真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 栄西 『日本仏法中興願文』

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1.原文

小比丘榮西爲救此陵替忘身命遊兩朝學如來戒藏持菩薩戒律先勸門徒漸及疎人望請慈恩往自利利他賢慮誘進沙門勸勵比丘令修梵行持戒律者佛法再興王法永固乎小比丘願旨若斯按梁僧傳僧伽跋摩云受戒法重不同餘事餘法不成唯得小罪罪可懴悔紹隆佛種消信施罪以戒爲本若不成就非出家人斷滅佛法故異餘者是以輔相大臣欲令國土興復深廻賢慮重設籌策奏公家令知此旨勵僧尼令持戒律諸龍降時雨国土豐饒諸天布福祐逆徒却退矣今按灌頂血脈譜日本國六十六州小比丘榮西門徒散在及二千人乃至孫葉及一萬歟其中何無隨順修行者一千人各住廣大隨喜心可令修清淨梵行也伏惟人身再難受億億萬劫猶希也佛法永難値生生世世不可得今若堕無間經一中劫之際洩賢劫一千佛出世者歟仰願三寶願海助成大願伏乞普賢願王守護三宗法利乃普濟群生者

于時元久元年甲子初夏二十二日乙卯敬書

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2.書き下し文

小比丘栄西、此の陵替1を救わんが為に、身命を忘れて両朝2に遊び、如来戒蔵を学し、菩薩の戒律を持す。先ず門徒に勧め、漸く疎人に及ぶ3

望み請うらくは慈恩、自利利他の賢慮に往かしめ、沙門を誘進し比丘を勧励して、梵行を修し戒律を持せしむれば、仏法再び興り、王法永く固からんか。小比丘の願旨、斯の若し。

梁の僧伝4を按ずるに僧伽跋摩5の云く、受戒の法、重きこと余事に同じからず。余法の成ぜざるは、唯だ小罪を得るのみ。罪は懴悔すべし。仏種を紹隆し、信施の罪を消するは、戒を以って本と為す。もし成就せずんば出家の人に非ず。仏法を断滅す。故に余の者に異なり。

是を以て輔相大臣、国土をして興復せしめんと欲すれば、深く賢慮を廻らし、重ねて籌策6を設け、公家に奏して此の旨を知らしめ、僧尼を励まして戒律を持せしめば、諸龍、時雨を降らして国土豊饒に、諸天、福祐を布いて逆徒却退せん。

今、灌頂血脈譜7を按ずるに、日本国六十六州に小比丘栄西の門徒、散在して二千人に及ぶ。乃ち孫葉に至っては一万に及ばんか。其の中に何ぞ隨順修行する者、一千人無からん。各広大隨喜の心に住して清浄の梵行を修せしむべし。

伏して惟んみれば、人身は再び受け難し。億億万劫8にも猶お希なり。仏法永く値い難し。生生世世にも得べからず。今まもし無間9に堕せば、一中劫の際を経て、賢劫一千仏10の出世に洩れん者か。

仰ぎ願わくは三宝願海11、大願を助成せんことを。伏して乞うらくは普賢願王12三宗13を守護して、法利乃ち普く群生を済わんことを。

于時元久元年甲子初夏二十二日乙卯敬書

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3.現代語訳

小比丘栄西、この(仏法が)荒廃した有り様を救うために、身命を忘れて日本から支那へと渡って如来戒蔵を学し、菩薩の戒律を持ってきた。先ずは我が門徒にこれを勧め、そうして次第に他者に(持戒を)及ぼすのである。

ただ望み請うことは慈恩〈天皇?〉、自利利他の賢慮をもって沙門を誘進し、比丘を勧励して梵行を修させ、戒律を持させたならば、仏法は再び盛んとなって、王法もまた末永く堅固となることであろう。小比丘の願旨は以上の如し。

梁の『僧伝』〈実際は道宣『戒壇図経』〉を開きみたならば、僧伽跋摩はこのように言われている。「授戒の法が重大であって、他事と比較になりはしない。その他の法についてはたとえその通りに行えなかったとしても、ただ小罪を得るのみである。その罪は懺悔することも出来よう。しかし、仏種を伝え盛んにし、(破戒無慙の身でありながら僧として布施を受ける)信施の罪を消すことができるのは、持戒こそが根本である。もし、持戒することが出来ないと言うならば出家者ではない。(持戒せずして出家者を自称する者らは)いずれ仏法を滅ぼすであろう。故に(授戒の法は)他事と異なっているのである」と。

このようなことから宰相・大臣らよ、国土を興復せんと思うのであれば、深く賢慮をめぐらし、さらに籌策を設けて、公家〈朝廷〉に奏上してこの願意の要旨を知らしめ、僧尼を激励して戒律を厳持させたならば、諸々の龍も季節に応じて雨を降らせて国土は豊饒となり、諸々の神々もまた吉祥なる助けをもたらして、(国家・朝廷に逆らう)逆徒は退けられることとなるであろう。

いま、『灌頂血脈譜』を開きみたならば、日本国六十六州に小比丘栄西の門徒は、散在すること二千人に及んでいる。さらにその法孫までも勘案したならば、一万人にも及ぶであろう。もっとも、その中で(仏陀の教えに従って持戒し、修禅する)随順修行〈如説修行〉の者は、一千人にも満たないであろうか。各々、(それら随順修行する者らへの)大随喜の心を起こし、清浄なる梵行を修めるべきである。

伏して惟んみれば、人としての生をこの世に受けることは甚だ難きこと。億億万劫に生死輪廻したとしても、なお稀なことである。仏法は値遇することはまた、極めて遭い難い。生生世世にも得ることが出来ないものである。今、もし(人が)無間地獄に堕したならば、一中劫の永きに渡って地獄に苦しみ、(ついに地獄の生を終え、仮に再び人の生を受けたとしても)現在賢劫一千仏の出世を逃すこととなる者となろう。

仰ぎ願わくば三宝願海、(この栄西の)大願を助成せんことを。伏して乞うらくは普賢願王、(禅宗・真言宗・天台宗の)三宗を守護して、その教えの利益があまねく群生を救わんことを。

時は元久元年甲子1204初夏〈四月〉二十二日乙卯、敬って書す

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4.語注

  • 陵替[りょうたい]…興廃・衰退すること。→本文に戻る
  • 両朝[りょうちょう]…日本と宋代の支那。栄西禅師は仁安三年〈1168〉、そして文治三年〈1187〉の二度、宋に渡航された。→本文に戻る
  • 先ず門徒に勧め、漸く疎人に及ぶ…いわゆる『大学』に言われる「修身斉家治国平天下」、すなわち「天下を平和とするには、まず自分の行いを正し、次にその家庭を整え、そして国家を治めなければならない」。あるいは日本帝国海軍元帥大将であった山本五十六の「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ」であろう。このような話は別段、古典や故人の言を引っ張り出して示すまでもない話か。
     栄西禅師は、天台宗比叡山出身であったけれども、具足戒(声聞戒・二百五十戒)と菩薩戒(梵網戒・十重四十八軽戒)とを受持した。具足戒を受け、それを最低限護ることは僧侶としての絶対必要条件であり、また大乗を奉ずるものであればその上さらになんらかの菩薩戒を受けることがインド以来の常識であり、伝統であった。そうしてそれは、宋代の支那における禅宗で引き続き常識として行われていたのである。
     ところが、日本天台宗では、その初めから最澄が具足戒を捨ててしまった。そして、最澄の死後には至高であるとして唯一受持した菩薩戒すらも完全に無視してやりたい放題の状態となっていた。また、具足戒を受けることを必須としていた筈の南都六宗や真言宗の僧徒らであっても、戒も律もどこ吹く風となっていた。むしろ、天台宗および真言宗や南都六宗の僧徒らが総じてそのような堕落した状態であったからこそ、栄西禅師は海を越えて宋に渡り、また二度目に宋に渡ったときにはインド本国に向かうことを志したのであろう。
     余談であるが、そのようなことから、栄西の後に宋に渡って叢林(禅宗寺院)に入衆しようとした道元は、彼が菩薩戒のみ受けて具足戒を受けていなことを理由に比丘として扱われず、沙弥として処されて入衆を拒まれたのである。それは別段、排外的だとか閉鎖的であるとかいうことではなく、仏教僧としてごくごく当たり前の対処であった。
     例えば今も、東南アジアの僧院などに日本の僧職者らが行ったとして、彼らがけっして僧として扱われずに俗人と見なされるのは同様の理由による。これに猛烈な抗議・批難して自身を「比丘」として扱わせた道元の行動は、相当に異常な、常軌を逸したものであった。たとえば現在、それと同じことを東南アジアでやってみたらどうなるか。あるいは、異国など引き合いに出すまでもなく、自宗に突如としてやってきた外国人が、まったくその資格も条件も供えていないのに、「お前らと同様に私を扱え」「大乗であれば平等に」云云などと喚いたらとしたらどう思うのか。それを考えたならば、その道元の行動が如何に異常で受け入れがたいものであったのか、容易に理解できることであろう。→本文に戻る
  • 梁の僧伝…一般に「梁の僧伝」といえば梁代の慧皎によって編纂された『高僧伝』であろう。けれども以下に引かれた一節は『高僧伝』になく、南山大師道宣によって著された『關中創立戒壇図経』における僧伽跋摩三蔵の伝記を記す中に、ほぼ同様のものがある。「至元嘉十一年。有僧伽跋摩者。時號三藏法師。與前三藏同至楊都。《中略》 及論受戒。何爲獨出邑外等。咸是善法。何以異耶。答諸部律制互有通塞。唯受戒法重不同餘事。以餘法不成。唯得小罪。罪可懺悔。夫紹隆佛種用消信施。以戒爲本。若不成就。非出家人。障累之源斷滅大法。故異餘者」(T45. P813c→本文に戻る
  • 僧伽跋摩[そうぎゃばつま]…インド僧Saṃghavarman(?)の音写名。漢訳名は衆鎧。元嘉十年〈432〉あるいは十一年〈433〉に支那に来訪。その後ただちに多くの僧尼に授戒したことが知られ、戒律に通じた大徳であったという。また、十九年〈442〉までの間に、『分別業報略経』や『薩婆多部毘尼摩得勒伽』、『雜阿毘曇心論』など五つの仏典の翻訳に従事した。→本文に戻る
  • 籌策[ちゅうさく]…計略、策略。策をめぐらすこと。→本文に戻る
  • 灌頂血脈譜[かんじょうけちみゃくふ]…栄西禅師によって授けられた(葉上流に基づく?)灌頂の歴名簿であろうか。同時期に禅師によって著された『斎戒勧進文』に「受灌頂一門衆并有縁道心衆早求出離應勤修齋戒勸進文」とあって、禅師がその一門の衆徒らに灌頂を授けていたことは間違いない。そして、おそらくその灌頂は伝法灌頂などではなく僧俗并びに授けられた結縁灌頂か受明灌頂であったろうことが、勧進文の内容から推測される。
     しかし、ここで言われる『灌頂血脈譜』なるものが現存しているかどうか、管見にして知らず。なお『斎戒勧進文』については、別項“栄西『斎戒勧進文』”を参照のこと。→本文に戻る
  • 億億万劫[おくおくまんこう]…劫とは、サンスクリットkalpaあるいはパーリ語kappaの音写語、劫波[こうは]の略。古代インドの時間単位のうち、最長のもの。想像すら出来ないほどの宇宙的長大なる時間。そのような長大な時間を、さらに喩えようもないほど永きに渡って、幾度も幾度も生死輪廻を繰り返したとしても、人としての生を得ることが難しいことを言う。→本文に戻る
  • 無間[むけん]…無間地獄の略。無間とは、サンスクリットavīciの漢訳語であるが、それが「一瞬たりとも間断無い苦しみに苛まれ続ける地獄」とされることに基づく。またその音写語を用いた阿鼻地獄との語も使用されるが、今も一般に用いられることがある阿鼻叫喚とはこの語に由来する。→本文に戻る
  • 賢劫一千仏[げんごういっせんぶつ]…仏教の世界観・宇宙観において、現在の宇宙は賢劫(bhadra kalpa)といわれる。この賢劫において、すなわちこの宇宙が生じてから滅するまでの長大な時の間に千人の仏陀が生じると言われているが、それを意味する語が賢劫一千仏。我々の本師たる釈迦牟尼仏は、その賢劫一千仏の中の第五番目であり、今はまだ菩薩であるが未来に仏陀となるべく下生する彌勒仏は第六番目となる。
     なお、すでに滅して無い過去の宇宙時間は荘厳劫(vyūha kalpa)と言われ、この宇宙が滅びてから次に生じる宇宙時間は星宿劫と言われる。やはりそれぞれの劫において一千仏が生じるとされる。→本文に戻る
  • 三宝願海[さんぼうがんかい]…仏陀(Buddha)・仏法(Dharma)・僧伽(Saṃgha)の三宝における誓願が、海のように広く、深いことを喩えていう語。ここでは、仏陀あるいは諸菩薩、諸賢聖がすでに建てている衆生済度などの誓願について、また自身の同様の誓願への助力を請じている。
     三宝願海という語は、今も法要などで読まれる表白や回向文などでほとんど定型文、たとえば「廻向三宝願海」などとして頻繁に用いられている。しかし、実に面白いことに、その意味を理解してそれらを唱え、その語を用いている僧職の人はほとんどいない。→本文に戻る
  • 普賢願王[ふげんがんおう]…「普賢大願王」という語が『華厳経』にも見られるが、ここでは普賢菩薩自身、あるいは『華厳経』にあるようにその十大誓願である「普賢行願」を王と称したものか。→本文に戻る
  • 三宗[さんしゅう]…禅宗(臨済禅)・真言宗・天台宗。ここで栄西禅師が、四宗といい、たとえば律あるいは戒について宗として含んでいないのは、僧侶が戒律を持すことは「至極当たり前」であって本来は宗派など立てるべきもので無いためであろう。実際、南都六宗といわれる場合の律宗とは、そもそも今言われるような意味での宗派ではなく、特に『四分律』やその注釈書を学習する学派・学系であって、往古は南都七大寺それぞれにそれを主とする律学衆があった。
     なお、栄西禅師に遅れること四半世紀ほどに現れた不可棄法師俊芿[しゅんじょう]〈1166-1227〉は、禅師に同じく宋代の天台山に渡って禅宗および天台ならびに戒律(『四分律』および菩薩戒)を修学。帰国して後に泉涌寺(仙遊寺)に入ってからは、後鳥羽上皇など貴族らからの信仰を得ることとなり、密教・禅・天台・浄土の四宗兼学(律は常識のものとして宗を挙げない)の道場とした。なお、現存している泉涌寺の仏殿は江戸前期に再建されたものであるが、宋代の禅宗寺院の様式を再現したものである。
     おそらく現在の世間にはほとんど知られていない高徳の一人であろう俊芿は、興正菩薩叡尊律師〈1201-1290〉とほぼ同時代の人で、その拠点とした泉涌寺が京都にあったことから、南都の西大寺を拠点とした叡尊教団や唐招提寺を中心に展開した覚盛の門流に対し、その律の流れは北京律と称された。また現在、俊芿法師はもともと天台の徒であったというべき人であるが、真言宗泉涌寺派の派祖とされている。が、その信条はほとんど栄西禅師に同じく、一宗に拘泥すること無くただ戒律を厳持しつつ、禅と真言および天台さらには浄土を修学することを良しとしたものであった。
     栄西禅師は俊芿が宋より帰朝した際は自ら博多まで出迎えに行き、そして俊芿を建仁寺に招聘して、自身の門人らに対して律の講伝を行ってもらっていたと伝えられている(『不可棄法師伝』)。彼らにとって目指すところは同じであったろうし、また両人ともに「一向」や「専修」という意識は皆目無かったのであろう。それは鎌倉時代に再興された、叡尊律師など律宗の僧徒にも通じて見られる態度であった。少なくともその最初期においては、栄西禅師の門徒としての禅宗と律宗(特に北京律系。後には覚盛系統の東大寺戒壇院)とはかなり接近した、似通った思想・あり方をしており、実際互いの交流も盛んであった。
     現在、日本仏教においては、専修や一向ということが至極当たり前のように考えられ、存在する各宗派が総じてそのようなあり方をしている。このようなことから、それに引きずられ「宗派とは、そもそも古来そのようなものであった」と理解する者が多いようである。仏教学など文献学者などですらそれを疑問に思わず、それを当たり前の前提かのようにして仏教史を眺め、語るような者が多くある。何事か仏教の一流を「純粋」に「ただそれだけ」行うことこそ正しく、またそうあるべきだ、などと無意識的に考えているのかもしれない。しかし、本来からすれば、そのようなあり方こそがむしろ異常なのである。
     余談であるが、江戸時代中期の大阪で活躍した慈雲尊者もまた、持戒持律を大前提として諸宗兼学され、持戒持律したうえでに正しく経論に基づいて修行を行うのであれば、浄土であろうが法華であろうがいずれも正法であるとしている。そしてその上で、中でも禅と密教とを「向上の宗」と見ていた。そのいずれもが、もちろんその方法論や典拠はまるで異なるけれども、同じく「修禅」すなわち瞑想を伝える宗である。それは、このような鎌倉初期に活躍された禅僧や律僧たちと同様の態度・思想とも言えるものであった。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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