の在り方。生き物はこの六道のいずれかに、生前の行いの質によって生まれ変わる。地獄がもっとも苦しみ多く、天がもっとも楽の多いありかた。しかし、いずれの境涯に生まれたとしても、老病死の苦しみから逃れる事は出来ず、結局そこに真なる安楽はない。故にこの六道あるいは三界からの解脱とその方法を、仏教は勧める。→本文に戻る
  • 四生[ししょう]…生き物の誕生の仕方を四つに分類したもの。すなわち、胎生[たいしょう]・卵生[らんしょう]・湿生[しっしょう]・化生[けしょう]の四つ。それぞれ、母胎の中で身体を形成し生まれたもの。卵として産み落とされ、その中で身体を形成したもの。湿気の多い場所から生まれたもの。物理的性交と受精などの課程を経ず、突如として生まれたもの、を意味する。胎生は、人間を含むほ乳類など。卵生は、魚類・は虫類・両生類・鳥類など。湿生は虫など、(卵から生まれたものに違いないが)特にジメジメした場所に湧くもの。化生は、天人や地獄の住人とされる。仏教では植物は、意識を持たないものであり、よって輪廻しないと考えられているから、いずれの範疇にも入らない。三界・六道・四生の言葉によって、生ける物の輪廻転生する中での在り方を、ほぼ仏教的には説明しえる。→本文に戻る
  • 三種の性得[しょうとく]の仏性[ぶっしょう]…仏性とは、生ける物が備える仏陀と成り得る可能性。これを後天的なものとみるか、先天的なものとみるかで諸説ある。たとえば小乗のうち説一切有部では、三種の仏性説を立てる。すなわち、後天的に仏性のある者、無い者、不定の者。大乗にも所説あって、仏性を恒常不変の実体の如く説や、単なる可能性あるいは理論的に仮定されるものとして捉える説がある。
    ここで上人は、「性得の仏性」としているから、生ける物が先天的に備える、仏になり得る可能性としての仏性、修行によって顕されるものとしての仏性、仏陀になって顕現するものとしての仏性の三種を言っていると思われる。つまるところここでは、生きとし生ける物は、その現在の境涯が何であれ、すべて等しい存在であり、すべて等しく完全に仏の教えに従って解脱し得る存在であって、故に仏の子であることを意味している、と解してよいであろう。ただし、そのように解すると、明恵上人がこの手紙の中でしばしば用いてきた唯識説の、五性格別[ごしょうかくべつ]と矛盾が生じる。→本文に戻る
  • 応に清浄の欲を起して云々…『大方広仏華厳経』の一節、「智慧王所説 欲爲諸法本 應起清淨欲 志求無上道」(大正9,P486上段)。→本文に戻る
  • 大欲[たいよく]…輪廻を厭いて仏法を希求し、悟りを得ようとの強い願い。仏教では、欲すなわち何事かを欲する感情すべてが十把一絡げに否定すべきものである、などとは説かない。欲を無くそう、とすることも欲である。これを否定すればナニも出来ないであろう。まず愚かしい欲を離れて涅槃を得たいとの、これはすこぶる堅い決心と強い願いが必要であるが、これによって欲を制して、この力あるいは余勢を減らし、その課程で欲なるものの本質を見つめて智慧を育み、ついに愚かさに基づく欲が起こる事がなくなる。すると、欲を無くそう、との欲は目的を果たして消えるから、ついには何も残らない。これを大欲という。明恵上人の言をもってすれば、清浄の欲である。
    何についても、理想的・最終的な結果だけを見て、結果と同様のものを最初からやろうなど到底無理な話であるのは自明のはずであろうが、何故か話が宗教についてとなると、世間ではこの無理を無理と思わず多くの者が最初から最終結果の実現を試みる。結局、途中で何もかもが無理になって、すると次はこれを否定するに回る者がやはり多い。多くの人は身の程を弁えずに、いきなり完成を求め、ついに失敗して全てを諦める。→本文に戻る

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