真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 明恵上人の手紙(8)

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1.原文

皆、無始より以来虚仮の妄執深くして、真理を隔て正智を遠ざかりしに依りて、増上の意楽*1 を起さざれば、真法は身に句ひ難き也。喩へば夢の中に羅刹*2 の姿を見て恐れを成さんに、傍に人有りて此の事を証知して、是は羅刹に非ず、恐るゝ事勿れと云へども、此の眠らん者の恐れやまじ。只自ら夢の中に此の羅刹走り去りぬと見ば、其の恐れやむべし。傍に人有りて実事を示せども、睡覚めての位異なるが故に聞く事なし。真妄実躰同じからざるが故に、其の恐れやまず。自ら夢の中にして羅刹の姿実ならざれども恐れ深し。羅刹の逃げ去りぬるも実ならざれども悦びあり。一種性の心相続して起るが故に、不同類の心現行せざるが故也。されば善根に串習[けんじふ]せし人などの、増上の意楽を起して経巻を読誦し仏を念ずるに、現前の災障を破りて怨敵をも降伏する事のあるは、此の人の心力道理に融するが故に、自ら発す所の善根の相用、仏の増上縁力を感ずるが故に、速疾の利益は有る也。是も此の如くなるべき道理をあやまたざる也。惣じて諸法の中に道理と云ふ者あり。甚深微細にして輙[たやす]く知り難し。此の道理をば仏も作り出し給はず、又天・人・修羅等も作らず。仏は此の道理の善悪の因果となる様を覚りて、実の如く衆生の為に説き給ふ智者也。

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2.現代語訳

「皆、無始よりこのかた真実に惑って煩悩・執着は深く、真理から隔たって全き智慧から遠ざかっている為に、高く優れた決意をなすことなしには、まことの教えが身に沁みることは難しいでしょう。たとえば夢の中で悪鬼の姿を見て恐怖しているのを、その者が寝ている傍に人があって彼が悪夢を見ていることを知り、「それは本当の悪鬼などではない。怖がる必要はない」と言ったとして、この眠っている者の恐怖が止む事はないでしょう。ただその夢の中で見ている悪鬼が走り去ったと思ったとき始めて、その恐怖は止む事でしょう。その傍に人があって本当の事を教えたとしても、夢中と覚醒時の意識とは異なるために聞く事などありません。真実と虚妄・実体と現象とは同じでないために、その恐れも止まないのです。自ら見る夢の中での悪鬼の姿はたとえ実際のものなどではなくとも事実として恐怖は深いのです。羅刹が逃げ去ったのが実際のことではなくとも喜びが起こるのです。

一種性の心相続して起るが故に、不同類の心現行せざるが故也。

それ故に貪り・怒り・愚かさに惑わされることの少ない人などが、優れた決意・誓願を起こして経巻を読誦し仏を念じると、現前の災厄・障害を打ち破って怨敵をも降伏[ごうぶく]することがあるのは、このような人の心に善なる力あって道理と相応するからで、自ら為したところの善根功徳の働きが、仏の増上縁と相応することによって、速やかなる利益[りやく]があるのです。この様な事もなるべくしてなる因縁果報の道理にはずれたものではありません。総じて一切万物の中には道理というものがあります。これは甚だ深く玄妙であって簡単に知られるものではないのです。この道理は仏が作り出されたモノなどではなく、また神々やまして人などが作り出したものでもありません。仏はこの道理において善悪の因縁果報となる有り様を悟られて、あるがままに生ける物の為にこれをお説きになった智者なのです。」

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3.脚注

  • 意楽[いぎょう]…何事かを為そうとする意志。望み。楽は「願う」の意。→本文に戻る
  • 羅刹[らせつ]…サンスクリットrākṣasa[ラークシャサ]の音写語。インドの悪鬼。インド神話に登場する一族で、夜に墓場に現れ、人肉を喰らう悪の権化。しかし、仏教では、仏陀に帰依してその守護神の一つとなっている。→本文に戻る

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