真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 明恵上人の手紙(5)

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1.原文

又、諸の外道論師*1 の中に教法あり。其の中にも分々に常・無常等の道理をば説けども、其も仏法の実理をば究めず、或るは無想天を計して実の解脱処とし、或るは真我を立てて常住の躰とす。我が本師釈尊の説き給ふ、諸行無常の法印の道理は、三界所繋の法、皆是無常也。一法として常住なるはなし。亦皆悉く実ならざるが故に、一法として苦しみに非ざるはなき也。涅槃は寂静也。若し人是を証しつれば、即ち法身の躰を得、又退する事なし。彼の外道論宗の中に、冥性に帰して後、猶返りて衆生と成ると云ふには同じからず。此の如きの正見は、仏法の力を離れては、争でか発す事を得べき。さればこの諸行無常の道理、一を聞きたりとも、無量劫の中の思出でとすべし。昔大王ありき。身に千の穴をゑりて、油を盛りて火を燃やして婆羅門を供養して、此の道理を聞き給へりき。聖教に説きて云はく、若し人生きて百歳にして生滅の法を解せざらんよりは、如かず、生きて一日にして而して之を解了することを得んにはと。実に朽木の如くして何となく生けらんよりは、覚り深くして一日生けらんに比ぶべからざる也。已に仏の御教へを受けて、有為の果報は皆苦しみ也と知りなば、速かに是を捨離すべき思ひを成すべし。我等無始より以来生死に輪転せし間、此の身を痛り惜しんで相離れず、徒らに苦患の中に沈み妄りに楽を求む。喩へば敵を養ひて家に置きて、常に敵に悩まされんが如し。早く生死の果報を思ひ捨てて仏の位を求め頼むべし。かゝる果報を捨てずは、生々世々の中に苦しみの多かるべし。仏の真実の利益は、只是の果報を捨てしめて大涅槃の楽を与へ給ふ也。

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2.現代語訳

「また、諸々の外道の論師もそれぞれ教義を持っています。その中にも部分的に常・無常などの道理を説いているものがありますが、かといって仏教が示すところの真理を極めたわけでもなく、或る者は無色界の無想天に生まれ変わることをもって解脱の境涯とし、或る者は真我を立てて常住不変の実体としている。我が本師釈尊のお説きになった、「諸行無常」をもって真理の標示とする道理からすれば、三界に生きとし生けるものをつなぎ止め縛り付けるいかなるモノも煩悩も、皆すべてが無常です。一つとして常住不変のものなどありません。またすべては悉く実体のない空虚なものであるからこそ、一つとして苦しみでないものがないのです。涅槃は苦しみを離れた寂静の境地です。もし人が涅槃を証すれば、たちまち法身の身体を得て、ふたたび退転することなどはありません。かの外道論宗の中で言うような、一度生まれ来た本源たる冥性に還ってのち、また再びこの世に戻って命を得るなどというのとは同じではありません。諸行無常・涅槃寂静のような正しい知見は、仏法の力を離れて、どうして得ることが出来るでしょう。(いや、そんな事は出来ないのです。)それゆえにこの諸行無常の道理を、一度たりとも聞いたのならば、無量劫の間輪廻し続けた甲斐とするべきです。昔大王がありました。身に千の穴をあけ、そこに油を注いで火を燃やしてバラモンを供養して、この諸行無常の道理を聞かれたと言います。経典にこの様に説かれています。「もし人が生きて百歳となってもなお生滅の法を理解出来ないなど、まったく及びもしないことである、たとえ生まれて一日であっても生滅の法を理解出来ることには」と。まるで朽ち木のように何となく薄ぼんやりと生きることなど、覚り深くしてただ一日でも生きることには比べるべくもないことです。すでに仏のみ教えを受け、原因と条件とによって形作られたものは全て苦しみであると知ったならば、速やかにこれに対する執着を捨て去るべきことを思うべきでしょう。私達が無始よりこのかた生死輪廻し続ける間、この身をいたわり惜しんで執着し、むやみに苦しみ悩みの世界に自ら沈んでおいてなお得られもせぬ楽を求めてきたのです。それは例えば己に害を為す者を養って家に居座らせ、常にそれに苦しみ悩まされるようなもの。速やかに生死輪廻する苦しみ続ける生存を疎い離れて仏の悟りを願い求めなさい。このような本末転倒の有り様を捨てなければ、生まれ変わり死に替わりして非常に苦しみ続けることでしょう。仏の真実の利益は、ただ苦しみの生存を捨てさせて大涅槃という楽を与えることにあるのです。」

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3.脚注

  • 外道論師[げどうろんじ]…仏教以外の宗教あるいは思想家のこと。釈尊在世当時、よく知られた六人の外道があった。これを六師外道という。すなわち、業報思想を否定し、いかなる道徳も非道徳をなしても未来にそれが影響する事はないと、道徳否定論を説いたプーラナ・カッサパ。あらゆるモノは、地・水・火・風・苦・楽・生命という七種の要素によって構成された物であって、これらこそが実在するものであり、「人という物」は存在しない。よって、例えば人を刀で一刀両断にしても、それはただ、七つの要素によって構成された人間の間を、これまた刀という七つの要素で出来た刀が通過したに過ぎず、生命を壊す事にはならない、などと主張したパグダ・カッチャーヤナ。生き物は、霊魂・地・水・火・風・虚空・徳・失・苦・楽・生・死の12種の要素からなっており、それらはすべて過去・現在・未来においてどのようになるか定められており、生き物がそこで自由意志を持つ事などありえず、すべては宿命によってなるべくしてなる、という徹底的な運命論・宿命論を説いた、アージーヴィカ教のマッガリ・ゴーサーラ。すべては地・水・火・風という要素によって構成されており、これらこそが実在で、業報・因果などなく、故にどのような努力をしても怠惰や悪行を重ねても意味はない、という唯物論を説いたアジタ・ケーサカンバラ。すべての形而上学的問題について判断中止する懐疑論を説いたサンジャヤ・ペーラティプッタ。すべての物事は多面的であり、絶対的あるいは一方的な判断を下すべきでなく、常に物事は相対的に理解すべきであるという不定主義、相対主義を主張したニガンダ・ナータプッタ。これら思想家達は、一般に沙門といわれ、当時のインド社会で権威だった、これは今も同様であるが、バラモン教に等しく対して現れたもの。仏陀は、これら六師外道の所説を退け、あるいは乗り越え、いかにすれば人はこの苦しみの生存から解放されるかというこの一点から、教えを説いた。また、これら六師外道以外にも、64あるいは95種の様々な外道の所説があったことを、経典は伝えている。→本文に戻る

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