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‡ 慈雲 『律法中興縁由記』

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1.原文

師此敎にしたがひ、明日遂に高雄を辭し平野の社1に詣し、直に和州にゆき春日社に参籠して、五十ヵの日夜至誠に祈請す。

その滿ぜる夜、夢か現か一老翁來り告ぐ、戒は是十善、神道は是句々の敎と。告げをはりて第三殿に入りたまふ。

師この相を得て心身適悦未曾有なることを得たり。しかれどもいかんして出家の性を成就すべきと云ふことにくらし。

自ら思惟したまふ、戒はこれ十善とは、十善全ければ七衆の性を成ずべきの敎ならん。我十善を破らざればかならず大願を成就すべし。神道は句々の敎とは、我をして神道を明かにならしめ給ふ神慮にやあらん。すでに神慮にかなひなば、おもはざるの幸ありて大道を明かにしるの時節ありなん。決定如法出家となりて成佛もうたがひなき地位にも到るべしと。歡喜のおもひ念々相續して自ら止むことあたはず。

其明日神前に在って誦經法施し給ふ。

日すでに中を過ぐる比一僧來り、誦經のひまを窺ひ進みよりて云く、我この比此社に詣ること五十ヵ日也。師の慇懃おこたりなきを見る。いづくの御人にていかなる心願をこめたまふ。予も少分の志を挾めり。相ともに心のうちをあかして切磋の友たらばいかに。

師云く、よくもたづね給ふ。予は京のほとり西山高雄なる者也。師僧の敎をうけて、眞正の出家とならん道の凡慮に及ぶべきならねば、神託を求請する也。

其人云く、予は此ほとり西大寺2に住める友尊と云ふ者也。如法受戒の心願にて此社の冥助を祈り奉り、末の世に在って上代の戒にかなひ侍ることもやと、ひたすらにおもひ定めしに、師の願しんをうけ給るに同じ道すぢなれば、相共に好相をいのり、自誓受戒3して僧寶の一數にもいりなば、古にいへる既に滅せんとする法燈をかかげ、すでに斷えたる法系を繼ぐことの高き趣を慕ふ御こころざしならんか。

師云く、その好相と云ふこと、自誓受戒と云ふこといかなる儀ぞ。

友尊云く、予至愚なれども先代の高蹝を聞けり。佛世の大範は戒を以て規範をなす。此規度すこしもたがへば謬るに千里を以てす。因に聖武天皇4の勅願、普照等5の求請、鑑眞6の來朝、實範7興正8の中興、通別二受の差排9、古を慕ひ今を嘆じて、日すでに西山に没せんとす。

程孔相遇ふ、蓋を傾けて舊きがごとく10、身子圓滿の邂逅もとより同袍の好みふかし。

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2.現代語訳

明忍律師は、僧正のこの教えに従い、明日には高尾山を去って、平野神社に参詣し、その足で奈良に向かった。そして、春日大社に参籠して、五十日間、至誠に(春日明神の助力のあることを)祈請したのであった。

ちょうど五十日の祈請が成満する日の夜、夢かうつつか、一人の老翁が来て言うのであった、
「戒は是れ十善。神道は是れ句々の教」
と。そしてこれを告げ終わって、春日大社第三殿に入っていったのであった。明忍律師は、この出来事に遭遇して、心も体も未だ経験したこともない喜びで充ち溢れたのであった。しかしながら、いまだどのようにして真の出家者と成りうるのかの答えは出ていなかった。そこで明忍律師は、
「『戒は是れ十善』とは、十善を全くすれば七衆それぞれがその立場を全う出来る、という教えに違いない。私が十善を破らなければ、かならずこの大願を成就できるであろう。『神道は句々の教』とは、私に神道を明らかにさせんとする神慮であろう。すでに神慮に叶ったというならば、思いも掛けない幸いがあって、大道を明らかに知る時機というものであろうか。これによって、まったく正しい出家者となって、成佛するに疑いの余地のない境地にまで至るに違いない」
と考え、歓喜の念が心から離れることはなかった。

翌日、(明忍律師は)春日の神殿にて誦経法施していた。日も高く、正午を過ぎようとしていた頃、一人の僧侶がやって来、(明忍律師の)誦経の合間を伺って近づき、語りかけてきた。
「私はこの頃、この春日社に日参して五十日目となります。師が慇懃にして怠りなく参籠されるのをずっと目にしてきました。いずこからやってこられ、どのような心願をかけられたのでしょう。私も幾許かの志をもっております。互いに心のうちを明かして、切磋の友となりたいのですが、いかがでしょうか」
明忍律師はこれに、
「よくもお尋ねくださった。私は京のほとりに位置する、西山高雄からやってきた者です。師僧の教えを受け、真正の出家となる道について凡慮の及ぶところではなかったので、神託を請い求めていたのです」
と答えた。するとその僧は、
「私はこの近くの西大寺に住む友尊という者です。如法受戒することを心願として、この春日社の冥助を祈れば、末世であっても(戒法脈々と存した)昔の戒律を受けることが出来るかも知れぬと、ひたすら思い定めていました。そうしたところ、師の願心をお聞きすれば、同じ道を志されているでありませんか。ですから、相共に好相を祈り、自誓受戒して僧宝の一員となったならば、古に存して今は滅びかけようとする法燈をかかげ、すでに絶えてしまった法系を継がんとする高い趣を慕うことにもなりましょう」
と言う。明忍律師は尋ねる、
「その好相ということ、自誓受戒というのはどのような意味でしょうか」
友尊は答える、
「私は甚だ愚で学の無い身ではありますが、(真言律宗の)先代〈叡尊や忍性〉の高蹤を聞いております」

仏陀ご在世の大範は、戒をもって規範とされた。この規範を少しでも違えれば、(その行く先を)謬って千里も異なったものとなる。聖武天皇の勅願により、普照(ならびに栄叡)などが渡唐して(勝れた伝戒の師を)請い求め、遂に鑑真大和上が来朝。(天平の世に伝えられた戒脈は平安中期には滅びるも、平安末期に)中川実範上人が出て戒律復興を志し、興正菩薩叡尊が中興され、通別二受の差排を明らかにされたなど、(数々の大徳が活躍された)古を慕い(断絶してしまった戒脈の)今を嘆いて語り合っているうちに、日はすでに西の山にかかって沈まんとするところだった。

それは程子と孔子が相遇し、(車の)絹笠を傾けて語り合った昔のように、身子円満の(二人の)邂逅はずっと以前から同袍であったかのようであった。

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3.脚注

  • 平野の社[やしろ]…現京都市北区にある平野神社。平安遷都のおりに南都から遷座したものであるという。二十二社の一つ。→本文に戻る
  • 西大寺[さいだいじ]…現奈良市にある古寺。天平宝字八年(764)、称徳天皇の勅願によって創建された寺。南都七大寺の一つに数えられる。1895年に真言律宗なる宗派として真言宗から独立し、現在その総本山となっている。
     叡尊律師が戒律復興を実現する一年前に入り、復興後はここを拠点として活動を展開された。もと七重塔があったが消失してない。寺宝の仏舎利容器や愛染明王像など、寺宝に勝れたものを多く残している。→本文に戻る
  • 自誓受戒[じせいじゅかい]…現前の師を立てず、誰にも依らずして、「自ら戒を受けることを誓う」ことによる受戒法。一般にこれが可能なのは五戒に限られる。が、大乗経において、といってもそれはただ『占察善悪業報経』(占察経)に限られるのであるけれども、以下のように自誓受によって「正しく受戒」出来ることが述べられている。
     それが示されている一節は以下の通り。「復次未來之世。若在家若出家諸衆生等。欲求受清淨妙戒。而先已作増上重罪不得受者。亦當如上修懺悔法。令其至心得身口意善相已。即應可受。若彼衆生欲習摩訶衍道。求受菩薩根本重戒。及願總受在家出家一切禁戒。所謂攝律儀戒。攝善法戒。攝化衆生戒。而不能得善好戒師廣解菩薩法藏先修行者。應當至心於道場内恭敬供養。仰告十方諸佛菩薩請爲師證。一心立願稱辯戒相。 先説十根本重戒。次當總擧三種戒聚自誓而受。此亦得戒。復次未來世諸衆生等。欲求出家及已出家。若不能得善好戒師及清淨僧衆。其心疑惑不得如法受於禁戒者。但能學發無上道心。亦令身口意得清淨已。其未出家者。應當剃髮被服法衣如上立願。自誓而受菩薩律儀三種戒聚。則名具獲波羅提木叉。出家之戒名爲比丘比丘尼。即應推求聲聞律藏。及菩薩所習摩徳勒伽藏。受持讀誦觀察修行」(T17. P904c)。しかし実は、この経典もやはり支那撰述の偽経である疑い濃厚なものである。
     そしてまた、『占察経』は鎌倉期よりずっと以前の天平の昔にて、日本仏教界に大問題を生じさせていたものでもあった。その問題とは、鑑真大和上によって正規の具足戒がもたらされた際、従来の僧正など官位についていた僧らが、大和上による伝戒とその受戒をいわば拒否したことである。彼らはすでに正統な仏教僧であって、いまさら再度具足戒など受ける必要はない、と難色を示したのであった。その根拠としたのが前掲の『占察経』であった。彼らが反抗したのには政治的・経済的理由もあったであろう。なんとなれば、彼ら自身の「(占察経による)受戒」を否定してしまうことは則ち、彼らの既存の立場・既得権の消失を意味するのであるから。
     けれども結局、当初反抗の構えを見せていたそれ以前のいわば相似僧らは、鑑真大和上に対して一応弟子の礼をとってその授戒を受け入れた。要するに、『占察経』による自誓受戒(による比丘としての受戒の正統性)は、いわば天平の昔に否定されていたのである。
     しかしながら、戒法がまったく断絶し、また支那との連絡もほぼ途絶していた鎌倉期においては、すなわちいずこからも授戒のために必要な比丘を招来することがかなわなかった当時は、仏典に根拠を求めた上で考えられる方法としては唯一のもので、これ以外の方法はありえなかった。
     これに先立ち、覚盛律師および叡尊律師らは『梵網経』の所説に従って、受者は好相を得るまで懺悔のための礼拝や読経、瞑想などに励まなければならないとし、実際に実行されていた。→本文に戻る
  • 聖武天皇[しょうむてんのう]…第四十五代天皇(在位724から749)。文武天皇と藤原不比等の娘太皇太后宮子娘との間に生を受けた、その第一皇子。ただ政治的に仏教を利用して国を治めようとしただけにすぎない、などと見る者がある。そのような見方は強く左傾化した昭和の学者に多い偏光した見方であるが、むしろ信仰に基づく自身の信念によって、仏教を日本の精神の柱としようとした天皇である。国分寺・国分尼寺を全国各地に建立し、東大寺を建立。行基の力を借り庶民の協力も仰いで、ついに盧遮那大仏も造立した。鑑真が来朝したおりには大仏殿前にて戒壇を築き、皇后と共に菩薩戒を受戒した。
     聖武天皇による国家的仏教事業の数々により、国家財政が傾いてその求心力を失いかけ、また律令制の破綻のきっかけを作るなどの影も残したが、文化的にみれば天平の華を咲かせるきっかけとなっている。→本文に戻る
  • 普照[ふしょう]等…聖武天皇の勅願により、伝戒師を請来するために、天平五年(733)、遣唐使に随伴した留学僧の一人。法相宗・興福寺の人。
     また他に道を同じくした人に栄叡[ようえい]師があるが、鑑真大和上を日本に招来する道半ば唐の地において没した。日本の伝戒史において大なる功績を残した人々。→本文に戻る
  • 鑑真[がんじん]…唐の高僧、鑑真大和上。栄叡ならびに普照らの要請により、苦節十二年、六度の失敗をへながらも、ついに天平勝宝五年(753)十二月に渡来。翌六年東大寺大仏殿前に戒壇を築き、聖武天皇をはじめ扶桑の地の公家や在家者に菩薩戒、ついで僧へ具足戒を授けるなど、初めて日本に正しく戒法(四分律ならびに梵網菩薩戒)を伝えた人。
     鑑真和上以前にも普照らによって道璿[どうせん]和上が招来されていたが授戒するにはその員数が不十分であった。 鑑真は日本渡航への挑戦を繰り返す中、失明したと伝えられている。
     南山律宗ならびに天台宗の系譜にある人で、伝戒のついでに幾多の仏典・仏像・仏画などを請来した。聖武天皇より授戒に関する全件を一任され、後に唐招提寺を創建して住した。天平宝字七年(763)五月六日示滅。その伝記は淡海三船による『鑑真和上東征伝』に詳しい。→本文に戻る
  • 実範[じつはん]…大和は春日の北に位置する中川の実範上人のこと。名はあるいは「じっぱん」もしくは「じちはん」と読まれる。生年は不明だが、没年は天養元年(1144)とされる。
     京都出身で興福寺(法相宗)で出家、叡山にて天台を学んでのち、真言の門に入って修行した。やがて戒律復興を志し、唐招提寺に行くもそこに僧の姿は無く、ただ農夫が田を耕すのみであったという。実はこの農夫は一応僧分で、この人から四分戒本を聞くことを得る。これを機に、やがて東大寺において、実際的な意味はなさなかったが、『東大寺戒壇院授戒式』などを起草した。また、真言宗の事相においても中川流を興すなどの事跡を残している。
     鎌倉初期における日本の戒律復興運動の嚆矢となった人。鎌倉期の戒律復興運動を語るには、まずこの人から語らなければならないというほどの人。虎関師錬『元亨釈書』にても戒律復興の最初の人として挙げている。しかし、(孤軍奮闘するもいまだ機至らず夢果たし難いこと如何ともしがたく、自らのその無力さを嘆いたためであろうか、)晩年は浄土教に深い関心を寄せ、これによって日本の浄土教高祖六人の一人に数えられている。→本文に戻る
  • 興正[こうしょう]…叡尊の諡号、興正菩薩の略。実範上人の跡をつぎ、解脱上人貞慶による興律の発願によってなった常喜院にて学律した大悲菩薩覚盛ら三人と共に、嘉禎二年(1236)、東大寺大仏殿前において自誓受戒により戒律復興を具体的になした人。真言宗の門人。のち西大寺に住し、戒をもって多くの人を教化した。
     おそらく、世間には鎌倉初期というと浄土教や日蓮教徒が大多数を占めていたと勘違いする者が多いであろうが、その教団は当時最大のものであったという。真言の事相においても西大寺流を興すなど、事跡を残している。その弟子に、幾多の慈善救済活動を行ってやはり多くの人の帰依を受けた忍性菩薩良観がある。→本文に戻る
  • 通別二種の差排[しゃはい]…通受・別受の異なり。通受とは、戒律を三聚浄戒としていっぺんに受けること。別受とは、戒は戒、律は律と、それぞれ別々の方法によって受けること。→本文に戻る
  • 程孔相遇ふ、蓋を傾けて舊きがごとく…程子と孔子が偶然に出会い、車の笠を傾けて終日語り合ったという故事(『孔子家語』致思篇)。実際はありえない話であるが、漢籍では比較的著名な逸話でいくつか他の漢籍にも引かれている。→本文に戻る

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