真言宗泉涌寺派大本山 法楽寺

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‡ 明恵上人の手紙(9)

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1.原文

諸仏如来、衆生の苦相を観じて利益方便*1 を儲け給ふ事隙なし。人こそ愚にして俄に病などの発りたるをば苦しみと思ひて、自ら苦聚に埋もれたるをば知らず。喩へば犬のよき食物をば得ずして屎を食はんとするに、こと犬の来て屎を奪ひて食しめざるをば苦と思ひて、屎を食ひ得つれば楽の思ひをなして、自らの果報の浅間鋪、心拙きをば苦しみと思はざるが如し。是は其の心拙くして苦聚の中に埋もれたるをば知らざる也。諸仏如来の衆生を縁として大悲*2 を発し給ふ事は、必ずしも病などするを糸惜しがり給ふにも非ず。有為有漏の業果の境界を出でずして、はかなく愚なるを深く哀れみ給ふ。されば定性*3 二乗の聖者は無余依の位*4 に至りて、永く分段の果報*5 を尽すといへども、深教大乗の心によるに、反易生死*6 の報、未だ免れず。されば如来の慈悲も救ひ給ふ事無くして、必ず八万大劫の満位を待ちて仏乗の法門を授けて究境の位に導き給ふ。何に況んや生死の苦海に輪転し出づる事を得ぬ衆生に於いてをや。縦ひ病もせず、いみじくて国王の位に登り、天上の果報を受くとも、仏の少しきも楽なりと思召してたゆませ給ふ事は無き也。只法性の因果改まらずして因縁を待つ事計り也。されば仏の、我が名をば念ぜば我行きて救はん*7 と仰せらるゝは、流れの畔の渡守などの舟の賃を取りて人を渡すが如くには非ず。只仏に不思議の功徳います。其の名を念ずるに力を得て、増上縁と成りて衆生を助け給ふ也。喩へば飯[いひ]の、人に向ひて、我食ふべし、汝が命を延べんと云うが如し。是は飯が我が身を嫌ふ事は無けれども、飯を身の中に食ひ入れつれば増上縁と成りて人の命を延ぶ。されば我を食へと云はんが如し。諸仏の甚深の道理は只仏のみ能く知り給へり。仰ぎて信をなすべき也。なまこさかしく兎角我とあてがふ事は悪き也。

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2.現代語訳

「諸仏如来は、生ける物がむやみに苦しむ姿を観察され苦を脱して悟りへ向かわしめる様々な方法を設けられてそこに手抜かりなどありはしません。人こそ愚かにも急に病が起こった事などを苦しみであると思いこそすれ、普段から苦しみの世界にあってもがいているのに気づかないのです。例えばある犬が良い食べ物を獲られず糞便を食べようとしているところに、別の犬が来てその糞便を奪ってしまい食べられなくなったのを苦しみであると思って、「あの糞を食べられれば楽になれただろうに」と考えこそすれ、そのような糞を得られず苦しみと思うような犬という境遇の浅ましさ、心の拙さを苦しみとは考えないようなものです。これはその心が拙くて苦しみの世界に埋もれもがいていることを知らないからこその事。諸仏如来が生ける物に対して大悲を発されるのは、必ずしも生ける物が病などによって苦しむのを不憫に思われたからではありません。この不確かな世界で無いものを有ると思って執着し徒に苦しみを受けつづける生死輪廻の世界を脱することができない、はかなく愚かなのを深く哀れまれたからです。それゆえに定性二乗の聖者が入滅すれば、六道輪廻を解脱すると言ってはいても、深遠なる大乗の教えによれば、(それら聖者であっても)微細な煩悩を尽くし切れていないことの報いから、いまだ逃れてはいないのです。如来の慈悲がこれを救うなどという事は無いものの、いずれきっと八万大劫という長大な時を待って仏陀に等しい悟りを得る教えを授けられて究極の境地に導かれるのです。まして生死の苦海に溺れ沈んで浮かぶ事が出来ない普通の生ける物であれば猶更のことです。たとえ病にも罹らず、大層には国王の位にすら上り、あるいは天上に生まれ変わることが出来たとしても、仏が少しでも楽であろうからと思われて怠らせることはないのです。ただ法性の因縁果報たる在り方が変わる事など無く原因と条件によって生滅するだけのことなのです。故に仏が、「我が名を念じれば(その者の元に)私が行って救うだろう」と仰っているのは、河の畔の渡し守などが船賃を取って人を渡すような事ではありません。ただ仏には不可思議の功徳があります。その御名を念じると力を得て、増上縁となって生ける物を助けられるのです。例えば飯が、人に向かって、「私を食べなさい。汝の命を保たせよう」と言うようなものです。なぜこの様にいうかと言えば飯が私たちの身体を嫌うような事は無く、我々は飯をこの身体の中に摂ることによってこれが増上縁となって我々の命を保たせます。故に「私を食べなさい」と言うようなもの。諸仏の甚だ深い道理はただ仏のみ完全に理解できることです。仰いで信じるべき事です。中途半端に小賢い言をふるう事は悪い事です。」

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3.脚注

  • 方便[ほうべん]…仏・菩薩あるいは仏教の修行者が、生ける物(衆生)を教え導くための、様々で巧みな手段。仏の教えに誘い入れるための、一時的な、仮に設けられる教え。→本文に戻る
  • 大悲[だいひ]…生ける者、命ある者すべてを憐れみ、苦しみのただ中にある者の苦しみを和らげん、無くさんとする思いたる「悲」の、特に仏陀や菩薩がもつ大いなるもの。普通の人の悲とは、区別して大悲という。→本文に戻る
  • 定性[じょうしょう]…定まった性質。悟りには高低浅深さまざまあるが、そのうちどの程度の悟りまで得られるかが定まっている者。定性二乗とは、唯識でいわれる五性各別[ごしょうかくべつ]のうち、声聞定性と縁覚定性の、いわゆる小乗とされる悟りが得られることが定まった者。→本文に戻る
  • 無余依[むよえ]の果…悟りを得てのちに、死ぬこと。悟りを得たことは、すなわち精神的な悪しき業果が断たれることを意味するが、それでもその者には、いまだ以前の業果としての身体は残っている。これを有余依[うよえ]という。しかし、その身体も死を迎えれば、以前の業果から完全に解放されることになるために、阿羅漢の死をもって無余依という。→本文に戻る
  • 分断の果報…六道輪廻を繰り返して、そこで生死変化する生存を受けること。つまり一般的な生命のありかた。寿命や姿・形に限りがあることから、分断という。分断生死[ぶんだんしょうじ]とも。→本文に戻る
  • 反易生死[へんにゃくしょうじ]…解脱して三界の生死を離れたと思われる(小乗の)聖者が、しかし未だもつ、微細な生死。大乗では、小乗の聖者は完全な悟りを得ていないが故に、いまだ生死を完全に離れた者ではない、とみる説があるがそれを示す言葉。一般的には、変易生死と書く。→本文に戻る
  • 我が名をば念ぜば我行きて救はん…『阿弥陀経』の所説、ならびに当時勃興した新宗教としての浄土教を念頭においているか。浄土教では、「南無阿弥陀仏」と阿弥陀仏の名を唱える者の元には、その臨終の時、阿弥陀仏ならびにその眷属が迎えにいって西方極楽浄土へ導く、などと説いて回っていた。明恵上人は、法然の説いた浄土思想に強い批判を加えたが、これは『阿弥陀経』を否定するということではない。法然の解釈による、一向念仏という態度とその実行を非難したのであった。上人は、人がどんなささいな事であっても、それがあるいは悪しき事であっても、生死輪廻する中で仏教に関係する何事かがあれば、その縁によって、いつか来世において必ず確かに仏教に巡り会ってこれを修めるに至るに違いない、との信念があった。これは当時の高僧達に共通するもの。
    あるいは、『観音経』の所説も念頭にあったか。『観音経』は、人が何らか危難に遭遇したとき、観音菩薩を心に念じれば、観音菩薩の威力によってその危難を脱する、などと説いている。が、実際は、この「所説のまま」のことなど無い、であろう。が、これを観音菩薩の威力つまり大慈心・大悲心であると捉えれば、話はかなり変わってくる。慈悲の力こそが、恨み憎しみを超克し、何者か敵愾心を持つ者の敵愾心をさえ削ぐものであることは、通仏教の思想。しかし、これは慈悲がある人には、いかなる者であっても怒り憎しみを「全く」持ち得ない、などということではない。釈尊であっても、当時これを憎む者が多くいた。例えば「釈迦に提婆」との諺があるように、釈尊を殺害しようとすらした者があった。人は何をしていようとも他人からの怒り・憎しみの対象になりえる。しかし、当の本人に慈悲があるとないとでは、その人生の歩み方に大きな異なりが現れることは、真実である。→本文に戻る

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