真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 明恵上人の手紙(4)

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1.原文

かゝる果報を受けたるは悲しみなれども、快き哉や、我等無明の卵殻未ださけずといへども、幸いに仏の御法の流布せる世に生れ遇ひて、終に生死の苦患を尽して、仏果無上の楽を得んずる期在りと云ふ事を知りぬ。大なる悦びをなすべき也。亦、生死の苦しみは、我が受くる果報なれども、無明の睡眠の酔ひ深くして、此の果報の拙く苦なる事をも悟らず。大聖慈父無上大覚世尊、世に出でて、慇[ねんごろ]に教へ給へり。教えの如くに厭ふべし。愚なる者の思ふべき様は、諸行無常有為皆苦の道理は、仏の教へならずとも、などかは悟らざるべき。華開きては必ず散り、菓結びては定めて落つ。盛りなる者は衰へ、生ある者は死す。是等は無常なり。亦、打縛殺害等の不可意の心に叶はぬ事有り。是は苦也と、などかは知らざらんなど思ひつべき事なれども、凡夫は一分の覚りもなし。只無始薫習の妄識*1 種子[しゅうじ]*2 より現行[げんぎょう]*3 の識躰おこり、妄りに虚妄の境界を分別*4 して、境界において妄識の動転するを以て、凡夫の分別と名づけたり。是は酒に酔ひたる時の人の狂へる心の如し。真の覚りにあらざるなり。去れば、諸法の実理におきては、実の如く分別する事無き也。位無き余に入れば、二乗*5 の聖者すら、猶し反易微細の苦しみを知らずして、増上慢*6 のとがに随ひぬ。況んや凡夫、実の如く如来所知の法印を知る事難かるべし。

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2.現代語訳

「(苦しみの生死輪廻を繰り返し)このような果報を受けていることは悲しむべき事であるけれども、なんと嬉しきことでしょう。我々の無明という堅い卵の殻はいまだ裂けるに至ってはいませんが、幸いにも仏の教えが流布している世に生まれ遇わせて、いずれ終いには生死の悩み苦しみを尽くして、仏果というこの上ない安楽を得る可能性があるという事を(我々は)知っているのです。非常に喜ばしいことです。ところで、生死の苦しみは、自身が為した行いによって受ける果報でありながら、無明という睡眠の酔いは深く、この果報が拙く苦しみであることを(人々は)悟りはしないのです。大聖慈父無上大覚世尊(釈迦牟尼仏)は、この世に現れて、(すべては変わりゆくものであって苦しみであることを)詳細にお教え明かされました。この教えの如くに(脆く儚きこの世を)厭わなければなりません。愚かな者の考えることは、「諸行無常・有為皆苦の道理など、仏の教えに依らないでも、どうして悟らないことがあろうか。華が開けば必ず散り、実を結べば定めて落ちる。勢い盛んな者は衰え、生きる者は死ぬ。これらは無常である。また、(世間で生きていれば)打ち縛られたり殺害されたりするなどの思っても見ず願い下げのこともある。これは苦であろう。(わざわざ仏の教えなどという大仰なものを聞かずとも)どうして知らないことがあろうか」などと思うことでしょうが、凡夫は(ただ頭の中でそう思い口で言うだけであって真にそれが如何なる事か解っているわけではなく)一つとして覚っているわけでもないのです。ただ無始の昔から染みつけ蓄えてきた意識の奥底の惑いの種から自分の迷いの世界を自分で形成しておきながら、思慮無くこれを真実の世界と考えて、五感で感じ心で思ったことにあれこれ捕らわれる独りよがりを、凡夫の分別と名づけるのです。これは酒に酔った時の人の狂った心の様なもの。真の悟りなどではありません。それゆえに、諸々のモノの真なる有り様について、あるがままに見て知ることなどないのです。完全でこの上ない悟りの境地からすれば、声聞・縁覚の二乗の聖者ですら、いまだなお変化する極めて微細な苦しみを知り尽くすことが出来ず、増上慢の過失を犯しています。ましてや(漫然と生きているに過ぎない)凡夫には、あるがままに如来が悟り極められた法印を知ることなど全く困難なことであるでしょう。」

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3.脚注

  • 妄識[もうしき]…唯識派は生きとし生けるものの意識は、八階層からなると説くが、その第七番目の意識たる末那識[まなしき]のこと。八階層とはすなわち、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識[あらやしき]の八。 末那識とは、サンスクリットmano nāma vijñāna[マノー ナーマ ヴィジュニャーナを原語の音写語。これは「意という識」を意味するが、一般的にいわれる意識つまり第六識のmano vijñāna[マノー ヴィジュニャーナ]と区別するために、音写された原語が用いられる。より深層の第八阿頼耶識を対象として、これを真実在のものとして我執する識であり、我見・我慢・我愛・我痴を常に伴う迷い汚れの心。よってこれを、染汚意[ぜんまい]とも言う。第六意識が、睡眠時や昏睡してその働きを停止しても覚醒時に依然として自己同一性をたもつのは、この第七識ならびに第八識が存在して常に働いているから、という。
    第七末那識が我執するところの第八阿頼耶識とは、生ける物の最奥に存する意識の流れ。原語のサンスクリットでālaya‐vijñāna[アーラヤ・ヴィジュニャーナ]というため、ālayaを阿頼耶と音写したもの。「よりどころ」・「蔵」の意とされる。よってこれを、蔵識[ぞうしき]と漢訳する場合もある。我々が普段見聞覚知している現象は、すべて実体のない空なるものであるが、それらはこの八識に蓄積された過去の経験(業)が作り出した幻のようなものであって、真実には「唯だ(アーラヤ)識のみ存在する」、という。故にこの見解は、唯識派と呼ばれる。→本文に戻る
  • 種子[しゅうじ]…。→本文に戻る
  • 現行[げんぎょう]…。→本文に戻る
  • 虚妄の境界を分別…。→本文に戻る
  • 二乗[にじょう]…三乗あるいは五乗のうち、独覚(縁覚)乗と声聞乗の、小乗とされる二乗。詳細は本文1の菩薩の諸位の注を参照のこと。→本文に戻る
  • 増上慢[ぞうじょうまん]…自身がいまだ悟りを得ていないにも関わらず、悟りを得たと誤解し、高ぶること。→本文に戻る

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