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現代語訳
我國縱富于法藏何不復悲一句之墜文哉況深法遂時漸爲淺近廣學隨人稍爲薄解設有隨分解者皆隨名利永不爲大事因緣或自稱智人而於道心有若亡就中律藏澆漓之世梵行之比丘削跡福田衰弊之時人天之依怙全少欲謂之則可見害將不謂亦爲欲令知爲之如何説黙共煩進退云谷但忘一身之陵辱以報三寶之恩德是學佛法者之根源也抑又非如來本意哉我土衆生比者失善知識何不資助此哉庶幾輔相智臣留心於此願文具令經奏聞廻中興之叡慮修復佛法王法者最所望也小比丘大願只是中興之情也誰復可思議哉其佛法者是先佛後佛之行儀也王法者是先帝後帝之律令也謂王法者佛法之主也佛法者王法之寶也是故慇懃可被見知檢察矣近世以來比丘不順佛法唯口能語之學者不習佛儀唯形状似之高野大師云能誦能言鸚鵡尚能言而不行何異猩猩云云可恥此言乎縱其行勿令輕弄然而近代人翻此咲持戒蔑梵行爲之如何
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我国、縦い法蔵に富めども、何ぞまた一句の墜文を悲しまざらんや。況んや深法、時を遂って漸く浅近と為り、広学、人に随って稍く薄解と為るをや。
設い分に随って解する者有れども、皆な名利に随って、永く大事因縁の為にせず1。或いは自ら智人と称して、道心に於いては有るも亡きが若し2。
中に就いて律蔵澆漓3の世、梵行3の比丘4は跡を削り、福田5衰弊の時、人天の依怙6全く少なり。
之を謂わんと欲すれば、則ち害せらるべし7。まさに謂わざらんとすれども、また為に知らしめんと欲す。之を為さんこと如何。説黙共に煩い、進退云に谷まる8。
但だ一身の陵辱を忘れ、以って三宝の恩徳に報ずる。是れ仏法を学する者の根源なり。抑そもまた、如来の本意に非ずや。
我が土の衆生、此のごろは善知識9を失う。何ぞ此れを資助せざらんや。庶幾くは輔相智臣、心を此の願文に留め、具に奏聞10を経せしめて中興の叡慮11を廻らし、佛法・王法を修復せば、最も望む所なり。小比丘の大願、只だ是れ中興の情のみ。誰か復た思議すべけんや。
其の仏法は、是れ先仏・後仏の行儀なり。王法は、、是れ先帝・後帝の律令なり。謂く王法は仏法の主なり。仏法は王法の宝なり。是の故に慇懃に見知・検察せられるべし。
近世以来、比丘仏法に順わず。唯だ口のみ能く之れを語る12。学者、仏儀を習わず。唯だ形状のみ之れに似たり13。
高野大師の云く14、能く誦し能く言うは、鸚鵡すら尚能くす。言いて行わざるは、何ぞ猩猩に異ならんと云云。此の言を恥ずべきか。其の行を縦にして軽弄せしむること勿れ。然るに近代の人は此れに翻ず。持戒を咲い、梵行を蔑ろにす。之を為さんこと如何。
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我が国が、たとえ諸宗様々な法が伝わって豊富であるからとはいえ、一体どうしてまた一句の墜文を悲しまないで良いことがあろうか。ましてや甚深なる仏法が、時代を遂って次第に浅近にしか理解されぬものとなっていき、いくら広く学んだとしても、人がさらに一層、薄はかな理解となっていくことが良いはずがない。
たとえ人それぞれの能力に応じて理解する者があったとしても、その皆が名誉や利得を追い求める手段とするだけで、永く大事因縁の為とはしないのである。あるいは自らを「智者である」などとすら称する者もあるが、しかしその者には道心など有って無いようなものである。
就中、律蔵などほとんどまったく顧みられなくなっているこの世では、梵行の比丘などその姿は無く、福田(たる僧伽)が衰え潰えているこの時代には、人々と神々の拠り所(となるべき比丘など)全く稀である。
このような有り様について率直に述べ批判しようとしたならば、たちまち(今の世の「僧」を名乗る者等から)害されてしまうであろう。しかし、では言わないでおこうとしたとしても、やはりまた(仏法、ひいては国家と人々の)為には(僧侶本来の有り様、あるべきようを)知らせようとも思うのである。これをするにはどうしたら良いであろうか。ああ、これを説くことも沈黙することも煩いである。まさに進退ここに極まる。
そう、(他者からの誹謗中傷・妨害など)ただこの我が一人身への陵辱など恐れず、(堂々と堕落した今の僧らを批判し、また正しき姿を世に示すことを)もって、三宝の恩徳に報ずること。これこそ仏法を学び行ずる者の根源である。そもそもそれは、また如来の本意に違いない。
我が国の人々には、今時は善知識が失われてしまっている。どうしてその助けとなろうとしないことがあろうか。乞い願わくば、宰相など帝の智臣らよ、心にこの願文を留めて、これを詳しく奏聞し、仏法中興のための叡慮をめぐらし、仏法・王法とを修復したならば、我が最も望むところである。小比丘(栄西)の大願は、ただ仏法の中興をこそ求めたものである。誰がこれを思議できようか。
仏法とは、先仏・後仏の行儀である。王法とは、先帝・後帝の律令である。王法とは仏法の主である。仏法は王法の宝、と言われる。このことから、慇懃に(この我が大願を)精査・熟考されたい。
近世〈平安中後期〉以来、比丘は仏法に従うことがなくなり、ただ口先でのみよくこれを語るだけとなってしまった。学者〈学僧〉は仏儀〈戒律・禅定〉を修めることがなくなり、ただ姿形ばかり「僧侶に似たもの」となっているに過ぎない。
高野大師〈空海〉はこう言われた、「よく誦し、よく言うことであればオウムですらよく為しうることである。(僧侶が仏法を)ただ語るのみで行わないというならば、何ら猩猩〈猿の化け物〉と異なりはしない」と。(今時の僧尼らは)この言葉を恥ずべきであろう。
その振る舞いを自分の思うがままにして(戒律を)軽んじることなかれ。しかるに近頃の僧徒はこれにまったく反している。持戒(すること自体、持戒する人)をあざ笑い、梵行をないがしろにしている。さて、この事態をどのようにすべきであろうか。
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現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com
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