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‡ 栄西 『日本仏法中興願文』

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1.原文

『日本佛法中興願文』

倭漢斗藪沙門賜紫阿闍梨傳燈大法師位榮西
敬白十方三世佛法僧寶護法聖者而言

夫佛法東流自漢至宋千有餘歳摩騰竺蘭蹈雪山法顯羅什渉沙河眞諦覺賢催赤縣無畏不空歴紫塞各各挑將滅之法燈數數續既絶之慧命又嵩山航葦南溟南嶽誕生梁代恭弘鷲峰之舊聞明傳鶏嶺之法眼又天台□五品智解南山圓四分甘露玄奘遍學熟蘇都會義淨補綴律藏墜文爰唐則天皇后號中興大王義淨三藏立其名是美其實也譽其德是全其益也亦復我上國日本百濟日羅將來彌勒石像上宮太子取衡山妙經道璿鑑眞超蒼海傳教弘法届中華競傳深法爭弘顯密自爾以來六百餘載三國傳燈之餘光日域殊明九宗習學之規式東扶强茂矣然而求法渡海絶而三百餘年遣唐使停又二百餘年非啻故實之漸訛謬亦復墜文永不傳乎

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2.書き下し文

『日本佛法中興願文』

倭漢斗藪の沙門1賜紫の阿闍梨2伝灯大法師位3栄西
敬って十方三世仏法僧宝併びに護法の聖者に白して言さく

夫れ仏法東流、漢より宋に至って千有餘歳。摩騰4竺蘭5、雪山を蹈み、法顕6羅什7、沙河を渉る。真諦8覚賢9、赤縣に催し、無畏10不空11、紫塞を歴る。各各、まさに滅せんとするの法燈を挑げ、数数、既絶の慧命を続ぐ。

また嵩山12、南溟に航葦し、南嶽13、梁代に誕生す。恭しく鷲峰14の旧聞を弘め、明かに鶏嶺15の法眼を伝う。また天台16五品の智解を□17南山18は、四分の甘露を円かにす。玄奘19は遍く熟蘇の都会20を学し、義浄21は律蔵の墜文を補綴す。爰に唐の則天皇后22、中興大王義浄三蔵と号す。其の名を立てるは、是れ其の実を美むるなり。其の徳を誉むるは、是れ其の益を全うするなり。

また我が上国日本、百済の日羅23、彌勒の石像を将来し、上宮太子24、衡山の妙経を取って、道璿25鑑真26、蒼海を超え、伝教27弘法28、中華に届る。競って深法を伝え、争って顕密を弘む。

爾れより以来六百余載、三国伝灯の余光、日域殊に明らかなり。九宗29習学の規式、東扶に強茂す。

然れども求法の渡海30、絶えて三百余年。遣唐使31、停まることまた二百余年。啻だ故実の漸く訛謬するのみに非ず。また墜文32永く伝わらざらんか。

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3.現代語訳

『日本佛法中興願文』

倭漢斗藪の沙門、賜紫の阿闍梨、伝灯大法師位 栄西
敬って十方三世仏法僧宝併びに護法の聖者に申し奉る

そもそも仏法がインドより支那に伝わり、漢代より宋代に至って千有余年。迦葉摩騰と竺法蘭とは雪山〈ヒマラヤ山脈〉を越え、法顕と鳩摩羅什とは沙河を渉って支那に至られた。真諦と覚賢とは、赤県〈支那の都の異称〉に催し、善無畏と不空とは、紫塞〈万里の長城〉を歴て支那に来られた。その各々が、まさに滅びゆかんとする法灯をひっさげて、様々に既に絶えたかにも思えた智慧の命脈〈仏法〉を伝えられたのである。

また崇山〈菩提達磨〉は(天竺より)南溟〈南海・東南アジア〉を船で渡って来られ、南嶽〈慧思〉は梁代の支那で誕生されたのであった。(慧思は)恭しく鷲峰山での(釈迦牟尼の『法華経』の説法の)伝承を弘め、(菩提達磨は)明らかに鶏嶺〈摩訶迦葉尊者〉の正法眼蔵を伝えられたのである。また天台大師〈智顗〉は五品の智解を示し、南山大師〈道宣〉は、『四分律』という甘露を悉く詳説された。玄奘は遍く熟蘇の都会〈『大般若経』〉を学ばれ、義浄は律蔵の墜文を補完された。ここに唐の則天武后は、(義浄をして)中興大王義浄三蔵と称されたのであった。その名が立てられるのは、その実を称賛してのことである。そして、その徳を誉めることは、その益を全うすることでもある。

また、我が上国日本においては、百済僧の日羅によって彌勒菩薩の石像が将来され、上宮太子〈聖徳太子〉は(支那)衡山に秘していた『妙法蓮華経』をもたらされ、道璿・鑑真は蒼海を超えて日本に来訪された。伝教大師〈最澄〉と弘法大師〈空海〉とは、(いまだ日本に伝わって無き、新たな法を求めて)中華に渡ったのであった。そして競って甚深なる仏法を伝え、争って顕教・密教を弘めたのである。

それ以来六百有余年の年月が過ぎたが、三国伝来の法灯の余光は、日本において殊に明らかである。(倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・天台宗・真言宗、そして禅宗の)九宗を修学する規式は、この東扶〈日本〉において定着し繁栄しているのであった。

しかしながら、仏法を求めて渡海する僧侶が絶えること三百年余り。遣唐使が停止されてからもまた二百年余り〈三百年余りの誤植・誤記であろう〉。それが意味することは、ただ(仏陀ご在世の)故実〈教えと戒律〉が次第に訛謬してきただけではなく、墜文が永く伝わらなかったことでもあろう。

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4.語注

  • 倭漢斗藪[とそう]の沙門[しゃもん]…日本から支那へと渡った入宋留学の僧であること。
     斗藪[とそう]とは、振りはらう・取り除くを意味する、サンスクリットdhūtaあるいはパーリ語dhutaの音写語で、抖擻あるいは頭陀に同じ。漢訳では「斗藪煩悩塵垢(煩悩を振りはらうこと)」などとされ、広くは仏道修行全般を意味するが、狭義には律を厳持して清貧な修行生活を送ることを意味し、それを頭陀行などと言う。
     沙門とは、サンスクリットśramaṇaあるいはパーリ語samaṇaの音写語で、その原意は静める人、あるいは努める人。また桑門との音写語もしばしば用いられる。漢訳語には息心・勤息・静志・淨志・貧道などがある。 仏陀釈尊ご在世の当時、インドにバラモン教とは異なる自由思想家で出家遊行していた人々の称であったが、今は特に仏教の出家修行者を意味する語。→本文に戻る
  • 賜紫[しし]の阿闍梨[あじゃり]…賜紫とは、天皇(朝廷)より紫の衣を下賜された僧のこと。唐代の支那において則天武后が法朗などの僧に紫衣を下賜したこと、および本朝の玄昉が入唐時に皇帝より紫衣を下賜された故事に倣い、日本でも朝廷が功績のあった僧に対して紫衣を下賜することが行われるようになった。なお、紫衣が朝廷から与えられることは、その者が僧正位に就くことを意味しない。事実、この時点で栄西禅師は僧正ではなかった。
     阿闍梨とは、サンスクリットācārya あるいはパーリ語ācariyaの音写語で、原意は規範、転じて先生・教師。伝統的には、具足戒(律)を受けて五年以上を経ており、法(経論)と律とに詳しくその行業の優れた者は、具足戒を受けて五年未満の比丘の規範や指導監督に当たれるようなるがこれを阿闍梨といい、また漢訳語で依止師という。五年以上すなわち最低五回以上の安居の経験が必要であることから、これを「五夏の阿闍梨」ともいう。密教においては、伝法灌頂(具支灌頂)を受けた者もまた阿闍梨と言われる。もっとも、ただ灌頂を受けているから阿闍梨というのでは本来無く、密教における阿闍梨たる資格・資質について『大日経』では十三の徳性が必要であると説かれる。
     ここで栄西禅師がその称として用いている阿闍梨の意は、特に密教におけるもの。禅師は天台密教の一流である葉上流の祖でもあり、また真言密教の法流にも連なる人であった。なお、この葉上なる号は、禅師が四十五歳の時、後鳥羽天皇の請によって神泉苑にて密教の請雨法を修したところ、たちまちその功があって、池に生える「蓮の葉の上の雫が禅師の姿をことごとく映し出した」ということから、天皇より与えられた名である。
     後にしばしば禅師がそう呼称される千光法師との名は、禅師が二回目の渡航時、宋で疫病が流行したのを鎮めるために密教の修法を行ったところ疫病が鎮まったことから、皇帝より「(『梵網経』に説かれる)蓮華の葉上に現じられた千釈迦のようなものだ」と讃ぜられ、千光との号を賜ったったことに拠ると伝説される。あるいは、やはり宋にて請雨法を行った時にその身から千の光を放った、などということから千光と称賛されるとの説も伝えられる。
     ところで、紫衣を帝より下賜されたとして、それをただ(袈裟としてではなく雑巾として使用する目的で)所有することは問題ないものの、その紫衣を袈裟として所有し、また実際に着ることは律の規定にまったく違反する。そして、それをことさらに誇ることは、戒律復興を志す人にはまるで相応しくない。
     しかし、栄西禅師は腐敗した日本仏教の中興のためにあらゆる手段を講じたようで、それは禅師の型破りな性格を表する行動でもあったのであろうが、その一つに権威を利用するというものがあった。例えば栄西禅師が、当時の仏教界を非常に否定的に見、戒律復興および禅と密教との興隆を志した遁世僧であったのにも関わらず、朝廷より僧綱職(権僧正位)に任じられてこれを受けていたこと。それはしかし、遁世僧らしからぬ振る舞いであると世間で批判する者らがあった。あるいはまた、禅師の甚だしく突拍子もない行動の筆頭として、みずからの大師号を朝廷にみずから要求したということがあったという。これは別段、紫衣のように戒あるいは律に反する行為ではない。けれども、それはよくそんなことを思いついたと思うほど常識はずれの行動で、実際周囲より多大なる批判を惹起したようである。栄西禅師を尊敬していた道元も、この禅師の行動については批判している。
     それもあくまで仏法興隆の志を果たすための手段であった、と言われる。栄西禅師が僧正職を受けたことについての所見として、無住一円はその著『沙石集』の中でそのように言及されている(別項“栄西『興禅護国論』”にて『沙石集』の該当箇所を挙げ示している、参照せよ)。
     禅師のそのような行動は、なかなか世間では理解されにくいものであったのであった。実際、私も少々理解しかねる。しかし、臨済の教えに連なる人であって、この程度の型破りな行動は、むしろ些細な部類であるとすら言うべきであろうか。
     実際のところ栄西禅師ほどの人でありながら、現在に至るまでついに天皇から大師号の諡号が贈られることがなかった。それは自ら諡号を要求するといういわば暴挙に出た結果でもあったろう。しかし、大師号などの諡号を天皇から賜ることは、その人物の実際や行業など微塵も知らぬ人であっても、その権威によってひれ伏す者が多い現実を思えば、栄西禅師の突拍子もない行動の意図したことは理解することも出来るか。それにしても、禅師のそれがやり過ぎて逆効果となってしまったことは誠に遺憾なことであり、また少々面白いことでもある。→本文に戻る
  • 伝灯大法師位…朝廷から任命される僧位の一。僧尼の監督職たる僧綱の下としては最高位。
     律令制がほとんど崩壊し僧綱もほとんど機能しなくなった平安中後期以降は、朝廷から贈られるいわば名誉称号となった。また近世に至ると、僧位は金銭で朝廷と僧との間で売買される称号に過ぎなくなり、さらに朝廷など存在しない現代では、宗団から僧職の人々がやはり扇子料の名目で買い取る虚栄の称となった。いまこれをわざわざ自ら名乗るような者はその手合の者であるとみて間違いない。→本文に戻る
  • 摩騰[まとう]…永平十年〈67〉、支那に初めて仏教を伝えたと言われるインド僧Kāśyapamātaṅgaの音写名、迦葉摩騰あるいは迦摂摩騰の略。インド(天竺)出身であることから竺摩騰とも称された。『四十二章経』の翻訳を手がけたと伝えられる。
     出身地名を僧名の頭に冠して称する習慣は支那仏教の初期に見られるものであるが、鳩摩羅什と同時代の高徳、支那におけるいわゆる格義仏教を修正せんと奮闘された釈道安尊者〈314-385〉によって、「出家者は家も名も捨て釈教の門下に入った者、いわば釈尊の子であるのだから、出身地由来の語などではなく釈とこそ冠するべきである」などとして廃され、以降は行われなくなった。仏教者が名字の代わりに「釈」と冠するようになって今の日本にも至るが、それは前述の通り、支那の釈道安尊者に始まるものである。→本文に戻る
  • 竺蘭[じくらん]…竺法蘭の略。竺は前述の通りインド出身であることを示す。法蘭がなんのサンスクリット名の漢訳か定かでないが、一節にDharmaratna、あるいはDharmarakṣaであったかと言われる。迦葉摩騰と共に支那は洛陽に来訪し、『四十二章経』を訳したと言われる。→本文に戻る
  • 法顕[ほっけん]…東晋代の支那僧〈337-422〉。支那に仏教が伝わっておよそ二百五十年が過ぎていたものの、しかしいまだ戒律が不備であったことを嘆き、初めてインドへと求法の旅に出た僧らの一人で、ただ一人その目的を完遂された大徳。
     その求法の旅の記録は『仏国記』(通称『法顕伝』)として残され、今もなお貴重な資料として珍重されている。法顕三蔵によって大衆部の律蔵『摩訶僧祇律』および化地部のものと目される『五分律』が支那に請来された。また、『大般涅槃経』も法顕三蔵が将来して訳されたことによって支那に急速に広まった。もっとも、三蔵が志した律蔵の普及は、先んじてもたらされていた鳩摩羅什ら訳による『十誦律』によってなされ、仏陀耶舎尊者によって『四分律』が請来され漢訳されるに及ぶと、『四分律』こそが支那で主流の律の典拠となった。→本文に戻る
  • 羅什[らじゅう]…クチャ(亀茲国)出身の僧Kumārajīva344-413〉の音写名、鳩摩羅什の略称。
     羅什の父はインド出身の僧であったが、クチャ国王の妹に見初められたため、ほとんど強制的に還俗させられて結婚。羅什をもうけた。のち彼は出家し、若くして世にその英才で知られるようになる。前秦がクチャを攻略した際には、彼を高僧として厚遇。後秦の世となってから長安に迎えられ、訳経僧として仏典の翻訳に従事し、数多くの重要な小乗・大乗仏典を翻訳。その訳文は中国語として大変美しく流麗で、今に到るまで支那はもとより日本においても、支那の四大三蔵法師の一人として讃えられている。
     もっとも、羅什は、その父と同じく因果なことであるが長安に入って後、その優れた才を継ぐべき子を設けるべきであると、皇帝によって強制的に女性があてがわれて破戒した。思えば哀れなことであるが、これはこの時点で彼が僧侶でなくなったことを意味する。しかし、彼は依然としてその後も僧侶として生活を続けた。 そしてその生活も、時の皇帝を檀越とするだけに極めて奢侈であったようで、同時代の他の高名な三蔵達、例えば釈道安尊者などと比較すると、およそ僧侶として称賛しえたものでは全くない。
     また、羅什の訳文には、原文に無い文言、おそらくは彼自身の見解に基づく文言が多数挿入されているなど、文章としては美しくとも翻訳文としては問題が大変多いことが知られている。→本文に戻る
  • 真諦[しんたい]…インド僧Paramārtha499-569〉の漢訳名。訳経僧として非常に多くの、そして数々の重要な仏典の翻訳を手掛けた三蔵法師。鳩摩羅什・玄奘三蔵・不空三蔵らと共に、四大翻訳僧の一人として現在讃えられている。→本文に戻る
  • 覚賢[かくけん]…インド僧Buddhabhadra359-429〉の漢訳名。『高僧伝』に、釈尊と同郷のKapilavastu(迦維羅衞)の出であると伝えられる(T50. P334b)。修禅に秀でていたといわれ、その禅法を支那に伝えるために来訪したが、当時の一部支那僧らに受け入れられず排斥される。最終的には当時の支那仏教における雄、廬山の慧遠のもとに身を寄せた。
     今も修禅のための優れた指導書として有用なる『達磨多羅禅経』を訳し、また『観仏三昧経』・六十巻『華厳経』・『摩訶僧祇律』など重要な仏典の数々を翻訳された。→本文に戻る
  • 無畏[むい]…インド僧Śubhakarasiṃha637-735〉の漢訳名、善無畏の略称。
     『宋高僧伝』の伝える所によれば、中インドの王族出身でその才覚の突出していたことから王より早くから譲位されて王位に就いたという。しかし、これをよく思わない兄弟との間で内戦となり、ついにこれを平定するもその虚しきことを思って兄に王位を譲り、みずから出家。特に『妙法蓮華経』を信仰し、法華三昧を得たという。
     その後、インドにおける一大仏教大学であったとも言うべき僧院Nālandā(那爛陀寺)に入ってDharmagupta(達摩掬多)に師事し、密教を相承した。Dharmaguptaといえば玄奘三蔵が渡天の昔に会ったことがあるという人であったが、善無畏三蔵が師事した時には八百歳の高齢でなおその容貌四十歳ばかりの若々しさで健在であったと伝説される。
     善無畏三蔵はその師より唐に密教を伝えよと指示されたことによって来唐。『法華経』系の密教である『大日経』を筆頭とする、数々の密教経典を翻訳され、また『大日経』を注釈されたのが『大日経疏』および『大日経義釈』として支那・日本で重用され今に伝えられている。真言宗では真言八祖(伝持)の一人に挙げられている。→本文に戻る
  • 不空[ふくう]…インド僧Amoghavajra705-774〉の漢訳名、不空金剛の略称。『初会金剛頂経』を筆頭とする重要な密教経典・儀軌を多数、支那へ伝えて訳しており、四大三蔵法師の一人として称えられている。これによって不空三蔵とも称される。
     不空三蔵が密教を安禄山の乱を平定するため、皇帝の下命をうけて調伏法を行った所、安禄山は部下に裏切られて暗殺され、ついに乱は収束に向かう。これを不空金剛の調伏法の功であるとみなした皇帝(唐朝)から篤く尊崇を受けることとなり、唐代の支那における密教の地位は盤石のものとなる。
     不空三蔵には多くの弟子があったが、その中で嗣法の弟子とされたのは恵果阿闍梨であった。この恵果阿闍梨の元に日本からたまたまやって来た空海は、その機根の適していることを、いや、「待っていた」と認められる。入唐直前に出家得度したばかりの空海であったのに関わらず、空海は密教の正嫡となったのであった。真言宗では真言八祖(伝持・付法)の一人に挙げられている。→本文に戻る
  • 嵩山[すうざん]…インド僧Bodhidharma(菩提達磨)〈?〉。南インドの王子であったといわれるが、出家して南海経由で支那に渡り、嵩山少林寺にて面壁九年といわれる九年間にわたる不断の修禅を行ったと言われる。ここでは、そのような故事から嵩山をもって菩提達磨の称としている。
     禅を支那に伝えたことで高名となるが菩提流支三蔵と光統律師に妬まれ、毒殺されたと伝えられる。→本文に戻る
  • 南嶽[なんがく]…支那僧 南嶽慧思〈515-577〉。南嶽衡山にて過ごしていたことから、南嶽慧思といわれる。『摩訶般若波羅蜜経』と『妙法蓮華経』とを最重要視した。後に天台教学を大成する智顗が師事してその薫陶を受けたことから、天台宗の第二祖とされる。→本文に戻る
  • 鷲峰[じゅぶう]…古代インドで中インド随一の大国であったMagadha(摩訶陀)の首都Rājagṛha(王舎城)にある山Gṛdhrakūṭa-parvataの漢訳名である霊鷲山の別称。音写名は耆闍崛山[ぎじゃくっせん]。現在のビハール州ナーランダー地区ラージギルのギリヴラジ(Girivraj)と言われる山。
     釈尊は霊鷲山頂にて多くの説法をなされたと伝えられているが、たとえば大乗経典では『摩訶般若波羅蜜』であり、また『妙法蓮華経』がその代表的なものとして見なされている。
     栄西禅師は、霊鷲山がそれら経典が説かれた処であるのと南嶽慧思が特に両経典を重要視して様々に解釈したのに掛け、「鷲峰の旧聞を弘め」と言ったのであろう。→本文に戻る
  • 鶏嶺[けいれい]…霊鷲山と同地にある山、Kukkuṭapādagiriの漢訳名である鶏足山[けいそくせん]の別称。釈尊の直弟子のうち、もっとも重要な役割を果たした一人であるMahā-Kāśyapa(摩訶迦葉)尊者が入定された山であると伝えられる。
     禅宗における拈華微笑の伝説にいわれる、霊鷲山での説法中になされた釈尊の暗示をただ摩訶迦葉尊者だけが理解したこととから禅宗の第二祖であると禅宗でいわれることと、その摩訶迦葉尊者が鶏足山にて入定されたということ、そしてさらにその法脈を菩提達磨が伝えたことに掛け、「明らかに鶏嶺の法眼を伝う」と言ったのであろう。→本文に戻る
  • 天台[てんだい]…支那僧智顗〈538-597〉の敬称、天台大師の略。智者大師との称もある。南嶽慧思に師事して『摩訶般若波羅蜜経』(ひいては『中論』・『大智度論』など龍樹菩薩の諸思想)および『妙法蓮華経』を学び、天台山にてついに天台教学を打ち立てて、多くの著作を著した。『摩訶止観』・『法華玄義』・『法華文句』がその代表作で天台三大部と言われる。
     智顗が主張した釈尊一代の教相判釈である五時八教は、それは決してインド以来の思想でも伝承でも何でも無かったものであったのに、日本天台宗およびそこから派生した諸宗派に非常に大きな影響を及ぼし、その故に「『法華経』こそ至高」「『法華経』こそ唯一の正しい仏教」とする宗派や人々が多く現れ、今も存在している。→本文に戻る
  • 五品[ごほん]の智解[ちげ]を□…底本においても最後の一文字が脱落しており意味が明瞭でない。
     智者大師智顗について五品と言われるのであれば、五品弟子位(五品位)のことであろう。前述したとおり、智顗は釈尊一代の教説を五時八教に分類して理解した。
     五時とは、釈尊が成道されて後に説法された順序を言うもので、以下の通り。
     ①華厳時
     ②鹿苑時
     ③方等時
     ④般若時
     ⑤法華涅槃時
    結局、そのうち最期に説かれた『法華経』およびそれを補完する『涅槃経』が、仏陀の教えの中で至高なのだという。
     また八教とは、釈尊の教えをその内容によって分類した化法四教と、釈尊の教えをその種類によって分類した化義四教の総称だとされるもの。化法四教とは、
     ①三蔵教(声聞乗の教え)
     ②通教(声聞乗と菩薩乗と共通する教え)
     ③別教(大乗の教え)
     ④円教(完全なる『法華経』と『涅槃経』の教え)
    化義四教とは、
     ①頓教(華厳)
     ②漸教(阿含・方等・般若)
     ③秘密教
     ④不定教
    さて、そこで五品弟子位とは、化法四教のうち円教における修道者の初歩的階梯(十信位以前の外凡の位)であるといい
     ①随喜品
     ②読誦品
     ③説法品
     ④兼行六度品
     ⑤正行六度品
    からなるという。
     伝説では、智顗は臨終の際、弟子から自身がいずれの階位にあるかを問われた時に、「もし自分がこのように弟子を教導することがなかったならば、必ず六根清浄の位に至ったであろう。けれども、しかし利他として弟子を教導し、己を損じたがために五品弟子位にあるに過ぎない」と答えたといわれる。この伝承は、智顗の弟子灌頂によると伝説される智顗の伝記『隋天台智者大師別伝』に「吾不領衆必淨六根。爲他損己只是五品位耳」(T50. P196b)とあるによる。
     ここでいわれる「五品の智解」とは、その伝説の通り、智顗がその五品弟子位にのみ到達していたことを意味するのであろう。あるいは、そのような智顗の諸仏典に対する理解・解釈全体を意味したものか。→本文に戻る
  • 南山[なんざん]…唐代の支那僧道宣〈596-667〉の諡号、南山大師の略。支那における律宗の一派、相部宗の法礪に師事して律を学び、ついには終南山にてその学系が花開いて南山律宗の祖とされる大徳。玄奘三蔵が長い天竺への旅から帰ったときにはその訳経事業にも参加している。
     道宣律師は多くの著作を残されているが、そのうち特には『四分律』の注釈書である『四分律刪繁補闕行事鈔(行事鈔)』は、今からすれば天竺に行ってその実際を見たことが全くなかった律師ならではの誤解や錯誤など多くあることが知られるが、今なお支那および日本で律を学ぶ者には不可欠の最重要典籍である。さらに『続高僧伝』や『広弘明集』などは、今も僧伝や往時の伝承などを知る上で不可欠の名著として珍重されている。日本に律をもたらされた鑑真大和上は、道宣律師の法脈に連なる人。→本文に戻る
  • 玄奘[げんじょう]…唐代の支那僧〈602-664〉。原典にて仏教を学び、またみずからの阿毘達磨や法相(唯識)などについての疑問を解消することを目指し、国禁を破って国を出、陸路にて中央アジアを経巡って西北からインドに入った。支那を出てインド各地に永く滞在し、また支那に戻るまでおよそ十六年。その間に得た膨大な仏典と知識とを支那にもたらしたが、その後はその翻訳を国家の庇護の元に監督した。原典にかなり忠実な翻訳やそれまでの訳語の修正をなした。その故に玄奘三蔵以降の訳は新訳と言われる。また、玄奘三蔵の弟子基(窺基)によって法相宗が起こされる。
     そのもたらした諸経論やその翻訳事業による、その後の漢語仏教圏への影響は計り知れないといっても過言ではない。また、そのインド旅行の記録であり一大冒険記だとも言える『大唐西域記』は、今も貴重な記録として珍重されている。→本文に戻る
  • 熟蘇の都会[とえ]…大乗の『大般涅槃経』では、諸々の仏典が五味に喩えられている。五味とは、牛乳を加工する過程で順に得られるもので、最後に得られる牛乳の精髄たる醍醐は、この世の最上のものであると言われた。ただし、醍醐がどのように牛乳から作られるのか、もはやその製法が伝わっていないため、今やその味も正体をも誰も知らぬものとなっている。
     ① 乳味(牛乳そのもの)…十二部経
     ② 酪味(バター)…修多羅
     ③ 生酥味(レアチーズ)…方等経
     ④ 熟酥味(熟成チーズ)…般若波羅蜜多
     ⑤ 醍醐味(醍醐)…大涅槃
     この『涅槃経』における譬喩をもって、玄奘三蔵がインドで直に学び、また持ち帰って翻訳された諸般若経の中でも『大般若経』を、禅師は「熟酥の都会」と讃しているのであろう。
     なお、まったくの余談であるが、日本で発明され、戦前の大正時代から国民的に親しまれてきた乳酸菌飲料であるカルピスは、この熟酥に由来する名称である。熟酥とはサンスクリットsalpis[サルピス]の漢訳語であるが、ラクトー株式会社の社長三島海雲が飲料の商品を命名する際、カルシウムのカルと、サルピスのピスを合したのがカルピスである。もっとも三島は最初、最上の味である醍醐すなわちsarpir-maṇḍa[サルピル マンダ]をこそ文字って商品名に関したかったが、どうも「カルピル」では語感が悪いために断念。妥協して次点の熟酥を採用(?)したのだった。このような発想は、三島が真宗寺院の息子であったためであったという。コーヒーミルクのスジャータという商品と似たような発想であろう。
     もっとも、時代もかわって戦後にこの国民的飲料たるカルピスをアメリカに輸出し、売り出そうとした際は、英語圏ではその名がcow pis[カウピス]、すなわち牛のションベンと聞こえてしまう。同じ牛由来であるが、乳(熟酥)と尿とでは大違いである。ためにCalpico[カルピコ]という商品名で売り出すこととなった。しかし、あまり売れていない。→本文に戻る
  • 義浄[ぎじょう]…唐代の支那僧〈635-713〉。法顕や玄奘の渡天に憧れ、ついに自身も南海経由でインドに入って各地の僧院で過ごした大徳。
     インドにおける大乗・小乗の僧徒の生活・あり方・律が、実際どのように行われているか等を詳細に記し、『南海寄帰内法伝』を著した。その著の中で、義浄はインドと支那における律への解釈や実際を比較し、道宣とその一門に対する批判を加えたが、当時の支那の律僧にはほとんど無視・黙殺された。それはむしろ後代になってこそ貴重な書として評価され、研究されることとなる。実際、『南海寄帰内法伝』は六、七世紀におけるインドの僧院生活や風習を知る上で、現在は無二ともいえる資料となっている。
     義浄は支那へと帰ってから三蔵としても活動しており、多くの経律を翻訳されたことから義浄三蔵と称される。中インドで新たに展開していた説一切有部の分流たる根本説一切有部の律蔵『根本説一切有部毘奈耶』を請来して訳されているが、禅師はそれを取り上げて「義浄は律蔵の墜文を補綴す」と言ったのであろう。『根本説一切有部毘奈耶』などもまた、現在も律蔵研究・インドの僧院生活研究、そしてまた仏伝研究にも欠かせぬものの一つとなっている。
     栄西禅師は義浄三蔵のことを非常に敬していたようで、特に『出家大綱』においては、三蔵の『南海寄帰内法伝』にある記録とその見解、さらには三蔵が訳された『根本有部律』にほとんど全面的に基づき、出家のなんたるかを論じられている。このことから、禅師が禅を相承しえた支那における禅院生活を決して至上のものとはしておらず、戒律の実修に際しては、渡航の果たせなかったインドでのそれをこそ規矩としたいとの志があったことが知られるのである。
     それは、栄西禅師のやや後代から現代に至るまでの「僧形の儒者」の如きものとなっている禅僧などとは、まったく異なった志向・態度である。室町期から近世、そして現在にいたる禅僧の有り様をもって、栄西禅師の実像を探ろうとすればたちまち大いに誤ることであろう。→本文に戻る
  • 則天皇后[そくてんこうごう]…則天武后〈690-705〉。唐代の高宗の皇后。高宗の死後、みずからが皇帝を称して武周朝を立て、唐朝を一時中断させた。支那史上において唯一の女帝。一応は仏教徒であったようで、諸寺院を庇護し、またチベットにも仏像を送ってもいる。また、日本で今も読経する最初などに頻繁に唱えられている「開経偈」は、一説に則天武后によって作られたものであるといわれる。→本文に戻る
  • 日羅[にちら]…百済の王に仕えた日本人高級官僚〈?-583〉。敏達天皇十二年〈583〉に天皇の命を受けて帰国するが、その際、百済と外交するにどのようにすべきかその攻略法を上奏したことから、日本にあった百済人に暗殺された。
     もっとも、ここで栄西禅師は当時の諸伝承に従い、日羅を百済人の僧であって日本に仏像を実際に伝えた人であり、聖徳太子の師僧であった人であると理解している。→本文に戻る
  • 上宮太子[うえのみやたいし]…聖徳太子〈574-622〉の異称。日本では古来、聖徳太子は南嶽慧思の生まれ変わりであったと信じられていた。ここで禅師が「衡山の妙経を取って」と言っているのは、慧思の生まれ変わりである聖徳太子が遣隋使を送ったのは、前世の自分(慧思)が南嶽衡山に秘した『法華経』をこそ掘り起こして日本に将来するためであった、と信じられていたことによる。→本文に戻る
  • 道璿[どうせん]…唐代の支那僧〈702-760〉。律に通じて禅観をよくし、特に華厳教学に精通しており、世に華厳尊者とも尊称された、持戒清浄の学僧。また、天台教学にも通じており、後の最澄にも影響を与えた高徳。
     鑑真大和上に先んじて訪日を請われ、天平八年丙子〈736〉に来日。天平勝宝三年辛卯〈751〉には朝廷の要請によって僧綱職位に就き律師となった。来日後は大安寺に入って日本の僧徒に薫陶を垂れ、『梵網経』の注釈書『註菩薩戒経』三巻を著された。しかしその後、四大不調のために吉野の比蘇山寺に隠居され、そこで余生を過ごされた。
     道璿律師の行業については、別項“十重四十八軽戒”にて典拠を挙げて触れている。参照のこと。→本文に戻る
  • 鑑真[がんじん]…唐代の支那僧〈688-763〉。南山律宗系統の律および天台教学に通じた大学僧であったが、日本に伝律しうる高僧を招来せよとの聖武天皇の勅によって渡航していた栄叡と普照の要請により、日本に仏法を伝えることを決意。様々な理由によって五度も渡来に失敗するが、ついに六度目に成功。もっともその途上に光を失って盲目となっている。天平勝宝四年〈753〉に来朝され、翌五年〈754〉には東大寺大仏殿の前に設えられた戒壇にて、聖武上皇・光明皇后を始めとする僧俗に菩薩戒を授け、また僧には白四羯磨による具足戒(律)を授けた。ここに日本に初めて僧宝が誕生した。また、鑑真やその弟子法進や思託などは、天台の学僧でもあったことから来朝時に多くの天台宗の典籍をもたらしており、それがやがて最澄に影響を及ぼしてもいる。鑑真は来朝後日本に帰化し、唐招提寺にてその生を終えた。
     なお、和上とは本来、個々人それぞれの師僧を意味する語であって、僧の地位を示す称号などではない。が、日本における戒律の祖となったことからか、朝廷から大和上との称が贈られた。→本文に戻る
  • 伝教[でんきょう]…日本の天台法華宗の宗祖、最澄〈767-822〉の清和天皇から贈られた諡号。日本における大師号の初めである。大師号とは古くは支那にて行われた諡号、すなわち帝から優れた僧へ贈られた諡[おくりな]の一つである。これを日本も倣って行ったが、その第一号が最澄であった。→本文に戻る
  • 弘法[こうぼう]…真言密教の宗祖、空海〈774-835〉の醍醐天皇から贈られた諡号。→本文に戻る
  • 九宗[くしゅう]…鎌倉期の日本で行われた倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗・天台宗・真言宗そして禅宗の、仏教の全宗派の称。
     平安期初頭に天台と真言とが請来される以前は六宗、今は南都六宗などと呼称されているが、平安期には天台と真言とを加えて八宗となった。それぞれ八宗の優れた概説書として鎌倉前期の碩学、東大寺戒壇院長老の凝然大徳〈1240-1321〉による『八宗綱要』があり、今も日本における大乗の徒であればすべからく読まれるべき不朽の名著となっている。ここで大徳は「八宗の綱要」としているものの、禅宗および浄土教も付録としてながら解説をされている。ただし、浄土は宗としてではなく、あくまで教としてである。大徳の当時、鎌倉末期においてもなお、日本仏教はあくまで八宗であると認識されていた。もっとも、大徳は臨済禅を学んで実際に印可も受けており、禅宗を否定していたわけでは全然なかった。
     ではこの九宗についてであるが、九宗という言葉自体は、すでに台密の大成者といわれる安然阿闍梨〈841-915〉の著『教時諍論』冒頭において、八宗に(最澄が伝承したところの)禅宗を加えた九宗という語を用いている。「夫我大日本國有九宗教」(T75. P355a)。しかしこの九宗なる語は当時、いや、それは今もなおそうであるが、まったく一般的で無かったのであろう。栄西禅師は阿闍梨の『教時諍論』を渡宋以前に読み、そこで初めて九宗という言葉を知ったということをその著『興禅護国論』にて記している。
     禅師は、天台の徒らに対して安然の著にある九宗なる言葉を用い、禅宗が平安の昔から正統性あるものとして認識されていたことを言わんとしているのであろう。→本文に戻る
  • 求法[ぐほう]の渡海[とかい]…仏法を求めて日本海を渡り支那へ行くこと。あるいはその留学僧のこと。
     ここに言われる「求法の渡海、絶えて三百余年」とは、最澄や空海、常暁など入唐八家と言われる入唐留学僧の中、貞観七年〈865〉に唐より帰った宗叡を最後に、栄西禅師が仁安三年〈1168〉に初めて宋に渡るまでの300年余りの間、誰も求法のために身命を賭して海を渡る僧のなかったことを言うもの。実際は、その間も幾人かの僧の渡航はあったのだが、特にコレという目立った成果も活動もなく、その故に知られることもなかったのであろう。
     言うまでもなく、仏教はインドに誕生せられた仏陀釈尊に端を発するものであり、インド発祥の宗教である。よって日本に伝わった仏教はすべて、インドから中央アジアや南海、そして支那を通じて伝わったものである。すべての教えは海を隔てた彼の地からのものである。現在、「仏教の本来云云を言うものがあって、日本のそれがその本来からかけ離れていることを批判する者があるが、それはおかしい。日本には日本の仏教があって良いはずだ。インドの仏教と日本の仏教が異なっていて何が悪い。これで良いのだ!」という言を口にする者がある。
     しかし、これは様々な問題をごちゃごちゃと一緒くたにした、実に杜撰きわまりない言である。国が異なればその風土・習慣・文化が異なるのであるから、そのあり方としてインドや南海などと異なっているのは当然のことであろう。それは「それで良いのだ」。ただし、戒律に関しては、若干の姿形や形式上の違いはあるとしても、独自などあり得ない。風土・習慣の異なりに基づく地方性・独自性を、経論や戒律についてまで敷衍して適用してしまったら、仏教でなくなってしまうのだから。
     そのような者らが意図し口にするような、インドや支那との連続性やそこに主張される正統性云云の話をまったく無視した「日本の仏教」・「独自の仏教」なるものを、その宗旨宗派を伝来あるいは創始した祖師と言われる人々は決して認めはしないであろう。それは、それぞれ祖師の残した諸著作において、その教えがどのようにインドから継承されたものであって、そこにいかなる正統性があるかを懸命に主張し、またその根拠がいずれの経典にあるかを合理的に述べようとしていることを、まったく等閑視しての言である。それで一体どうして「オソシサマ」などと崇めることが出来るのであろうか。彼ら祖師といわれる人々は、今の人の言う「日本の仏教」なるものを伝え、行おうとなどまったくしていないのである。それらはあくまで三国伝来であると彼らが認めたからこそ、その宗を伝え開き、またこうして今にまで伝わったのだ。
     もっとも、このような話は、日本の法然や親鸞、そして日蓮についてはそのあまりの特殊性から通用しないであろうけれども。その故に、彼らはまた当時から「仏教ではない」などと断じられ、あるいは今でも「新仏教」などと称されるのであろう。→本文に戻る
  • 遣唐使[けんとうし]…舒明二年乙未〈630〉から寛平六年甲寅〈894〉の264年間都合20回(諸説有り)行われた、日本が国として唐へ派遣した使節団。唐という当時は世界に冠たる文明大国から様々な文物を日本へもたらし、日本の政治・文化・宗教・芸術などへ多大なる貢献を果たした。しかし、大使に任じられた菅原道真によってもはや不要であるとの建議がなされて停止され、やがて唐そのものが延喜七年丁卯〈907〉に滅亡したため廃止となった。
     ここで栄西禅師は「遣唐使、停まることまた二百余年」と言うが、実際は遣唐使が停止された寛平六年〈894〉からこの願文が著される元久元年〈1204〉まででちょうど三百十年、すなわち三百余年である。故にこれは底本に「百余年」とあるが「百余年」の誤植・誤記であろう。
     おそらくは「求法の渡海」の最後と「遣唐使」の停止とからが同じく三百余年も経て、天竺および支那など日本が国外から断絶していたことを併記したのであったろう。→本文に戻る
  • 墜文[ついもん]…日本にいまだ伝わっていない仏陀の教え。あるいはすでに伝わっている中でも謬りや欠落ある経論などの文書。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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