真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

解題 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  原文 |  書き下し文 |  現代語訳

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ トップページに戻る

1.原文

明暦三年。至南都西大律寺。從大長老高喜觀公受傳法灌頂。公欽師道風。侍之尤善。毎相遇玄談度日。乃付師以興正所傳秘璽及松橋流密旨。且授與弘法大師所畫不動明王像。爲傳法之信。師已善密學。兼染指諸宗。然於律則尤所究意。篇疑聚惑。問之則冰泮雪消。無所隠伏。故一時律虎多執巻請益。師以謂。女人上損佛化。下墜俗謠。故不聽其入寺。一日早課畢天尚未暁。師安坐繩牀。忽有異女現前。身長八尺許。師疑是魔女。謂之曰。汝何者邪。宜時速去。我心如地。不可轉也。異女俛而不言。良久乃曰。我是此山主神也。和尚興立此寺。大行律法。我不勝喜躍。故來謝耳。言訖卽隠。師又夢有一老翁至。持地藏像以送。如是者三夜。甚訝之。因囑諸徒曰。今日有老翁至。汝等預待。午時果老翁至。以像獻師。宛如夢見。一衆驚嘆間。俄失翁所在云。距巖松一拘盧舎。有古寺曰禪定。乃平崇上人所創建也。邨民尊師德化。獻以爲駐錫之所。師乃芟蕪剔薉。締構一廬。一日指寺之西若干歩曰。此地想是藏開山靈骨之所也。鑿三尺餘。得一壺啓視之。果有遺骨。衆咸以爲異。師因建白塔于其所。寛文二年秋九月。於巖松行灌頂。九年春二月。政賢英公特來謁師。稽首謂曰。河之野中寺。乃上宮帝子手創四十六伽藍之一也。然當屢廢之餘。鞠爲荆棘之場。願師修建梵刹。以弘大法。師曰。吾雅慕太子遺蹟。何爲不從志哉。遂降錫而至。就故址建梵宇一區。是歳六月有靈芝四十餘莖産于庭際。師見而大喜。以爲。向後律法隆盛之兆也。

このページのTOP / 原文 / 書き下し文 / 現代語訳 / 脚注

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

2.書き下し文

明暦三年、南都西大律寺に至て、大長老高喜觀公1に從て傳法灌頂を受く。公、師の道風を欽て、之に侍るを尤も善しとす。相遇する毎に玄談すること日に度る。乃ち師に付するに興正2所傳の秘璽、及び松橋流3の密旨を以てし、且つ弘法大師畫する所の不動明王像を授與して、傳法の信と爲す。

師、已に密學を善くし、兼ねて指を諸宗に染む。然して律を則ち尤も意を究むる所となす。篇疑聚惑、之を問ふに則ち冰泮雪消して、隠伏する所無し。故に一時、律虎多く巻を執て請益す。

師以て謂く、女人上は佛化を損じ、下は俗謠に墜つ。故に其の入寺を聽さずと。

一日、早課畢天尚ほ未だ暁ならざるに、師、繩牀4に安坐する時、忽ち異女有て現前す。身長八尺許りなり。師、是れ魔女かと疑ひ、之に謂て曰く、汝何者か邪なるや。宜しく時速かに去るべし。我が心、地の如くして、轉ずべからずなりと。異女、俛して言はず。良久しくして乃ち曰く、我は是れ此の山の主神なり。和尚、此の寺を興立して、大いに律法を行ず。我、喜躍に勝へず。故に來て謝すのみと。言ひ訖て卽ち隠る。

師、又夢に一老翁有て至り、地藏像を持して以て送る。是の如くは三夜にして、甚だ之を訝しむ。因て諸徒に囑して曰く、今日、老翁有て至る。汝等預め待てと。午時、果して老翁至り、像を以て師に獻ず。宛も夢に見るが如し。一衆、驚嘆する間に、俄に翁所在を失ふと云ふ。

巖松に距つこと一拘盧舎5、古寺有て禪定6と曰ふ。乃ち平崇上人7創建の所なり。邨民、師の德化を尊び、獻じて以て駐錫の所と爲す。師、乃ち蕪を芟り薉を剔て、一廬を締構す。一日、寺の西若干歩を指して曰く、此の地、想ふに是れ開山靈骨を藏するの所なり。鑿すること三尺餘、一つの壺を得て啓ひて之を視るに、果して遺骨有り。衆咸以て異しと爲す。師因んで白塔を其の所に建つ。

寛文二年秋九月、巖松に於て灌頂を行ず。

九年春二月、政賢英公8、特に來て師に謁し、稽首して謂て曰く。河の野中寺9は、乃ち上宮帝子手創の四十六伽藍10の一なり。然るに屢廢の餘に當り、鞠して荆棘の場と爲る。願くは師、梵刹を修建して、以て大法を弘めんことを。師曰く、吾れ雅に太子の遺蹟を慕ふ。何の爲にか志に從はざらんや。遂に錫を降て至り、故址に就て梵宇一區を建つ。

是の歳六月、靈芝11四十餘莖の庭際に産する有り。師見て大いに喜び、以て向後の律法隆盛の兆と爲すなり。

このページのTOP / 原文 / 書き下し文 / 現代語訳 / 脚注

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

3.現代語訳

明暦三年〈1653〉、南都西大律寺に出向いて、大長老の高喜観公に従って伝法灌頂を受けた。高喜長老は師の道風を尊び、(叡尊の末徒たる西大寺の長老として)師に侍ることを最善であるとしたのである。会うたびに一日中深く話しこんだ。そこでついに、師に(西大寺門外不出であった)興正菩薩所伝の秘璽及び松橋流の密旨を付法し、さらに弘法大師が描かれたという不動明王像を授與して、伝法の証としたのである。

師は、すでに密学を善くし、兼ねて諸宗を弘く学ばれていた。けれども律については最も意を用い、究められていた。五篇についての疑い、七聚に関する不明な点など、それらについて師に質問すれば、たちまち氷が解けるように雪が消えるように明らかに答えられ、もはや一片の疑問すら残らぬほどであった。そのようなことからある時、多くの律を学ぶ優れた僧たちが経巻を持ってその教導を受けたのであった。

師は、「女人というものは上は仏の教化を損ない、下は世俗の歌謡に心を奪われる。そこで女人が巌松院に入ることを許さない」と言われた。

ある日、いまだ夜も明けきらず陽も登らないほどの早朝、師が縄床にて安坐されていた時、突然として異女が現れた。その身長八尺ほどであった。師は「まさか魔女でなかろうか」と疑い、これに対して「汝は何か邪悪なるものであろうか。速やかに去るがよい。私の心は大地の如く不動なるものであって、(煩悩など魔に)退転することはない」と言われた。すると異女は、押し黙って何も言葉を発しなかったが、やや久しくしてから口を開き、「私はこの山の主神である。和尚がこの寺を中興し、大いに律法を行じられているのを、私は大いに喜んで堪えなくなり、ここに現れて感謝したいだけなのです」と言う。そしてそう言い終わるとたちまち消えてしまった。

師はまた、一人の老翁が訪れ、彼から地蔵菩薩像を贈られるという夢を見た。同じ夢が三夜続いたことから、これを甚だ訝しまれた。そこで諸々の衆徒に「今日、老翁が訪れてくるであろうから、あなた達はそう予定して待っていなさい」と指示された。昼時、まさしく老翁が来訪して来て、像を師に献じられた。まさしく師が夢に見られた通りであった。衆徒らが皆、これに驚嘆している間に、にわかにその老翁の姿は見えなくなってしまった、ということである。

巖松院から距離にして一拘盧舎1.8kmに古寺があって禅定寺という。平崇上人が創建された所である。村民らは師の徳化を尊び、(禅定院を師に)献じて駐錫の所とした。そこで師は茂みを刈り取り、荒れ地を平らかにして一つの庵を構えたのだった。ある日、寺の西側の土地若干歩〈数坪〉を指さして、「思うにこの場所は開山の霊骨を納めている所である」と言われた。そこでそこを三尺余り掘ってみたところ一つの壺が出て、これを開いて見たところが、そのとおり遺骨が納められていた。衆徒は皆これを不思議なことと驚いた。師はこれに因んで白塔をその場所に建てられた。

寛文二年〈1662〉秋九月、巌松院において灌頂を行ぜられた。

九年〈1669〉春二月、政賢覚英公が達ての事が有るとして来訪して師に謁見され、稽首して言うには「河内の野中寺は上宮帝子〈聖徳太子〉が自ら創建された四十六伽藍の一つです。しかしながら幾度も荒廃を繰り返した挙げ句が、終いに処刑場となっています。どうか師よ、(野中寺跡に再び)精舎を建立し、それによって大法を弘めてくださいますように」とのことであった。そこで師は「私はもとより太子の遺蹟を慕ってきました。どうしてその志に従わないことがありましょうや」と快諾された。遂に錫を降って彼の地に赴き、野中寺址に堂舎一宇を建てた。

この年の六月、霊芝四十余りが庭先に生じた。師はこれを見て大いに喜び、今後に律法が隆盛する兆としたのであった。

このページのTOP / 原文 / 書き下し文 / 現代語訳 / 脚注

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

4.語注

  • 高喜觀公[こうきかんこう]…高喜明観。西大寺中興第四十八世長老。
     江戸期当時(おそらく室町期以来)、叡尊によって為された戒律復興の伝統はすでに西大寺においても全く廃れて持律の比丘は無く、ただ律を教学的に学ぶことだけは辛うじて行われていた。そこに明忍律師らが現れ、その同志となった友尊律師は西大寺僧であったこともあり、ついに西大寺に伝わっていた自誓受の法によって再び戒律復興が為された。しかし、その本拠は西大寺ではなく、あくまで槇尾山平等心王院であった。いずれにせよ、明忍律師の遺志を継いで活躍する者として、慈忍律師は当時すでに世によく知られた人となっていたようで、その行業を尊きものとして仰いだのが高喜長老であった。
     高喜は、慈忍をしていわば叡尊の再来とし、西大寺門外不出であった叡尊相承の小野流〈松橋流〉および悉曇の奥秘を皆伝した。しかしながら、この『慈忍律師伝』では触れられていないが、それは西大寺僧制に違するものであるとして寺僧らは高喜を長老職から追いやり、追放してしまったという。むしろこのような経緯によって、西大寺はその相承を失ってしまった(後に慈忍の門系から相承して回復)。その際のいきさつは菩提華祥瑞『悉曇相承来由』に精しい。→本文に戻る
  • 興正[こうしょう]…興正菩薩叡尊。叡尊は、覚盛らと共に東大寺大仏殿の前にて自誓受戒による戒律復興を果たしてややしばらく後、西大寺に入ってこれを本拠として活動した。
     本拠とした、などといっても菩薩が入られた当時、そこには旧住の僧ら(いわゆる無戒の僧ら)が依然として多数あり、菩薩らの自誓受戒による戒律復興自体に対する反発もあって、しばらくの間は内外から数々の嫌がらせ・圧力があったという。叡尊が入ってすぐに西大寺の全権を握ったなどということはなかったのである。→本文に戻る
  • 松橋流[まつはしりゅう]…東密三十六流の一。小野流の一つであり、三宝院流の支流たる無量寿院流の通称。流祖は無量寿院の尊勝房一海。内容としてはほとんど三宝院に同じ。ただし、ここにいう松橋流とは、叡尊が一海の弟子静慶から受けた松橋流を源としつつ小野諸流を少しく兼ね合わせた流をも并せ言うものであろう。それは 興正菩薩の伝えた(松橋)流ということで菩薩流ともいわれる。また、叡尊が西大寺にて秘伝した流ということで、西大寺流と通称されることもある。しかし、西大寺内ではそのように称さない。松橋流と西大寺流とは内容としてはほとんど同じであるけれども、聖教・印信の構成はまったく松橋の本流と異なる。西大寺の秘伝とされ、他流と異なって極めて少数の門人にのみ伝えられた。
     その聖教・次第類には松橋流の木偏をとって木木流、あるいは菩薩流の草冠をとってササ流などと表記されることがある。→本文に戻る
  • 縄床[じょうしょう]…座面を縄で網状にした椅子、あるいは寝床。『梵網経』(梵網戒)では菩薩比丘が必ず具えておかなければならないとする十八物の一つとする。
     現在の印度においても下層の家庭では普通に用いられているが、大抵は寝床として使用されている。→本文に戻る
  • 一拘盧舎[いちくろしゃ]…拘盧舎はサンスクリットkrośaの音写で古代印度における距離の単位。諸説あって一定しないけれども、一説に依れば一拘盧舎はメートル法で約1.8km→本文に戻る
  • 禪定[ぜんじょう]…禅定寺。宇治田原にある現在曹洞宗となっている寺院。その寺伝では曹洞宗中興の祖とされる月舟宗胡がその晩年に加賀大乗寺から居を移して入り、中興したとされる。 『月舟和尚語録』にある「禪定開山月舟老和尚行状」によれば、「延寶八年庚申秋。付大乘法席於卍山。 自打退鼓。唱偈云。得請應招來意重。了縁終化去身輕。一條拄杖赤骨律。無極清風脚下生。洛陽巽方宇治田原有大悲聖蹟。 名補陀山禪定寺。原東大寺平崇上人創開 地也。地主某等延師而居焉。革教作禪爲開山祖。先是宇治興聖僧養病於此寺。一夕夢一異僧告云。欲興復我地者多。而皆 非其人。當有一實人來。我待之耳。及乎 画像 師到。郷人説前夢事云。師是觀音大士之 所待也。師異跡雖多。警徒不許傳説」(T82.P558a-b)とされている。
     しかしながら、この『慈忍律師伝』によれば、禅定寺はまず慈忍律師によってその中興が為されたという。そしてまた、『法樂寺貞紀和上略伝』には、「(洪善)尊者肥前産。初爲洞上禪流。嘗在宇治興聖寺。與月舟禪師爲友。山雲海月言及護法。禪師云。吁澆季。事多虛僞。衲子何依依。予不如師。直歸佛乘。予在洞下救其弊耳。因詣宇治田原。謁慈忍猛律師。律師慕明忍大德。圓成一切律儀者也」とあり、もともと宇治の興聖寺の禅僧であった洪善和上に、慈忍律師のもとに帰参することを勧めたがのが、その同法侶であった若かりし頃の月舟宗胡であったという。月舟は当時、すでに慈忍律師の名声を知っていたのである。そして、その弟子となった洪善とは同門の友であった。晩年、なぜ月舟が宇治田原の禅定寺に居を移したのかの理由に、そのような縁に基づいていたと考えることは決して無理ではないであろう。→本文に戻る
  • 平崇上人[びょうしゅうしょうにん]…東大寺別当であったとされる僧。未詳。→本文に戻る
  • 政賢英公[しょうけんえいこう]…政賢覺英。その出自、所属する寺院など今の所未詳。→本文に戻る
  • 野中寺[やちゅうじ]…青龍山野中寺。中世以来、聖徳太子創建の寺院として信じられ、四十六伽藍の一つに挙げられた古刹。中之太子とも称される。慈忍律師亡き後、その弟子らによってようやく悲願であった結界がなされて僧坊となり、いわば槇尾山の支配から脱却することとなる。
     本文にあるように、慈忍律師がその中興を依頼された当時は刑場に使われるほど堂塔伽藍など見る影もないほど荒廃しつくしていたようである。→本文に戻る
  • 四十六伽藍[しじゅうろくがらん]…聖徳太子が創建したとされる寺院の総称。これに四十六伽藍あったとされるが、時代に拠ってその寺院名に若干の変容がある。→本文に戻る
  • 靈芝[れいし]…きのこの一種。支那において延命長寿の妙薬と見なされた。ここで慈忍律師は、霊芝が庭に四十余りも生じたことをもって吉兆としているが、これは南山大師道宣による『行事鈔』に同様の事態を吉祥としていることに基づいてのことであろう。
     現在も霊芝を「癌を治す霊薬」などと称して高額で売りつける詐欺師が支那および日本にもある。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

このページのTOP / 原文 / 書き下し文 / 現代語訳 / 脚注

← 前の項を見る・次の項を見る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

解題 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  原文 |  書き下し文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。