真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 明恵上人の手紙(6)

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1.原文

有為生死界の中に於いて、衆生の願ひに随ひて、随分に命をのべ、官位を与へ給ふと云へども、其は只、人の願ふ事なれば、仮令[かりそめ]にすかしこしらへて、其の心をゆかしめて終には仏になさんが為に、暫く与へ給へども、其を終の利益にしてさてやみ給ふ事は無き也。終には必ず有為生死の境をこしらへ出して、我と等しき無上の楽を与へ給はんと也。されば今生の事に於いては宿報決定*1 して仏菩薩の御力も及ばせ給はぬ事あれども、一度も仏を縁として心を起して名号をも念ずる功徳は、必ず有為生死の中にして朽ちやむ事は無きなり。喩へば人の食物は、必ず米一粒も栗・柿一顆にても、腹中に入りぬれば定めて屎となりて腹を通りて出づるが如し。仏の処に於いて作る功徳は、小さきも大なるも必ず有為煩悩の腹を通りて、終に生死を尽す極めと成る也。名聞利養の為に作る功徳も終には仏の種と成る也。されば仏菩薩の利生によりて現世の願を満てたりと云ひても、是に依りてさてやまんずるにてもなし。喩へば幼[いとけな]き赤子愚にして壌[つちくれ]を翫びたがるには、其の父母慈み深き故に、土くれをば宝と思はねども、赤子の心をゆかさんが為に、暫く土くれを与へて其の心をゆかす。後におとなしく成りて実の銀金など云ふ宝を与ふるが如し。終に土くれを翫ばしめてさて止む事は無き也。只一向に諸法の真実の因果は、只仏のみ知り給へり。我等が思ひ計るべき処に非ずと信じて、其の心に道理を失はず、生々世々に必ず無当なる果報をば得べからざる也。

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2.現代語訳

「原因と条件とによって形作られた生死輪廻の世界の中で、(仏菩薩が)生ける物の願いにしたがって、ずいぶんと長生きさせて下さり、官位を与えて下さったとして、そのようなことはただ、人が願う俗なること。かりそめの方便として為さったことであり、その人の心を仏の導きに向かわせ終には悟りを得させる為に、しばらく与えられただけであって、それだけの利益でそのまま終わってしまうことはありません。最終的には必ず移ろいゆく不確かな生死輪廻の境涯を様々な導きでもって抜け出させ、仏が得られたのと等しいこの上ない楽をお与えになるのです。それゆえ今生のことについては宿世の果報はすでに決定して動かしがたく仏菩薩のお力も及ばぬ事があるけれども、ただ一度であっても仏を縁として発心しその尊い名を念じる功徳は、決して有為生死の中にあって無駄になることはありません。例えば人の食べ物は、必ず米一粒でも栗・柿一個であっても、腹の中に入れば必ずその養分は摂取されて便となって腹を通って出てくるようなものです。仏の教えのもとで作る功徳は、それが小さくとも大きくとも必ず有為煩悩という腹を通って、終には生死を尽くす糧となるのです。世間の名声や利得を得るために作る功徳であったとしても終には仏となる種となるのです。ですから仏菩薩の慈悲によって現世の俗な願望を満足させたとしても、これで仏菩薩の導きが止むわけではありません。例えば幼い子供が愚かにも泥で遊びたがるのを、その両親は子供を慈しむからこそ、泥が宝だなどとは思ってはいないけれども、幼子の心をあやす為に、しばらくは泥を与えて幼子の心を満足させるようなもの。後にその子が大きくなってから本物の銀や金などという宝を与えるようなものです。泥で遊ばせてそれで終わることは無いのです。諸々の事象のまことの因縁果報の有り様は、ただ仏のみがお知りのこと。私たちがいくら考えようとも想像も付かないことであると信じて、自分の心から道理を失わければ、生々世々に決して不当な果報を受けることはありません。」

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3.脚注

  • 宿報決定[しゅくほうけつじょう]…前世、宿世あるいは今世に自分がなした行為の報いが、機が熟したこと、それが発現するに十分な諸条件が整うこと。また、それが現在の自分に、いかんともしがたい結果として顕れること。
    その為された行為が悪しきものであれば、苦しみの報いが、善いものであれば、安楽な報いとなって現れる。いったん、その報いが発現するに十分な諸条件が整い、機が熟してしまえば、これをいくら避けようとしても、それが仏菩薩であったとしても、誰も避けられない。これだけ見ると、まるで宿命論・運命論のようであると思われるかもしれないが、そもそも前世で為されたその行いは、自身の意志によって行われたことであって、その報いを自分が受けるというのであるから宿命論などとは異なる。これを自業自得という。
    これを示す諺に、本文1の目連の注において既に触れたが、「仏の顔も三度まで」がある。この諺の本来の意味は、以下紹介する説話に基づくものであり、これが真の意味である。
    釈迦族が治めるKapilavastu[カピラヴァストゥ](パーリ名Kapilavatthu[カピラヴァットゥ]・漢語音写名:迦毘羅衛[かびらえ]国)という小国の王子であった釈尊が、その教えを説きつつ経巡り歩かれた中インドには、Kosala[コーサラ](憍薩羅)国とMagadha[マガダ](摩掲陀)国という二大強国があった。その両国の王は共に、当時新進気鋭で多くの信奉者を生みつつあった遍歴修行者たる、仏陀釈尊の庇護者であった。コーサラ国の王Prasenajit[プラセーナジット](漢語音写名:波斯匿[はしのく]王)は、信奉する釈尊の一族たる釈迦族の王族から、自身の王妃となる娘を迎えようと、カピラヴァットゥに使者を送った。しかし、釈迦族は、自国が一地方の弱小国にもかかわらず誇りだけは高く、コーサラ国王などに太陽の末裔たる「誇り高き」釈迦族の王族から娘を娶らせることを否とした。しかし、釈迦族は、コーサラ国王の申し出を拒絶せず、釈迦族の奴隷階級の見栄えの良い娘を、王族出身の娘と全く偽って送ったのだった。無論、コーサラ国王はこれを王族出身の娘として迎え入れて王妃とし、やがて一人の王子を設けた。名づけてVirūḍhaka[ヴィルーダカ](パーリ語ではVidūdabha[ビドゥーダバ])という。ある日、王子は母の故郷であるカピラヴァストゥに、母の両親であり自身の祖父母に会うため訪れた。しかし、そこでの釈迦族の彼に対する扱いは、大国の王子として歓待されはするもののどこかおかしいものであった。しかし、それでも数日の滞在を終えて帰国しようとするとき、まったく意外な、そして無礼千万な行為を目撃したのであった。滞在中、王子が座っていた王族用の椅子を、釈迦族の者達は、奴隷に命じて牛乳と水とでもって清めるなどしていたのであった(これは現在でも、インドのヒンドゥー教にてバラモンが行っている、穢れたものを清める為の常套手段)。当然憤慨した王子は、これを何故かと釈迦族のある者に問い詰める。すると、王子の母親は、実は奴隷階級の穢れた者であるのを偽って嫁がせた者であり、故に王子の血は例え父王の血を引いていたとしても、穢れたものであるから、と答えたのであった(インドにおいて母方の血筋はときに父方のそれよりも重要)。この回答によって、王子は、自分の真の出自を知って強烈なショックを覚えたのであった。これは現在にいたるまで同様であるが、当時の社会通念で、王子にとって奴隷階級など穢れた忌むべき血筋。愛する母親が奴隷であったことを知り、またそれまで純粋な王族だとばかり思っていた自身に奴隷の血が流れているなど、逃れられない悲劇であり、まったく耐えられないことであった。そしてそれは、釈迦族による汚い裏切り・欺きによるものであり、実際に彼らは自分を穢れた奴隷と同様に扱ったのであった。ここで王子は一つの決意をする。父王亡き後、自分がまずすることは、父を裏切り、自身に呪われた血を継がせ、また最大の侮辱を与えた釈迦族を、残らず殺して攻め滅ぼす、ことであると。やがてそのときはくる。父王プラセーナジットが亡くなり、王となったビドゥーダバは、ただちに軍を編成してカピラヴァストゥ侵攻を開始したのであった。しかし、その途上、日中の陽光盛んな時にもかかわらず、一本の枯れ木の下に独りたたずむ釈尊に出遭ったのであった。父王と母にならい、釈尊を庇護していた王は、乗り物から降りて釈尊を礼拝。「何故、この様な陽光盛んな日中に、緑が生い茂って涼しい木陰を作る木がすぐそこにあるにもかかわらず、このような枯れ木の下で佇んでおられるのですか」、と尋ねたのであった。すると釈尊は「王よ、親族の陰は涼しい」と答えたのであった。釈尊は、王が釈迦族を滅ぼそうと軍勢を向かわせているのを知り、あえて風前の灯火たる釈迦族を象徴するかのような枯れ木の下で、王を待っていたのであった。釈尊の暗に意図するところをただちに察した王は、怒りを静め、軍団と共に城へと引き返したのであった。しかし、やはり若年に受けた最大の侮辱によって、多年保ち続けた釈迦族への激しい怒り憎しみは簡単に止むはずもなく、再び王は軍を勧めるのであった。するとやはり、釈尊は枯れ木の下に佇んでおられたのだった。結局、王は再び城に引き返すも、その怒りが止むはずもなかった。そして三度目、やはり釈尊はそこにあって、王は引き返したのであった。しかし、四度目、そこに釈尊の姿はなかった。そこで王は、多年に積もった怒りと恨みのままに、軍勢をカピラヴァストゥまで進軍。王は思うままに釈迦族を皆殺しにして、少数の者はなんとか逃げ延びた者の、ついにこれを攻め滅ぼしたのだった。釈迦族はこれに得意の弓で応戦したものの、仏陀から受けた不殺生戒を守らんが為に誰も殺さなかった、などと伝えられる。
    もし、その木の下に釈尊が四度であろうとも五度であろうとも姿を見せていれば、また王は思いとどまっただろうに、なぜ釈尊は四度目にはそこに姿を現さなかったのか。それは、釈迦族の人々は、現世でコーサラ国王を欺き王子を侮辱するという愚かな行為を為しただけではなく、前世において共謀して河に毒を投げ入れるという悪業をなしており、もはや宿報が結果するのに機は熟し、いくらこれを止めようとしても止められず、いくら避けようとしても避けられないまでになったことを、釈尊は知ったためであるという。この後、昔年の恨みを果たして感無量のはずのビドゥーダバ王は狂い、コーサラ国はマガダ国によってあっけなく滅ぼされるのだった。
    仏典によって、その回数が三回か四回か異なる場合があり、話の細部が若干異なるものの、この説話にもとづいて「仏の顔も三度まで」という諺が生まれた。ちなみに上記説話は、漢訳仏典からは『四分律』ならびにパーリ語仏典からはApadāna[アパダーナ]の所説に依った。
    上の説話から既に知られるであろう、これは「仏陀であっても、同じ過ちを四度繰り返す者には、ついに怒る」などという意味ではまったくない。そもそも、仏陀は、怒りを離れることを常に説かれた。この諺は、如何ともしがたい業果の存することを示している。前世で釈迦族のなした毒を河に投げ入れるという愚かな暴挙を因とし、釈迦族の高慢に基づく愚かな裏切りが増上縁となり、そして王子への最大の侮辱、これに対する長年にわたって積み重ねた王子の釈迦族への怒り恨み、王子が王権を手に入れたことなど、さまざまな条件が揃ったとき、もはやその報いが起こるのを、仏陀ですら止める事は出来なかった。むしろ自身の愚かさに基づく怒りと高慢によってこそ、このような不可避の悲劇を招くのであるから、どうして怒りを容認するようなことを、仏陀が言うであろうか。→本文に戻る

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