真言宗泉涌寺派大本山 法樂寺

現在の位置

五色線

ここからメインの本文です。

‡ 戒山 『青龍山野中寺慈忍猛律師傳』

解題 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

← 前の項を見る・最初の項へ戻る →

・ トップページに戻る

1.現代語訳

湖東安養寺後学釋慧堅 撰

律師の諱は慧猛、字は慈忍、族姓は秦氏である。河内の讃良郡秦村の人で、秦川勝大臣二十八葉の子孫である。祖の名は武國、武略によって名を残した人である。父の名は宗伯、仏門に深く帰依していた。母は濱氏の出であり、後に染薙して天室と名乗った。律師を妊娠すると羶葷を嫌うようになり、あるいはそれらを食したならばたちまち吐き出した。

慶長十八年〈1613〉五月朔日に誕生した。幼い頃から落ち着いて物怖じせず、正直で孤高に振る舞う様は成人のようであって、幼稚な遊びをすることがなかった。仏菩薩像を見る毎に、合掌して跪いて礼拝し、香花を捧げた。

六、七歳の頃、その智慧は並の子供に抜きん出でいた。

九歳の時、古詩の中に「一道に達したならば、(それによって得た知見は)諸道にも通じる」という一句があるのを見て、心ひそかにその真偽を疑い、朝に晩に考えていた。ある日、庭をゆっくりと歩きながら上を仰ぎ、空の広大なることを見て、人に「空は何から生じたのですか?人は何処から来るのでしょう?」と問いかけた。けれども答えられる者など無かった。師は、心中に「この理は仏法でなければ知ることは出来ない」と考え、ついに脱白〈脱俗〉の志を持つようになった。

十七歳の時、懇ろに出家の許しを請うたけれども、親は(師を)寵愛して許さなかった。

二十二歳の時、喜んで聖徳太子が慧慈法師に示された言葉を読み、また講座に出かけて『法華経』普門品や『説法明眼論』等を聴いた。常に出家の縁が備わらないことを嘆き、独り観音菩薩像の前に詣でて礼拝・誦経し、至心に祈誓した。

寛永十五年〈1638〉、師が二十六歳の時、親は(師の出家の志堅くして)世網によって繋ぎ止めることが出来ないことを悟り、ついに出家を許した。師は大いに喜んで、すぐ眞空阿律師に従って剃髪した。

当時、正専如周律師が東山雲龍院において法筵を開いており、学士らがその学徳を仰ぐこと卿雲祥麟のようであった。そこで師もまたこれに参じて聴講・稟承し、学業に日々精進した。それを終えた後、槇尾山平等心王律院に詣って、その沙弥の一員として交衆した。

十八年〈1641〉春二月、(三聚浄戒を受けるために)懴悔法を修めて好相を求めた。ある夜、聖鐘が二聲鳴るのを聞くと、道場が忽ち空に変わり、その明るいことあたかも昼のようであった。不思議に思っていると白煙が立ち上り、その高さは地面から一丈許りとなった。すると煙の中にそれほど高さのない宝塔が現れ、しばらくして消え去った。またある日の夕方、空中に初めと同じように鐘の聲を聞くや否や、たちまち小竹が数十竿、道場に現れた。その葉は黄金色である。俄に涼やかな風が東より吹き来て、竹葉が風に従ってなびいた。師は身心ともに清涼となって、俗世の楽など比べるべくも無いほどであった。その他の好相については、これ以上は蛇足となるであろう。

三月七日、通受法に依って自誓受具した。戒壇から降りるまさにその時、まさに大地が震動した。槇尾一山の衆徒は皆、「得戒の瑞相に違いない」とこれを駭嘆した。

時に師の年は已に二十九歳。以降、一家の諸書〈諸律蔵及び律三大部など律宗の重要典籍〉を取て、日夜に研鑽した。金を溶かすほどに暑い時も、膠を折るほど寒い日も、その日課を変えることは無かった。果たして(律の)持犯について精詣〈深く達すること〉するまでとなった。

そして何よりまして弘律利生の志があった。かつて十願を発起したが、その第一には「私は、未來際を盡くすとも菩薩行を修し、一切衆生を度し盡くさなければ正覚を成ぜす」とある。その他の九願はこれを例として知られるであろう。他にもまた、「もし私が発した十願を退転し、また自ら修めた六度万行を、我が為の福報としたならば、阿鼻地獄に落ちるだろう」とも誓われていた。

正保二年〈1645〉、十八契印を受法した。次に両部大法を修めた。

これを修して観想する中、しばしば瑞異があった。ある時は密壇の外に紅白色の花芺蕖〈蓮華〉二朶が生えてき、その長さ三尺ほどであった。ある時には前供養の閼伽水が、自然に搖動して器から溢れ出した。ある時は月輪が道場内に現われ、あるいは火焔が指端から発せられ、あるいは宝蓋が空中に現れた。また不動護摩法を修する中で字輪観を行じる段となると、突如として不動明王がその身を壇上に現し、火炉を枕として臥した。また、輪壇が現れ、その壇中に火台があった。その光明は明るく鮮やかに輝き、壇を旋回すること数度して、しばらくすると消え去った。師は大いに喜びを感じ、指先を切ってその血を護摩炉の中に滴し、本尊への供養とした。

また、かつて火観に入定する中では、たちまちその身を忘れ、あたかも猛火の中に在るかのようとなった。その時、胸中は洞然として明白となり、自ずから笑みがこぼれ、喜びに満ちた。そこで口にまかせて偈を説いた。「至道を多年、外に向て求む。金剛宝刀、焔の中にこれを得」という句である。

明年〈1646〉、東陽山巖松律院が空席となった。そこで槇尾の衆僧は、師にこれを継がせようとした。師はこれを強く辞退した。けれども衆僧は、これを強いたため、やむ得ず応じることとなった。(巖松院に)入寺して以降は、法を説いて人々を教導する中、次第に人々の評判となっていった。(寺の)近くにある者も遠くにある者も一丸となって帰依するようになったのである。師は、得た所の檀施を用いて仏殿・僧寮・鐘樓・齋堂などを建立していった。

ところで、(寺の後ろの)山には岩があって、その高さは数丈にも及び、その姿と色とは殊に異趣あるものであった。ある日の夜、師の夢に不動明王が現れた。そして「山上の巨岩は我が身である」と告げられたのである。師は目覚めて後、これを奇怪なることと思い、そこで岩の上に宝篋印塔を建てることによって、その夢告の異を表した。これを名づけて「感応巖」とし、文を書いて記し残した。

ある日、天下は旱魃に見舞われ、民は大いに憂いた。師はこれを憐れみ、一七日を一期として請雨法を修した。その三日目、向井林居士が山に入っているとき、清水が巌の間から溢れ出し、その勢いたるや非常な様を見た。彼はこれを怪しんで、師に報告した。すると師は、「私は、人々の為に雨請いを行じているが、その徴兆であろうか」と言われた。すると突如として四つの黑雲が湧き起こって、恵みの雨が大いに降って遠きも近きも潤い満たし、人々は心から喜んだ。居士が帰ろうとする頃、河の水が大いに満ちて渡ることが出来なくなっていた。そこで(居士は)信宿〈二晩泊まること〉して後に帰っていった。

承応二年〈1653〉、虚空蔵求聞持法を修す。ある夜、瑞光が室内に現れ、虚空蔵菩薩の身がその光の中に顕れたのを見る。その喜びは言い尽くせぬほどのものであった。およそ虚空蔵菩薩法を修すること前後九度にわたる。

師の道力が現じ、神異なる様々な事象があったのは一度や二度ではなかった。しかし、師は終生、決してそれを人に語らなかった。ただ手ずからその出来事を筆記し、いくつかの函の奥底に仕舞い込まれていた。師が入寂された後ではじめてその存在が知られたのである。その分量はおよそ一巻であった。今、姑〈戒山慧堅〉がその中の一、二を取って記したのみである。他の全ては書き記さなかった。

明暦三年〈1653〉、南都西大律寺に出向いて、大長老の高喜観公に従って伝法灌頂を受けた。高喜長老は師の道風を尊び、(叡尊の末徒たる西大寺の長老として)師に侍ることを最善であるとしたのである。会うたびに一日中深く話しこんだ。そこでついに、師に(西大寺門外不出であった)興正菩薩所伝の秘璽及び松橋流の密旨を付法し、さらに弘法大師が描かれたという不動明王像を授與して、伝法の証としたのである。

師は、すでに密学を善くし、兼ねて諸宗を弘く学ばれていた。けれども律については最も意を用い、究められていた。五篇についての疑い、七聚に関する不明な点など、それらについて師に質問すれば、たちまち氷が解けるように雪が消えるように明らかに答えられ、もはや一片の疑問すら残らぬほどであった。そのようなことからある時、多くの律を学ぶ優れた僧たちが経巻を持ってその教導を受けたのであった。

師は、「女人というものは上は仏の教化を損ない、下は世俗の歌謡に心を奪われる。そこで女人が(出家して?)巖松院に入ることを許さない」と言われた。

ある日、いまだ夜も明けきらず陽も登らないほどの早朝、師が縄床にて安坐されていた時、突然として異女が現れた。その身長八尺ほどであった。師は「まさか魔女でなかろうか」と疑い、これに対して「汝は何か邪悪なるものであろうか。速やかに去るがよい。私の心は大地の如く不動なるものであって、(煩悩など魔に)退転することはない」と言われた。すると異女は、押し黙って何も言葉を発しなかったが、やや久しくしてから口を開き、「私はこの山の主神である。和尚がこの寺を中興し、大いに律法を行じられているのを、私は大いに喜んで堪えなくなり、ここに現れて感謝したいだけなのです」と言う。そしてそう言い終わるとたちまち消えてしまった。

師はまた、一人の老翁が訪れ、彼から地蔵菩薩像を贈られるという夢を見た。同じ夢が三夜続いたことから、これを甚だ訝しまれた。そこで諸々の衆徒に「今日、老翁が訪れてくるであろうから、あなた達はそう予定して待っていなさい」と指示された。昼時、まさしく老翁が来訪して来て、像を師に献じられた。まさしく師が夢に見られた通りであった。衆徒らが皆、これに驚嘆している間に、にわかにその老翁の姿は見えなくなってしまった、ということである。

巖松院から距離にして一拘盧舎1.8kmに古寺があって禅定寺という。平崇上人が創建された所である。村民らは師の徳化を尊び、(禅定院を師に)献じて駐錫の所とした。そこで師は茂みを刈り取り、荒れ地を平らかにして一つの庵を構えたのだった。ある日、寺の西側の土地若干歩〈数坪〉を指さして、「思うにこの場所は開山の霊骨を納めている所である」と言われた。そこでそこを三尺余り掘ってみたところ一つの壺が出て、これを開いて見たところが、そのとおり遺骨が納められていた。衆徒は皆これを不思議なことと驚いた。師はこれに因んで白塔をその場所に建てられた。

寛文二年〈1662〉秋九月、巖松院において灌頂を行ぜられた。

九年〈1669〉春二月、政賢覚英公が達ての事が有るとして来訪して師に謁見され、稽首して言うには「河内の野中寺は上宮帝子〈聖徳太子〉が自ら創建された四十六伽藍の一つです。しかしながら幾度も荒廃を繰り返した挙げ句が、終いに処刑場となっています。どうか師よ、(野中寺跡に再び)精舎を建立し、それによって大法を弘めてくださいますように」とのことであった。そこで師は「私はもとより太子の遺蹟を慕ってきました。どうしてその志に従わないことがありましょうや」と快諾された。遂に錫を降って彼の地に赴き、野中寺址に堂舎一宇を建てた。

この年の六月、霊芝四十余りが庭先に生じた。師はこれを見て大いに喜び、今後に律法が隆盛する兆としたのであった。

明年〈1670〉春、槇尾山に出向いた。師は巖松院を結界することを望んでから、すでに幾年月を経ていた。しかし、障礙となる事情があったことから、その願いを叶えられずにいたのである。そこでまた、(槇尾山の)衆僧を集めて、その希望を告げたのである。しかしその時、衆僧の中には、なおそれを阻もうとする者があった。そこで師は巖松院に帰り、ある思いを以て衆徒に言われた。「私はこの寺を復興したその最初から、何一つ己の利益の為としたことはない。(この寺にある)瓦一枚、板一枚といえどもすべて四方僧伽に属するものである。将来、ここを結界して僧坊とすることも、正法を弘通しようと思ってのことである。しかるに今、その志を遂げることは出来なくなった。私はどうしてその志の為にこれ以上この寺に居続ける必要などあろうか」と。ついに師は諸弟子を率いて、野中寺に移ることとなった。

寺を出る時、白衣〈在家〉の弟子達は門を塞ぎ、道を遮った。そして、ひたすら師等を押し留めてきたため、これを捨て置くわけにもいかず、悲しみのあまり慟哭する者すら出てきた。師はそんな彼らを「あなた達が、誠を尽くして三宝に帰依したならば、それが則ち常に私と逢っているようなものであって、何も変わりはしないのです」と慰められ、ついに出発したのである。

当時、野中寺の草堂は垂木の数も僅かな、極めて粗末なもので、風雨をようやく防げる程度のものであった。しかも朝粥や午斎など、ともすると用立てることすら出来なかった。しかし師は安然として、そんな貧しさの中で暮らす様は、万鐘の祿を受けている者かのようであった。衣を粗末にして食を節し、寺を整備するための計画を進めていった。そしてそれほど時日を経ぬうちに瑠璃光殿および僧寮が完成した。師が常に毘尼〈律〉を以て衆僧・信徒らを教導しているうちに、賛同者・同調者らが日々次第に多くなり、巖松院に居していた時以上のものとなっていった。

十三年〈1673〉秋八月十有二日、要請を受けて洛西太秦の桂宮院を結界した。

十五日には四分衆法布薩を行う。四方から集まった随喜者は、その評判が弘く伝わっていたため、収容する場所すら無いほど多いものであった。師はそこで、彼らの為に三帰依戒を授けた。思うに、明忍律師の後、結界の秉法〈羯磨〉が行われなくなって久しかった。その故に四方でこれが行われることを見聞きした者等は皆、希有の心を生じたのであろう。師はこれを終えて野中寺に還った。

(師は)行道の暇を見つけては衆僧の為に講義・訓誡し、これを休止されることなどなかった。

延宝三年〈1675〉正月、師に微かながら病の徴候が現れた。

三月初となって緇白〈僧俗〉の問候〈見舞い〉の者が相次いで来た。師は病が日増しに重くなっていたけれども、訪問者に応対して接する様子は常と変わりなかった。諸々の弟子らは昼夜に側仕えた。師は(居室に)阿弥陀像を祀るよう命じられ、たゆまず入観念仏されていた。病を得てから諄諄と門人に嘱することは、全て宗門に関する事であって、一つとして私事については言われなかった。

十五日、布薩を行ったけれども、私〈戒山慧堅〉に代りに戒本を誦すように命じられ、また「(私が)今生で行う布薩は今日が最後となる」と言われた。

翌日、諸々の門人をお召しになって、「私の没後、あなた達はまさに身を慎み、私が日頃からしてきた訓誡を守って、律法が末永く行わるように努めよ」と述べられた。そして手ずから遺誡数則を書かれた。また、上座の慈門信光公に命じてその席を継がされ、并せて(高喜長老から受けた西大寺流の)密璽を付された。

十九日、手紙を書かれて檀越に送り、(野中寺および律僧らの)外護を託された。
ついにその時となった。師は阿弥陀像に向かわれ、頭北面西して怡然〈喜び楽しむ様〉として遷化された。実に延宝乙卯〈1675〉三月二十一日戌時〈19-21時〉のことである。その報齢、享けること六十有二年、法臘は三十。また三黑白の衆は皆、哀慟して堪えることが出来なかった。

二十三日、諸弟子らは全身を奉って寺の西北の隅に葬った。その塔には常寂と記す。
分物法〈律に基づいた亡比丘の遺品分配〉を行う段となるも、衆徒らは皆、涙を流して泣き、(思い出の遺品を)仰視するに忍びなかった。

七七日の間、広く仏事を作して慈蔭〈慈しみに満ちた教え・恩〉に報わんとした。

師は戒範堅潔にして行門高邁。平生、宗教〈仏教。ここでは特に律宗か〉を以て己が任とされていた。およそ共同される際には、大乗小乗の部文を講演し、その徒弟らに訓戒された。絲・緜・絹・帛・靴履・裘・毳など生き物を害して得る物は、その慈しみ憐れみの心によって、終身に受用されることはなかった。また門人にも誡めて、堅くその受用を禁じられていた。

嗣法の門人は慈門信光など十人余り。得度剃髪の弟子、及び三帰五戒八戒を受けた者は数えることが出来ない。著述に『三聚戒釈要』・『六物図略釈』・『教誡律儀鈔』等、若干巻がある。

師が示滅された後、篤信の居士がその遺徳を尊び、野中寺に鐘樓・経蔵及び門廡など造り、盛んに整備されて一精舎としてその威容を構えるに至った。

衆徒らは、師が在りし日にまさに野中寺を結界しようとされていたのが未だ果たされぬままであったことから、そこで弟子らは力を合わせて努め、その先志をついに達したのだった。これによって野中寺一門の門風はますます世に振るうこととなり、その子孫もまた繁興しているのである。

(師の徳を)賛して曰く、師の気性は正しくして柔和であり、その容貌は厳かであり慈しみ深く、護鵝の行を守り、結草の心を持っていた〈小さき命を守り、戒律を厳しく守っていた〉。その平生は、斯の道〈仏教〉(が正しく世に行われること)を讃えて力を尽くすことを、一息として忘れることなど無かった。老いて六十を過ぎても、律蔵の諸文を決して自己流に解釈せず、相手の能力に応じて説法された。権教・実教に融通して一隅に滞ること無く、衆僧を教導すること幾三十年。その道業は古人に対しても恥じぬものであった。嗚呼、師の徳の大いなることを、一体どうして取るに足らぬ小子〈戒山慧堅〉が讃歎出来るものであろうか。私は師の左右に侍ることが最も長かった者である。その訓誨の恩たるや、天蓋地擎に異なるものでない。「昔人の言に、『前輩の言行、伝記に見えざれば、後世の学者、矜式〈敬って手本とすること〉する所無し。思うにそれは当時の門人弟子の罪であろう』という」。すでにこの編〈慈忍律師伝〉を成したけれども、(師の大なる徳と行業とを伝えるのには、その内容が全く不十分で拙いものであるから)また後代に遺すに忍びないものである。それを思うと涙が溢れてくる。

(『律苑僧宝伝』巻十五)

現代語訳:小苾蒭覺應
horakuji@gmail.com

← 前の項を見る・最初の項へ戻る →

・ 目次へ戻る

・ “戒律講説”へ戻る

解題 ・ 凡例 |  1 |  2 |  3 |  4 |  5 |  6 |  7 |  原文 |  訓読文 |  現代語訳

・ トップページに戻る

メインの本文はここまでです。

メニューへ戻る


五色線

現在の位置

このページは以上です。