真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

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‡ 戒山『青龍山野中寺慈忍猛律師伝』

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1.原文

贊曰。師氣正而和。色莊而恕。守護鵝之行。持結艸之心。生平毘贊斯道。無一息敢忘。雖垂老六旬。律藏諸文未嘗釋手。其應機説法也。融通權實不滯一隅。牧衆幾三十年。道足不愧古人。嗚呼師之德大矣。豈區區小子所褒贊哉。予侍左右最久。思其訓誨之恩。何異乎天蓋地擎。昔人有言。前輩言行不見傳記。後世學者無所矜式。蓋當時門人弟子之罪。既有是編。又不忍遺。言之潸然。

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2.書き下し文

贊に曰く、師の氣、正にして和。色、莊にして恕なり。護鵝の行を守り、結艸の心を持す1。生平、斯の道を毘贊すること、一息も敢へて忘ること無し。老六旬を垂ると雖も、律藏諸文、未だ嘗て手ずから釋せず、其の機に應じて説法するなり。權實に融通して一隅に滯らず2、衆を牧すること幾三十年。道、古人に愧じずに足る。

嗚呼、師の德の大なること、豈に區區なる小子の褒贊せる所ならんや。予、左右に侍ること最も久し3。其の訓誨の恩、何ぞ天蓋地擎に異ならんや。

昔人に言ふ有り、前輩の言行、傳記に見へざれば、後世の學者、矜式する所無し。蓋し當に時の門人弟子の罪なるべし。既に是の編有るも、又遺すに忍ばず。之を言ふに潸然とす。

( 『律苑僧宝伝』巻十五)

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3.現代語訳

(師の徳を)賛して曰く、師の気性は正しくして柔和であり、その容貌は厳かであり慈しみ深く、護鵝の行を守り、結草比丘らと同じ心を持っていた〈小さき命を守り、戒律を厳しく守っていた〉。その平生は、斯の道〈仏教〉(が正しく世に行われること)を讃えて力を尽くすことを、一息として忘れることなど無かった。老いて六十を過ぎても、律蔵の諸文を決して自己勝手に解釈せず、相手の能力に応じて説法された。権教・実教に融通して一隅に滞ること無く、衆僧を教導すること幾三十年。その道業は古人に対しても恥じぬものであった。

嗚呼、師の徳の大いなることを、一体どうして取るに足らぬ小子〈戒山慧堅〉が讃歎出来るものであろうか。私は師の左右に侍ることが最も長かった者である。その訓誨の恩たるや、天蓋地擎に異なるものでない。

「昔人の言に、『前輩の言行、伝記に見えざれば、後世の学者、矜式〈敬って手本とすること〉する所無し。思うにそれは当時の門人弟子の罪であろう』という」。すでにこの編〈慈忍律師伝〉を成したけれども、(師の大なる徳と行業とを伝えるのには、その内容が全く不十分で拙いものであるから)また後代に遺すに忍びないものである。それを思うと涙が溢れてくる。

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4.語注

  • 護鵝の行を守り、結艸の心を持す…「護鵝の行を守る」とは、ある比丘が托鉢に訪れた宝玉職人の家で誤って宝玉を飲み込んだ鵝鳥の命を護るために自らの身命を擲とうとしたという『大乗荘厳経論』巻十一にある説話に基づくもので、小さな命でも決して害わず守ろうと努めること。「結艸の心を持す」の結艸(結草)とは、やはり『大乗荘厳経論』巻三にある説話で、賊によって草でもって捕縛された比丘達〈おそらく縄で捕縛したのを、さらに地面に生えている草に結びつけられた比丘〉が、生草を損傷してはならないという律の条項を守るために、たやすく引きちぎることが出来る草であってもこれを害わなかった、という説話に基づくもの。すなわち、どれほど小さな律の条項であってもこれを厳密に守ろうとすること。
    この結艸の説話は草繋比丘(草繋諸比丘)の話として、『大般涅槃経』などにも取り上げられており、また『梵網経』の諸注釈書にも持戒の鑑としてしばしば挙げられている。
    いずれも慈忍律師の慈悲深く、また戒律を厳に守っていたその徳を称える語。
    なお、「守護鵝之行。持結艸之心」とそれを並べてその徳を称えるのは、道宣『続高僧伝』巻二十四の大総持寺釈智実伝に見られる。→本文に戻る
  • 權實に融通して一隅に滯らず…権実とは、天台教学などにおける教相判釈の一つで、仏教を真実へと導く仮・方便の教えたる権教と、真実の教えである実教とに分けたもの。ここでの意は、仏教の全ての教えを遍く学び、一つの宗義・教学に固執することがなかったこと。いわば諸宗兼学であったこと。この態度は後代の慈雲尊者にも引き継がれていく。
     もっとも、南山律宗自体は、特に南宋代以降、天台教学を背景とした教義を構築していた。また、日本に初めて律をもたらした鑑真は天台の学僧でもあった。そして後代の律僧らの態度もまた、必ずしも天台教学を第一と考えることはなかったが先ずは道宣および元照の見解を最も良しとして倣い、さらに広く諸宗を学び修めるのが普通であった。→本文に戻る
  • 予、左右に侍ること最も久し…『律苑僧宝伝』の編者たる戒山慧堅律師は、筑後州久留米出身で肥後城主に仕える家臣江上氏の息子であった。初め臨済宗黄檗派(黄檗宗)の鉄眼道光禅師のもとで剃髪出家。後に仏道の要は戒律にあることを知り、大阪に転じて師を求めていた時、法厳寺の洞水雲溪禅師から巌松院にあった慈忍律師が当代随一の人であることを聞く。そこでただちに律師の弟子として改めて沙弥出家し、野中寺に移ったその年の寛文十年〈1670〉十二月二十八日に受具。このとき戒山の齢二十二であった。
     本文の言によれば、戒山は後を継いだ慈門新光など誰よりも長く慈忍律師に側仕えた人であったという。もっとも、巌松院滞在時からその門下に入って側仕えていたのは慈門律師および洪善律師も同様である。しかし、慈門信光が自誓受したのは平等心王院であって、必然的により年齢も法臘もより長い慈門が二代目を継ぐこととなったのであろう。→本文に戻る

現代語訳 脚注:非人沙門覺應
horakuji@gmail.com

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