真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

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1.原文

延寶三年正月示微疾。至三月初緇白問候者相繼。師雖病革。而應接如常。諸子晝夜陪侍。師命設彌陀像。入觀念佛不輟。病間則諄諄囑門人。皆宗門事。未始及其私。十五日作布薩。命予代誦戒本。且曰。今生布薩。只今日而已。翼日召諸門人謂曰。吾沒後汝等當恪守吾平日所訓。使律法永振也。乃手書遺誡數則。又命上座慈門光公繼席。幷以密璽付之。十九日爲書遺檀越囑令外護。時至向佛像。頭北面西怡然而化。實延寶乙卯三月二十一日戌時也。享報齡六十有二。法臘三十。又三黑白之衆皆哀慟不能勝。二十三日諸徒奉全身葬寺之西北隅。塔曰常寂。及行分物法。衆皆漣然泣下。不忍仰視。七七日内。廣作佛事。以報慈蔭。師戒範堅潔。行門高邁。生平以宗敎爲己任。凡所涖止。講演大小部文以繩其徒。以絲緜絹帛靴履裘毳等皆害物傷慈。終身不受用。又誡門人堅禁約之。嗣法門人。慈門光等一十餘人。鬀度弟子及受三歸五八戒者不可以數計。著述有三聚戒釋要。六物圖略釋。教誡律儀鈔等若干巻。師示滅之後。篤信之士欽其遺德。就野中造鐘樓經藏及門廡等。鬱爲一方精藍。一衆以師在日將結界未就。乃相與勉卒先志。於是門風益振。而子孫亦繁興矣。

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2.書き下し文

延寶三年正月、微かに疾を示す。

三月初に至て緇白1問候2の者相ひ繼ぐ。師、病革まると雖も、應へて接すること常の如し。諸子、晝夜に陪侍す。師、命じて彌陀像を設けて、入觀念佛すること輟まず3。病の間、則ち諄諄と門人に囑するも、皆宗門の事にして、未だ始めて其の私に及ばず。

十五日、布薩を作すに、予に命じて代りに戒本4を誦さしめ、且つ曰く、今生の布薩、只だ今日にして已む。翼日、諸門人を召し謂て曰く、吾が沒後、汝等當に恪んで吾が平日の所訓を守り、律法永く振るわしむべしと。乃ち手ずから遺誡數則を書く。又、上座慈門光公5に命じて席を繼がしめ、幷して密璽を以て之に付す。

十九日、書を爲して檀越に遺り、囑して外護せしむ。時至て佛像に向ひ、頭北面西して怡然として化す。

實延寶乙卯三月二十一日戌時なり。報齡享くこと六十有二。法臘6三十。又、三黑白の衆7、皆哀慟して勝へること能わず。

二十三日、諸徒、全身を奉て寺の西北の隅に葬る。塔は常寂と曰ふ。分物法8を行ずるに及び、衆の皆、漣然泣下して、仰視するに忍びず。

七七日の内、廣く佛事を作して、以て慈蔭に報ふ9

師、戒範堅潔にして、行門高邁。生平、宗敎を以て己が任と爲す。凡そ涖止する所、大小の部文を講演し以て其の徒を繩す。絲緜絹帛靴履裘毳等、物を害するは皆、慈しみ傷むを以て、身を終して受用せず10。又、門人を誡めて堅く之を禁約す。

嗣法の門人、慈門光等一十餘人。鬀度の弟子、及び三歸五八戒を受る者は以て數計すべからず。著述に三聚戒釋要・六物圖略釋・教誡律儀鈔等、若干巻有り。

師示滅の後、篤信の士、其の遺德を欽んで、野中に就て鐘樓・經藏及び門廡等を造し、鬱して一方精藍と爲す。

一衆、師の在りし日、將に結界せんとするも未だ就かざる11を以て、乃ち相與に勉めて先志を卒ふ。是に於て門風、益ヽ振るひ、而して子孫、亦繁興す。

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3.現代語訳

延宝三年〈1675〉正月、師に微かながら病の徴候が現れた。

三月初となって緇白〈僧俗〉の問候〈見舞い〉の者が相次いで来た。師は病が日増しに重くなっていたけれども、訪問者に応対して接する様子は常と変わりなかった。諸々の弟子らは昼夜に側仕えた。師は(居室に)阿弥陀像を祀るよう命じられ、たゆまず入観念仏されていた。病を得てから諄諄と門人に嘱することは、全て宗門に関する事であって、一つとして私事については言われなかった。

十五日、布薩を行ったけれども、私〈戒山慧堅〉に代りに戒本を誦すように命じられ、また「(私が)今生で行う布薩は今日が最後となる」と言われた。

翌日、諸々の門人をお召しになって、「私の没後、あなた達はまさに身を慎み、私が日頃からしてきた訓誡を守って、律法が末永く行わるように努めよ」と述べられた。そして手ずから遺誡数則を書かれた。また、上座の慈門信光公に命じてその席を継がされ、并せて(高喜長老から受けた西大寺流の)密璽を付された。

十九日、手紙を書かれて檀越に送り、(野中寺および律僧らの)外護を託された。

ついにその時となった。師は阿弥陀像に向かわれ、頭北面西して怡然〈喜び楽しむ様〉として遷化された。実に延宝乙卯〈1675〉三月二十一日戌時〈19-21時〉のことである。その報齢、享けること六十有二年、法臘は三十。また三黑白の衆は皆、哀慟して堪えることが出来なかった。

二十三日、諸弟子らは全身を奉って寺の西北の隅に葬った。その塔には常寂と記す。
分物法〈律に基づいた亡比丘の遺品分配〉を行う段となるも、衆徒らは皆、涙を流して泣き、(思い出の遺品を)仰視するに忍びなかった。

七七日の間、広く仏事を作して慈蔭〈慈しみに満ちた教え・恩〉に報わんとした。

師は戒範堅潔にして行門高邁。平生、宗教〈仏教。ここでは特に律宗か〉を以て己が任とされていた。およそ共同される際には、大乗小乗の部文を講演し、その徒弟らに訓戒された。絲・緜・絹・帛・靴履・裘・毳など生き物を害して得る物は、その慈しみ憐れみの心によって、終身に受用されることはなかった。また門人にも誡めて、堅くその受用を禁じられていた。

嗣法の門人は慈門信光など十人余り。得度剃髪の弟子、及び三帰五戒八戒を受けた者は数えることが出来ない。著述に『三聚戒釈要』・『六物図略釈』・『教誡律儀鈔』等、若干巻がある。

師が示滅された後、篤信の居士がその遺徳を尊び、野中寺に鐘樓・経蔵及び門廡など造り、盛んに整備されて一精舎としてその威容を構えるに至った。

衆徒らは、師が在りし日にまさに野中寺を結界しようとされていたのが未だ果たされぬままであったことから、そこで弟子らは力を合わせて努め、その先志をついに達したのだった。これによって野中寺一門の門風はますます世に振るうこととなり、その子孫もまた繁興しているのである。

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4.語注

  • 緇白[しびゃく]…僧俗。それぞれの着衣の色をもってその呼称とした語。緇は黒色(ねずみ色・墨染)で出家者を、白は白色で在家者を表す。緇素あるいは道俗に同じ。→本文に戻る
  • 問候[もんこう]…見舞うこと。→本文に戻る
  • 彌陀像を設けて、入觀念佛すること輟まず…律僧が日々持律・修善に励みつつ、同時に阿弥陀の浄土信仰を持つことがしばしば行われてきた。それは支那では特に宋代の元照から見られ、日本には俊芿など渡宋した僧によってその思想や傾向がもたらされた。また、そのような支那との交渉とは別に、平安末期に戒律復興を志して活動した中川実範はその晩年に浄土教に傾倒しており、ために浄土宗において高祖の一人に挙げられてもいる。平安後期から次第に強まっていた末法思想による影響が強くあったのであろう。もっとも、日本の持戒を志した僧や律僧らの中には、解脱上人や明恵上人、そして興正菩薩など、むしろ日本で特異な形で展開した浄土思想に抗すべく、舎利信仰や光明真言信仰を鼓舞した者があった。
     ここで慈忍律師がその最期に彌陀像の前で観想・念仏したのは、敬愛していた明忍律師の最期に倣ったということがあったのであろう。→本文に戻る
  • 戒本[かいほん]…サンスクリットprātimokṣa、あるいはパーリ語pāṭimokkhaの漢訳語。その音写語が波羅提木叉。仏陀によって規定された比丘の為すべきでないこと、あるいは為すべきことの集成である律蔵の枢要を抽出してまとめたものであり、それが戒(律)の根本であり、ひいては仏教の根本であることから、意訳されて戒本といわれる。しばしば安直に理解されるような、「戒が書かれた本であるから戒本」などという意味ではない。
     たとえば『仏遺教経』において「汝等比丘、我が滅後に於いて、まさに波羅提木叉を尊重し珍敬すべし。闇に明に遭い、貧人の宝を得るが如し。当に知るべし、此れは則ち是れ汝等が大師なり」と説かれる。
     原語たるサンスクリットprātimokṣaから見たならば、prāti (=prati)は「それぞれの」、mokṣaは「解脱、開放」の意である。そのようなことから漢訳語としては他に、別解脱・処処解脱・随順解脱がある。これらの訳語は、各自が受けた戒あるいは律に従うことによって身および口によって為される悪から離れることができる、すなわち少なくともその戒あるいは律の一条項が制する悪からは解脱し得ることからその様に訳されたものである。→本文に戻る
  • 慈門光公[じもんこうこう]…慈門信光。京師の井口氏出身、寛永元年〈1624〉に生誕(?)。初め洛西長遠寺任可禅師について出家。後に槇尾山平等心王院に交衆して、寛文七年〈1667〉二月廿六日自誓受具し、慈忍律師を依止師とする。慈忍に従って巌松院から野中寺に移り、その第二世を継いだ人。後に河州黒土村福王寺を中興。宝永四年〈1707〉七月十日示寂、世寿八十四、法臘四十。
     慈門そして戒山や洪善など、慈忍律師の高弟であった者の多くは禅宗から転向した人であった。→本文に戻る
  • 法臘[ほうろう]…人が出家して具足戒を受けてからの年齢。すなわち比丘となってからの年数で、出家者の席次を決定する。沙弥として出家しただけで具足戒を受けていないのであれば、法臘が数えられることはない。安居を何回過ごしたことかの回数を表すものでもあることから、これを夏臘ともいう。→本文に戻る
  • 三黑白の衆…黑白は緇白に同じで僧俗の意。しかしながら、浅学無知の拙には、この三の意味が不明。あるいは誤植か。知識の教導を請う。→本文に戻る
  • 分物法[ぶんもつほう]…亡比丘の遺物分配法。その方法と次第、誰が何を受けるべきかは律蔵に規定がある。→本文に戻る
  • 七七日の間、広く仏事を作して慈蔭に報ふ…師僧や父母などが逝去したならば四十九日の間、講経・説戒など仏事を設けて回向し、その徳に報いるべきことが『梵網経』において戒として説かれている。なお、この『梵網経』の所説に従った法会を、これを梵網会というが、初めて日本で行ったのは聖武天皇であって、その母藤原宮子のためであった。そしてその子孝謙天皇もまた、父聖武帝が崩御したときにもやはり、『梵網経』の諸説に基づいてこれを講讃する法会を全国の国分寺に命じて行わせている。まさにこれが現在の日本における仏教的習慣、「法事」の淵源である。詳細は別項“十重四十八軽戒・十重禁戒・梵網戒”を参照のこと。→本文に戻る
  • 物を害するは皆、慈しみ傷むを以て、身を終して受用せず…道宣を祖とする南山律宗がいわばドグマとして固執した、絹衣や革履など、殺生に基づく物品の使用を避けていたこと。ここにも記されているように、その動機は「慈しみ傷むを以て」であるけれども、現実には様々な矛盾がたやすく指摘されてしまう事項であったため、支那以来、日本でもその矛盾が争点となった。
     印度に渡って広く見聞した事柄を記し報告した義浄三蔵により、道宣の律宗における独自の教義が強く批判された。道宣自身は印度に行ったことがないにも関わらず、憶測や伝聞によって律宗の教義を構築し、それを印度本来としたことが批判されたのである。その批判は広範囲に渡るが、中でも絹衣の不使用を強いることは印度本土での実情に反し、また不合理なものとして強く批判されている。
     その矛盾とは、まず絹の使用は律で禁止されておらず、印度で仏在世から広く使用されてきたものであること。そして、禁止されていない物の不使用を他に強制すること自体が律に反するということ。そしてまた、絹を避けて蚕の殺生に関わることを免れ得たたとしても、麻や綿は農耕の結果として得られるものであるが、その農耕もまさに多くの殺生を避けることが出来ず、麻や綿も殺生の結果として得られる点である。あるいは、軸装された曼荼羅など仏画はほとんど絹が用いられるが、自身がたとい絹衣を避けて麻衣・綿衣を着て得々としたとして、日々自身が礼拝対象とする、まさにその慈悲を説かれた仏菩薩が絹を用いたものに描かれていたならば、それはもはや喜劇であろう。
     私見であるが、慈悲の表出として絹や革製品などを避けようとする態度自体を否定する必要はなく、むしろ尊いものとして敬すべきであろう。が、まず律に基づかないにもかかわらず、これをドグマとして他に強いるようになればたちまち他からの批判など不必要で不毛な論争を惹起するため、そのようなことは避けるべきであったと思う。→本文に戻る
  • 師の在りし日、將に結界せんとするも未だ就かざる…慈忍律師はやはり野中寺も結界し僧坊とせんとしていたことがここから知られるが、やはり槇尾山はそれを許さなかったのであろう。忍律師が巌松院を離れた時、槇尾山との関係を断ち切る(退衆)までにいたらなかったのかもしれない。ここで弟子らが野中寺を結界するにあたり、槇尾山との関係がどのようなものであったかも、今の所それを確認しうる資料が無いため知られないのである。
     いずれにせよ、野中寺は江戸以来近代まで「律の三僧坊」などとして名を馳せていたが、少なくとも忍律師が存命中にはそのようなことはなかった。なお、三僧坊として挙げられる泉州の神鳳寺は、槇尾山にて受具後五年を過ごすこと無く高野山へと離れた堅俊良永律師に師事して比丘となった真政圓忍律師によって、延宝元年1673に僧坊として結界されている。これは野中寺に先立つものであって忍律師存命中のことであった。
     少なくとも「三僧坊」が形成される過程には、槇尾山とその出身の律師らの間に様々な軋轢や見解の相違など問題があった。しかしながら、そこを離れた賢俊側の文書は残っているものの、肝心の槇尾山の見解を伝える文書が残っていないため、その詳細を知ることが出来ない。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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