真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 栄西 『日本仏法中興願文』

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1.原文

我國縱富于法藏何不復悲一句之墜文哉況深法遂時漸爲淺近廣學隨人稍爲薄解設有隨分解者皆隨名利永不爲大事因緣或自稱智人而於道心有若亡就中律藏澆漓之世梵行之比丘削跡福田衰弊之時人天之依怙全少欲謂之則可見害將不謂亦爲欲令知爲之如何説黙共煩進退云谷但忘一身之陵辱以報三寶之恩德是學佛法者之根源也抑又非如來本意哉我土衆生比者失善知識何不資助此哉庶幾輔相智臣留心於此願文具令經奏聞廻中興之叡慮修復佛法王法者最所望也小比丘大願只是中興之情也誰復可思議哉其佛法者是先佛後佛之行儀也王法者是先帝後帝之律令也謂王法者佛法之主也佛法者王法之寶也是故慇懃可被見知檢察矣近世以來比丘不順佛法唯口能語之學者不習佛儀唯形状似之高野大師云能誦能言鸚鵡尚能言而不行何異猩猩云云可恥此言乎縱其行勿令輕弄然而近代人翻此咲持戒蔑梵行爲之如何

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2.書き下し文

我国、縦い法蔵に富めども、何ぞまた一句の墜文を悲しまざらんや。況んや深法、時を遂って漸く浅近と為り、広学、人に随って稍く薄解と為るをや。

設い分に随って解する者有れども、皆な名利に随って、永く大事因縁の為にせず1。或いは自ら智人と称して、道心に於いては有るも亡きが若し2

中に就いて律蔵澆漓3の世、梵行3比丘4は跡を削り、福田5衰弊の時、人天の依怙6全く少なり。

之を謂わんと欲すれば、則ち害せらるべし7。まさに謂わざらんとすれども、また為に知らしめんと欲す。之を為さんこと如何。説黙共に煩い、進退云に谷まる8

但だ一身の陵辱を忘れ、以って三宝の恩徳に報ずる。是れ仏法を学する者の根源なり。抑そもまた、如来の本意に非ずや。

我が土の衆生、此のごろは善知識9を失う。何ぞ此れを資助せざらんや。庶幾くは輔相智臣、心を此の願文に留め、具に奏聞10を経せしめて中興の叡慮11を廻らし、佛法・王法を修復せば、最も望む所なり。小比丘の大願、只だ是れ中興の情のみ。誰か復た思議すべけんや。

其の仏法は、是れ先仏・後仏の行儀なり。王法は、、是れ先帝・後帝の律令なり。謂く王法は仏法の主なり。仏法は王法の宝なり。是の故に慇懃に見知・検察せられるべし。

近世以来、比丘仏法に順わず。唯だ口のみ能く之れを語る12学者、仏儀を習わず。唯だ形状のみ之れに似たり13

高野大師の云く14、能く誦し能く言うは、鸚鵡すら尚能くす。言いて行わざるは、何ぞ猩猩に異ならんと云云。此の言を恥ずべきか。其の行を縦にして軽弄せしむること勿れ。然るに近代の人は此れに翻ず。持戒を咲い、梵行を蔑ろにす。之を為さんこと如何。

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3.現代語訳

我が国が、たとえ諸宗様々な法が伝わって豊富であるからとはいえ、一体どうしてまた一句の墜文を悲しまないで良いことがあろうか。ましてや甚深なる仏法が、時代を遂って次第に浅近にしか理解されぬものとなっていき、いくら広く学んだとしても、人がさらに一層、薄はかな理解となっていくことが良いはずがない。

たとえ人それぞれの能力に応じて理解する者があったとしても、その皆が名誉や利得を追い求める手段とするだけで、永く大事因縁の為とはしないのである。あるいは自らを「智者である」などとすら称する者もあるが、しかしその者には道心など有って無いようなものである。

就中、律蔵などほとんどまったく顧みられなくなっているこの世では、梵行の比丘などその姿は無く、福田(たる僧伽)が衰え潰えているこの時代には、人々と神々の拠り所(となるべき比丘など)全く稀である。

このような有り様について率直に述べ批判しようとしたならば、たちまち(今の世の「僧」を名乗る者等から)害されてしまうであろう。しかし、では言わないでおこうとしたとしても、やはりまた(仏法、ひいては国家と人々の)為には(僧侶本来の有り様、あるべきようを)知らせようとも思うのである。これをするにはどうしたら良いであろうか。ああ、これを説くことも沈黙することも煩いである。まさに進退ここに極まる。

そう、(他者からの誹謗中傷・妨害など)ただこの我が一人身への陵辱など恐れず、(堂々と堕落した今の僧らを批判し、また正しき姿を世に示すことを)もって、三宝の恩徳に報ずること。これこそ仏法を学び行ずる者の根源である。そもそもそれは、また如来の本意に違いない。

我が国の人々には、今時は善知識が失われてしまっている。どうしてその助けとなろうとしないことがあろうか。乞い願わくば、宰相など帝の智臣らよ、心にこの願文を留めて、これを詳しく奏聞し、仏法中興のための叡慮をめぐらし、仏法・王法とを修復したならば、我が最も望むところである。小比丘(栄西)の大願は、ただ仏法の中興をこそ求めたものである。誰がこれを思議できようか。

仏法とは、先仏・後仏の行儀である。王法とは、先帝・後帝の律令である。王法とは仏法の主である。仏法は王法の宝、と言われる。このことから、慇懃に(この我が大願を)精査・熟考されたい。

近世〈平安中後期〉以来、比丘は仏法に従うことがなくなり、ただ口先でのみよくこれを語るだけとなってしまった。学者〈学僧〉は仏儀〈戒律・禅定〉を修めることがなくなり、ただ姿形ばかり「僧侶に似たもの」となっているに過ぎない。

高野大師〈空海〉はこう言われた、「よく誦し、よく言うことであればオウムですらよく為しうることである。(僧侶が仏法を)ただ語るのみで行わないというならば、何ら猩猩〈猿の化け物〉と異なりはしない」と。(今時の僧尼らは)この言葉を恥ずべきであろう。

その振る舞いを自分の思うがままにして(戒律を)軽んじることなかれ。しかるに近頃の僧徒はこれにまったく反している。持戒(すること自体、持戒する人)をあざ笑い、梵行をないがしろにしている。さて、この事態をどのようにすべきであろうか。

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4.語注

  • 設い分に随って解する者有れども云云…仏教をある程度、その得難い解脱への道や生き方としてではなく、知識教養として理解するだけの僧侶、人がその昔からあった。なんとなればそれが「お金になる」、それで「食っていける」からであった。平安中後期には貴族の長男ではなく家を継ぐことの出来ない子弟が出家し、寺院に入って学僧となる者が多かった。あるいは貴族出身ではなくとも、地方豪族など比較的出自が低いものでも仏法に関する学問に秀でたならば、それでいわば「立身出世」が出来たのである。また、最初は菩提心をもって仏教を学んでいた者もあったろうが、やがて名が立ち、また栄誉と財とが集まるようになって堕落した者もあったであろうか。
     たとえば、これは随分時代が下った江戸末期のことであるけれども、福沢諭吉先生はその自伝『福翁自伝』の中でこのように述懐されている。「中津は封建制度でチャント物を箱の中に詰めたように秩序が立っていて、何百年経っても一寸とも動かぬという有様、家老の家に生まれた者は家老になり、足軽の家に生まれた者は足軽になり、先祖代々、家老は家老、足軽は足軽、その間に挟まっている者も同様、何年経っても一寸とも変化というものがない。ソコデ私の父の身になって考えてみれば、到底どんなことしたって名を成すことは出来ない、世間を見れば茲に坊主というものが一つある、何でもない魚屋の息子が大僧正になったというような者が幾人もある話、それゆえに父が私を坊主にすると言ったのは、その意味であろうと推察したことは間違いなかろう」。僧侶になることが、世間で立身出世するための一手段、あるいは飯を食っていくためだけの業であったのは、貴族社会から見られたことで、それがこのように江戸の武家社会・封建体制においてもなお同様であった。
     現在も、仏教をどこまでも「飯の種」とする者は少なくない。それが仏教学という純然たる文献学者という立場であれば理解も出来る。いや、時にはそのような学者の著作の中でも、およそ知性も教養の欠片も備えていない大半の日本のボーサンのかわりに、お説教をその著作の中で開始している場合もまま見られる。またあるいは、「私は厳密には仏教徒でないから構わないのだ」といいつつ、「かの高名な○○に師事」「○○で何年、比丘としてプチ修行体験」「○○で瞑想経験あり」「○○で仏教を○年間修学」などの看板を挙げて飯の種とし、今時分の時流ということなのかもしれないけれども軽薄な語り口でブッキョーを語ったり、あれやこれやとただ比較相対的に述べ上げたりするも、その本人はまるでブッキョーどこ吹く風という人々が次々現れてもいる。
     所詮どのように言ったところで、そのような彼らには仏教などどこまでも処世術の一手段、知的遊戯の一方法でしかなく、涅槃だ解脱だなどということは夢物語であって、決して「大事因縁の為」のものなどにはなりえないのであろう。
     けれども反面、現代におけるそのような事実、それで生活し得る人があるということは、それだけ日本の寺院・僧尼らが社会の仏教への関心、そして宗教的要求に全然応じられていないことを物語ってもいるのであろう。いずれにせよ浅ましいことである。→本文に戻る
  • 自ら智人と称して云云…「自ら智人と称する智人はいない」ということは無いであろう。たとえば仏陀釈尊は自ら智人と宣言されたのであった。
     もっとも、智人を自称する人、あるいは智人と自称することはなくとも「我、荊山の玉を抱く」と言わんばかりに世間に自らを売り込もうとする者は多くあるが、ではそれが本当に智人である、「荊山の玉」を得ていると認められるのは、極めて稀なのが現実ではあろう。→本文に戻る
  • 澆漓[ぎょうり]…倫理・道徳が衰え、人情の薄いこと。澆と漓とは共に「薄い」の意。→本文に戻る
  • 梵行[ぼんぎょう]…サンスクリットbrahma-caryāの漢訳語。ここでのbrahma(梵)とは「清らか」を意味し、特に性欲を制して一切の性行為を断じること。あるいはまたより広い意味で、持戒すること。→本文に戻る
  • 比丘[びく]…サンスクリットbhikṣuあるいはパーリ語bhikkhuの音写語。他に苾蒭との音写語も用いられる。漢訳語は大僧または乞士。その意は「(食を)乞う者」で、仏教においては具足戒を受けた正式な出家修行者を指す。いまだ正式でない出家者は沙弥という。詳しくは別項“仏教徒とは何か(比丘)”を参照のこと。→本文に戻る
  • 福田[ふくでん]…敬意や慈悲や憐れみなどに基づいて布施・接待など供養することによって、福徳の果報が返ってくるもの。敬意の対象としては仏法僧の三宝、あるいは両親・師など。慈悲や憐れみの対象としては、病人や貧者など。もっとも、ここで禅師は、真に尊敬しえて福田たりうる僧宝すなわち僧伽(サンガ)が日本に無いことを意味している。
     福とは、サンスクリットpuṇyaあるいはパーリ語puñña、またはサンスクリットおよびパーリ語guṇaなどの漢訳語である。それは死と共にすべて失ってしまう金銭財産・健康なども含意されるが、最も価値高い福徳とされるのは優しさや寛容さなど「人の良い性質」など、あくまで涅槃を得るに資する徳性。→本文に戻る
  • 人天[にんてん]の依怙[えこ]…仏陀の徳を賞賛する称のなかに、人天師(satthar devamanussā)なる語がある。いまだ苦しみの渦中にある神々の世界を含めた全世界・宇宙、生死輪廻からの解脱の道を奉じる仏教者は、人のみならず神々の師となりえる存在たることを意味する語である。そしてインド以来、支那や日本でも、高僧と称えられる多くの比丘の伝記には神々が登場して、彼らに帰依し、また守護してその修道を支えたことが伝えられている。
     禅師は、そのような人天の依怙となりうる僧侶が、日本にはほとんど無いことを嘆いている。→本文に戻る
  • 之を謂わんと欲すれば云云…実際、禅師は日本仏教界の堕落を口にしたことによって、それは禅を広めんとする活動の一環でもあったのだけれども、「則ち害せられるべし」という経験をすでに存分に、嫌というほどしていた。それはほとんど天台宗延暦寺の僧徒らによってなされていたのであるが、ただ政治的妨害・圧迫というだけではなく、下手をすると延暦寺の僧徒らは禅師の寺を打ち壊し、栄西の命をすら奪わんとする構えであった。これは直接、禅師に関わることではなくその没後二十年弱に生じた事件であったが、その門流の人たる聖一国師円爾などは、禅を憎む天台僧数名に暗殺されかけている。当時の天台僧らの多くは、出家修行者を称していながら殺人をも厭わぬ恐るべき暴虐集団だったのである。
     栄西禅師は『興禅護国論』において、これは当時のまさしく自身の状況であったのであろうが、このように嘆かれている。「西府有謗家。東洛有障者。欲避無百由旬之地也。欲省躬非智者也。當如之何。雖須再渡巨海晦迹於台岳之雲。唯恨捨吾土利。潤異域之法水乎」、すなわち「西府〈筑紫〉には私を謗る者〈筥崎の良弁〉があり、東洛〈京都〉には妨害する者〈比叡山延暦寺の僧徒〉がある。それらを避けようとは思うけれども、もはやどこにも避けえる所は無く、これを何とかしようと思うけれども、智者でもない私には如何ともしがたい。一体、この事態をどのようにすべきであろうか。あるいは再び海を渡って天台山にかかる雲に身をくらませようかとすら思う。けれども、しかし、我が国を利することを捨てて、異国において仏法を修めることとなるのは遺憾である」という、それはまさに自身の窮状を悲嘆したものであった。→本文に戻る
  • 説黙共に煩い、進退云[ここ]に谷[きわ]まる…当時の仏教界における惨状を口に出して批判するやいなや、たちまち彼らから誹謗・中傷が返って自らの立場が悪くなるから行い難い。が、それをただ何ら批判もせず押し黙っていることは、結局そのような堕落を黙認するに等しいことであるからこれも出来ない。そのような、栄西禅師の進退極まった心情がここに吐露されている。どちらを行ったとしても、非難され積極的に妨害すらされてしまうことであろう。いずれをするにせよ、それは自らを消耗する行為となるのである。
     解題で述べたように、この『日本仏法中興願文』は、栄西禅師が武家や貴族からすでに一定の帰依を受け、比較的大きな寺院の建立を開始してその拠点とすることも出来ていた、六十二歳に著されたものであることに留意。
     一般に、年齢の比較的若い時は先鋭的な思想や態度を持ちがちなものである。けれども、一度ある程度安定するに至ったならばたちまち周囲と同化・同調しようとするのが世の習い。いわゆる日和るわけである。けれども、なお禅師はこのような心情にあった。それは、禅師の立場というものがいまだ安定とは程遠い状況にあったことも暗示する語であるかもしれない。が、無論その根底には、ただ禅を認知させて広めようとするだけではなく、仏法そのものの中興に真剣なる禅師の思いがあったことを意味しているであろう。
     仏教者の堕落した有り様について批判した場合、「お前が言うな」・「汝も同じ穴のムジナであろう」・「同じ仏教者でありながら、いわば身内である他の者をそのように批判するのは不届き千万」・「どのように正論を言おうが身内の内実をそのように開陳するのは悪である」などといった反論、非難を口にする者がある。それはいつの世でも変わりはしないのであろう。あるいは、「仏教者にとって最も大事なことは和合である。ほれ、和合僧というではないか。それを汝の勝手な批判によって、それがたとい正論であったとしても、壊そうとするとは何事か。むしろ汝こそ獅子身中の虫である。そのような破和合僧こそ極重罪である!」などといった類の、反駁を試みる者もある。しかし、残念ながら(?)、彼らのそれは和合僧などではなくいわば「烏合の相似僧」・「賊心入道の集い」に過ぎない。持戒・持律あっての和合僧なのである。
     あるいはまともに反駁しようが無くなると、「無礼だ」「失礼であろう」とか「大人のルール違反」などという手合の、まったく論点を逸らした稚拙な言を放つ者すらある。それは結局、礼だとか大人だとか言う意味すらもわからず、ただ感情的にそういうしか他無いのであろうか。
     しかし、この「僧を自称し、その権利を行使する者らがまったくその義務・規律を守らず、またそれを微塵も恥じずに居直っている」あるいは「ブッキョー、ブッキョー言うけれども、しかし実際のところその根拠が全然ない」という問題については、何者が言っても厳然たる事実であって、誰が言うから正しいだとか誰に言う権利があるとかいう問題では全然ない。ただ、僧として戒律復興を志し、また主張するのであれば、まず自身がそれを正統な手段で実際に行うことは求められることは当然であろうけれども。
     そもそも、日本仏教史上において戒律復興をもって仏教界の刷新・復興を志した僧のほとんど全員が、「自分たちのやっていることが如何に非法で、無根拠であるか」という痛烈な自覚や鋭い批判精神、大なる反骨精神をもとに活動し、その故に「如法」を求めたのであった。それはむしろ、自身が門外漢ではなく、自身がそのような者の一類であるという真剣な自覚・自省があったからこそであった。これについての一例として、別項“慈雲『律法中興縁由記』”を参照のこと。
     そのような活動を展開する者には周囲との軋轢が生じ、またそこからの激しい批判、そして時には妨害をすらさえ伴うものとなるのは必然であった。たとえば鑑真大和上が渡来された時の、旧来の日本僧らの反応然り。あるいはまた、鎌倉期初頭の叡尊・忍性律師らの戒律復興に際しては、周囲の批判を至極警戒したために、当初はこれを秘匿して世に知らせなかったこと。さらには、江戸中期の慈雲尊者など、正法律運動を展開する中、本寺であった野中寺から除名除籍処分を受け、多くの者らから大なり小なりの批判をされたこと然り。
     なんとなれば、そのような「戒律復興」ということは、裏を返せば「当時の僧を自称する者らは僧ではない、その正統性が無いから、これを刷新し正さなければならない」ということに他ならず、そのように言われた(根拠がない、あるいは堕落した)僧らは、いくらそれが正しいことを理解できたとしても心中穏やかでなくなるのである。実際問題、またそれを直ちに認めると己の立場と経済基盤を失うこととなる。故にこれもまた必然的に、そのような動きに否定的となるのである。戒律復興云云ということは、ただ宗教的・仏教的観点からだけではなく、経済的・社会的観点からも見なければこれを正確に理解することは出来ないであろう。→本文に戻る
  • 善知識[ぜんちしき]…仏道に導き、悟りへと誘う師。知識とあるが、これはただ単に知識量が豊富な人を意味しない。あくまで人と神々の師として涅槃に導き得る、善き豊かな智慧を持つ人のこと。→本文に戻る
  • 奏聞[そうもん]…天子(天皇)に申し上げること。奏上に同じ。→本文に戻る
  • 叡慮[えいりょ]…天子(天皇)の考え、気持ち。→本文に戻る
  • 比丘仏法に順わず云云…仏法(戒律)に従わない比丘などありえないはずであるが、鎌倉期の近世以来、それは律令制がほとんど崩壊してしまった平安中期頃からであろうけれども、すでに存在していた。しかし、まだなんとかそれが「本来はあり得ない」という知識や自覚、反省はあったため、そのような破戒無慙の比丘をして「名字無戒の比丘」などと称していた。そのような者はいわば名前ばかりのコスプレ僧である、という自覚がまだ当時はあった。
     そして仏法に従わないで比丘を自称する人は今の日本でも存在する。いや、彼らは比丘が何かをすらまるで知らずに、ただその響きがカッコイーだとか昔の僧侶らが称していたという理由でのみ、自分を「比丘○○」「沙門○○」などと自称しているのである。無知と無恥にもとづくものであろうが、実に失笑を禁じ得ない。
     そして、栄西禅師がここで言う「唯だ口のみ能く之れを語る」僧職の人々は、やはり今も多く存している。いや、仏法を「能く之れを語る」人すらももやは稀となって、仏教に似ても似つかないモノ(山本七平氏のいう日本教)をブッキョーとして「能く之れを語る人」が大半となっているようである。実に可笑しいやら、悲しいやら、まこと哀れなことである。→本文に戻る
  • 学者、仏儀を習わず云云…学者というのは学僧のことで、いわば少々高級な部類の僧侶らのこと。学侶ともいう。奈良や京都における学道を昇進した僧侶は、官僧として国家から食い扶持が充てられた。学僧でない僧らは行人[ぎょうにん]や堂衆[どうしゅ]などと言われ、堂塔に香華を供えたり掃除などの管理や寺院における僧分としての雑務を担った。
     ここで禅師が「学者、仏儀を習わず。唯だ形状のみ之れに似たり」というのも、上の「比丘仏法に順わず」に同じで、学僧らはあれこれ経論の研究をしてあれこれと能く言うことが出来るけれども、しかしその生活においてはまったく戒律を持たず、袈裟衣をつけて外見上は僧侶然としていながらも酒を飲み、結婚こそせずとも女と交わり子を設けるなど奔放勝手にしていたこと。
     たとえば、栄西禅師よりやや後に現れた戒律復興を成し遂げられた興正菩薩叡尊律師の父は、興福寺の学侶であった。叡尊律師は、自身がそのような環境に生まれ育ち、また自身も非常に貧しいながらも僧侶となって後に、これを「異常なことだ」「こんな状態では何をしても全くの無駄、欺瞞」と理解したからこそ、戒律復興を志したのであった。これについては別項“三昧耶戒(発菩提心戒)”の項で触れている。参照のこと。→本文に戻る
  • 高野大師の云く…「能誦能言鸚鵡能為。言而不行何異猩猩」
     空海阿闍梨の主著の一つ『秘蔵宝鑰』巻中(『定本 弘法大師全集』Vol.3, P135)にある言葉。この一節自体、阿闍梨による当時の仏教者らへの批判の言葉であった。阿闍梨もまたその著の中で、当時の権力に擦り寄り、あるいは名利に堕した仏教者らが口先だけ仏教を語ることへの批判の言をあちこち散りばめていたのである。
     
    栄西禅師は『興禅護国論』でも空海阿闍梨の著作を引用しているが、禅師はただ博覧強記であったというだけではなく、空海のことを篤く尊まってもいたのであろう。実際、禅師は天台密教だけではなく真言密教も修めてその法流つらなっていた人であって、また真言を修めるべきことを主張してもいた。
     それは今一般に人がよくいうような、「栄西が天台や真言を併せ修めるように主張していたのは、新来の禅を定着するためのある意味方便。反対の多かった禅宗を受け入れさせるための融和政策であり、栄西はその本心としてはどこまでも臨済禅の専修を目指していた」、あるいは「栄西は比叡山出身であった。そもそも日本天台宗は法華・戒・密・禅の四宗を日本に伝え、それらを兼学するあり方が本来。そこで堕落していた天台宗を改革し、刷新して元のあり方を目指そうとした」などというようなものではなかったと思われる。
     いや、たしかに禅師は、禅宗の正統性を言い、またこれを世に標榜するにあたって、最澄が唐より帰朝した際に禅の相承を受けていることを常に主張している。けれども、ではそれでただちに天台の刷新を目指していた、とは到底言えないのである。それはこの『日本仏法中興願文』を読んでも理解し得ることであろう。
     また、禅師は自らが伝えた臨済禅が日本で根付き行われることを目指したであろう。けれども、だからといって、鎌倉仏教といわれる宗派のその他祖師らが採ったような一向や専修という思想はそもそも無かったのだと思う。ただ仏教者として戒律を持し、すぐれた様々な教えを学び修めて解脱を目指す、という意志こそあったのであろう。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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