真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 明恵上人の手紙(3)

本文10ページ中3ページ目を表示
 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10

← 前の項を見る・次の項を見る →

関連コンテンツ
明恵上人とは |  明恵上人の言葉 |  『阿留辺畿夜宇和』を読む

・ トップページに戻る

1.原文

世間無常也と云ふ事は、只此の人間の果報のみに非ず。惣て四静慮*1 四無色界*2 の諸天も、皆行苦*3 の悲しみを離れず、有頂天*4 八万劫*5 の果報も、皆念々消滅の苦しみを離れたる事無きなり。一人在りて、一室の床の上に眠りて、千万の苦楽の境界を夢に見れども、夢中の事は皆、うつゝの前には無きが如し。根本無明*6 の眠り深くして、動転四相*7 の夢の念を起す。其の中の苦楽の境界は皆、実ならざる也。かゝる処にかゝる果報を受けたれば、惣て愛着すべき所なけれども、凡夫、無始*8 生死より以来、性躰も無き煩悩業苦*9 の中に於いて、我々所*10 執して分別深くして、はかなく仮の身を惜しみ、露の命を守る事たえず。地獄・餓鬼・畜生*11 は浅間敷果報なれども、其も皆我が果報を惜しむ事は同じ事也。如来態と世に出でて、有りの儘に道理を説きて、生死を出でよと勧め給ふ。跡形もなき縁成相続の仮なる法を執して、我々所とする事勿れ。此の所は只苦のみ多し。是に居たらん限りは、苦患たゆべからず。かゝる苦しみの境を捨て離れよと教へ給へり。

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

2.現代語訳

「世間が無常であるという事は、ただこの人間界の果報だけについて言われることではありません。すべての色界の四禅天や四無色界の諸々の天界にあっても、ひとしく全てが変化して止まぬ事による苦しみに基づく悲しみから逃れ得ることはなく、有頂天という世界の頂点にあって八万劫という長大なる寿命とそこでの優れて安楽な果報を得たとしても、やはりひとしく漸漸に消滅してゆく苦しみから逃れることはないのです。ある人があって、一室の床の上で睡っている間に、一千万回も苦楽いずれかの境遇に生まれ変わって死に替わりして過ごした夢を見たとしても、夢の中での出来事はすべて、現実ではないようなものです。根本無明の眠りは深く、移り変わって生滅変化する夢を見続ける。その中の苦楽の境涯はすべて、実体などありません。このような境涯にこのような果報をうけ、何一つとして愛着すべきモノなどないのに、凡夫というものは、無始の初めより生死輪廻しつづけて以来、恒常不変の実体を持つわけでもない煩悩に惑わされて悪業を重ね苦しみを受ける中で、何事かを「我が物」であると執着しその五感で感覚したものを愛着あるいは嫌悪すること激しく、(真に惜しむべきものを惜しまず)はかない仮の身を惜しんで、(誠に守るべきこと守れずして)朝露のような命を守ることにのみ懸命となる。地獄・餓鬼・畜生に生まれることは惨めな果報であるけれども、それでも皆自分がそこで得た命を惜しむ事は同じです。如来は(これを哀れんで導かんとして)あえて世間に現れ、ありのままに道理を説かれて、「生死輪廻を解脱せよ」とお勧めになったのです。恒常不変の実体など無い原因と条件によって形成・維持されるに過ぎない仮初めのモノに執着して、我が物であるとすることの無いように。この世はただ苦しみのみ多いばかりである。生死輪廻する限りは、苦しみ悩むことが無くなることはない。このような苦しみの境涯を疎い離れよとお教えになったのです。」

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

3.脚注

  • 四静慮[しじょうりょ]…色界を構成する四禅天のこと。すなわち諸禅天・第二禅天・第三禅天・第四禅天の総称。静慮は、サンスクリットdhyāna[ディヤーナ]あるいはパーリ語jhāna[ジャーナ]の漢訳語。この音写語が禅那[ぜんな]で、禅はその略語。詳細は別項“仏教の瞑想”の“禅について”を参照のこと。→本文に戻る
  • 四無色界[しむしきかい]…無色界を構成する四つの天界のこと。→本文に戻る
  • 行苦[ぎょうく]…仏教では、一切皆苦[いっさいかいく]と言って、この世のいかなるモノでも苦しみでないモノは無い、と説く。そしてその苦しみは、大きく三種類に分類される。すなわち苦苦[くく]・壊苦[えく]・行苦[ぎょうく]である。苦苦とは、肉体的痛みや苦しみ。壊苦は、老いる事や壊れる事など変化することに伴う苦しみ。行苦は、存在すること自体の苦しみ。最初の二つの苦は、一般にも了解され易いが、最期の苦は、容易には見がたく理解しがたいと言われる。関連する項に“仏陀の教え”の“Lakkhaṇattayaṃ (法印)”がある。参照のこと。→本文に戻る
  • 有頂天[うちょうてん]…天界のもっとも上に位置する世界。これに二種ある。色界の第四天、色究竟天を指す場合。これは、形あるモノの世界では最上の位置。次には、無色界の第四処、非想非非想天。これが、言葉通りの有頂天で、三界(世界)の最も上に位置するもの。ここでは後者。そこに生まれ変わったもの、すなわち天(神々)の寿命は、計り知れないほど長いという。→本文に戻る
  • 八万劫[はちまんこう]…劫とは、サンスクリットKalpaの音写語、劫波あるいは劫簸の略で、非常に長い時間、時間の単位を指し示す言葉。伝統では、それがあまりに長いことを示すのに、数字ではなくてたとえ話で表される。上下四方40里の城(つまり立方体)に芥子を満たし、それを三年ごとに一粒ずつ取り除いたとして、それがすっかり無くなるまでにかかる時間が劫である、という。八万劫とは、天界でもその上方となると、そこでの寿命は恐ろしく長いとされることを言ったもの。→本文に戻る
  • 根本無明[こんぽんむみょう]…生ける者、意識ある者は、なぜ生死輪廻して留まることがないのか。なぜ苦しみの生存を永遠に繰り返すのか。その根本的原因、それは無明、すなわちモノの本質・真理を知ることが無いためである、と仏陀は説いた。すべての生ける者は、この錯誤・無知によって、様々な精神活動ならびに身体的・言語的行為を展開。また自身が転生を繰り返す因縁となる業を重ねていく。→本文に戻る
  • 動転四相[どうてんしそう]…すべての物事の、移り変わって生滅変化する有り様を表した言葉。動転は、移り変わること。四相は、生住異滅、すなわち生成・存続・変化・消滅のこと。→本文に戻る
  • 無始[むし]…世界・宇宙は「始まり」というものが無い、という仏教の世界観を示す言葉。
    仏教では、この世界を創造した神、この宇宙を主宰する万能なる神の存在を認めない。宇宙は、成劫・住劫・壊劫・空劫の四劫というサイクルで生滅を繰り返すものである、とする。我々が属するこの宇宙もいずれ滅び、やがて再び新たな宇宙が形成され、それが永遠に続く。よって、そこには「(無からの)始まり」というものが認められない。そのような世界・宇宙の中で、生きとし生けるものは解脱しない限り、苦しみの生存を永遠に、生まれ変わり死に変わりし続ける。しばしば無始は、「無始輪廻」などと、輪廻転生と共に使用される。本文に戻る
  • 煩悩業苦[ぼんのうごうく]…衆生は煩悩に基づく業(行為)によって輪廻転生するが、それは苦である、ことを意味する言葉。一般的にはこれを、惑業苦[わくごうく]という。これを三道ともいう。関連する項に“仏陀の教え”の“Paṭiccasamuppāda (縁起)”がある。参照せよ。→本文に戻る
  • 我々所[ががしょ]…我と我所のこと。我とは、自我の本質、永遠不滅の霊魂・個我を示す言葉。サンスクリットātmanの漢訳語。仏教では、すべてのモノに永遠不滅の我など認められず、すべては消滅変化してやまないもの。しかし、我を「ある」と認め、そしてその我に属するモノを同じく「我がモノ」として執することを我所という。→本文に戻る
  • 地獄・餓鬼・畜生…生ける物が輪廻転生するのに、五つあるいは六つの生存の在り方がある。すなわち、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六種の在り方を、六道輪廻と言い、これから修羅を除いたものを五趣輪廻と言う。このうち、地獄・餓鬼・畜生での生存は、中でも特別苦しく忌むべきものとされ、これを三悪趣[さんあくしゅ]と言う。世間では「三途の川を渡る」という言葉が、「成仏する」「彼岸に渡る」の意味で用いられる事があるが間違い。それは三悪趣に生まれ変わらない、という意味で、成仏するのとは全く意味が異なる。→本文に戻る

← 前の項を見る・次の項を見る →

・  目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

関連コンテンツ
明恵上人とは |  明恵上人の言葉 |  『阿留辺畿夜宇和』を読む

本文10ページ中3ページ目を表示
 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  8 |  9 |  10

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。